先生が先生になれない世の中で(26)花火大会は誰のもの②
私が住む土佐町では、花火の有料観覧席などというものは存在しない。全国の主要花火大会で進む有料化、(プレミアムシートの創設などの)「ダイナミックプライシング」による有料観覧席の階層化、そしてチケットを購入していない人たちの排除……。もちろんそれらの主要花火大会とは花火の規模も来場者の数も比にもならない。それでも、なぜ土佐町では有料観覧席などできないのか、そんなことを真剣に考えてみた。
人口3600人ほどの土佐町では、毎年夏になると各地区で納涼祭が開かれる。出店が並び、やぐらが組まれ、盆踊りがおこなわれ、相撲大会がおこなわれる祭りもある。花火を打ち上げる祭りも少なくない。しかし、有料観覧席を設けようなどという話にはならない。
一つには、誰でも「特等席」で見られるくらいの小さなお祭りの花火だから。花火が上がり始めたら、皆一斉に上を見上げて、誰しもが同じように花火を楽しむ。都会とは違って、より良い景色を求めて、競い合うように乱立する高層マンションなどない。だから、花火の視界をさえぎるものもない。
真の理由かどうかは微妙だが、びわ湖花火大会における高さ4メートルの「目隠しフェンス」は、「観覧チケットを購入していない人たちが立ち止まり、密集することで雑踏事故を起こさないように」、と設置された。しかし土佐町の納涼祭では、そもそも雑踏事故が起こるほどたくさんの人は集まらない。
しかしそれ以上に、「お金を出して花火を見る」という発想が、土佐町の人々にはそもそもない。なぜならば、土佐町民にとって、花火は皆の当然の権利だから。それは、マルクス主義の概念を用いるならば、土佐町民にとっての〈コモン〉と言える。水、公園、自然のように、公共財として「社会的に人々に共有され、管理されるべき富(*1)」のことだ。
本誌の2022年4月号~7月号の「教育現場における『構想』と『実行』の分離」シリーズで紹介した経済思想家の斎藤幸平氏はこう指摘する。
この、〈コモン〉の解体こそが、全国各地の花火大会で起きていることだろう。花火大会という「社会の富」を、有料観覧席や目隠しフェンスの設置などで「囲い込み」、人々を〈コモン〉から締め出すことで「商品」が生まれているのだ。
土佐町ではなぜ有料観覧席がありえないのか、もう一つ考えられる理由がある。都会では、プレミアムシートを買うことがステータスなのかもしれないが、逆に土佐町では周りの目を気にして、自分だけが特等席に座ることは憚られる。地域の祭りに行けば、必ず知り合いに出会う。それも一人二人のレベルではなく、知り合いだらけだ。経済格差も比較的少ない中、生活に少しゆとりがある人でも有料観覧席で見ようとはしないだろう。この違いは何なのだろうか。
「商品であれ、サービスであれ、現代の私たちはお金を持ってさえいれば、他人のことを考えずに自分が欲しいものを買うことができます。具体的な人間関係から切り離された自由な活動の可能性を手に入れたのです。本来、無数の人間の行為に依存しながら社会は出来上がっていますが、貨幣経済が浸透すると、その他者の存在に気を配る必要性はなくなる(*3)」、と文化人類学者の松村圭一郎氏は指摘する。つまりは、人間関係を介さないで済む貨幣経済の浸透度の違いなのだろう。他人だらけの巨大マーケットとは違い、「具体的な人間関係」から切り離されることのない密なコミュニティの中で、土佐町の人々は依存し合って暮らしているのだ。
松村氏は、「バラバラの個人がそれぞれ好き勝手に経済活動という名の消費生活を送る(*4)」新自由主義の言説に完全には包摂されない「すきま」が至るところにあり、それらこそが「社会の底が抜けるのを防いでいるのではないか」、「社会の富」を取り戻そうとする「ある種の『自治』への契機は常にあちこちで芽生えているのではないか(*5)」と言う。その意味では、土佐町もそんな「すきま」なのだと思うし、「花火のあり方を考えていかなければ(*6)」とびわ湖花火大会の開催に反対の決議を突きつけた地元の自治会連合会の動きも、「社会の富」を取り戻そうとする自治の芽生えなのかもしれない。
*この記事は、月刊『クレスコ』2023年11月号からの転載記事です。
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