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ハートランドの遙かなる日々 第14章 祝宴

 その後ブルクハルト、そしてアッティングハウゼン、ヴァルターとは出入り口の辺りで合流し、そして馬車に乗って次の会場へと向かった。

「これが! ラッペルスヴィル家の教会?」
「広ーい!」

 アルノルトとアフラ、そしてソフィアは驚きの声を上げた。
 ラッペルスヴィル家の教会と言われたエーテンバッハ教会は、高い塔こそ無いものの、一段高い土地に礼拝堂や講堂、その他の建物が並び立ち、周囲を巡る高い石壁がずっとチューリヒを囲む城壁と一体化して続いている。ちょっとした城にもなりそうな構造だ。

「どこから入れば良いんでしょう?」

 御者をするヴァルターが長く続く壁に嘆いた。

「大人しくルーディックの馬車に付いてくれば良かったね」
「地図ではこっちの門でいいようだぞ」

 城壁と見紛う一端に開いた門をくぐると、そこには建物に囲まれる中に中央に石像の建った広場があり、既に馬車が何台も並んで止まっていた。建物の裏には草地や農場も見える。

「はぁー。門の中に村が一つ入ってるみたいだ」

 一同は馬車を降りては見たが、建物が多くあるので何処へ入れば良いかが解らず、周辺をウロウロした。

「あの門じゃないか。人がいる」

 一番大きな建物の屋根付きの門へ歩いて行くと、案内の女中が息を弾ませて走ってやって来た。

「結婚披露パーティーにご参加でしょうか? こちらにご芳名を」

 女中は客が何人も来るので案内に走り回っているようだ。名簿にサインをすると、そこからは彼女の案内に従って歩いて行く。建物には広い中庭があり、そこを巡るように回廊が続いている。その一角に人々の集まった広間が見え、一行はそこへ案内された。

「うふぁ……」
「これはまた……」

 中に入った一同はあまりの豪華絢爛さに目を細めた。金色の装飾や壁画が壁や天井のあちこちに施され、キラキラと巨大なシャンデリアが幾つも灯っている。ここは明らかに教会という範疇を越えた場所のようだ。広間には幾つも丸テーブルが並び、様々な料理が並んでいた。

「お菓子もいっぱいあるわ!」
「もう食べていいのかしら」

 案内された席に座って、ブルクハルトは落ち着かない子供達に注意をする。

「まだ食べちゃダメだぞ。全員揃って乾杯してからだ」
「はーい」
「マリウス? ダメって言ったろう」

 話しの途中で人型のパンを手に取ったマリウスに言ってみたが、もう遅かったというべきだろう。

「これ人の形だよ。おもしろーい!」

 案内してくれた女中がそれを見て言った。

「これはヴェックマンといいます」
「ブェェックマン!」
「すいません、子供がもう取ってしまって」

 ブルクハルトが謝ると、女中は作り笑顔で言った。

「大丈夫ですよ。こういう子供さんの為のパンですから。パン生地は聖体拝領で使うものを使って、ここの厨房で作っているんですよ」
「それは大人にも嬉しいですね」

 マリウスはテーブルを歩いて女中に聞いた。

「この丸いのは何?」
「これはね、バウムクーヘン。まだ切ってないの。まだ待っててね」
「ふーん。じゃああの赤いのは?」
「イチゴのエールトベアトルテね」
「トルテ?」

 トルテと聞けばアフラも興味津々でテーブルを見に来た。

「この大きなトルテ、お上品な色合いのシマシマ模様! 芸術品だわ」

 ソフィアも興味深そうに覗き込んだ。

「美味しそうね!」

 女中は目を輝かせて言った。

「これは新作のヘレントルテ。ココアの多重層で通称は王子様トルテというそうですよ」
「王子様! もしかして一番いいトルテ?」
「これは品評会では二番目でした。一番いいものは沢山作れなくて、一つだけあの真ん中のテーブルにあります」

 最前列真ん中のテーブルの一番高い足付きの皿には大きな王冠型の白いクグロフが乗っていた。

「すごーい」
「カイザーグーゲルホップフと言います。少し渦を巻いた王冠の形をしているでしょう?」
「うわー王様! 是非とも食べたいです!」

 女中は少し意地の悪い笑いを浮かべて言った。

「うふ。食べたいですか? でも、最前席は最上位の王族関係者の席ですので、残りを下げ渡されるのを待たなければなりません。ご親族からその関係者、そして身分の順番に回って行きますから、余らない場合はそこまでですよ」
「えーっ。食べられるかしら?」
「地方の方は席が遠くなりますので、あまり期待しない方が良いかもしれません」
「いやーん。アル兄さん、お友達枠で何とかして! 王様ケーキー」
「何とかって言っても、そりゃあ周り見れば無理だろう。田舎者は諦めろ」

 そう言ってアルノルトが見回せば、広間には貴族らしい人ばかりがかなり大勢集まって来ている。とは言えアーマンは地方貴族の扱いになるので、シュッペル家もギリギリ貴族ではあった。ソフィアに限っては完全に自由民、平民だ。それでも、女中は恐縮したように名簿を探しつつアルノルトに言った。

「恐れ入りますが、ご友人ですか? ルーディック様の?」
「はい。一応そうです。これ招待状です。この子らは連れで」
「大変失礼致しました。でしたらお席はこちらです。お父様とは離れてしまいますが宜しいです?」

 そう言って案内された席は最前列だった。アッティングハウゼンも仲人なのですぐ近くの席だった。

「近ーい。さすが友人枠!」

 アフラはもう大喜びだ。しかしアルノルトはこんな目立つ席では、何かをやらかしそうで気が気でない。ブルクハルトがそこへやって来て言った。

「お前達はここにいると絶対行儀悪さが悪目立ちする。お父さんの席にいろ」
「でもあの王様ケーキ食べたい」
「じゃあ王様ケーキの時だけ食べに来ればいい」
「アル兄さんは?」
「僕はここにいるさ。場所取りが必要だろう?」
「アルノルトは友人スピーチがあるかもしれない。ここで行儀良く、大人しくしていろ」

 ブルクハルトに連れられ、アフラ達は後の席に戻り、アルノルトはまだかなり空いていた最前列の友人席に座った。同じテーブルにはもう既に一人の少年が座っていて、丁寧な挨拶をして来た。

「どうぞ。本日は相席宜しくお願い申し上げます。おや、以前お会いしましたね」

 そこにいたのはラウフェンブルク伯の遺児、ルードルフだった。年は一つ下くらいだろうか。

「やあ、君かあ。アルノルトです。もう一人の小さい子は今日はいないのかい?」
「ハルトマンはご両親と一緒です」
「君はご両親と一緒でなくていいのかい?」
「私には両親は既にいませんので。エーバーハルト卿は叔父なんです」
「そうだったのかい? 悪い事言ってしまったね」
「いえ。前の戦争でですから、もう十二年も前ですし、幼少だったので顔も覚えて無いのです。もう叔父は父のようなものです」
「そうかあ。いい人そうだものね」

 そう話していると、シュタウファッハの先導で先ほどの宣誓式で貴賓席にいた面々が入って来た。ラウフェンブルク夫妻とハルトマン、ホーンベルク家のアーデル女伯とフィリードリヒ卿、イサベラとユッテ、そして王族関係者達だ。
 王子二人が入って来ると、広間は拍手に沸いた。背の高い長髪の王子と、背の小さな王子は手を振って応えながら広間の中央を歩いて行く、それぞれの家族も後に続いて来て、揃って最前席の真ん中に座った。イサベラとユッテはアルノルトと同じ、友人席へ来た。目が合うとユッテが口を開いた。

「あら、同席? 奇遇ね」

 イサベラも礼を取って言った。

「同席出来て光栄ですわ」
「ああ、多分ほぼ同時に招待状を貰ったから……」

 アルノルトは座ったままだったが、ルードルフは立ち上がり、「こちらこそ光栄の至りです。どうぞ」と言って畏まっている。
 席の手前まで来たユッテは何かを待っているような笑顔だ。後に続くイサベラも意味ありげに笑っている。早足でやって来た女中が呟いた。

「挨拶しっかり……」
「あ……どうぞ。本日は同席よろしくお願い致します」

 アルノルトは急に立ち上がって帽子を取り、威儀を正して一礼をした。ユッテはこの場ではお忍びで無く、紛れもない王族で、ここは貴族の領域だった。椅子に座るにも挨拶と許可がいるのだ。

「ふふ。ギリギリ合格よ。こちらこそ」

 ユッテは椅子に座る時も自分では椅子を引いたりせず、女中が椅子を介助し、それに合わせて優雅に椅子に座る。お姫様は徹底して自らの手を使わないものなのだ。
 同じようにイサベラも女中の手を借りて優雅に椅子に座った。

「こんな所でもご一緒出来るなんて不思議ね。お一人? アフラさんは?」

 イサベラが周辺を見回して言ったので、アルノルトは後方を指差した。

「アフラ達は後ろの方に父と一緒にいるよ。ここだと行儀が悪いのがバレてしまうからね」

 向こうではアフラが羨ましそうにこちらを見ていた。
 ユッテがアルノルトに少し近付いて指で小さくバツを作って言った。

「良いかしら。指差しは行儀が悪いって教わるのよ」
「う……」
「あなたもバレないようにせいぜい注意してね」
「はい……」

 アルノルトは努めて大人しくしている事にした。
 
 そこへ新郎新婦の入場だ。ルーディックは胸にバラを挿した他は変わりないが、エリーザベトは衣裳替えをしてバラ色のドレスを纏い、印象が変わってとても華やかだ。大きな拍手で迎えられ、二人は正面の豪華な飾り机に並んで座った。
 そこからの司会を務めるのはシュタウファッハだ。シュタウファッハは王族に少し緊張した一礼をした後、流暢に新婦エリーザベトの紹介を述べた。

「皆様ご存知の通り、新婦エリーザベト様は若くして稀に見る大変な器量の持ち主です」

 アルノルトは『器量?』と首を傾げた。そんな紹介を聞いた事が無い。

「彼女は幼くして伯位を継承されました弟君を支え、ここまで多数の修道院に関わる実務を担われて来ました。ベネディクト派である聖母聖堂、アインジーデルン修道院、またシトー派のヴェッティンゲン教会。ドミニク派ではここエーテンバッハ教会やプレディガー教会、その他も多数の教会を経営を支えられています。そこでは農園や花の栽培、聖体拝領のパンやワインの製作、聖書や書誌の写本も手掛けておられます。幾つもの派を越えて主要な修道院の経営に関わっていると言えましょう」

 知らない人々はその偉業を聞いて驚くような声を上げた。アルノルトも器量とはそういう事かと感心して頷いていた。

「守護権の有る無しに関わらず、エリーザベト様が既にチューリヒにとって無くてはならない人であります事は皆様の方がよくご存知の事かと思います。年頭には弟君を亡くされ、伯位の継承が頓挫し、正統なる権利を継承するに相応しい婿を探している折、新郎とのお引き合わせがありました。ルーディック卿は若くして広く書誌に通じ、詩を嗜まれ、非常なる才人であります。血統では前王家ホーエンシュタウフェンの血を引き、誠に相応しい、将来有望な婿をお迎え出来る事を我々は感謝せねばなりません。この婚儀により、お二人はラッペルスヴィル伯の主要な権利の継承を王より認められました。その御家名を残すため、それぞれの伯名を名乗られるそうです。そしてラッペルスヴィル伯は将来の御子に受け継がれるとのことです」

 この朗報に会場は拍手に沸いた。正面席にいるエリーザベトは少し涙を湛えて立ち上がり、小さく礼を取った。隣でルーディックもそれに続いた。広間はスタンディングオベーションになり、さらに大きな拍手が響いた。そしてシュタウファッハは仲人のアッティングハウゼンを紹介した。

「では、そんなお二人の婚儀の橋渡し役、キューピットとなられましたベルナー・フォン・アッティングハウゼン様、どうぞ乾杯の音頭をよろしくお願い致します」

 シュタウファッハに促され、アッティングハウゼンが正面に進み出た。

「こんな年寄りのキューピットで、大変すいません。アルノルト、お前だったら良かったのう」

 と、周囲の笑いを取って、アッティングハウゼンはワインの入ったグラスを手に掲げた。会場にもワインが配られて行く。

「お二人とも、心からお慶びとお祝いを申し上げます。本日は共に尽力をして参りました我々にも最良の祝宴となりましょう」

 少し話している間に参加者に飲み物は行き渡ったようだ。

「では、僭越ながら、お二人の御家門の安泰を。そしてお二人の門出を祝しまして、乾杯!」
「乾杯!」

 人々が一斉に祝杯を交わし合う。祝宴の始まりであった。
 ルーディックとエリーザベトは早々に正面席を立ち、王族席から挨拶回りを始めた。

「もう食べてもいい?」

 早速マリウスがそう聞くと、ブルクハルトは「ああ」と言いながら、マリウスの皿に人型のパンを入れて渡した。ウロウロしないよう先手を打ったのだ。
 するとアフラは小皿とフォークを構えて高らかに宣言した。

「よし! 全部のタルト制覇を狙うわ。まずはイチゴのタルトから!」
「うん!」

 フォークを握り込み、アフラは跳ぶような早足でタルトのあるテーブルへ行った。ソフィアは誰も席を立たないので、キョロキョロして静かに追って行く。ブルクハルトは頭を抱えた。

「一切れ切って貰えませんか」

 アフラは給仕にせがんだ。給仕は少し苦笑いをして綺麗に切り分けて小皿に取り分けてくれた。続くソフィアも一切れ貰う。

「マリウスは?」

 アフラはマリウスを呼んだ。
 ブルクハルトはそれを止めて、「あまり恥ずかしいマネをするんじゃないぞ」と言っていると、アフラは一度帰って来て、「お皿貸して」と小皿を取って、もう一往復する。今度は種類の違うタルトを入れて貰ったようだ。

「はい、これマリウスの分」
「わあ。ありがとう」

 マリウスは心からの笑みで感謝した。

「そのかわり後でちょっと味見させてね」

 とアフラは抜かりない。

「アフラ、あまり頻繁に席を立つものじゃないぞ。アルノルトの席を見ろ、持って来てくれているだろう」

 アルノルトのいる席では、給仕が大皿ごと料理を持って行き、欲しい物を選んで貰いながら皿に盛っている。当然、これはいい席から行われるので、アフラのいる席はかなり後回しになるだろう。

「あのペースじゃあ全部食べられないわ。ここでしか食べられないもの。だから私、頑張る!」
「むう、何事も頑張るのはいいことだ。だがくれぐれも行儀良くな」

 ブルクハルトは早々と説得を諦めてワインを呷った。そもそもシュタウファッハと色々話し合わなければならない。

「ではちょっと話して来るから、大人しく食べてなさい」

 ブルクハルトは話をしにシュタウファッハのいる仲人席に来た。そこにはアッティングハウゼンもいたので話しやすいと思ったのだ。

「シュタウファッハ、この後の話しだが、いつ話すんだ?」
「ブルクハルト。王族が見ている」

 見ると中央の席からアルプレヒト王子がこちらの様子を伺っていた。

「手短に言おう、今日の夜半に主だった人々を集めている。大丈夫か?」
「待て、今日の宿が無い」
「エリーザベト様が手配して下さっている」
「恩に着る」

 そうしていると、ルーディックとエリーザベトが友人席に挨拶にやって来て、恭しく挨拶をした。子供ばかりの席でもこういう時に話をするのは専らエリーザベトのようだった。

「本日は遠い所をご足労いただきましてありがとうございます」
「この度の事、伯位のご継承も併せまして、誠におめでとうございます」

 イサベラが丁寧に挨拶を返した。

「ありがとう存じます。王女殿下もよくいらして下さいました」

 ユッテは澄まして軽く頷くのみだ。あまりエリーザベトと面識が無い為だろう。人見知りしているようだ。
 ルードルフが沈黙を破るように言った。

「ご成婚おめでとうございます。おめでとうルーディック」
「ありがとう」

 ルーディックは判っているというように苦笑いした。ルードルフは牛祭りの後、ルーディックに誘われてラッペルスヴィルの本城に滞在していたので、もう既に一度は言っていた。
 エリーザベトはアルノルトに微笑んだ。

「アルノルトさんも来て頂いて、先程はルーディックが大変喜んでいましたわ」
「本当に?」

 アルノルトは意外そうな目でルーディックの方を見た。頷いて笑うルーディックを見て、来て良かったと思った。すると、自然笑顔が溢れた。

「嬉しい事です。言うのが大変遅くなりましたが、おめでとうございます」
「いえ、良いんですよ。弟の喪に服している所でしたし。いつの間にかアルノルトさんはルーディックと随分仲良くして頂いているようで。何か仲良くなったきっかけ話しがあれば、聞かせて下さる?」
「きっかけですか? 多分それは……」

 と思い出していると、イサベラと顔が合った。彼女を前にあの出来事をここで言っても良いのか、と迷う。イサベラの涙で終わった出来事を。

「言っていいのかな?」

 アルノルトは方向を変えてルーディックに聞いた。

「いいよ」

 ルーディックは大きく頷いた。周囲に注目され、これはもしかして友人スピーチになるのだろうかと、アルノルトは緊張しつつ言った。

「目の前でイサベラお嬢様が連れ去られた事があって……」

 いきなりの話の大きさに、聞こえた周囲の人々が驚いて目を剥いた。イサベラもその話に目を丸くして身を硬くした。

「僕は連れ去った馬車を走って追い掛けて、途中、ルーディックに馬車を頼んで一緒に追い掛けたんだ。必死に馬車に追い付いて……」

 イサベラを見ると今にも泣きそうに顔を伏せたので、アルノルトはその周辺の話を端折った。

「飛び乗ろうとすると、ひどく鞭で打たれて、僕らは結局見送るしかなかった……。今はこうして皆無事でいてくれて、笑って話せるけど、僕らは痛くて悔しくて仕方無かった。加えてお嬢様が心配で……。でも、同じ想いを分かち合えて。それがあって、僕らは心が通じたんです」

 ルーディックは熱い目でアルノルトを見つめて頷いた。イサベラは涙を堪えて感謝を言い表せないようにアルノルトを見つめていた。
 その面々を見ていたエリーザベトは涙を滲ませて言った。

「そうでしたか。あなたこそは、ミンネザングに謳われる、本当の騎士です。ルーディックは幸せ者ですね。良い友人を持てて」
「そんなことは……。僕は取り戻せなかった……」
「……ごめんなさい」

 エリーザベトは人目を気にして、顔を覆いながら正面席に戻った。
 慌てて給仕達が駆け寄って来て、ハンカチを渡すと涙を拭きつつエリーザベトが言った。

「大丈夫です。少し感極まったようで」

 しばしの宴の進行の中断で、客人達はざわめいた。
 それを見たシュタウファッハは席を立って楽団に合図をした。唐突に楽団がゆったりした舞踏音楽を奏で始め、場を和ませる。
 シュタウファッハとブルクハルトが困ったようにアルノルトを睨んだので、アルノルトは少し悪い事をしたような気がした。

「やっぱり話さない方が良かったかな?」
「そんな事はない。最高の話だよ。姫もそう思いますよね」

 ルーディックが言うと、顔を赤くしたイサベラは大きく頷いた。

「その節は、ありがとうございました。お二人とも」
「いや、結局僕は何も出来なかった」
「でも、心は通じたわ。私にも」

 アルノルトはこれにはかなり照れて畏まった。

「そう言って貰えると、こ、光栄です」

 ユッテは仲間外れは嫌だとばかりに言った。

「私もいたのよ! あの時はイサベラを馬車に投げてしまおうかと思ったわ」

 アルノルトもルーディックも、これには大袈裟笑いして冗談にしてしまうしかない。

「お姫様がそんな事を?」
「いいのかなー?」
「あら。結局イサベラを部屋から出して貰えるようにお願いしたのは私よ? それでお祭りに連れ出したんだから」

 ユッテが誇らしげに言うと、アルノルトは見直すような目で言った。

「これはやるもんだ。お姫様というのも伊達では無いようですね」
「当然よ。今度は私を追い掛けてもいいのよ。私なら飛び乗ってあげるんだから」
「……馬車から落ちなくて何よりです」

 アルノルトが胸に手を置いて溜息を吐いていると、ユッテはむくれた。

「何よそれ。こう言う時は光栄ですって言うのよ」
「いえいえ、落ちないよう自重下さい」
「なんだか失礼しちゃう」

 ユッテがさらにむくれると、聞いていたルーディックやイサベラは苦しそうな笑いの息を漏らした。
 そうしている間にエリーザベトが気を取り直すと、再びルーディックを連れ立ち、各テーブルに挨拶回りをした。
 それが一通り終わると、王様ケーキの前に立った。二人で一つのナイフを取り、ケーキ入刀である。
 アフラ達はいよいよ気合を入れて言った。

「前の席に行くわよ。狙うは王様ケーキ!」
「おーっ」
「うん! でももうかなりお腹いっぱい」

 ソフィアはペース良く食べ過ぎたせいでお腹をさすっている。

「頑張って。さりげなく挨拶をして席に加わるのよ」
「行っても大丈夫かしら……」

 新郎新婦によるケーキカットが行われ、拍手が起こる中、アフラとソフィア、そしてマリウスは一斉に最前列へと進んだ。

「こんにちは」

 ユッテとイサベラの後ろに着いて、アフラはごく軽い挨拶をした。

「あら、アフラ。こんにちは。お元気でいらしたかしら?」

 ユッテは振り向いて上品な挨拶を返した。こういう場ではいつもよりかなり高貴な雰囲気がする。

「こんにちは」とマリウスも続く。

「弟さんもこんにちは。かわいいお連れさんね」

 イサベラも真後ろに振り向いて挨拶を返す。

「一緒に介添えをされていた方ね」
「ソフィアです。どうぞよろしく」

 ソフィアはスカートを小さく摘んで挨拶をする。貴族に見えるには少し動作が小さ過ぎるのだがこれは致し方ない。
 アルノルトがユッテとイサベラ、そしてルードルフに言った。

「みんな一応僕の連れです。お邪魔でなければ少しの間、ここの席に加えていただきたく」
「ええ、どうぞ。もちろん歓迎ですわ。でも椅子が足りないかしらね」

 アルノルトは給仕に言って椅子を移動して貰い、三人はそこに加わった。
 お姫様二人とアルノルトでは会話があまり無かったが、アフラが加われば会話がよく回り出す。アフラは怪我をして牛の世話に行けなくなったお詫びや、ゼンメルの事を話した。

「イサベラさんの気持ちを思うと、私少し泣きました」
「あの牛は死んでしまったのね」

 ユッテもひどく残念そうだ。マリウスが得意がって言った。

「僕が犯人を見つけたんだ」
「あなたが? 凄いわね」
「すぐに家まで判って驚いたわ。でも、ちょっと暴れて怖かったわね」
「うん」

 イサベラがマリウスと頷き合った。これに驚いたのはアルノルトだ。

「その現場にイサベラお嬢さんもいたのか! 危ない事させるなんて!」
「私が勝手に付いて行ったの。怒らないで」
「でも、どうやって捕まえたんだ?」
「護衛が出て来て捕まえてくれたから、ちょうど良かったの。もし弟さんだけだったら少し危険な事になってたかも知れないわ」
「護衛がいるのか」
「外出する時はいつの間にかいるの。今日もどこかで隠れて見てると思うわ」

 アルノルトはキョロキョロ見回してみたが、それらしい人は見えなかった。
 そうしていると、給仕がワゴンでテーブルに王様ケーキを運んで来た。

「わあ。私も欲しいです!」

 アフラがいち早く立ち上がって小皿を差し出す。が、小皿は給仕が新しいものを持っていて、新しい皿に一切れ入れてくれ、加えて順番はまずユッテからなので、給仕はアフラを素通りしてユッテにそれを持って行った。アフラはOの字に開けた口を小皿で覆い、置いてきぼりを食らった格好だ。周辺、特に王族席に変な目で見られている。

「こらアフラ、順番があるんだ。大人しく座ってろ」
「アフラがそんなに食べたいなら、先を譲ってもいいわよ」

 ユッテがそう言って給仕の皿を押し止めた。

「いいえ、順番でいいです。ただ、どうしても王様ケーキを食べたくて……」
「王様ケーキって、これの事?」
「名前に王様を冠するそうです。カイザークーゲルホッペ?」
「カイザークーゲルホップフです」

 そう言う給仕に頷きながらユッテは笑った。

「ホップフね。美味しそうですものね。みんなで頂きましょう」

 給仕が一人一人カイザークーゲルポップフを配り終えると、ユッテが食べるのを待ってからそれぞれが一口食べ始めた。

「……うん」
「おいひい……」
「美味しいよ?」
「ゴホッ」

 因みに二番目が頬張りすぎたアフラで、三番目はマリウス、咳き込んだのは粉っぽいのが苦手なアルノルトだ。ソフィアは高さのある生地を倒してしまい、なかなか食べられないでいる。
 やはりここでもお姫様二人は上品で綺麗な食べ方だった。それに比してウーリの面々は食べ方が汚く、育ちが丸わかりだ。
 そこへ他の席から一人の高貴な少年がやって来た。

「えらく騒がしいと思ったら、平民が紛れ込んでいるようだ」

 その声にアルノルトは失意のあまり項垂れ、ソフィアは慌てて手でケーキを立てた。アフラとマリウスは口周りを白くしつつマイペースで食べていた。
 ユッテが振り向いて言った。

「兄様! こっちは来ないで下さい。楽しくやってるんだから」

 アルノルトは目を剥いた。ユッテの兄と言えば王子だ。イサベラやルードルフは少し姿勢を正して会釈をしている。

「そのようだ。だが、この娘に少し用がある」

 王子に顎で指されたアフラはまだ王様ケーキを頬張って至福の笑顔だ。

「アフラに?」
「えっ私?」

 アフラは名前を呼ばれてようやく顔を上げた。見上げると小さな王子が目の前にやって来た。小さいとは言えアフラよりは背が高く、アルノルトよりは小さいくらいだ。

「アフラというのか」
「はい」

 アフラはまだ王子という事にまるで気が付いていない。少し身構えるアルノルトだった。

「草の小径で会ったな」
「?」

 アフラは首を傾げるのみだ。こんな偉そうな人にはまるで覚えが無い。口の中にはまだケーキが有るのでろくに喋れないのもある。

「狩人だと言えば判るか」
「ふむっ……。ああ! 名前の無い小さな狩人さん?」
「おお! そうだ。大きいのは向こうにいる」

 見れば大きい狩人がいい服を着てその席に座っている。隣にいる貴婦人と女の子にも見覚えがある。あの時草地にいた親子だ。

「あ! 本当。あのお母さんと女の子も。でも、どうして名前が無いんですか?」
「私は父と同じ名前で名が無いも同然なのさ」
「なんて言う名前なんですか?」

 この会話に周囲が注目して聞き入っている事も、相手が王子だという事も、アフラは気が付いていない。王子に名前を聞くという事、そしてその聞き方も、無礼極まり無かった。

「アフラ、王子に無礼を言うな」

 アルノルトがようやく口を開いた。
 アフラが「王子様なの!」と口を隠した。

「良い。再会のよしみで今日は名乗ってやる。ルードルフだ。二世が付くがな。そこにも同じ名で三世がいる。全く在り来たりなんだ」
「たとえ同じでも名前があって、良かったです」

 アフラはにっこりとよそ行きの笑顔をした。偉そうな態度はやはり今でも少し抵抗がある。逃げられるなら逃げたいと思う。

「余は偶然を大事にする。これが終わったら少し話をしよう。控の間まで来るように」

 言われたアフラは口を開けて呆然とした。アルノルトも、遠くではブルクハルトも同じ顔だった。王子は一人頷くと席に戻って行った。
 アフラは困った顔になり、隣のユッテに顔を寄せて「どうしたらいいんでしょう……」と言ってみる。
 そこへマリウスが驚くべき事を言った。

「あの人、前に家に来たよ。病気の娘がいるだろうって」
「王子様が?」
「医者を呼んでくれるって言ったんだ。お医者が来たのはお姉ちゃんが治った頃だったけど」
「まあ! そうだったの!」

 アフラは驚くばかりだ。アルノルトも「何だって……」と深刻な面持ちをする。
 それを聞いてユッテが席を立ち、席に着こうとしていたルードルフ王子の隣に立って噛み付いた。

「兄様! どういうおつもりですか?」
「どうも無い、話をするだけだ。少し預けた話があるしな」
「預けた話って?」
「そなたには関係無い」
「困らせてたじゃない! 私のお友達にちょっかい出すなら婚約者に言うわ!」

 王子に対するユッテの剣幕によって、広間には冷え冷えとした空気が漂う。
 シュタウファッハはそれを見て、再び楽団に合図した。楽団は派手目な音楽を演奏し始め、声を誤魔化した。

「偶然を楽しむのは我が道楽だ。悪気は無い。式典の邪魔をしてるぞ」
「無体な事はしないで下さい。地方貴族身分だし、お友達なんだから!」
「ああ。解ってる」

 ルードルフ王子は戻れと言うように手を上げた。
 ユッテは釘を刺すだけはしたので席に戻って行く。

「どうだった?」

 イサベラが憮然と戻って来たユッテに聞いた。

「何か話しがあるそうなの。無体な事はしないようにきつく言って来たから、安心して」

 ユッテはアフラの手に触れて言った。アフラは不安な顔で「うん……」と頷いた。

「何だったって妹に……」

 アルノルトはそう言って少し離れた席の王子の方見ると、同時に睨まれたので言葉を呑んだ。ここではあまり無礼な言動は出来ない。アルノルトは考えた。

「アフラ、もう後ろの席に行ってろ。マリウスもな」
「えーっ。私、ここがいい」
「お前が目立ち過ぎるからこうなるんだ。泡を食ってる父さんに包み隠さず全部話して来い。もう隠せない」
「はい……」

 アフラは名残惜しそうに後ろの席に帰って行った。寄り添って歩くソフィアが小声で言った。

「王族と知り合いだなんて、知らなかったわ」
「私もさっきまで知らなかったわ……」

 三人が席に戻ると、渋い顔をしたブルクハルトが待ち構えていた。

「アフラ。王子と一体何があったんだ。しっかり順を追って聴かせて貰おう」
「うーん。王様ケーキ食べてたら、急に平民が混ざってるって言われて」
「うん? 食べ方が汚かったから? 怒られたのか?」
「ううん。怒られはしなかったけど、私に前に会ったなって」
「どこかで会ってたのか?」
「前に狩人の服でね、草の陰に寝転んでたの。その時は名乗る名前など無いって言って、名前も言わなかったんだけど。それでさっき名前を聞いてみたらちょっと怒ってたかな」
「そんな無礼を言って、それで怒らせたのか?」
「ううん。それは良いって言ってくれて、名前を教えてくれたの」
「じゃあ何、怒ってないのに呼ばれたのか」
「うん。これが終わったら控の間に来いって。話があるそうで。何でしょうねえ」

 とアフラは笑って首を捻っている。ブルクハルトには悪い事態しか思い浮かばない。

「姫君が怒ってたのは?」
「隣のユッテさんにどうしましょうって言ったら、怒って注意してくれたの。兄様なんだそうで」
「それで王子にあの剣幕か……」
「でね、マリウスが……」
「マリウスも何かあるのか?」
「お姉ちゃんが病気の時にね、あの小さな王子が家に来てたんだ。少しだけど水を運ぶのを手伝ってくれて、治った頃だったけどお医者も呼んでくれたみたいだ。ウソつきと思ったけど、嘘じゃなかったんだ」
「まさか……あの時か」
「あと、お見舞いもしてくれたよ」
「何だってーっ!」
「私の寝てるうちに? 全然知らなかった」
「知らなきゃ良かった。一体どうして王子が……」

 ブルクハルトは予想を上回る事態に顔色が蒼白になって来た。
 端で聞いていたヴァルターが言った。

「噂は本当だったんですな」
「噂ってあれか? ハプスブルクが家に来てるって言う」
「ああ。ウチの方面にもウルゼレンがあるからよく王族の馬車が来てたんでさ。最近大きい方の王子の守護権になったでしょう。大方その見回りついでに寄ったのを誰かが見てたんでしょう」

 ブルクハルトは話しの現実感が増してますます血の気が引いて来た。

「とてもではないが、アフラを一人行かすわけにはいかんな」

 これにヴァルターは首を振った。

「しかし、王族の命令でしょう? アーマンは逆らえないですよ。お前さんら親子ともお怒りを買ってお咎めに遭うかもしれない」
「ならばせめて私が一緒に行こう。アフラ、いいな」
「うん。お父さんがいてくれたら少し安心」

 アフラは不安そうに笑った。

 新郎新婦が一時退室した所でパーティーは自由歓談かつ自由解散となった。そこでアルノルトは後方の席にやって来た。

「すぐにアフラを連れて帰ろう」

 イサベラとユッテの席に行こうとしていたアフラは、目を丸くして立ち止まった。

「王子のところは行かなくていい」とアルノルトはアフラの腕を掴み首を振る。アフラはそうじゃ無いと首を振る。
 ブルクハルトは大きなため息を吐いた。

「それはいかん。アフラが王族に背いた事になる」
「体調が悪いとでも言っておけばいい。元々怪我でそうだったんだし」
「まあ待て。儂らにはまだ大事な用があるんだ。話を聞いて見ても遅くはないさ」
「おかしな話をされた後ならもっと断れなくなるよ」
「確かにな。アルノルトも言うようになって来た。ヴァルターよ。後事を頼んでもいいか? 儂らは先に帰るとする」
「いいがお前さんの名前で取って来た委任状があったでしょう。アッティングハウゼンさんに引き継いでから行くがいいですぞ」
「そうだったな。しかし委任状は馬車のカバンの中だ」

 そう話しているうちに一人の男がやって来た。重厚な物腰から近衛騎士のようだ。

「アフラ・シュッペル様のお席はこちらでしょうか。ルードルフ王子よりご用命です」

 その手際の速さに、一同は背筋の凍る思いがした。誰も二の句が継げず、しばらく動けなかった。アルノルトはすぐにアフラの手を取って、そのまますぐにここを出ていれば良かったと激しく後悔した。しかし、もう万事手遅れに思われた。

「どちらがアフラ様ですかな?」
「私、行きます!」

 手を上げてそう言ったのはアフラでは無い。ソフィアだった。目が点になった一同は進み出るソフィアを見つめた。

「何を、ソフィ……」
「連れて行って下さい」
「ご案内します」

 ソフィアは近衛騎士に向かうその背で、掌を曲げ伸ばしした。この間に行けと言う事だろう。

「これは……」

 そんなソフィアが出て行くのを見送って感嘆するのも束の間、アルノルトは動いた。

「行こう。彼女が稼いでくれる時間は多分ほんの少ししか無いんだ」
「よし。行くぞアフラ。ヴァルター、事は緊急だ。後は頼む」

 ブルクハルトと子供達は急いで荷物を纏め広間を後にした。

「ソフィアは? ソフィアはどうするの?」と言って渋るアフラを、アルノルトは腕を引っ張って連れて行く。

「まずはお前だアフラ。ソフィアの義心を無にするな」
「放っては行けないわ。ソフィアはどうなっちゃうの?」
「後で僕が行って連れ戻す。だからしっかり歩け」
「本当よ? 約束よ? 絶対よ?」
「ああ絶対だ」

 アフラをなだめつつ、ようやくにして一同はロータリーに停めてある馬車に着いた。ブルクハルトは子供達を馬車に乗せつつ、中からカバンを取り出した。

「馬車の中で隠れてるんだ。まだ少し用がある。すぐ戻る」

 ブルクハルトが馬車を降りると、アルノルトも馬車を降りた。

「僕はソフィアを探して連れて来るよ」

 アフラは馬車の窓越しに静かに頷いた。二人は早足で歩き出しつ言った。

「場所は解るのか?」
「全く分からない……。うーん広いし。まあルーディックに聞くよ」
「危険だからルーディック卿にも同行を願え。アルノルト、もし尾けられるような事になったら、軒に繋いであるウチの馬を一頭外して乗って行け。馬車がバレないし、お前ならそれが一番足が早い。馬の替えは幾らでもいたからな」
「分かった」

 ブルクハルトとアルノルトは一旦広間へ戻り、入り口にいたメイドにルーディックの控の間を聞いた。アルノルトはメイドの先導で案内され、部屋前の廊下の長椅子でジリジリと長くも短くも感じる時間を待たされた。

「どうぞお入り下さい。ああ、アルノルトだったか」

 そこ扉を開けて出て来たのはブリューハントだった。通された部屋は待合室に使われるのか、高級そうな椅子が至るところにあり、中央のテーブルには商人らしい面々が数人いて、多数多種のコインが積まれ、何やら真剣に書面を見比べていた。両替商のようだ。当時の帝国では自国鋳造の貨幣のみでなく、チューリヒのような鋳造権のある有力都市の貨幣、また旧ローマ帝国の古銭や、イタリア、フランスの鋳造した貨幣まで市中に出回っていたため、お金のやり取りには殆ど両替商が必要になる程だった。両替商は立て替えや高利貸しも併せて行い、多くはユダヤ人だった。
 ルーディックは「もうその話はいいでしょう」と言ってドアの正面へ出て来てアルノルトを出迎えた。

「やあ、アルノルト。今日はここに泊まって行くんだろう?」
「ルーディック、急な問題があって今日はもう帰りたいんだ」
「もう帰るのかい? ようやくゆっくり話せると思ったのに」

 エリーザベトも奥から言った。

「皆様が泊まって行ってもいいように、準備をしていたのですよ」
「起こりつつある諸問題があって……」
「諸問題? 僕に出来る事なら何でも言ってくれ」
「うん。実は、妹のアフラが王子に拐かされそうなんだ」
「え……。王子と王女で揉めてたのは、それかあ!」
「そう。それで妹を隠したんだけど、身代わりに友達のソフィアが今王子の控の間に行って、多分捕まってるんだ」
「それは……かなり分が悪いな」

 ルーディックが困っていると、エリーザベトが言った。

「衣裳を持って介添えしてくれた子ですね」
「はい。その子を無事に連れ戻したいんだ。王子の控の間まで取り次いで貰えないかと」
「あの子には大変助かりました。緊急ですね。行きましょう!」

 勢い良くそう言ったのはエリーザベトだった。言いながら立ち上がり、もう歩き出している。

「私達の祝いの席で不幸を生むことは許しませんわ」
「お待ち下さい。まだこの証文が……」

 色めき立つ両替商を見てアルノルトが聞いた。

「この人達はいいんですか?」
「貨幣への両替の後はまるで借金取りですもの。解散する理由があって丁度良いです」

 エリーザベトはそう言って「あとは頼みます」とブリューハントに言い、案内を自ら買って出た。

 王子の従者に引率され控の間まで来たソフィアは、顔がすぐわからないように少し髪を乱し、大きく深呼吸してから入って行った。
 王子は大きな窓の前で待っていた。その鈍色の目には子供に似つかわしくない重圧感が漂っている。ソフィアが入って行くと見つめるその目に一瞬光が点ったような気がし、一瞬でそれは消えて鈍色に戻った。

「何故中身が入れ替わっている」

 退室しようとしていた従者はその意味が判らず「はて」と首を傾げた。

「人違いだ。もう一人の方を連れて来るんだ」

 従者に手を引かれたソフィアはこんなすぐに返されてはいけないと、声を上げた。

「アフラは体調が優れないのです。私が代理で用向きを伺います。用向きを伺ってからどうするかを考えます」
「検分役というわけか。そなたはどういう関係だ」
「私はアフラとは姉妹のように過ごして来ました。お隣り同士なのです」
「ならばそう邪険にも出来ぬ。少し話を聞こう。まずは病は治ったかを聞きたかった。まだ悪いのか」

 王子の柔らかく変わった物腰にソフィアは意外な感情を感じた。
(もしかしてアフラは愛されている?)
「アフラの熱病はとても酷いものでした。長く高熱が続き、一時は命も危ぶまれる程で……」

 ソフィアはわざと大袈裟に言って、少し顔を伏せて泣く振りをした。王子をチラリと見ると、とても心配そうな顔していた。

「存じている。今はどうだ。薬の匂いがしていた」

 王子ともあろう人がそこまでアフラを気にかけていようとは、ソフィアは驚きに目を見張るより無い。

「一時は良くなっていたのですが、つい最近遠出の仕事で大変な怪我をして、再び熱がぶり返してしまったのです。つい昨日までは部屋で寝ていたのです」
「怪我をしたのか!」

 王子は明らかにアフラを案じている。確信を得たソフィアはなるだけ正直に答えようと思った。

「牛に角で脇腹を突かれたのです、かなりの深い傷だったのに仕事があって無理をしたそうです。雨にも打たれたので悪化して熱を出したのです」
「酷い家だな。その怪我は治ったのか」
「いいえ。まだです。村にはいい医者もいませんから薬を塗って包帯を巻いておくくらいしか出来ません。化膿して治りが遅いのです」
「そんな体でここまで来たというのか」
「両親は反対していたのですが、送り迎えの馬車に紛れ込んでどうしても行きたいと無理を言いまして」

 ソフィアはほぼ共犯者だったので頭を掻くよりなかった。

「どうやらまた医者を手配せねばならないようだ」

 王子はドア前に控えていた従者に医者を呼ぶように言った。ソフィアはありがたいような、引き止めたいような背反する想いになって取り敢えず礼をした。

「娘よ、もう検分は十分だろう。アフラを呼んで来るがいい」

 ソフィアはここで困ってしまった。アフラを医者に見て貰う事には同意したい。でもアフラが戻れば、王子の心次第で連れて行かれるかもしれない。

「王子様、申し訳ありません。それはもう出来ないのです」
「何故だ」
「おそらくは、すでにアフラは帰途に着いておりますので」
「なんだと。そなたは余を謀ったのか!」
「これもアフラを守るためです」

 王子は近衛騎士を呼び、ソフィアを後手に捕まえさせてから苦々しく言った。

「余を謀った罰を与えねばならん。せいぜい利用させて貰う。一緒に連れて行ってアフラを探し出すんだ」

 騎士がソフィアを後ろ手に掴んだまま控の間を出た時、ちょうど中庭沿いの回廊を巡ってやって来たエリーザベトとルーディックに出くわした。後方には勿論アルノルトも続いてやって来ている。
 ソフィアはアルノルトに救援を求める視線を送って来る。アルノルトは目で頷いて用心深く身構えた。すぐにも飛びかかる体制だ。

「何をしているのです?」

 エリーザベトが鋭く言ったので、アルノルトは勢い半歩出て蹌踉けて止まった。

「この人は今日の私の介添え役ですよ」

 エリーザベトが近衛騎士に声を掛けると、答え辛そうに、鍵のかかる部屋を貸して欲しいと願い出た。

「ここは城では無く教会です。私事でそのような事をする部屋の提供は出来ません。それに私の介添えが一体何の罪を犯したというのでしょう」
「王子を謀ったのだそうで」
「拘束する程の事ですか? ここでは守護権者である私共でお預かりするという事にして貰えませんか」
「そうです。ここで起こった事は当方で対応するのが道理です」

 と、ルーディックも同調する。

「良いでしょう。王子よりご用命があればお引き渡し下さい」

 騎士が差し出したソフィアを受け取るように、エリーザベトはそっと肩を抱き、アルノルトの方へ連れて行った。ソフィアは苦し紛れの笑顔を見せる。
 アルノルトが「もう大丈夫だ」と言って並んで歩くと、ソフィアは涙が溢れて前が見えなくなって、もう真っ直ぐ歩く事が出来なくなり、アルノルトの肩に顔を埋めた。アルノルトはそのまま肩を貸しつつ歩いた。

「良かった」

 エリーザベトはソフィアを強く抱いて歩いた。

「エリーゼ様、ソフィアを助けてくれてありがとう」
「こちらでもあなたは騎士のようですね。ルーディックにも学び多くて良かったこと。時にはこう言う戦い方もあるのです。覚えておきなさい」

 ソフィアは少し気を取り直してからポツリと話し出した。

「最後に怒らせちゃった……。でも王子様はね、アフラを心配してくれてたみたい。怪我の心配もしてくれて、言ったらすぐお医者様を呼んでくれて、それはもう有難過ぎるくらい」
「有難迷惑というくらいだな」
「それね。でも、迷惑を顧みないくらいに、アフラが好きなのよきっと」
「止めてくれよ。考えたくも無い」

 アルノルトは顔色を変えていたので、ソフィアはもう言わなかった。
 そのまま中庭沿いの回廊を巡って、新郎新婦の控の間へと戻った所でアルノルトが見回すと、さっきの騎士が中庭の構造物の物陰に隠れて尾行して来ているのが見えた。
 素早く部屋の中に入り、ドアを閉める。部屋には既に借金取り達の姿は無かった。

「さっきの人が中庭から見ていた」

 ドアの覗き窓を見ているアルノルトにソフィアが言った。

「アフラを私と一緒に探すよう言われていたから、きっと泳がせて尾行して見つけ出すつもりね」
「流石近衛騎士は老獪だな。どこからか逃げられないかな」
「隠し通路があるよ。こっちだ」

 ルーディックがそう言って部屋の奥の飾り祭壇を横へ擦らすと、そこが扉になっていた。その背後には細い通路が続いている。

「ここから礼拝堂に続いてる。礼拝堂の出口から出られるよ」

 アルノルトは足取りの危ういソフィアの手を取ってそこへ入って行った。

「ルーディック、ありがとう。エリーゼ様、僕らは厄介事が起こらないうちに今すぐ村へ帰ります。ウーリに帰れば王子も手が届かないですから。もし父さんやウーリの人達に聞かれたら、独力で帰ったと伝えて下さい」
「とても賢明なこと。承りましたわ」
「エリーザベト様、助けて頂いてありがとうございました」

 ソフィアがお礼を言うと、エリーザベトはテーブルから何か持って来て言った。

「こちらこそソフィアには助かりました。これを持って行って」

 エリーザベト渡した包みには分厚い銀貨が六枚もある。

「頂けません。こんなには……」
「介添えのお礼と、遠方の方にはお車代を渡す事になってるの。お二人の分帰り賃もかかるしょう?」
「エリーザベト様……」

 ソフィアは涙ながらに礼をした。アルノルトもさっきの両替商のやり取りを知っていたので、自然に深く頭が下がった。窓には茜色の夕日が差して来て、見送る夫婦に優しい祝福を零しているようだった。ルーディックが別れを惜しんで言った。

「次はいつ会えるだろうね。幸運を祈る」
「大変な日だったのに、助けてくれて本当にありがとう」

 アルノルトはルーディックと、そしてエリーザベトと握手をしてお別れをし、扉を閉めてもらった。
 アルノルトとソフィアは薄暗い通路を歩いて行き、礼拝堂の祭壇横へ出た。隠し戸を開けて出て行くと目の前で祈っていた修道士達を驚かせたが、時にある事のようで、気に留めずすぐにお勤めに戻る。
 そして礼拝堂でソフィアを待たせ、アルノルトは一人馬を取りに行った。馬の繋いである所はアフラの隠れている馬車からそう離れていない。アルノルトが馬車の近くを通りかかると付近を見張っているような人がいたので馬車には目もくれず、馬一頭だけを引き出した。そしてすかさず馬に乗って礼拝堂へ回った。後ろから追い掛けて来る人影があったので、アルノルトはさらに馬を走らせた。
 礼拝堂の玄関前に出て待っていたソフィアに手を差し伸べて、出合いの勢いでアルノルトの後ろに乗せ上げると、間髪を置かずに別方面の門へ馬を走らせる。
 後ろからは「待て」と声が追いかけて来る。アルノルトはさらに早く馬を走らせた。

「まだ追い掛けて来てる?」
「もう。諦めたみたい」
「どうやら撒けたようだ」

 そう言った頃には馬は門を潜り、人通りの多いチューリヒの大通りを馬車に混じって歩いていた。

「アフラは? 他の人達もまだ残ってるんじゃ」
「そっちは父さんが何とかするって。馬車に隠れていたんだ。でも周囲に人がいて、もう今にも見つかりそうだったな。本当ならアフラも連れて行きたかった」
「それにしても、甲斐がないわ。アフラは捕まっても医者に診て貰えるし、割といい人そうであの分なら割と大事にしてくれそうだったし、大丈夫そうだった」
「じゃあ心配して損した? でも、ソフィアは捕まって危険だったじゃないか」
「そうね。謀った罰を与えなければって王子に言われて、少し怖かったわ」
「とんだ罪を被らせてしまったな。今や君が一番逃げなきゃいけないなんてな。妹の為にごめん」
「ううん。私の方こそご免なさい」

 ソフィアはそう言ってアルノルトの背に頭を凭せかける。

「どうして謝るの?」
「私のせいだわ。大事なパーティーを抜けさせてしまって」
「そんな、謝る事じゃないよ。元はと言えばアフラを帰らせようと言ったのは僕なんだし」
「私が変に入れ替わらなきゃ良かった」
「そんなことないよ。皆んなあの行動には感心してたよ」
「そもそも私なんかが来てはいけなかったの。王侯貴族がいるような所に」
「それを言い出したら僕やアフラだってそうさ。ソフィアにはエリーゼ様が感謝してたよ。助かったってね」
「あんな方々と親密だなんて、もう住む世界が違うと思った」
「僕らなんて大した事ないし、何もしてないよ。ソフィアは一番の功労者だったよ。エリーゼ様も感謝してた。来た意味はそれぞれにあったさ」
「ありがとう。でも、ごめんなさいと言わせて」

 そう言ってソフィアは泣いているようだった。
 アルノルトは騎乗のまま通り沿いに居並ぶ行商からランプを買って、二人で騎乗したままチューリヒの城門を出た。その向こうには夕焼け空の田園風景が広がり、遠くまで続く湖沿いの道が続いていた。
 軽やかな馬の歩は、空が暗くなるにつれて遅くなって行った。

「もうすぐ暗くなって、馬足も遅くなる。でもゆっくり行っても多分真夜中頃には村に着けると思うよ」
「このまま夢心地の余韻のまま、馬に揺られているのも悪く無いわ」

 二人を乗せる馬の歩は、軽いステップを踏むように軽快に田園の道を行く。
 湖の道沿いの平坦な道を行くうちに、次第に道は暗くなって行った。

 
 アフラの方はと言えば、アルノルトの予想通り、ブルクハルトが馬車に乗り込むとすぐに見付かってしまった。アルノルト達を見失った従者の尾行がブルクハルトに回ったのだ。王子の謁見には未成年者のアフラ一人では行かせられない、保護者としてブルクハルトが随伴すると強く主張し、王子の部屋には二人が連れて行かれた。

「ようやく来たか」

 父に連れられて来たアフラの姿を見て王子は苦い笑顔を見せた。

「そなたは?」
「アフラの父です」
「話の邪魔はせぬ様に」

 ブルクハルトは部屋の隅の椅子を指示され、少し離れた場所に座った。そして連れて来た従者は部屋から退室させられた。

「そなたの姉代りに聞いたが、怪我をしてるそうだな」

 話を始めた王子に、アフラは部屋を見回して言った。

「ソフィアはどこですか? 返してくれないとお話出来ません」
「ああ、ソフィアと言うのか。既に新しい当主に預けたそうだ。ルーディック卿に聞けば分かるだろう」
「良かった。姉代わりとソフィアが言ったのですか?」
「ああ、姉妹の様に育ったと申していた。懸命にそなたを守っていたな」
「ふふっ」

 アフラは何故か晴れがましい笑顔だ。そんなアフラはソフィアを助ける心づもりでいたのだろう。

「いい隣人を持ったようだな」

 王子は言葉が続かなくなった。二人の微笑ましいような関係を眩しく思う反面、変に罰を与えそうだった事に少し後ろめたさを感じた。この笑顔で罪は全て許そうという気になって、王子は笑みを浮かべた。従者からすれば王子が笑うのは珍しい事だ。しかしその笑みはアフラには不可解だった。

「お話というのは何でしょうか」
「そうだな、まず、そなたの怪我が悪いと聞いたので医者を用意した」
「ええっ! いいですそんな」
「もう隣室に来ているそうだ。この後で診てもらうように」

 これにはブルクハルトが深く礼をした。

「心遣い、感謝致します。アフラもお礼を」
「あ、ありがとうございますっ」

 王子はアフラのこの半端な礼に少し気を悪くして長話をした。

「しばらく余はブルグント自由伯領の戦に行っていた。攻城戦では野営も長くなり、そこでは怪我や病であまりに簡単に人が死んでいた。そなたは怪我を軽く見過ぎているようだ。だいいち貴族女性で目立つ傷跡があるなんて貰い手にも影響が出るぞ。チューリヒには良い医者も多いのだから、ここで傷が大事に至らないよう手を尽くすべきだ。そうは思わないか?」

 ブルクハルトは言いたい事を代わりに言ってくれたので、強く頷いている。
 アフラは首を大きく捻った。

「私、どうすればいいのでしょう」
「しばらくチューリヒで療養して行くといい」
「ええっ!」

 これにはブルクハルトも驚いたが、親としては大いに頷ける話だ。

「これは重ね重ね有り難く存じます。アフラ、仰る通りにしよう」
「え?え」

 アフラは疑問と肯定を同時にしているような器用な声を上げた。しばらく村に帰れない事になってしまった戸惑いは隠せない。それでも父と頷き合ったのを見て、王子は一通り満足し、話を進めた。

「熱病の方はもう後遺症も無いのか」
「ええ。すっかり治って、もう大丈夫です」
「良かった。正直もう帰らない命かと思ったものだ」
「お医者を呼んで頂いたそうで、ありがとうございました」

 アフラが言うと、ブルクハルトも後ろで立ち上がって再び礼をした。

「礼には及ばぬ。こちらこそ病を無事に越えてくれてありがとうと言いたいのだ」

 王子の向ける真っ直ぐな眼差しにアフラは擽ったい気持ちになり、ただ笑みを返した。
 そこで王子は少し自嘲するように言った。

「私の方がよほど悪化したようだ。少し、あまり人に言えない話を聞いて貰えるか。他言無用だぞ。特に父親」

 アフラとブルクハルトが頷くと、王子は口を開いた。

「余は小さい頃から親同士で婚約相手が決められていた。その親同士はあろう事か後に戦争をして、相手の父親の命を奪い、その城を奪った今では、その婚約者に親の仇、盗人と折りあらば責め立てられている。それがそなたも会ったであろう、あのアネシュカだ」
「お辛そうですね」
「そうだな。お互いに責め合うまま結婚に至るなら、ずっと不幸のどん底だろう。余で無くともまあ嫌になる。だろう?」
「そうですね、それは嫌です」
「だが東国は重要な領土だ。我慢して誤魔化してやって来た。しかしだ、その東国領の者はアネシュカの味方ばかりだ。どちらが主かはすぐに決着が着く。ついに辛くて、何も手に付かなくなった」
「そんなにもお辛かったんですね」

 王子は急に泣きそうな顔になった。

「余は父上に東国領の任を返上させて貰えるよう申し出ようと思ってるんだ」

 その声は打って変わって酷く弱気だった。その時だけは一三歳の年相応に見えた。

「決断したんですね」
「そうだ。恥ずべき敗残処理だがな」
「領地を元の人に返すんですか?」
「いや、それは出来ぬ相談だ。領自体は兄上のものになるだろう。私が婚約者で無ければ元々そうだったのだ。婚約の解消も言うには言ったが、父上に言っても受け入れられぬ」
「大変そうですね」
「大変だな。婚約解消するにも口実が必要だ。以前草場でイサベラ嬢とかくれんぼをしていただろう。ブルグント公女であるイサベラ嬢との婚約ならば父上にも許されるかもと思った。もし健気に探して見つけてくれたなら婚約を仕切り直そうと、賭けをしたのだ」
「あっ」

 アフラはここでようやく話が繋がって見えた。

「私、悪い事をしました。アネシュカさんに場所を教えてしまって。その時にはイサベラさんにも一緒に教えてたんですけど……」
「そうだな。なら覚えてるだろう。その時にイサベラ嬢はアネシュカに権利を譲ってしまった。それでは何の意味もそこには無くなったのだ」
「そう言ってましたね」

 そしてついでに思い出す。それは確かアフラに子羊を返す為だったはずだ。アフラにも幾ばくかの責任がある事に背筋が寒くなった。

「ところで、そなたにも一つ権利を与えていた。それを覚えているか」
「権利? って何ですか?」
「権利とは。うーん。望むこと、行うことを認められている、その資格か約束があるという事だ」
「何か約束しましたっけ?」
「覚えてないのか」
「はい」

 王子は頭を抱えて言った。

「今やそなたは一番の権利を有しようというのだぞ」
「何の一番です?」

 アフラは首を傾げるばかりだ。

「まあいい。どのみち足しにならぬしそなたには早過ぎる話だ。思い出したら連絡をくれ」
「どうやって?」
「手紙でも何でもいい」
「はい。住所教えて下さい」
「後で従者に渡させよう。では、話は終わりだ。隣の部屋で医者に診て貰うが良いぞ」

 アフラとブルクハルトは王子に促されて退室した。

「王子様、見た目よりいい人」
「そうだったが、獅子の子だぞ。こう言う過分な親切には注意がいる。後々断れなくなるからな」
「じゃあお医者さんは?」
「診てもらって来い。すぐ外で待っててやるから」

 アフラが隣の部屋へ入って行くと、待ち構えるように壮年の医者がいた。

「隠れ回っていたという患者は君か?」

 早速医者は上衣を脱ぐようにと言うが、さっきまで話していた王子の部屋の壁が気になる。警戒しつつもアフラはフリルの服を脱いで、シュミーズを胸の辺りまで捲った。下肢は見えてしまうが治療ならば仕方が無い。医者は傷を診てから丁寧に消毒し、卵の薄い皮膜を貼って傷が出来るだけ残らないような処置をしてくれた。

「傷の状態があまり良く無い、傷が塞がるまで二週間は動かさないことだ」

 医者の診断を聞いたブルクハルトはアフラをエーテンバッハ教会にある宿泊棟に泊まらせて貰う事にし、ここに逗留しつつ医者を通わせ、二週間程療養に当たる事になった。後で驚いた事には通いの医者の費用は王子が先に払ってしまったという事だった。
 宿泊棟は男女で別の棟になっている。アフラは一人部屋だったが、その日の夜はマリウスが部屋に食事やフルーツを持って来てくれた。着替えた後持って来ていた寝間着を着てベッドに入るとさながら入院中の風景のようだ。
 そこへ何処から聞いたのか、イサベラとユッテがお見舞いに来た。

「大丈夫だった?」

 ユッテは王子との会談をとても気にしていたようだ。寝転んでいたアフラは、ユッテが王族だと知ってしまったので少し姿勢を正してベッドに座った。

「全然大丈夫だったです。お腹に酷い怪我してたからお医者さんを呼んでくれて。見掛けよりもいい人でした」
「兄様は普通そんな事しないわ。何かあったでしょう」
「あとは、お辛そうに……。少し秘密の話をしました」

 アフラは言いそうになって慌てて口に手を当てた。

「秘密の? なあに?」
「他言無用って言われましたから言えませんよっ。あと、イサベラさんにはごめんなさい」
「私? 何かしら」
「王子様はかくれんぼで一生懸命探してくれたらイサベラさんを婚約者にしようと、賭けをしたそうです。私と会わなければきっとイサベラさんが早かったから。あれ? これは秘密に入るのかしら?」
「あれはそう言う事でしたのね!」
「でも近くまで探しに来てたのに、婚約の機会を壊してしまって。本当にごめんなさい」
「済んだ事はもう気にしません」

 苦笑いするイサベラにユッテも同調した。

「ね? 言ったとおりでしょう? 勝手過ぎるのよねえ。でも、そんな話をするなんて! 私にも教えてくれなかったのに! これはもう相当気に入られてるわ。気を付けた方がいいわね」
「しばらくここで療養するように言われたんです。お医者様のお代も出してくれて。これって危ないですかね」
「十中八九ここに来るわね」
「ヤーン。お父さん達も帰ってしまうのに。来てしまったらどうしましょう!」
「分かったわ。それなら私が毎日ここに来てあげる」
「そんな。ユッテさん遠いのに」
「アフラを一人にはさせないわ。それにすぐそこに取っている宿を延長するだけよ。何なら広いからお泊りに来てもいいのよ」
「そんなこと……愉しそうですね!」
「でしょう? 今はお城に帰ってもイサベラがいないから退屈なの。イサベラも滞在を延長出来れば良いのだけど」
「教会に身を寄せてると規則が色々厳しいの。明日には帰らないと」
「仕方ないわね。じゃあ、しばらくはアフラを独り占めしちゃうから」

 そう言ってユッテはアフラに抱きついて来る。僅かに体が脇腹に当たって傷が痛んだ。

「ダメよ、ユッテ。傷に気を付けてあげないと」
「あら、痛かった?」

 王女に痛いとは言い難く苦笑いを返したアフラは、ここで気が付いた。こちらも王女なので、王族と大いに親密になって巻き込まれて行くことには変わりない。親兄弟が聞けば驚かれ、村人からは後ろ指を指されるだろう。
 いや、災厄と口にしていたアルノルトは、この事をずっと警戒していたのだ。
 

中世ヨーロッパの本格歴史大河小説として、欧米での翻訳出版を目指しています。ご支援よろしくお願いいたします。