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ハートランドの遙かなる日々  第一章

中央アルプスの高地で


 早朝の清冽な山の息吹きが霧となって、高原の村を朧に包んでいる。
 村を囲むアルプスの雪が朝日を映じて黄金色に輝き出せば、その広い渓谷地が微睡むように姿を見せる。
 白く雪を被る岩嶺は、麓へ行くにつれ若草色へと染まるかのように森と草原が彩り、その低地には碧く澄んだ湖が水を湛えている。
 湖畔には修道院のような大きな建物があって、山の麓の森には石積みの古城の影も見える。
 私は風となって、高地の草原に長く佇んでいた。
 言葉に出来ない郷愁がそこにあった。
 高原には白や紫のクロッカスが咲いていて、清流がコポコポと水音を立てている。
 川の傍を伝う道は、牧草地を縫うように石積みの家々を結び、山腹の村の広場へと続いている。
 広場には童話世界から抜け出したような朱色の屋根の家々が並び建ち、その中心には高く尖った教会の塔が建っていて、風景に完成された情趣を与えているようだ。高原から谷を見下ろす風景は、まるで神が丹誠を込めて創った箱庭のようだ。
 渓谷を緑に染めるアルプは高原を切り開いた牧草地で、それは高地まで続き、そこへ続く道を今日も白い羊の群れが昇って行く。
 羊を率いるのは村の青年で、羊を追う少年達は村の公用を担う立派な稼ぎ手だ。
 風となった私は、この感心な二人の兄弟のところへ降り立った。
 少年に寄り添えば、不思議と魂に馴染むように思い出す記憶がある。もっと以前から彼らを見ていたような、遙か昔、私は彼自身だったような、そんな気さえする。
 これは言うなれば過去転生か。何にしろこうしていれば、彼らの記憶や目を通して、この世界を見ることが出来るようだ。
 まだ朝も早く、春の山の風はまだ冷たい。羊飼いの少年は手をさすりながら空を見上げた。
 真っ青な空を刺すようにアルプス山脈の白い峰が立ち並び、氷壁からは雪を含んだ風が降りてくる。
「エルハルト兄さん。今日はずっとこのまま晴れかな」
 弟のアルノルトが遙か前方で羊を導く兄に聞いた。アルノルトはまだ十五歳になったばかりだ。
 三つ年上で頭一つ背の高い兄のエルハルトは、峰から吹いてくる風に対峙するように岩に立ち、空をしばらく眺めて言った。
「いい天気だが、後でだんだん天気が悪くなる。今日は早めに切り上げよう」
「こんな天気なのに? どうしてわかるの?」
「あそこの斑の雲だ。風も湿ってる。山は生きてるんだ。声ではない声があるのさ」
 エルハルトの天気を読む目は殆ど外れたことがなく、村の大人でさえ一目置いていた。
「へえ。流石はエルハルト兄さんだ」
 アルノルトは長い棒で後ろから羊を追いつつ、遙か前方のエルハルトと会話をして歩く。
 牧羊犬のベルがしきりに吠えていた。私に吠えたのかと思えば、そうではなかった。
 前を行くエルハルトが小さく後ろの岩を指差した。アルノルトが後ろを振り返ると、小さな影が岩に隠れるのが見えた。
 アルノルトとエルハルトは顔を見合わせた。
 牧羊犬のベルは岩へ走って行き、その影の主に吠えた。
(ベル。吠えたらダメよ。わかっちゃうでしょ!)
 女の子の小さなひそひそ声が聞こえた。
「アフラ。何してる?」
 エルハルトが遠くまで通る声で言うと、小さな女の子と男の子がすまなそうに岩陰から出てきた。
「こらアフラ!」
「見付かっちゃった」
「マリウスもか!」
「ごめんなさい。エルハルト兄さん」
「ついてくるなと言っただろう」
 アフラは悪戯っぽく笑って言った。
「今日はいい天気だからね。マリウスとお出かけしようって。たまたまこっちに来たの」
 エルハルトは呆れて言った。
「しょうがない奴。その格好《トラハト》でここまで来たのか」
「だって、これが一番かわいいんだもん」
 アフラは村娘の民族衣装を着ていた。髪には白い頭巾をかぶり、白い円筒の上衣の上に赤い小さなベストを着て、黒にも近いオリーブブラウンのスカートに村特有の刺繍の入った前掛けをしていた。ベストにも色とりどりの刺繍が入っていて、紐で前を詰めている。トラハトと呼ばれるその衣装はとても手間がかかっていて、村ではとっておきの晴着だった。
「山の天気はすぐ変わるんだ。雨になったらどうするんだ」
「大丈夫よ。こんなに晴れているんだもの」
「この天気もすぐ変わるから言ってるんだ!」
 怒った兄に怯えるアフラを見て、アルノルトは静かに言った。
「ここから帰るのもお前達だけでは危険だな。兄さん。せっかくだから随いてくるのもいいんじゃないかな。山を知るにもいい機会だしさ」
 エルハルトも山道をただ追い返すわけにもいかない。
「今日はまあ早めに折り返すつもりだし、それまでは天気も保ちそうだ。ここまで登って来たからには、今日は手伝って貰おうか」
「わぁ! やったあ」
 アフラとマリウスは両手を挙げて大喜びをした。
「そんなに喜ばせると示しがつかないか。あとで父さんには厳しく言ってもらうかな」
「えーッ」
 羊飼いの兄弟達は羊と共に歩き出した。
 草原とも野道とも取れる草の小径を、羊の歩みに合わせてゆっくりとした足取りで歩いて行く。
 いつしか日は見上げる程に高く昇って、若草色の高原牧草地《アルプ》を眩く照らしている。
 白く雪の残る山肌は、透き通るような眩さを放つ。
 それを映すように白いヒナギクの花が草原いっぱいに咲いて、山からの風に揺れている。
「なんて綺麗なお花畑!」
 アフラは花を摘んで歩いては香りを楽しみ、黄色や青の花も添え、花束を作って歩いた。
 マリウスは牧羊犬のベルと一緒に喜び勇んで羊を追い、山道がきつくなって疲れて来ると、アフラが花を見付けては立ち止まっていたので、それに付き合って休憩の口実にした。
 先頭を歩いていたエルハルトは、遥か後ろで花を摘んでいる妹逹に声をかけた。
「アフラ! 何してる! 遅れるな!」
 声は山に響いて木霊する。
「エルハルト兄ちゃん。待って!」
 羊の後ろを歩いていたアルノルトはアフラとマリウスに駆け寄って言った。
「道草ばかりしてたら昼までに草場に着かないじゃないか。天気が保たなかったらどうする。ほらマリウス。お前も男なのに花なんて摘んでいるんじゃない。お前達を連れて行くのはやっぱりまだ早かったかなあ」
 アフラに花を持たされていたマリウスは、悄気た顔で言った。
「だって……」
 アフラは兄を睨んで言った。
「そんなことないもん。行こ?」
 アフラとマリウスは早歩きで歩き出した。早歩きというより小走りに近い。
 羊も一緒に小走りになり、群れは急に加速した。
「急に早くなったな」
 アルノルトが喜んだのも束の間だった。羊達はその二人の追走に驚いて、列を乱して逃げ出したのだ。
「アフラ。マリウス。羊を逃がすな!」
 そう言われた二人は羊を捕まえようとさらに走り出した。アフラは子羊の尻尾を掴みそこねては毛を引っ張り、マリウスなどは持っていた花で逃げる子羊を叩いた。
 驚いた羊はさらに必死になって二人から逃げ、散り散りになって先頭を歩いていたエルハルトを追い抜いた。エルハルトは何が起こったのかと振り向いた。すると、アフラとマリウスが羊を追いかけ回すのが見えた。
「何してるんだ! 羊を追いかけ回すんじゃない!」
 必死に走っていたアフラは岩に転び、すぐに泣き出してしまった。
 マリウスはアフラに駆け戻って「大丈夫?」と声を掛ける。羊達はそれを見てようやく逃げるのを止めた。
「しょうがない奴だ。ベル! 集合だ!」
 エルハルトは指笛を吹いた。牧羊犬のベルはこんな時には円を描いて走り回り、散り散りになった羊たちを上手に一カ所に纏めていく。エルハルトとアルノルトも群れを前後から囲んで走り回った。アルノルトは長い棒を横に広げて地面を叩きながら羊を誘導した。二人はようやくのことで羊をまとめ上げ、その数を数えた。
「一頭足りない。エルハルト兄さん」
「まさか。一匹、二匹、三匹、四匹………」
 数えてみると羊は確かに一頭足りなかった。それは村人から預かっている子羊だった。
「大変だ! ミルヒがいないぞ。まだその辺にいるだろう。手分けして探そう」
「でも、ここの羊達も放ってはおけないよ」
 エルハルトは頭をひねって考えた。こんなことになった原因のアフラに羊を見張らせるわけにはいかない。マリウスもまだ小さいので山道にすぐ疲れてしまう。
「わかった。じゃあ俺はマリウスと羊を見張ってこの辺りにいる。アルノルトとアフラで羊を探してくれ」
「あたしも?」
 まだ泣きべそをかいていたアフラは顔を上げた。
「そうだ。こうなった責任があるだろう。ただし向こうの森には入るな。森はヴァリス人の狩り場だからな」
「わかった。あたし探してくる」
 アフラは一目散に山を駆け出した。アフラには心当たりがあった。アフラが毛を引っ張り過ぎて毟ってしまったので、ひどく驚いて走って行った子羊がいたのを思い出し、その方向を目掛けて真直ぐに走って行った。
「また転ぶからゆっくり行け」
 アルノルトが後から追って来て声をかけた。アフラが道に迷いそうなので、アルノルトはアフラから遠くない場所を行くことにしたのだ。
「アル兄ちゃん。あっちよきっと」
「見たのか?」
「私、羊の毛を引っこ抜いちゃったの。そしたら跳ぶように逃げてった」
「どっちだ?」
「あっちの方向」
 アフラはその方向を指差して言った。
 アルノルトはその言葉を信じてその方向へと早足で歩いて行った。
 アフラもその後に小走りで付いていく。
 二人は草原を抜け、道を塞ぐ岩を登って周囲を見渡すと、道の先は森に続いていた。
「羊は森に入ったかな」
「どうしよう。さっきエルハルト兄ちゃんから森へは入っちゃだめって」
「そうだな。じゃあここから分かれて周辺を探そう。アフラは山の下の方だ。僕は上の方を探す。一周回ってここで合流だ」
「うん。わかった」
 二人はそこから手分けして周囲を探した。
 アフラが山を下ると眼下には川に沿って道が曲線を描いているのが見えた。その登りのきつい山道を馬車がゆっくりと走って行く。その道は峠へと続いていた。
 方々を探しても見付からず、元の岩の方へ戻って来たアフラは、森の入り口に立って森の中を覗き込んでみた。森の中は暗く鬱蒼としていて、不思議な鳥の鳴き声が響いている。アフラは怖くなってとても森に入る気にならなかった。
 そこへアルノルトも戻って来た。
「アフラ! いたか?」
「ううん。いない」
「アフラ。もし見つからなかったら、あの羊は二頭しかいないペーテルのだ。ペーテルは羊を売って一年越せても来年の冬はもう越せなくなる。ミルヒはようやく生まれた羊なんだ。だからきっとお父さんは、代わりにウチの子羊のシルフを渡してしまうだろう。そんなの嫌だろう?」
「うん! 嫌!」
「少しだけ……森を探してみるか」
「でも……森にはヴァリス人が出るんでしょう?」
「うん。でもヴァリス人も人さ。いい人もいる。無闇に怖がることはないよ」
「ヴァリス人ってどんな人?」
「昔からここに住んでいる山の民さ。僕らアレマンの民は数は多いけど、昔、北から大移動してきたんだってさ」
「じゃあ。あたし達、ヴァリス人の土地を盗っちゃったの?」
「そういうことだな。だから少し、仲が悪い」
「ヴァリス人に見付かったら、怒るかなあ」
「ヴァリス人だってわけもなく襲ったりはしないさ。少し森に入るくらいなら会うこともないだろうし、大丈夫さ。行ってみよう」
 二人は恐る恐る森の中へ踏み出した。
 森の中へ入ると次第に日が当たらなくなり、意外なほどに暗くなった。始めは広かった道はだんだん狭くなって行き、進んで行くと途中に倒木が積まれ、行き止まりになっていた。
「行き止まりか」
「アル兄ちゃん。ここに小さな道があるよ」
 茂みの奥にあったのは獣道のような細い道だった。
「行ってみよう」
 獣道は肩の幅も無く、二人は木の枝を掻き分けて進んだ。時々道らしいものも無くなって木の根伝いに歩いたので、アフラは何度か木の根に躓いて転びそうになった。
 そうしてどれだけ進んだろうか。恐る恐る進むうちに、森から急に開けた場所に出た。そこは小さな広場のようにお花畑が広がり、その真ん中に聳え立つ大きな楢の木へまっすぐな道が続いている。木の間から溢れる光が、筋となって草花を明るく照らしていた。
「ここなら羊がいるかもしれないぞ」
「きれいな場所!」
 アフラはお花畑へ走り出ると、とたんに足を止めた。
 その花畑の奥には、窓を全て花で一杯にした小さな家があったのだ。
「綺麗なお花のお家!」
「ヴァリス人の家だ!」
 アルノルトは驚いてアフラに駆け寄った。
「見付かるとまずい。隠れろ」
 花を摘みにかかるアフラを止めて、アルノルトは繁みに入ろうとした。
 するとどこからか声がした。
「それ以上入ったら駄目だ! その人を止めて!」
 その声に釣られ、アフラはアルノルトの腕を引っ張った。
 その足に何か細い紐が掛かった刹那、白い羽が飛来した。
 それはアフラが引いた勢いで倒れ込んだアルノルトの足の前を過ぎ、持っていた木の棒に突き立った。
「矢だ!」
 二人は呆然と矢を見つめた。足元にあった紐を辿ると、その先に据え付けた弓があるのを見つけた。
「危なかったね。狼の罠に掛かるところだったよ」
 今来た道の後ろには一人の少年が山羊を連れて立っていた。年の頃はマリウスくらいだろう。しかしその表情はひどく大人びて見えた。
 アルノルトは身構えるように立ち上がった。アフラも立ち上がって草をはたき落とし、さっき転んで擦りむいた膝に触れて「イタッ」と呻いた。
「怪我しちゃったね。大丈夫?」
「大丈夫よ。さっき転んで怪我したの」
 少年はアフラに駆け寄って、首に巻いていた赤いスカーフを外してアフラの傷に当て、スカーフをぎゅっと結ぶと、「これで大丈夫」と朗らかに笑った。
「ありがとう」
 アフラが満面の笑みで言うと、アルノルトが言った。
「さっき助かったのは君のお陰?」
「そうとも言えないよ。その罠は僕が作ったから……」
「君が?」
「ここは僕の家の庭だ。勝手に入って来たら文句は言えないよ」
 アフラがおもむろに山羊を指を差して言った。
「その子は羊?」
「違うよ。これは山羊だ」
 少年がそう答えると、山羊も同意するように鳴いた。羊とは少し声が違って高い声だ。
 アフラは山羊を撫でて言った。
「まさかウチの羊の毛を切っちゃったの?」
「違うよ。これははじめからだよ」
 少年は不穏な雰囲気を感じ、山羊を抱え込んで、アフラから引き離した。
 アルノルトがこれを見て笑った。
「この子は今まであまり山に出さなかったから、こういう白い山羊を知らないんだ」
 アフラは羊の大きさを作って言った。
「私たち、はぐれた子羊を探しているの。これくらいの」
「子羊なら連れてかれたよ」
「アル兄ちゃん。大変!」
「大変な事件になった! それは誰に?」
「そんなのわからないよ。さっき向こうで遠くから馬車に乗せられるのを見たんだ。あまり見ないくらい立派な馬車だった」
 アルノルトは飛びかかるような勢いで少年に尋ねた。
「教えてくれ! その馬車はどこへ行ったんだ?」
「どこかはわからないけど、峠の方さ。それよりここはもう僕らの森だよ。君たちが入ってくるとみんなの感情をひどく逆撫でるんだ。さっきみたいな罠もあちこちにある。早く出て行った方がいいよ」
 アフラは目を凝らして聞いた。
「あなたはヴァリス人?」
「一括りでヴァリス人って君らは呼ぶけど、山にも色んな一族がいてね。ホントはラエティアって言うんだ……。でも父さんは元はウーリの村人さ」
「だからあなたは怒ってないのね」
「僕は慣れっこなだけで、この家が見つかったと知ったら他の人は騒ぎ出すよ。言葉も通じないし、何が起こるかわからないよ」
「じゃあ。ヴァリス人と私たちは仲良くなれないの?」
 アフラはさも残念そうに言った。
「僕は……そんなことはないと思う」
「じゃあ私たちは? お友達になりましょう?」
「じゃあ、今度どこかで会ったら友達だ。でもここへは来ちゃあダメなんだ。場所も絶対に秘密だよ。さあ、早くしないと見付かっちゃうから」
「うん! わかった。じゃあ今度会ったらアフラって呼んでね」
「僕はジェミ。くれぐれも秘密だよ」
「兄のアルノルトだ。いろいろありがとう。じゃあ行くよ」
 アフラとアルノルトは少年に手を振って、森を後にした。


 二人は森から出て、道を下って行き、川沿いの道へと山を下りて行った。周辺に馬車が通れるのはその道しか無かった。
「アル兄ちゃん。そう言えば私もさっきこの道を通る馬車を見たわ」
「何だって! どうして言わないんだ!」
「だって今思い出したんだもの」
「どんな馬車か覚えてるか」
「白くて大きな馬車だった」
「きっとそれだ。追いかけるぞ」
 二人は歩を早めて川沿いの道へと下りて行く。
 川の流れは水しぶきを上げ、川の音を辺りに響かせるほどに急だった。川の水は山の雪解け水を含んでいて、まだとても冷たい。しばらく川に沿って歩くと、川の畔に水車小屋があって、粉挽きをしている年老いた農夫がいた。
「お早いですね。ビルゲン爺さん」
 農夫は顔を上げて二人の方を見た。
「ああ。おはよう。今日は妹を連れて放牧かい? おや、今日は羊を連れてないのかね」
 アルノルトは声を小さくして農夫のビルゲンに聞いてみた。
「実は羊が一頭はぐれてしまったんだ。こっちの方で子羊を見なかった?」
「そうかそうか、迷子の子羊を探してるのか。いやあ見なかったなあ。まあ馬ならさっき馬車が通ったがね」
 アルノルトとアフラは顔を見合わせた。
「それって白い馬車?」
「ああ。白かったな。馬も白いんだよ」
「その馬車に乗せられたかもしれないんだ。どっちへ行ったの?」
「この上の方だよ。連れ去られるのを誰か見ていたのかな?」
「うん。ありがとう。ビルゲン爺さん。探してみるよ」
 アフラは遠くに見える森を指で差して言った。
「お爺さん。あそこでね……」
 そう言った時、アルノルトが首を振って言葉を制した。
 農夫のビルゲンは指の先を目で追って言った。
「何だい、アフラ? 眠りの森がどうかしたのか?」
「あの森のヴァリス人は怖い人なの?」
「ヴァリス人! そりゃあ怖いとも。昔にはあそこのヴァリス人との争いがあったんだ」
「入ってはだめなの?」
 目を真ん丸にして農夫は言った。
「だめだ、だめだ。お父さんに聞かなかったのか? あの森からはヴァリス人の土地、草原は我々の土地と決まっておる。ましてやあの森の奥には眠れるドルイデが今でも眠り続けていると言うではないか。何をされるかわかったもんではないぞ」
「ドルイデって何?」
「そうさのう。ヴァリス人の村長みたいなものだな。聞くところには魔女だと言われている」
「魔女!」
 アフラはおずおずとアルノルトの腕を掴んだ。
「ハ! 怖くなったか! ならばあの森には入るんでないぞ!」
 アルノルトはアフラの手を引いて歩き始めた。
「じゃあ。まだ探さなきゃ。ありがとうビルゲン爺さん」
「ああ。見付かるといいね」
 農夫のビルゲンは手を振って二人を見送った。川沿いの道に出ると、道には轍がいくつか付いていて、確かに馬車の通った跡があった。二人はその轍の跡を辿って川沿いの道を歩き続けた。
「アル兄ちゃん。あのジェミって言う子は怖い子なのかな」
「そうは見えなかったなあ」
「でもビルゲン爺さんもヴァリス人は怖いって言ってたわ」
「ヴァリス人をたくさん奴隷にしてしまったからね。きっと怒ってるんじゃないかな」
「ひどい! 私たちの方がひどいことばかりしてるのね」
「今も家には武器が飾ってあるだろう。一昔前までアレマン族は戦いの民だったのさ」
「でも今はみんな平和に牧畜したり、野良仕事してるわ」
「どの家も武器を何処かに飾って置いているだろう? いざとなったら戦うつもりなのさ」
「あのおっとりしたビルゲン爺さんも?」
「当然さ。あそこの家にも槍と楯があったんだ。楯は庭でテーブルに化けていたけどね」
「へえ。じゃあ何故今はみんな平和になったの?」
「神聖ローマ帝国が教皇様の下に統一されたし、それにきっとこの場所がそうさせるんだろうな」
「この場所って?」
「うん。アフラはこの村が好きか?」
「うん。好き!」
「だろう? 僕もこの村が好きだ。この自治州《ラント》のためにも何かしたいって思う。村の人達もそうだと思うんだ。きっとみんなそう思うから平和になるんだ」
「ふーん。でも、ヴァリス人は?」
「そうだね。少し仲違いがあるけど、山の民は山で同じようにそう思っているのかもしれないよ」
「あの森の奥には何があるのかな」
「さては入ってみたいんだな。アフラは」
「みんな怖いって言うから行かないけど……あのお花畑のお家はとっても綺麗だった。窓にもお花がいっぱい咲いてた」
「さてはあのジェミって子が気になるんだ」
「そうじゃないわ。もういじわる!」
 アフラは兄からそっぽを向いてしまった。
 道を行けども行けども何も見付からないので、アルノルトは途方に暮れて言った。
「このままじゃあ峠まで行ってしまう」
 アフラも溜息を吐いた。
「馬車で遠くまで連れて行かれちゃったかなあ」
 そこへ前の方から小さな馬が引く荷馬車が一台やってくるのが見えた。乗っているのは若い行商人のモランだった。
「ねえ、モラン」
「おう。こんなところでどうしたよ。アルノルト」
「この道で馬車とすれ違わなかった? 豪華馬車だそうなんだけど」
「いいや。峠付近から下って来たが、特に馬車とはすれ違ってないなあ。誰か探してるのか?」
 アフラが腕で丸を描いて言った。
「おじさん! 私たち、子羊を探してるの。これくらいの。馬車に乗ってるの」
「子羊? 羊が馬車に乗ってるのか?」
「うん。そうなの。白い豪華馬車。見なかった?」
「羊も偉くなったもんだ。こっちは子馬に馬車を引かせてるってのに。そんな羊を見たら真っ先に言うだろうさ。それより俺を呼ぶ時はお兄さんかモランって呼んでくれ。おじさんにはまだ早いだろうよ」
「うん。じゃあモラン」
「まあ羊の足ならその辺りですぐ見つかるだろうよ。じゃあ行くよ」
 モランはそう言って馬車を出した。アルノルトは何か考えながら山を見上げていた。
「峠から来て馬車を見なかったってことは、この辺の何処かの道で曲がったんだ。こうしよう、アフラ。お前はさっきの橋のところで曲がって、あそこにある山の高台に登って、周囲一帯を探してみるんだ。少し道がきついけど、行けるか?」
「うん。大丈夫!」
「僕は反対側のあの高台に行ってみる。もしミルヒや怪しい馬車を見付けたら、こっちに合図を送るんだ。方向を腕でこう往復してな」
「わかった」
 アフラは小さな橋で手を降って兄と別れ、川を渡り、高台の方へと歩いて行った。


 道は斜面をジグザグに進み、時に大きくカーブして逆を向いて曲がって行く。その道をしばらく歩いていくと坂の上の方に道が見えたので、アフラは道を逸れて若草の生え出た斜面を登った。
 アフラは息を切らせてきつい斜面を登り、少し平らな小径に出て、ふと立ち止まった。
 すぐ足元の草の上に何かが寝息を立てていた。よく見るとそれは緑色の狩人の服を着た男だった。隣りには狩人姿の少年も寝転んでいて、真っ直ぐ空を見ている。
 アフラは恐る恐る挨拶をしてみた。
「こんにちは」
 狩人の寝息が止まったが、返事は無かった。少年の方は目を開けてはいるが空を見たままだ。アフラはもう一度呼びかけた。
「こんにちは!」
 少年は気怠げに体を起こして言った。
「聞こえている。大声を出すな」
 同じような背格好のくせに、その口調は妙に大人っぽい。少年の虚ろな目に纏う雰囲気は、まるで廃絶貴族のようにも見えた。
「あなたはだあれ?」
 少年がアフラを指差して言った。
「お前こそ誰だ。先に名乗れ」
「私が聞いたのが先よ」
「俺に名は無い」
「失礼ね。レディーに向かってそんな態度」
「名乗る程の者ではないのさ」
 アフラはすっかりむくれて言った。
「じゃあ私も名乗る程の者じゃなーい!」
 その声に横で寝ていた男が目覚め、目を見開いて起き上がった。
「いかんいかん! このようなところを見付かってしもうた。いやあ。婚約は……この娘か?」
 少年は途端に笑い転げた。
「それはいいな! ハハハハ!」
 その勢いを余所に、アフラは困惑顔になった。
「婚約?」
 少年は言った。
「隠れん坊して見つかったら婚約なのさ」
「冗談は止めて! 私ここを通っただけよ?」
「それでも、権利を与えてもいいな」
「権利?」
 大人の狩人が言った。
「しかし、通りがかりの人を捕まえて婚約は如何なものか」
「偶然の成り行きを楽しむくらいはいいだろ?」
 その口調は子供の狩人の方が大人より偉そうだ。
「あなた達は親子?」
 少年は男の方を一度見てから言った。
「……違う」
「じゃあそのお揃いの服はなあに?」
「これは、見ての通りの狩人だ」
「草と一緒の色で見えないなんて不思議な服。そんな服、見たことないわ。踏んづけちゃうところだったのよ」
 少年狩人は笑った。
「それは予想以上の成功だ。草に隠れていたのだからな」
 狩人姿の男は口に人差し指を立てて言った。
「ちょっと声を落としてくれ。声で見つかってはいかんからな」
 アフラは口を押さえて頷いた。男は声を小さくして続けた。
「そなたはこんなところまで何しに来た? 誰かの使いか?」
「私? 私は馬車を探してるの」
「馬車とな!」
「見たの?」
「ここからならいくらでも見えるからな」
「どっちへ行ったの?」
「うむ。あっちの方だったな」
 狩人姿の男は下の道を指差した。しかしその道はモランの馬車が下った道だった。
 少し首を傾げてからアフラは言った。
「その馬車には子羊が乗ってるの」
「羊とな!」
「そう! その羊は私達の村の羊なの」
 少年狩人が言った。
「そうか。あの羊を追って来たのか。ご苦労なことだ」
「小さい狩人さん! 見たの?」
「ああ。その馬車ならばあっちだ。道ならばこっちかな」
 狩人の少年は今度は上の方を指してから、道は下の方を指した。
 アフラは指で上下を指しながら言った。
「あっち? こっち? どっち?」
「こっちだ。そこにある小径を回れば崖や草が深い所を回って道に出る。そこから上の方へずっと行けば見えるであろう」
 少年は指を巡らして言い、また寝ころんだ。アフラを数歩歩んでそこに細道を見つけてから言った。
「ありがとう! 行ってみる!」
 狩人の男が再び口に人差し指を当てている。
 アフラは人差し指で口を封してから、静かに狩人の指し示した通りの方向へ歩いた。
 進んで行くと次第に草の高さがアフラの背丈ほどになり、道も細くなって来て、草を掻き分けて進まなければならなくなった。
 迷いながら草を掻き分けて進んで行くが、次第に方向感覚が判らなくなって行った。
 不意に草が切れ、道のような場所に出たので飛び出して行くと、若草色の貴婦人に出くわした。
「キャアーッ」
 ぶつかりそうになって後ろに避けた貴婦人は草の根に躓いて力無く撓垂れるように倒れてしまった。貴婦人に見えたのは、まだ年若い少女で、淡く明るい若草色のドレスに包んだ体を深い草に埋め、白く長い手袋をした手には一厘の花を持っていたが、その花びらは1枚しか残っていなかった。片手で上体を支えていたが、俄にそれも止めて、地面に寝転んでしまった。
「ご免なさい。大丈夫ですか?」
 アフラは慌ててその少女の顔を覗き込む。
「このままこうしていれば、判るかしら」
 少女はそのまま目を閉じてしまったので、アフラはさらに慌てた。
「どうしました?」
「判らないわよね。人の気持ちなんて」
 花を持った手を額にかざしている少女に、アフラは手を差し出して言った。
「痛いですか? 頭ですか? おしり?」
 少女は笑ってアフラの手を取って上体を起こした。
「何ともないのよ。痛いのは強いて言えば心ね。驚いたわ。こんなところからあなたのような可愛い子が出てくるなんて」
 少女は持っていた花を草地に放った。アフラはその花びらを見てようやくその胸中が判るような気がした。
 アフラは持っていた花束から一輪の花を取り、少女に渡した。
「も一つどうぞ」
「ありがとう」
「心が痛いのは……お知らせなのよ」
「お知らせ?」
「そのままそっちに行っちゃだめって言う神様からのお知らせ」
 少女は何かに打たれたように「判るの?」と溜め息のように言った。
「うん。こうして耳を澄ませば小さな声がするわ」
 耳を両手で包むようにして言うアフラに習って、イサベラは目を閉じて耳に手を当ててみた。
 すると、向こうから「イサベラー」と呼ぶ声がする。その場所は草地に出来た小道の合流する広場のようになっていて、奥の道からはもう一人、見たこともないような唐草模様の異国のドレスに身を包む少女が歩いて来て、「大丈夫? イサベラ」と歩み寄って来た。
 その後方からは黒い服の貴婦人が小さな女の子を連れてゆったりと歩いて来た。
「どなた? 可愛いお客様ね」
 丸みのある顔をしたその貴婦人が言った。ぴったり寄り添って首を傾げている小さな女の子もほっぺがふっくらと丸いので親子であろう。その後ろからは一人の若い修道女が歩いて来ていた。亜麻の無染色の修道服を着ている。
 身を起こした少女が「少しぶつかってしまいました。汚れてしまったかしら」と背を払った。
 立ち上がった少女の背丈はアフラより少し高いくらいだが、高い靴を履いてまっすぐに背筋が通っているのでずっと年上に見え、貴婦人かご令嬢といった雰囲気だ。少女は恭しくスカートを広げて礼を取って言った。
「失礼しました、村のお嬢さん」
 アフラもそれに習って片手で花束を抱え、片手で少しスカートを摘んで挨拶を返した。
「こちらこそ失礼しました。皆さんこんにちわ」
 貴婦人がゆったりとした口調で言った。
「こんにちは。あなたは向こうの村の子かしら?」
「はい。そうです」
「こんな場所で何をしてるの?」
「羊を探してるんです」
「羊?」
「これくらいの子羊なの」
 アフラは手を一抱えして形を作った。すると、少女達も貴婦人も顔を見合わせた。
「まさかあの羊は……」
「あなたの羊なの?」
「みんなの羊なんです。向こうの山で私が逃がしちゃって、探しに来たの」
 すると少女達は一様に項垂れた。そこへ修道女が威圧感を持った声で言った。
「貴女方は罪を犯したようです。これは懺悔せねばなりません。後で懺悔室に」
 修道服のベールから覗く端正な顔立ちはまだ若く瑞々しいが、その声は修道院長のような威厳で満ちていた。
 慌てた異国の少女が修道女の袖にしがみついた。
「お姉様。それは許して」
 緑の少女も修道女に手を合わせて言った。
「クヌフウタさん。今懺悔をします。だから懺悔はお許しを」
「まず、この子に謝罪するのが先でしょう。そして羊を返してあげなければなりません」
 アフラは聞かずにいられなかった。
「羊を知ってるの?」
 小さな女の子は言った。
「子羊いるよ」
「いる? どこに?」
 アフラが膝を跼め聞くと、その子は指を「あっち」と指した。
 貴婦人が言った。
「子羊はね。この上のところに馬車があって、そこにいるのよ」
「さっき狩人さんにそう聞いたんですけど、道に迷っちゃったの」
 すると、再び皆で顔を見合わせた。
 異国の少女は飛びつくようにアフラに聞いた。
「狩人さん? 私達はその方を探して競争しているのよ。その方はどちらに?」
「向こうの方。この草の分けた跡を行けばすぐよ」
 アフラが今来た道を指差して教えると、異国の服の少女は草の分け跡まで歩き、振り向いて言った。
「イサベラさん。私、お先に行っても構わないかしら?」
 イサベラと呼ばれた少女は頷いた。
「私はこの子の案内をするわ、アネシュカさん。もうここからは譲ることにします。奥様、よろしいでしょうか?」
「そうなの? まあこのかくれんぼはあの子の戯れだから良いのだけれど。お見合いはいいの?」
「ええ。アネシュカさんに権利を譲ります」
「じゃあ、お言葉に甘えて行かせてもらうわ」
 異国の少女アネシュカはそう言うと軽くスカートを摘まんで礼をしてから、草叢の中に分け入って行った。それを見届けてからイサベラは言った。
「では奥様。私は馬車に戻っています。この子に羊を返してあげるには、もう少し助けが必要ですし」
「そう。残念ねえ」
 小さな女の子がぐずって言った。
「羊さんー。羊さんー」
「アグネスは羊さんの所に行きたいの? その方が良いわね。じゃあ私達もご一緒しましょうかしら?」
 貴婦人は少女の手を取って歩き出した。途中で修道女に目配せをして行く。修道女が頷いて返したのは同行の意味だろう。
 イサベラはアフラに向き直って言った。
「私達は貴女に謝らなければなりません」
「どうして?」
「子羊を連れて行ってしまいましたから。盗むことは、罪です」
「羊を返して貰えればそれでいいんです」
「もちろんお返しします。これからご案内しますわ」
 イサベラはアフラにそう言って歩き出し、修道女の近くで足を止めて言った。
「クヌフウタさん。これで良いのですよね」
「それが貴女の出した答えならば」
「はい。ついさっき答えは出ました」
「でも、判っていますね。皆が得られない権利を譲歩したのです。もう少し自分を大切にすることを学ぶべきですね。状況に流されない、行く末の道を」
 イサベラは物思いするように頷いた。修道女のクヌフウタはそれを見届けると、貴婦人の後を追って、歩き出した。
「では、行きましょうか」
 イサベラはアフラに掌で合図を送り、並ぶようにして歩き出した。そして歩きながらアフラに話した。
「貴女の羊はね、急に道に飛び出して来たものだから危なかったの。怯えて立ち止まったままで馬車が通れなくって、御者さんが捕まえて見せてくれたのだけれど、あまりにかわいいものだから馬車に乗せてここまで連れて来ちゃったの。ご免なさいね」
「そんなことがあったのね」
 草叢に出来た小径をしばらく行くと、大きな道へ出た。そこには轍の跡が幾つか残っていた。
「馬車の跡だわ」
 前を歩く小さな女の子がアフラを振り返って気にしている。アフラが首を傾げて手を振ると、手を振り返して言った。
「羊さんとこ行くの?」
「ええそうよ」
「羊さん、かわいいの」
「そうでしょう。うちの羊ですもの」
 少女は笑って貴婦人の手にぶら下がった。貴婦人は少し重そうな顔をしたが、至って笑顔だった。
 しばらくその道を行くと、少女が指を差した。その方向の高台の上に馬車の影が見えた。
「あそこね?」
「ええ」
 イサベラが肯定するや、とたんにアフラは駆け足になって貴婦人を追い抜いた。
 高台に近付くにつれ、そこには見たこともないくらい豪華な白亜の馬車が見えた。



約束の野

 坂道を登り、高台の上の平らな草地に出ると、そこは色とりどりのお花畑が広がっていて、そこへ厚手の赤い毛氈を敷き、誰かがピクニックをしている。
 その毛氈の上には少年と少女、その後には召使いがいた。
 少女はアフラと同じくらいの年格好で、ノースリーブの卵色の長いキャミソール一枚着なのはとても山にはそぐわない薄着だ。
 少年も少し大きいが同じ年頃で、豪奢な礼服を着込んでいる。
 二人は子羊に草を食べさせてはしゃいでいた。
「あっ羊!」
 アフラは羊の姿を見て駆け出して、少女がアフラに気が付いた。
「あら。誰か来たわ」
 アフラはすぐ前まで来て身じろぎをして、両手でスカートの両端を持ち上げながら礼を取った。
「こんにちは。その羊見せて」
「かわいい! 近くの子かしら?」
 キャミソール姿の少女が手招きをする。
「ここはとてもいい眺めよ。こっちへいらっしゃい」
 アフラが近付くと、少年が立ちはだかった。
 その背丈はアフラと同じくらいだろうか。風に棚引く絹のスカーフには高そうな宝石のブローチが付いていて、少年の面差しはドキッとするほど端正で高貴さが漂っている。
 アフラは足を止めざるを得なかった。
「待った。それ以上来ちゃ駄目だ」
「止めないでよ!」
「ユッテ。気まぐれは駄目だよ。この辺りには風土病もあるんだ」
「もう! 私に干渉しないで!」
 この二人が何故か喧嘩になりそうだったので、アフラは咄嗟に持っていた花束を差し出しつつ近くへ進み出た。
「あたしはビュルグレンの村娘です。この花をどうぞ」
「まあ綺麗!」
 差し出されたその花へ少女が近付いて来た。
「ユッテ!」
 少年は後ろを向いて手を広げた。
 ユッテと呼ばれた少女はツンとそっぽ向いてから、クスッと笑ってその手の下をくぐり、アフラから花束を受け取った。そして赤い毛氈の上を一回りしながらその香りを嗅いだ。
「いい香り。ありがとう」
 尚も通せんぼしている少年に、歩いて来た修道女が諭すように言った。
「何をしてるのベンケル。仲良くしてね」
 少年は誤魔化すように手を頭の後に組んだ。
 修道女と一緒にイサベラもやって来た。後ろからは貴婦人とアグネスが続いている。
 花束を抱えたユッテが言った。
「イサベラが戻って来たのね。じゃあアネシュカの勝ち?」
 イサベラは苦笑いで頷いた。
「そうね。元から私は負けだったもの」
「まだ仕切り直しても良かったのよ? あーあ。イサベラがお姉さんの方が良かったのに」
 イサベラはそれには苦笑いで応えてから言った。
「村の娘さんが子羊を探してるそうなの。その羊を見せてあげて」
 小さなアグネスは毛氈の上を駆けて行き、もう羊の毛を撫でている。ベンケルにはもう止める様子はない。
 アフラはその後ろから続いて近付こうとするが、今度は召使いがその道を塞いだ。これにはアフラは少しベソをかいた。
 貴婦人が尚も立ち塞がる召使いに言った。
「お客様に失礼ですよレオナルド。この子に謝って」
「これは……大変、失礼致しました」
 召使いのレオナルドは眉を険しくし、跪いて畏まったので、アフラは慌てて言った。
「いいえ。いいんです。風土病があるのは本当だから、それより……」
 アフラは気後れしながら言った。
「その子は村の羊なの。連れて行っちゃいけないのよ」
 ユッテは羊の背を一撫でして言った。
「この子羊? あなたの羊?」
「ううん。そうじゃないの」
「じゃあ本当かどうかわからないでしょう? ダメよもう。私の子にするんだもん」
「え……」
 アフラがあまりの言葉に目を回していると、イサベラがユッテに言った。
「ダメよ。お返ししないと」
「嫌!」
「盗んだことになるんだから!」
「だって羊なんて見分けが付かないでしょう?」
 あまりの強情に皆一様に押し黙った。
「強情な娘はお断りだな」
 ベンケルがそう言うと、さらに空気が凍った。
 ユッテは一同を見回して肩をすくめた。
 後ではシスターが「コホン」と咳をした。
 思い付いたようにアフラが言った。
「名前はミルヒって言うの。村のみんなの羊なのよ」
「名前がわかるの? 呼んでみて」
「ミルヒ……」
 アフラが呼ぶと子羊は首を傾げた。
「来ないじゃない。嘘ね」
「ミルヒ……」
 もう一度呼ぶと子羊は小さく鳴いて、アフラの方へ歩いて来た。アフラは思い切りミルヒの体を撫でてやった。そのお尻には毛を抜いた跡があった。
「おりこうさんね。よしよし。ここ引っこ抜いちゃってゴメンね」
 ミルヒはアフラにじゃれ付くように纏わり付いている。
 ユッテはそれを見て取って言った。
「まあ。本当。ミルヒって言うのね。私ったら悪いことしちゃったわ」
 イサベラが申し訳なさそうに言った。
「やっぱり貴女の羊ね。連れて行ってしまって本当にご免なさい」
「いいえ。見つかったからいいの」
「私達を許してくださる?」
「もちろん」
 イサベラは肩の荷が下りたように息をして微笑んだ。
「ありがとう」
 イサベラはクヌフウタの方を見て、目配せで頷き合っている。
 ユッテが残念そうに言った。
「でも、もう連れて行っちゃうの? この子とはもう仲良くなったのよ。もっと可愛がりたいわ」
 ユッテがアフラの方へ歩み寄って言った。
「またここへ来れば会えるかしら?」
「普段ここにはいないわ。今の時期は昼間は放牧で山のあちこちへ行って、夕方には帰って来て村の共同牧場にいるのよ。雨の日なら牧場にいることが多いのだけど」
 イサベラが言った。
「じゃあ今度牧場の方に伺いましょう?


「いいわね。でも私逹行ってもいいかしら?」
「もちろん。見学は歓迎です」
「やったあ!」
 ユッテはイサベラと手を叩き合って大喜びだった。
 ユッテは次にアフラの手を取って言った。
「うれしい! ありがとう!」
 ユッテがアフラの衣装を間近に見て言った。
「それにしても、この衣装! あなたはまるで絵本から出て来たみたいね」
「そうね。この刺繍、とても綺麗だわ」とイサベラも刺繍に触っている。
 村の民族衣装姿を少女達は気に入ったようだった。
「それ程でも……」
 恥ずかしくなって言うアフラに、イサベラは力を込めて言った。
「ここから見える村は景色も素晴らしいし、家々も美しいものばかり。あなたもそれに相応しく美しいと思うわ」
「そんな。あなた逹こそおとぎ話でお城に住んでるお姫様のように綺麗だわ」
 イサベラは少し気恥ずかしそうに言った。
「お褒め頂いたのは嬉しいけど……それはちょっと違うの」
 イサベラは言葉を選んで言った。
「お城の暮らしも外から見る程いいものじゃないのよ。……留学生の身だから、与えられるのは小さな一室だし」
「留学生さん?」
「面目はそうだけど、殆ど人質のようなものなの」
「人質?」
「言わないでイサベラ。私達そんな風に扱ったことないわよ」
 ユッテは悲しそうに抗議した。アフラは意味が判らず困惑顔をしている。イサベラは話題を変えた。
「あ、でもね、故郷の古城はお気に入りなの。お城って言うより、山の中の古い小さな城館なの」
「やっぱりお城のお姫様なのね! 素敵!」
「今はユッテと同じお城にいるの。でも城の中は気詰まりなことばかりで、皆長生きしないのよ。私はこうして野山へ出て小鳥のさえずりを聞きながら、そして羊の声を聞きながら、山の中で過ごす方が好き」
 貴婦人も笑って頷いた。
「私もそうね。私の産まれたチロルも野山の美しい国なのよ」
 貴婦人はそう言って山に見とれている。
 アフラは言った。
「私、この村が好きなんです。山の風景も羊達もみんな大好き。贔屓目かもしれませんが……」
「それは一番良いことね」
 貴婦人はその言葉に微笑んで頷いた。ユッテも山を仰ぎ見て言った。
「私も好きよ。あなた達がうらやましいわ。だってこんな綺麗な景色の中で毎日が過ごせるんですもの」
「まあ。ユッテも?」
「お父様に頼んで今度のお城はここにして貰おうかしら」
 イサベラは溜息を吐いて言った。
「まあ呆れた。お城のお姫様と言えば、ユッテの方ね」
 ユッテは笑って頷いた。
「新しく大きなお城が出来たもの」
 ユッテは手を大きく広げて言う。ユッテは町娘でも着るような軽装な服を着ているので一見信じられない。
「ウソ!」とアフラは言ってから口に手を当てた。
「嘘じゃないわ。ホントよ」
「だってこんな薄着、私達だってそうは着ないわ」
 ユッテの薄着はアフラの寝間着にしているシミーズにもよく似ていたが、フリルや生地は高級感が漂う。
「上着は汚れるからさっき向こうで脱いじゃったの」
 見ると馬車にいる御者の隣には黒い服が乗っている。よく見れば貴婦人もアグネスも黒い服だ。
「みんな黒いお洋服?」
 貴婦人が言いにくそうに言った。
「この後……お墓参りに行くのよ」
「どなたかお亡くなりに?」
 貴婦人が「ええ」と頷いて後、言葉に詰まっていると、ユッテが呟くように言った。
「私のお姉さん」
「私ったらいけないことを聞いてしまったかしら」
「いいの。もうちょうど一年前だし。でも……二年前にはね、お母さんとお兄さんが亡くなったの。もう大変ね。お葬式やお墓参りにも忙しくて。このお花、カタリーナ姉さんにあげるわ。いいかしら?」
「ええ。もちろん!」
「ありがとう。綺麗なお花だもの。きっと喜んでくれるわ」
「お姉様もきっと、天国から見てらっしゃるわ」
「ありがとう」
 アフラにそう言って笑うユッテは少し涙ぐんでいるように見えた。
 イサベラが野山を見渡しながら言った。
「私ね、思ったの。この牧場とお花畑の風景は、天国の風景みたいって」
 ユッテも野山を見て頷いた。
「そうね。じゃあお姉様もこんなお花畑にいるのかしら」
 アフラはユッテに微笑みかけた。
「きっとそうです。皆さんで同じようにお花畑でピクニックをしてらっしゃるわ」
 ユッテは笑顔を見せて刹那、涙ぐんだ。
「本当にそうね。私、ここへ来れて良かったわ」
 しおらしくなったユッテは、幼く華奢な、まるで深窓の令嬢そのものだった。
 その不意な健気さにアフラは動揺しつつユッテの言葉に頷いて、野山を改めて見た。
 普段見慣れている風景なのに、今日は特別に綺麗な場所に思えた。そしてふと思った。今頃アルノルトは何処を探してるだろう。目で探すうちに、アフラは立ち上がっていた。
「どうかして?」
 アフラは少し気後れしながら言った。
「ううん。アル兄…お兄さんが向こうの山をまだ探してるの」
 イサベラは申し訳なさそうに言った。
「そう。それは悪いことをしてしまったわ。きっとお兄さんは怒ってらっしゃるわね?」
 ユッテもとても神妙そうにしている。
「私が悪いの。羊をおねだりして放さなかったから」
「ミルヒを見たら喜んで、もう怒らないわきっと」
「フルーツが一杯あるのよ。お詫びにこれを持って行って」
 ユッテは何種類もの果物が詰まった篭をアフラに渡した。アフラはそんなに沢山の物を貰ったことがないので、目を丸くしてそれを受け取った。
「こんなに……、いいの?」
「ええ。ご家族の皆様にお詫びの印ですもの」
「みんなで食べてもしばらく保つわ。ありがとう」
 イサベラは言った。
「私からお兄様にもお詫びを言います」
「そんな。もったいないです。お姫様なのに」
「お姫様は止して。イサベラって呼んで」
「イサベラさん?」
「そう。あなたのお名前は?」
「アフラ。アフラ・シュッペルと言います」
「アフラ・シュッペルさん? 良いお名前。どうぞお友達になってね」
 イサベラは白いレースの手袋をした手を伸ばして、アフラと握手を求めた。アフラはその手を汚さないようそっと握り返して言った。
「山の人はこういう時、次にどこかで会ったら、お友達になるそうです」
「そう。それも素敵ね。また会えるかしら」
「でも、イサベラさんなら今からでもお友達になれそうです」
 二人は笑い合って握手した。そこへユッテがイサベラの手を揺らして言った。
「ずるい。私も!」
「アフラです。よろしく」
「ユッテって呼んでね」
 アフラはユッテと握手を交わした。
 小さなアグネスも手を伸ばそうとしている。ユッテはそれを見て言った。
「この子は従姉妹のアグネスよ」
 アフラはアグネスとも握手をした。
「よろしくね。あなたは何歳?」
 アグネスは指を二つ出した。そしてアフラを指差した。
「二歳なの。もうすぐ三歳ね」
 後にいた貴婦人が指差したその手の意味を補足して、さらに続けた。
「貴女は何歳? って」
「私? 十二歳です」
 アフラが答えると、ユッテがピョンピョンと跳び上がって言った。
「ヤーン、私と一緒よ! 仲良くしましょ」
 そう言って、もうユッテはアフラの手を握っている。アフラは勢いに圧倒された。
「ええ……」
「ベンケルも一緒よ。イサベラは一個上なの」
「そうなのね……」
 ユッテはともかく、後の二人はとても年が近くは見えない。
 山を見ていた貴婦人が言った。
「あの人影は貴女の言っていたお兄さんかしら?」
 アフラがその方向の丘の上を見ると、アルノルトの歩く姿が小さく見える。
「あっ。兄さんだわ」
 アフラはそう言って高台を駆けて行き、向かいの山がよく見えるところで手を振った。
 向こうの山では、既にアルノルトが高台に立って羊を探していた。
「ヤッホー!」
 アフラが大きく叫ぶ。声はこだましてアルノルトに届き、アフラの姿に気が付いたようだ。
「ヤォッホホー!」
 アルノルトの声が山にこだましつつ返ってきた。
 アフラは合図を送ろうとして、手に持つ篭を羊のいる後方に動かした。
 アルノルトはその意味が判らず、右手を空に向け、左手をさらに加えた。右か左かわからないという風だ。
 アフラは篭の動きをさらに大きくして、数歩後ろに下がりながら篭で後ろを指した。まだ首を傾げていたアルノルトに、さらにアフラは大きく丸を作って羊を指差した。
 その後ろでは羊がアフラの方に走って来て、その姿が見えた。とたんにアルノルトは走り出し、自分とアフラの方を指で差して往復させた。
 その様子を笑って見ていたイサベラは言った。
「あの子がお兄さん?」
「うん。こっちに来るって。でも山の反対だからこっちに来るまで大変」
 貴婦人が手を打って言った。
「じゃあその間にご馳走させて頂けるかしら」
「ごちそう?」
「おいしいタルトがあるの。ご一緒にいかが?」
「そんなごちそうを頂いてもいいんですか?」
「どうぞどうぞ。タルトはいつも多めにあるの」
 召使いのレオナルドは既にその言葉を汲んで、タルトを切り分けていた。
 折りたためる小さなテーブルを引き出して、その上に白いクロスを掛け、そこに丁寧にタルトを盛った皿とカモミールティーを並べた。貴婦人の誘いで一同全員はテーブルにやって来た。
「どうぞお召し上がり下さい」
 そういう召使いにアフラは言った。
「あのもう一つの大きなお皿はあなたの分ね?」
「いいえ。あちらは種類の違うタルトです。これも皆様の為にご用意した分です」
「じゃあ、あなたの分が無いわ?」
「タルトは大皿で作っていますのでたくさん余るのです。私は皆さんが大いに満足された後、時々余りを頂いていますので」
 ウインクしながらそう言ってレオナルドはもう一皿のタルトを切っている。アフラはそれがレオナルドの分だと思って安心した。貴婦人は言った。
「いっぱい食べてもいいのよ。遠慮しないで召し上がれ」
「では、いただきまーす。実はもうお腹空いてたの」
 お腹をさするアフラの仕草にイサベラは複雑な微笑みを見せた。
 アフラはタルトを大きく頬張った。タルト生地の上には柔らかいたっぷりのチーズクリームにブルーベリーが溶け合っていて、甘酸っぱさが口中に広がった。
「おいしい! こんなおいしいもの初めて!」
 ユッテも一口食べて見て言った。
「うん。今日のはまあまあね」
「んーっ」とイサベラも口を押さえている。
 クヌフウタとベンケルもタルトを一皿ずつ取った。ベンケルなどは手掴みで二口で平らげた。
 ユッテが言った。
「自由のお味はどう?」
「うん! うまい。やっぱ自由はいい!」
 ベンケルは腕を伸ばして嬉しそうにそう言った。
「アネシュカもいれば良かったのに。せっかく自由の身が決まったんだから、ご姉弟三人で再会を祝ってもいいのよ。私の家のことなんて置いておいて」
「今は従順に勝るものはないのさ」
 二つカモミールティーを取ったクヌフウタは、一つをベンケルに渡してから小さく言った。
「恩赦、おめでとう」
「ありがとう」
 アフラが何の話だろうと思っていると、
「この人ね、重罪人だったの」
 ユッテがそう言うので、アフラは驚かざるを得ない。
「えー? 何か悪いことをして?」
「オレ? 悪いことは何もしてないよ」
 そう苦笑いしているベンケルの目は純朴そのものだ。
「ですよねー」
「まあそれだから私が言ってあげたんじゃない。それで昨日、その罪が晴れたのよ」
「心から感謝してる」
 ベンケルは素直に感謝を示した。
「でも強情はお断りなんでしょ。破談のままでもいいのよ」
「あれ? ユッテは強情なのかい?」
「もう!」
 ユッテとベンケルの掛け合いに大きな笑い声が起きた。
 修道女クヌフウタが言った。
「じゃあ婚約はそのまま?」
 ベンケルは頷いた。
「そうだね。今となっては争いで壊れた約束だけど、その方がいい。ユッテはどうだい?」
 ユッテは言った。
「やり直し! プロポーズならもっと紳士的にするものよ」
 ベンケルはその場に跪いた。
「ユッテ姫。願わくば、この僕と再び将来の約束を」
「考えとくわ」
「考えとく?」
「将来なんてまだよく判らないもの」
「ここまでしたのに?」
 一同は苦笑いするよりなかった。アフラは同い年の人同士のプロポーズの場面に立ち会い、信じられない世界を見る思いがした。
 話が一段落すると貴婦人とレオナルドがタルトを手に持って、山道を下って歩いて行った。アフラはそれを見て聞いた。
「お二人はどちらへ?」
「向こうにいる方へも持って行くのね」
「向こうにいる方って、狩人さん?」
 とたんにユッテは笑った。
「その通りね。変でしょう? このタルトはね、ウチのお城で作ったの。タルトの美味しいシェフがいるのよ。アグネスは大好物だものね」
「ん」
 ユッテはアグネスの口についたタルトの欠片をつついたが、アグネスは食べる方に夢中なようだ。
「それはご立派なお城なのね。ユッテさんはどちらのお城から?」
 アフラが聞くと、ユッテは左右を見て何か気にしてから口を開いた。
「馬車で山道をぐるぐると来たからあまり細かい場所は判らないのよね」
「じゃあイサベラさんのお城はどちらに?」
「実家ならブルグント領の山の中の小さなお城よ」
「ブルグントってお話に出てくる国?」
「そうね。ジークフリートとクリームヒルトが住んだと言われる、古い伝統のある土地よ。だからお城も古いの」
「うわあ、本当に物語みたい。素敵!」
 今度はユッテがアフラに訊ねた。
「あなたのお住まいはどちら?」
「あたし、村の共同牧場の隣に住んでいるの」
「牧場の真ん中の大きなお家?」
「うん! そうよ!」
「やっぱり! 私ね、馬車からあそこを見て、あんなところに住んでみたいと思ったのよ」
「でも、牛や羊の世話したり、編み物したり、大変なの」
「そういうことがしてみたいの。お城では何もさせて貰えないのよ。この綺麗な風景の中で、毎日そんなことが出来るなんて羨ましいわー」
「あなたこそお城のお姫様なんて、夢みたいだわ」
 二人はしばらく見つめ合った。互いに互いの暮らしが夢のように思えたのだ。目が合うとユッテが微笑み、二人は笑い合った。
「じゃあ今度、私のお城を見に来る?」
 アフラは飛び上がって驚いた。
「あたしなんかがいいの?」
「ええ。もちろん。私も遊びに行かせていただくんだもの」
「あたしは行きたいけど……お父さんが何て言うか」
「じゃあ。少ししてお城へ帰ったら迎えの馬車を出すわ。もし都合が悪いなら、その時に良い日を教えてくれればいいし」
「馬車!」
 アフラは軽い目眩を覚えた。
「でも、お城に行くためのいいお洋服が無いわ……」
「この衣装でいいわ。とても可愛いし。お父様に村の衣装だって見せてあげたいのよ」
「そういうことなら、いいわ。そうしましょう」
「じゃあ約束ね」
「うん」
 二人は再び手を握り合って約束した。
 一方のアルノルトは、息を切らせて下りの山を駆け降りて行き、川を石伝いに跳び越え、今度は道の無い斜面を駆け登った。山道に出て馬車の轍を見付けると、それを辿って歩いて行き、ようやくにして高台にアフラと令嬢達の姿を見付けた。傍には子羊のミルヒもいる。ミルヒはアルノルトを見つけると駆け寄って来た。
「ミルヒ。ここにいたか」
 アルノルトは羊の背を撫でてやり、ポケットに入っていた革紐を取り出して羊の首に着けた。
 アルノルトに気付いたアフラは手を振って兄を呼んだ。
「アルノルト兄さん。ここよ」
 アフラの少し気取った風な呼び方に、アルノルトは呆れたように言った。
「アーフラ! 何してる! ミルヒを放ったらかしにして」
「あっ。いけない。忘れてた。あまりにおいしくて……」
 アフラは慌てて食べかけのタルトを平らげて立ち上がり、口を手で隠しながら羊を追ってみたが、もう手遅れというもの。兄にその一部始終を見られてしまった。
「アーフラー……」
 アルノルトは怒ったような笑ったような変わった顔付きをした。喜ぶべきことには羊が見付かったからだ。
「ごめんなさーい」
 すまなそうに駆け寄って来たアフラに小さく拳骨を入れるふりをして、アルノルトは言った。
「羊を見付けてくれたからまあ良しとしよう。それよりあの人は?」
 アフラの後ろからはイサベラが追って来ていた。
「あの人はイサベラさん。それにユッテさん。羊を連れてったお詫びにって、ご馳走を……」
「クリーム付いてるぞ」
 アフラは「テヘッ」と舌を出した。
「あちらは貴族のお姫様か」
「そう。ブングルトのお城に住んでいるそうよ」
「そんな人が何で羊を連れて行くんだ!」
「ミルヒがあんまりに可愛かったんだって。それに道に飛び出して来たそうだから仕方ないわ」
「しかし、可愛いからって連れ出されていたら大きな損害だ。俺が一言言ってやる!」
 アルノルトはイサベラとユッテの方へ早足で歩いて行った。
 アフラはそれに追い縋り、横から声を掛けた。
「あの人逹はお姫様なのにちっとも偉そうにしないの。それに山や羊が好きなのよ。この村のことも大好きなんだって。とても悪いことしたって言ってたわ。お詫びにこれ、頂いたの。みんなにって」
 アフラはフルーツの入った篭を開けて、アルノルトに見せた。
「だから怒らないであげて。お城にも来てって言ってくれたんだから」
 アルノルトは立ち止まった。
「お前も? 可愛いからって?」
「う…ん」
 アルノルトの顔色が変わった。以前に貴族に気に入られ連れて行かれた村娘のことを思い出したのだ。
「しょうがない奴……」
 アルノルトは右手で額を覆った。
「お前まで! 羊と一緒にいなくなるところじゃないか!」
 アルノルトに怒鳴りつけられ、アフラは少し涙目になった。
「怒らないで……お願い」
 そこへイサベラが歩み寄って来て、スカートをつまんで恭しい挨拶をして言った。
「お兄さん。どうぞアフラさんをお責めにならないで下さい。私たちが悪かったのです。この度は大事な羊を連れて行ってしまい、心よりお詫びを申し上げます」
「羊を連れて行ったのはあなたか?」
「それは私!」
 イサベラを追って歩いて来たユッテが言った。
「私が悪いの! 私が、羊をずっと離さなかったから。お詫びはします。何なりと欲しい物を仰って下さい」
「物? 貰う物など無い!」
 アフラが後ろから兄の手を引いて止めた。
「兄さん!」
「謝るくらいならしなきゃいいんだ!」
 アルノルトが声を荒らげると、目を大きく見開いたユッテは口に手を置いて戦慄いた。イサベラは咄嗟にユッテを護るように抱き締めた。
「無礼じゃないか!」
 それを見ていたベンケルがアルノルトの方へ行くのを、クヌフウタが首を振って押し止めた。
 その怒声に気圧されながらもアルノルトの言葉は溢れ出た。それは怒りよりも大きなものが篭もっていた。
「あなた逹はきっと大きな領主様の子で、周りには使用人が幾人もいて、欲しい物は何でも手に入るかも知れない。土地も人も自分のものと思っているかも知れない。でもこの村は違う。このアルプは村人全員の共同のものだ。羊も皆のものを集めて自治共同体《ラント》のものとして大事に育てている。一頭でもいなくなれば、誰かの一年が越せないかも知れない。命が命を繋いでいる。だから子羊でも大事なんだ。誰であっても勝手に連れて行くことなんて出来ないんだ! 大事な村の子羊を可愛いから連れて行く? どこの誰だろうとそんなことは罪だって知ってる! ましてや可愛い妹を連れて行こうとするなんて……」
 アルノルトは激情と共に言葉を呑んで俯いた。村の掟が貴族にそのまま適用されないことは、子供でも知っていることだった。
 しかしイサベラはその言葉が宝物のように思えた。それは清冽な風だった。アルノルトの言葉を通してこの村の精神の命脈に触れるような気がした。
 ユッテはこうも怒られた記憶が無い。アルノルトの苛烈な語気に焼かれ、身震いすらしたが、アルノルトが言ったことを全て尤もだと思った。そして自分の軽挙が起こした過誤を深く恥じた。
「ごめんなさい。許されないことをしてしまったのね。そんなつもりはなかったの……。そう言っても、もう信じては貰えないかしら。でも、アフラ、妹さんとは、良いお友達になれたの。これだけは信じて欲しい」
 途切れ途切れに言うユッテの言葉を聞いて、アルノルトは静かに言った。
「物なんていらない。欲しいのは……誓いだ」
「誓い?」
「そうだ。もう村の何ものも奪わないという誓いだ。羊も、妹も、村の誰も連れ去ったりしないという誓いだ」
「私達も誓いましょう」
 そう言って右の手の平を上げたのは、修道女クヌフウタだった。
「天に坐しますキリストと聖霊の御名において……」
 それを聞いたユッテは、右の手の平を掲げて言った。
「天に坐しますキリストと聖霊の御名において。この今より永遠に、村の何ものも奪わないことを誓います」
 イサベラも右手を上げて誓う。
「私も誓います。羊を連れ去らず、アフラさんも、村の誰をも連れ去らぬことを誓います。アーメン」
 クヌフウタが十字を胸に切って言った。
「懺悔と共にここに誓います。アーメン」
 キリスト教暗黒時代とも言われる神聖ローマ帝国の世において、キリストの名は絶対のものに等しい。クヌフウタは跪いて十字を切り、ロザリオに両の手を当てた。
 敬虔な祈りを捧げるクヌフウタの姿は、村の教会で祈る人々とは違う気品があり、何故か眩い光を放つように見えた。
 一度天使になった私には見ることが出来た。この時ここに天使の光が集うのを。
 守護天使というものだろうか。人に寄り添うようにその光はあった。
『主よ、聖霊よ、どうぞ皆の過ちをお許し下さい……』
 そう祈るクヌフウタには光と共に天使の影が寄り添っている。
 私はその天使に聞いてみた。
『あの、お尋ねしてもいいですか? ここはどこですか? いつの時代ですか?』
 姿を現した賢人風の天使は言葉少なく言った。
『大事なところだ。君も守護天使ならこの時を荒らさないよう、心静かに寄り添うべきだ』
 私はいつの間にか守護天使になっていたというのか。なら同じように寄り添っているのがいいのだろう。
 そう思っていた時だった。クヌフウタは祈念の中に答えた。
『ここは神聖ローマ帝国、シュヴァーベンの南の地、ユリウス暦一二八三年の春です』
『え? どこ?』
 賢人風の天使はその言葉に恐懼するように首を振っている。それはさも、この修道女に私の言葉が伝わっていることが信じられないというようだった。
『この子の天使様でいらっしゃいますね?』
『そのようです』
『どうぞ彼ら兄妹を、迷える子羊を見守り、お導き下さい』
『はい。見守ることにします』
 クヌフウタというこの異国の修道女には、何故か私の言ったことが伝わるようだ。私の言葉を受け取って、僅かに微笑むように見えた。
 そんなことがあったとは知るべくもなく、三人の姫君の誓いに圧倒されてしまったアルノルトはと言えば、すっかり怒りが解け、気まずそうにアフラの方を窺った。
 アフラは抗議するように頬を膨らまし、袖を持って揺らしている。
 ユッテの隣ではアグネスもやって来て、小さな手を挙げて「アーメン」と言っている。
 アルノルトは思わず笑ってしまった。
「羊飼いさん。お許し頂けますか?」
 クヌフウタの声にアルノルトは少し畏まって咳払いをし、右手を挙げ、懺悔室の神父の真似をして言った。
「汝の罪は許されん」
 ユッテとイサベラは、それを天使の声を聞くような心地で聞いた。
 目を上げると、さっきの剣幕が解けて、小さく笑顔を見せたアルノルトがいた。
「許して下さるの?」
「判ってくれればいいのさ。羊も見付かって元通りだし、こんなに気持ち良く誓ってくれたら、許すしかないよ。この村が好きな人だそうだから、悪い人ではない。そうでしょう?」
「ああ! ありがとう」
 ユッテはいつの間にか涙が溢れていた。その涙にユッテ自身が驚いて、立ち上がって後ろを向き、涙を拭った。アルノルトは確かめるように言った。
「でもその誓いをちゃんと守ってくれよ。でないと、村の敵になる」
 ユッテは涙を拭いて、少し振り返り言った。
「ええ……守るわ」
「誓いは守ります。必ず!」
 イサベラはロザリオを掲げてみせた。
「それを信じることにするよ」
 アルノルトが頷くと、ユッテとイサベラは顔を見合わせ、表情に光輝が点る。そして聖母の如く微笑むクヌフウタとも頷き合った。
 アルノルトは思った。この人達の普通の貴族とも違う高貴な輝きは何だろう。不意にアルノルトはその光に堪えられなくなった。
「じゃあ、もう行かなきゃ。この篭は返そう……」
 それを聞いたアフラは篭を抱いて返さないという仕草をした。アフラは言った。
「これはご家族みんなへのお詫びのお土産ですって」
「羊は返ったんだ。受け取れない」
 ユッテは置き去りなっていた花束を差して言った。
「妹さんには綺麗なお花を戴いたの。だからこれはアフラさんにも権利があるわ」
 アフラは籠を抱いたまま、二度頷いた。
 アルノルトは渋々認めざるを得ない。
「じゃあ、アフラがああしてるし、受け取っておくよ。行くぞ。アフラ」
「でも……」
「向こうのアルプまで遠いんだぞ。ぐずぐずしてはいられない」
 アルノルトはアフラの背を一叩きして、羊を引いて元来た道を歩き出した。
 幾度も振り向くアフラに、ユッテとイサベラはそっと頷いて、手を振って見送った。
 道の途中、ふと目を移したアルノルトは、遠くの草叢の中に緑の狩人が顔を出しているのを見た。遠目に一時見えただけだったが、こちらを睨んでいるように見えた。



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