抑えきれなかった。
僕が石川に帰ってきてから、だいたい二週間が経った。
僕にとって2024年の2月というのは、かなり長く感じた月だった。
それは引っ越しなんかで忙しかった1月と比べても大きな違いだった。
体感ではもう半年くらい経っている気がした。
そろそろ栗が美味しくなり、木の葉が色づきはじめてもおかしくないと思った。
田舎に帰ってしばらくは、さみしさに押しつぶされそうになることがあった。
どこへ行くにも祖父母や両親、三人いる弟妹の誰かとは同じ空間にいるはずなのに、そのさみしさは僕のもとを離れてはくれなかった。
今はすこしだけ慣れてきたにしても。
その気持ちがもっとも強かったのは、彼女を見送るために空港へ向かったときだった。
彼女のことは、これからここではMUちゃんと呼ぼうと思う。
お酒が大好きなMUちゃんは『ワーキングホリデー』という幻のお酒を求めて、アイルランドという異世界に旅立つところだった。
はじめて訪れた羽田第三ターミナルは、とても巨大な空間だった。
かなりの数の人間がそれなりに大きなキャリーケースを転がしていたが、空間が大きすぎて、狭いという感じは全くなかった。
空港には色々な人種がいた。
そこはあまりにも多国籍な場だった。
多国籍すぎて、自分が日本人であることをうっかり忘れそうになった。
うっかり知らない別言語が口から飛び出てくるかと思ったが、そんなことは一切なかった。
そんな空港をMUちゃんと、見送りにきたMUちゃんの弟と一緒にひとまわりした。
滑走路が見渡せる屋外の展望デッキや、お土産売り場があった。
そのうち、あっという間に彼女のフライトの時間が訪れた。
こういうときは手続きがあるので、時間に余裕をもって搭乗ゲートをくぐらなくてはならないらしい。
僕とMUちゃんの弟は、ひとりゲートに向かう彼女を見送った。
彼女の姿が見えなくなるまで笑顔で手を振りあった。
こういうときは意外に涙は出ないんだな、と妙な発見もした。
しかし違った。
その感情の波は、あとからちゃんと来た。
それは僕がMUちゃんの弟を見送って、彼女の飛行機を見届けようと、先程の展望デッキに出たときだった。
展望デッキからはたくさんの飛行機が見えたが、MUちゃんの乗るものはそこから見えない位置に待機しているようだった。
それでも僕は最後の瞬間まで見送りをしたかった。
肌にひびがはいりそうな寒空の下、ただひたすら待った。
『もうそろそろかも』
手続きを終え、搭乗した彼女からそんなLINEがはいった。
すぐあと、羽田上空の夜空に一機の旅客機が離陸するのが見えた。
それを目にしたとき、僕はこみあげてくるものを抑えることができなかった。
涙があふれた。
嗚咽が止まらなかった。
その場には僕のほかにも、撮影用の三脚を立てている男性や、デート中のカップルや、旅行中の子供連れがいた。
しかし誰もがしゃくりあげる僕の姿を、黙って温かく見守ってくれている気がした。
離陸した旅客機は滲んで夜に溶けてしまった。
「彼女はもういってしまった」
僕は体の芯まで染み込ませるように、何度もその言葉を胸中で反芻した。
『またね!』
彼女からそのメッセージが送られてきた。
『またね!』
僕も同じように返した。
そして、彼女の次のメッセージ。
『今真っ直ぐのとこに入った』
「彼女はまだいってなかった」
僕はぜんぜん違う旅客機の離陸で号泣してしまったことに気づいて、なんだか複雑な気持ちになった。
結局、MUちゃんを乗せた旅客機が離陸したのは、それから15分後のことだった。
そのころには、滑走路から吹く風がさきほどよりも冷たくなっている気がした。
周りの視線も『こいつ、いつまでここにいるんだ?』という冷ややかなものに変わっている気がした。
彼女を乗せた機体のライトは、先程のものとはぜんぜん違う真逆の方向に向かい、建物の影に消えた。
僕は身を震わせながらそれを見送ってしまうと、そそくさとその場を離れた。
時刻は、深夜0時半をすこしまわったころだった。
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