文を書く。コントロールできない自分に出会う。
小説とエンタメは、やはり違うものなのかもしれない。
創作活動をしていく中で、ふとそんなことを考えることがある。
きっちりとした枠に収まらないような、脱線した文。なぜか思考がそこに収束していって、きりがなくなる情報。書こうと思えば、どこまででも溢れていく言葉。
自分の中にそんな流れが生まれることがある。
出来上がったものは冗長で退屈なのだけど、どこか悪い気はしない。
そういうものは間違いなく、推敲で削られるようなものだ。それは知っている。
しかし、枠組みに創作を押し込めようとすればするほど、文が本来持つ力みたいなものが、失われるような気もしていて。
以前は枠に収まりきった、映画の脚本のようなものを目指していた。
実際そういうのを読むと、感動するし、わかりやすいし。
あらゆるものに意味があり、問えば答えがある世界。
でもそういう枠組みを作っていく過程は、実際に小説を書いているとなぜかなかったものにしたくなる。
「なんの話してるんだっけ?」
というものを書いてしまうと、時間を無駄にしたような気にもなった。
最近はそれがどことなく息苦しくなって、手を止める原因にもなっていると気づいた。
たぶん僕はどこかで信じていたんだ。自分の中のすべてはコントロールできるものなんだ、と。
コントロールできるから、面白い枠組み、プロットができれば、それをそのまま面白いコンテンツにできる、と。
今は考えが少し変わってきている。
確かに面白い枠組みは必要だ。でもそれは、そこから逃れようとする流れを生み出すために必要なんじゃないか。という考えに。
面白い枠からはみ出たものは、もっと面白いんじゃないか。という風に。
まあこの『面白い』も、あくまで僕にとっての主観にすぎないのだから、考えるだけ無駄なのかもしれないが。
そういう自分の制御できないところをとらえようとするのが、文を書く楽しさでもあるよね。
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