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ハートランドの遙かなる日々 第11章 国境の牛小屋


 明くる朝には雨が降っていた。アフラはエルハルトに早朝から起こされ、牛小屋へ行く準備をした。
 エルハルトは大きな二つの藁束をロープで繋いでから、それらを肩に抱えて牛の背に一度乗せ、それ左右へ落として背に吊り下げる。そして牛の背で張り渡されたロープに皮布を当て、左右の藁束のバランスを取った。

「じゃあアフラ、これで落とさず行くんだぞ」
「落としたら私乗せられないわ、背が届かないもの。重いし」
「だ・か・ら! 落とさないで行くんだ」
「ハーイ」

 アフラは雨を避けるために頭からスッポリと覆う赤い頭巾を被った。頭から膝丈まで真っ赤な姿だ。牛のタロスは何故かその姿に反応し、アフラを追い掛けて来る。

「兄さん。タロスが追い掛けて来るわ!」
「ハハハ。牛は赤い物が好きなんだ。角で突かれないようにな」
「ヤダーッ! 怖い!」
「手綱を握ってれば大丈夫さ」
「めっ」

 アフラは牛の手綱を握って牛を落ち着けると、牧場を出発した。到着までは歩いて四時間くらいもかかる道のりだが、放牧と比べればまだ道がいい。牛は首に大きなカウベルを付けていて、起伏を歩く度にカランコロンと音を立てる。長い手綱を引くアフラの歩みはゆっくりだったが、牛はその足に合わせて歩いているようだ。
 しばらく道を行ったところで、牛はアフラの赤い服を気にし始め、鼻先を擦りつけて来た。そのうちに角が当たるものだから、これにはアフラも堪らない。

「痛! こらタロス! 角立てたでしょう!」

 アフラは手綱の端でタロスの角を打ち、怒って見せたが、牛には挑発にしか見えなかったようだ。タロスは首を下げてアフラにさらに角を立てて当たって来た。一応は闘牛の牛、軽く当たるくらいでもそれはかなりの痛撃だった。

「キャー! イターイ!」

 たまらずアフラは手綱を放して逃げ出した。タロスは追い掛けて来るので、アフラは道の端に巡る木の柵に登った。

「しっしっ」

 柵の上からアフラはタロスを追いやろうとしたが、追いやっては仕事が頓挫する事に気が付いた。

「どうしよーう」

 そのまましばらく対峙していると、タロスは道端の草を食み始めた。そこへ柵の内側からやって来たのはマリウスだった。

「お姉ちゃん何してるの?」
「マリウス! タロスが追い掛けて来るの。手綱を取って」
「やれやれ。ダメだなあ」

 マリウスは柵を乗り越え、タロスが草を食べている隙を見て、易々と手綱を取り上げた。

「どうだ、タロス!」

 マリウスは手綱をタロスに向けて言ってみたが、タロスは草を食み続けるのみだった。次にアフラを振り返った。

「どうだ、お姉ちゃん!」
「偉い! ありがとう! マリウス」

 アフラは柵から降りて来て、手綱を受け取った。

「昨日の牛小屋へ行くの?」
「ええそうよ」
「僕も行くよ。丁度雨だし」
「そんな格好じゃ濡れちゃうわ」
「へっちゃらさ。もう濡れてるもの。またこんな事あったらお姉ちゃん困るでしょ?」
「そうね。じゃあ行く?」
「うん!」
「タロス。もう食べた? 行くよ、もう」

 アフラはタロスの手綱を強く引いて、再び出発した。

「イタタッ」

 アフラがタロスに突かれた脇腹を見てみると、服に血が染みていた。服を捲ると深い傷になっている。

「怪我しちゃったね。大丈夫?」
「タロスーっ! こんな怪我しちゃったじゃない!」

 アフラが脇腹のその怪我を牛に見せつけると、タロスは申し訳ないという様に小さくモーと啼いた。

 ビュルグレン村の広場に来た頃には雨もかなり小降りになっていた。
 アフラの赤い頭巾はやはり目を惹いた。通りがかりの村の人が挨拶をして来る。

「牛を連れてお使いかい?」

 ビュルギ家の母親、デーレは言った。

「うん。怪我した牛に藁を届けるの」
「ああ、うちの人が作った小屋の? 雨の中国境まで歩いて行くのかい。大変だね」
「この頭巾があれば雨はへっちゃらなの。なんだけど……」

 アフラは脇腹をちょっと押さえて言った。

「お腹空くだろう? じゃあ途中で食べてね。はい、マリウスにも」

 デーレは持っていた林檎を一個ずつアフラとマリウスに渡した。
 マリウスは林檎を貰って大喜びだ。

「ありがとう!」

 そうしていると子供を三人連れた親子が歩み寄って来た。

「大っきい牛!」
「この牛は闘牛の牛かい?」

 父親に聞かれてアフラは自慢気に言った。

「ええ、そうよ。昨日の牛祭りで賞を取ったのよ。タロスって言うの」
「流石に強そうだ」
「かっこいいなあ」
「そうでしょう。角に気を付けてね。さっき突かれたから」
「どうどう」
「タロスー」

 子供達はタロスを撫で回した。タロスが首を振るとアフラは手綱をギュッと握って暴れないようにしたが、案外大人しくしている。

「撫でられるの好きみたいね」
「小さいのに偉いね。これあげる」

 子供達の父親はアフラとマリウスに持っていたビスケットをくれた。

「こんなに? ありがとう」

 ビュルグレンの村の広場を過ぎ、アルトドルフの市街を過ぎると道は湖畔の山間に入って行く。そこからは道も細くなり、アフラもマリウスも滅多に来ない場所だった。山林の中に入り、道も悪くなって、分かれ道も所々あった。
 しばらく行くと道は小さな牧場に辿り着き、巡らされた柵に囲まれた。先へ行くと袋小路になっていて、作りの荒い家と、柱に屋根だけの小屋が幾つかあった。

「なんか怖いよここ」
「マリウス。戻るよ」

 二人が道を戻ろうとすると、道端から顔中黒い髭だらけの男が牛を連れて歩いて来た。その牛はアフラの赤い服を見て、何か興奮したように前足を掻き始めた。

「どうどう!」

 黒髭の牛飼いは牛を必死に抑えようとするが手綱が無く、牛の目前に立ちはだかって、視界を塞いで落ち着かせた。
 アフラとマリウスが近くまで歩いて行くと、男は正面で道を塞いだまま振り返り、お互い顔を見合わせた。横幅が倍もあり、見上げるような大男が、吊り上がった目を大きく見開いて睨んでいる。

「お嬢ちゃん」
「何?」
「お嬢ちゃん、その赤い服!」
「お気に入りの頭巾なの。雨避けなの」
「いかんいかん!」
「悪い?」
「悪くは無いが、いや、牛飼いには最悪の色だ! お嬢ちゃんも牛を連れてるんだ。赤は止めた方がいい。牛が奮り立つんだ」
「もう! 先に言っといて欲しいわ!」

 アフラは地団駄を踏むように言い放ち、その勢いにたじろいだ男の脇を強引に歩いて行こうとした。
 黒髭の男は後の牛の目が爛々としているのを見て言った。

「いかん! もし牛が向かって来たら、赤いのは脱いで遠くに投げてやるんだ」

 アフラは立ち止まって振り返り、男を見た。

「そんな方法があったのね。それも先に聞いておけば良かった。ご親切に」

 アフラは赤い頭巾の長い裾を広げて、片足を半歩下げて礼をした。
 すると男の真後ろにいた牛が、アフラに向かって突進した。

「キャア! また!」

 アフラは慌てて頭巾を脱ごうとしたが、脱ぐにも時間がかかるので、頭巾を捲り上げ、そのまま走った。

「前が見えない!」

 マリウスも一緒に逃げ、頭巾を引っ張り上げるのを手伝った。
 手綱を解かれたタロスも走った。タロスはしかしアフラへでは無く、隣の牛と併走してその首に角を打ち付けた。そして二匹の牛は道端に走り出て対峙した。
 その間にアフラは赤い頭巾を脱ぎ捨てた。それは風に煽られてすぐ足下に落ちたので、マリウスがそれを拾ってさらに遠くへ投げた。そこには小屋が建っていて、頭巾はその柱に出ていた枝に引っかかった。
 再び牛はそこを目掛けて駆けて行き、柱に掛かった赤い頭巾に顔を擦りつけた。頭巾は見る間に汚れ、あちこち破れてしまった。

「あーん。私の頭巾!」
「どーう、どう」

 髭の男は走って行って牛をなだめ、掘っ立て小屋の中に入れ、柵の横木を閉じた。地面に落ちた赤い頭巾を拾ってくれたのは牧場の奥から駆け付けて出て来た初老の女性だった。奥さんなのだろう。

「お嬢ちゃんのねこれ。汚しちゃったねえ」
「ありがとう」

 アフラが受け取った頭巾を開いて見ると、頭や背中が何カ所も破れていて、それは雨を防ぐ役を果たせなそうだった。

「あーあ。破れちゃってる」

 マリウスは破れたところを摘まんで見たが、簡単には直らなそうだ。

「まあ、雨も上がって来たし、このまま行きましょ。おばさん、道が判らなくなっちゃったの。ここからどう行けばいいの?」
「ああ、道ならここで大きく曲がって、あの柵に沿って坂道を登って行くと繋がっているんだよ」
「ありがとうおばさん。行くよタロス……」

 そう言って、アフラがタロスを見ると、タロスは一人暴れていて、背中の藁束を振り落とした所だった。

「あ… 何てこと!」

 アフラは藁束を持ち上げてみたが、水を吸って重くなっていてビクともしなかった。マリウスがやっても同じ結果だった。

「ダメだ。ちっとも動かない」
「ねえねえ。おじさん!」

 アフラは小屋の入り口の木箱に腰掛けている黒髭の男を呼びに走った。

「なんだいお嬢ちゃん」
「藁束が落ちちゃった」
「藁束?」
「乗せて欲しいの」
「ああ、そういうことかい」

 黒髭の男は「どっこいしょ」と重い腰を上げ、タロスのいる方へ歩いて行った。

「これよ」

 男は言われた藁束を一つ持ち上げたのは良かったが、二つを繋ぐ縄が付いており、腰くらいの高さで長さが尽きてしまう。

「兄さんは二つ同時に持ち上げられたわ」

 牛飼いは藁束を二つ抱えて持ち上げてみたが、思い切り力んでも水を吸った藁束は持ち上がらなかった。

「無理だ! 藁を減らそう」
「束が崩れちゃうわ。しっかり束ねるの難しいの」
「袋に入れればいいさ」

 そう言って男は小屋から麻袋を取って来て、一つの藁束を割って藁を取り出し、四つの袋を作った。それらを牛のタロスの背に乗せ、左右に二つずつ紐で渡して吊り下げた。

「袋ではこれが限界か」

 一つの藁束はまるまる余ってしまった。

「大分少なくなっちゃったじゃない!」
「ひどいな、おじさんここまで頑張ったのに。こんな藁だけ運んで何処まで行くんだい?」
「国境に怪我した牛がいるの。その牛の餌なの」
「牛祭りの牛か」
「ええそうよ。しばらく毎日届けるの」
「それは偉いねえ。残った藁束はどうする?」
「また明日来るわ。置いておいて」
「牛の餌にあげるなら乾いた方がいいな。軽くなるし。どこかこの辺に干しておくよ。いつでもここに取りにおいで」
「ありがとう」

 アフラはお礼をして、タロスの手綱を引っ張り、坂道へ歩を進めた。
 マリウスがタロスの背を撫でて言った。

「さっきのタロス、かっこよかったね。体当たりして牛を止めたんだ」
「さっきは守ってくれてありがとね。タロス」

 アフラはそう言って牛の頬にキスをした。
 しかし、タロスは雌牛だった。

 湖に沿った山道を行き、岬の先端に近付くと、山の斜面に緑の野が広がる。そこは昨日牛祭りの会場だったところだ。道をさらに行くと国境に辿り着き、木の葉の屋根の丸木小屋が見えて来た。

「着いた!」

 丸木小屋が見えるとマリウスが駆けて行き、小屋の中へと駆け込んだ。

「うわ!」

 暗い小屋の中には修道女が三人いて、黒い服なのでマリウスには目だけが沢山動いて見えた。
 目が慣れてくると、ただ一人白い修道服を着たイサベラが牛に餌をあげているのが見えた。

「おはよう御座います。いい朝ですね」
「おはよう!」
「あれ? イサベラさんもういる?」

 アフラは牛の手綱を木に繋ぐと、小屋の中に駆け込んだ。

「イサベラさん! 早かったのね。何時頃来たんですか?」
「馬車で送って貰ったの。八時過ぎくらいかしら。皆さん、こちらがお世話になったウーリのアフラさんです」

 年配の修道女が挨拶をした。

「大変お世話になりましたようですね。こんな立派な小屋を作って頂いてありがとう御座います。私は女子修道院長のクレアと言います」
「ウーリのアフラです。お待たせしましたでしょうか。お約束の藁を持って来ました」

 アフラは早速牛の背に積んだ袋を下ろし、マリウスとその袋を小屋へと運んだ。小屋の中で二人は袋を開け、藁を取り出した。

「ちょっと少ないかしら?」

 心配そうにしているアフラに、イサベラは厳しかった。

「昨日ここにあった量より少ないわね」
「ああ、やっぱり。途中半分を置いてきちゃったの。落としちゃって。ごめんなさい」
「そんな。謝らないで。さっきから餌をあげてるから、これでも足りると思うわ」
「でも敷き藁がもっと無いと寒いと思うの」
「そうねえ。じゃあいい方法があるわ」

 イサベラはそう言って、回りに生えてる草を引き抜き、集め出した。

「ゼンメルは枯れ草より、こういう緑の草の方が好きなの。よく牧場で会うと食べさせてあげたわ。だから生えてる草を集めて食べさせてあげて、藁は下に敷きましょ」
「そうね。じゃあマリウスも草を刈って」

 するとマリウスはポケットから小さなナイフを取り出して、手早く草を切り取って行く。

「マリウス、いいわねそのナイフ。早いわ」
「お姉ちゃんの籠にも入ってたよ、多分」
「そうだったわ」

 アフラは籠からナイフを取り出して、草を刈り集めた。二人でやると、草はあっという間に一杯になった。そしてイサベラは二人からそれを受け取って牛に食べさせた。
 それが一段落すると、アフラは小屋の牛糞の掃除をし、敷き藁を敷き直した。そして綺麗に牛の体を拭いてやり、イサベラと修道女達にやり方を逐一説明するのだった。
 そうしているうちにお昼になり、皆、小屋を出て草の上で休憩をした。アフラは籠の中に持って来たサンドイッチや貰った林檎、そしてビスケットを広げて皆に振る舞った。

「皆さんで分けると少しだけになってしまうんですけど、どうぞ」
「ありがとう。私達は普段からお昼は食べませんから、皆さんで分けて下さい」

 修道院長はそう言って辞退したが、もう一人の修道女はサンドイッチを取った。その黒い修道服は近くで見ると継ぎ接ぎがあり、生地も傷んでいる。イサベラの修道服だけは生地も真っさらで全身白だったのでとても煌びやかに見えた。

「イサベラさんの修道服だけどうして白いの?」
「これはシトー派の修道服なの。私の家はシトー派なので実家から送って来たのよ」
「シトー派? 普通は何派なのかしら」
「エンゲルベルクはベネディクト派教会で、ウーリやこの周辺は大抵そうね。伝統的に修道服は黒ね」
「白の修道服の方が素敵だわ。私もシトー派にしようかしら」
「エンゲルベルク修道院の方々の前でそれを言うなんて、とても度胸があるのね」
「え? あ! いけなかったかしら!」

 聞いていた修道女達は笑った。
 修道院長クレアが言った。

「服装で学派を撰ぶのは良くないわね。でも本来はそんな学派なんて関係ないんです。人の都合で作った物だから、神様の作ったものの中では大した事では無いのよ。時に派閥が違うだけで争いの種なんですけどね。異端なんていうものが出来たから余計に対立が増えたのよ」
「異端ってなあに?」
「異端って言うのは、キリスト教の中でも偽物だって言う判決を受けた学派の事ね。本来は同じキリストを信じる者同士なのに、判決一つで悪魔扱いされてしまうのです」
「悪魔? 怖い!」
「そうね。でも実際その人を見ていたら、大変研究熱心な立派な信仰者でした。悪い事したわけでは無いの」
「怖くないのね?」
「ええ。ちっとも」
「良かったーぁっ」

 アフラが心底ほっとすると、イサベラの笑いが止まらなかった。

「クフフッ。キャハハハハ」
「ちょっとアニエスさん?」
「あー可笑しい。ごめんなさい」

 イサベラは笑いを堪えて謝った。

「僕、リンゴむくの上手いんだよ」

 マリウスはさっき草を刈ったナイフで林檎を器用に剥いて、修道女達に配った。
 クレア修道院長は「ありがとう。上手ねえ」と言って受け取って、これを口にした。

「美味しいわ。草の香りも味付けかしら?」
「いけね。草の汁が付いてる」
「もう、マリウスったら」

 アフラは慌ててハンカチでマリウスのナイフを拭いてやった。
 お昼休憩が終わると、イサベラは牛の食事に緑の草を手でたっぷり摂らせた。そしてアフラはその草を後で食べ易いよう周辺に散らばらせておいた。
 そして、もう一人の修道女は水汲み桶を持ち、マリウスの案内で湖の船着き場まで行って水を運んで来た。そしてその水を牛の側に置いた。
 帰りの道のりは遠い。それだけでもう帰りの時間になってしまう。

「じゃあまた明日。ここで」
「ありがとう。また明日あなたに会えるなんて、楽しみだわ」
「私も! 明日また来ます!」

 二人は約束を交わし、手を振って別々の方向へ歩いて行くのだった。その約束が叶えられないとは、その時は思いもせずに。
 

 
 次の日、アフラはまた高い熱を出した。ブルクハルトはアルトドルフへ医者を呼びに行き、アフラを診てもらった。やって来た医者はこの前ゼンメルを診た若い医者で、聖ラザロ修道院の医者だった。獣医も人の医者も兼ねているようだ。
 アフラは服を脱ぐ診断を嫌がったが、父親と医者に説得されて渋々服を脱ぎ、診察を受けた。その脇腹には化膿して変色した傷跡があった。

「この怪我は! 意外に深くて化膿している。熱は怪我から病原が入ったんだろう」

 戸口に隠れていたブルクハルトが入って来て言った。

「怪我? 怪我したのか?」

 アフラは言いたくなさげな口調で言った。

「昨日、タロスに角で突かれて……お腹のところ怪我したの」
「どうして言わないんだ! タロスめ、肉にしてやる!」

 アフラは急に起き上がって言った。

「そう言うから言わなかったの! 肉になんてしないで! お願い……」

 アフラが泣き出したのでブルクハルトはオロオロし、

「判った。判ったから」とアフラを宥めた。

「イタタ……」

 脇腹を痛がってアフラはまた横になった。
 医者はアフラの怪我の手当てをしたが、ここには消毒というものが無い。細菌という発見もまだ無い。薬草を染み込ませた布を当てて包帯を巻くのみだった。
 藁を届ける役目のアフラが寝込んでしまったので、代わりにマリウスが届ける事になった。初めての独りの仕事だったので、カリーナは心配そうに言った。

「道は大丈夫?」
「大丈夫だよ。昨日お姉ちゃんと行ったもの。でも牛はちょっと怖いな」

 ブルクハルトは小さな馬を一頭連れて来た。

「ポニーで行くんだ。昨日は牛なんか連れて行ってアフラを怪我させたからな」
「ポニーなら仲良しだから大丈夫だよ。ねーポニー」

 ポニーというのは小さな馬の事だが、マリウスは名前だと思い違いをしているようだ。
 ブルクハルトは祭りの時にミルクの野外販売に使っていた赤い飾り台車を引き出して来て、小さな馬車に仕立てた。そしてミルク樽が前後に二つ入る程の荷台に藁を積んだ。

「これなら大丈夫だろう」
「カッコいいね。これ、僕の馬車にしていい?」
「ああ。しばらくはマリウスのだ」
「ワァーイ!」
「でもあちこち弱いから人が乗っちゃダメだぞ」

 マリウスは地べたにしゃがみこんで落胆した。

「何だ……乗れないのか……」
「そんなに悄気る事か!」
「乗れない馬車なんて、馬のオモチャだよ」
「じゃあ後で補強して乗れるようにしてやるから、しばらくは我慢するんだ」
「やった! ありがとうお父さん!」
「まあまだお前が一人で馬車に乗るのも少し危ないだろう。さあ、この手綱を引いてごらん」

 マリウスが手綱を引くとポニーは大人しく随いてくる。

「可愛いね。随いて来る」
「大丈夫そうだ。じゃあ今日は頼んだぞ」
「うん! 行って来るよ」

 空元気で言ったマリウスは、仔馬を引いて歩き出した。マリウスが仕事を任されるのも、一人で遠出することも初めてだったので、心なしか不安が胸に渦巻いている。
 牧場沿いの長い坂道を下り、ビュルグレン村の広場前に着くと、その一角では子供達が遊んでいた。

「マリウスが来た!」

 五人の少年少女がたちまちマリウスを取り囲んだ。
 一人はやんちゃ坊主のジルだ。

「マリウス、仔馬を連れてどこへ行くんだ?」

 村娘のソフィアは馬を撫でながら言った。

「かわいい馬車ね。赤くて小さくて。カワイイ」

 マリウスは照れて赤くなった。

「いいでしょ。僕の馬車さ」

 ソフィアの妹のポリーが言った。

「いいわねー。今度乗せてー」
「まだ乗っちゃダメなんだ。もう少し補強してからね」

 ジルはキョロキョロとその会話を追って聞いていた。

「おい! 先に俺の質問に答えろよ!」

 ジルが怒って言ったので、マリウスは渋々言った。

「これから国境まで行くんだ。この藁を届けるお使いなんだ」

 それを聞いて、ジルは荷台に乗っていた藁束を持ち上げて、いきなり地面に投げ散らかした。
 呆然とするマリウスだったが、ソフィアが言った。

「何するのよジル! 小さな子が村の仕事をしてるのに!」
「前にこいつに同じ事をされたのさ。おかえしだ!」
「今する事じゃないわ。拾いなさいよ!」
「やーだね。マリウス。お前が拾わなきゃな」

 ジルはそう言って逃げ出した。二人の男子がそれを追い、ソフィアとポリーが残った。
 マリウスは仕方なく地面に散った藁を拾った。
 ソフィアとポリーもそれを拾うのを手伝った。

「酷いわね。気を悪くしないでね」
「いいんだ。前にジルが引いてた馬車に飛び乗って、荷物の藁を崩しちゃったんだ。もっと大きな山だったから僕も酷いことしちゃった」
「まあ。そうだったの?」
「でも事故じゃない。わざわざ仕返しするような事じゃないわ」

 三人だと藁はあっという間に積み終わった。

「ありがとう。お礼にいつか馬車に乗せてあげるよ」

 ポリーはマリウスに詰め寄るように言った。

「いつ? それはいつ?」
「お父さんが乗るのは補強してからだって。でもいつも忙しいから次の日曜日とかじゃないかな?」
「今乗せてよ」
「ポリーなら軽いから大丈夫かな。ちょっとだけ試してみようか」
「うん!」

 ポリーは馬車の荷台の藁を寄せ、椅子のようにして座った。少し動かしてみるが、馬車の挙動は全く問題無さそうだった。

「大丈夫だね。乗り心地はどう?」
「とてもいい乗り心地。これなら国境まで乗って行けそうよ。一緒に連れてってよマリウス」
「うん、いいよ! じゃあ行くよ」
「じゃあ行ってきます。お姉ちゃんはお留守番ね」
「えっ行くの? 気を付けてね……」

 心配そうに見つめるソフィアに、ポリーとマリウスは何度も手を振って広場から去って行った。
 
 道に迷う事もなく、国境の小屋にマリウスが着いた頃にはもう日が高くなっていた。アフラの診察で出発が遅くなり、加えてマリウスとポリーでしょっちゅう道草をしていたのでは仕方が無い。

「誰かいますかー?」
「いますかー?」

 マリウス、そしてポリーが垂れ布を捲り、小屋に入ってみると、そこには牛以外は誰もいなかった。

「わあ。大きな牛!」
「でしょう? シスターはもう行っちゃったのかな。もうお昼だし仕方ないね」

 一つため息を吐いてから、マリウスは藁を小屋に運び込んだ。ポリーも少しだけそれを手伝った。牛の側には緑の草があり、小屋の中は綺麗に整っていたので、イサベラやエンゲルベルクの修道女達はもう世話をした後のようだった。しかし桶には水が少ししか入っていなかった。

「こうやって草を食べさせるんだ」

 マリウスは手に藁を持ち、牛に食べさせてやった。ポリーもそれを真似て食べさせた。

「食べてる食べてる。大きくてもかわいいー」
「そうやっていっぱい食べさせててよ。僕は水を汲んで来る」

 マリウスがそう言って桶を持って外へ出て歩き出し、崖道を降りて行くと、俄かに雨が降って来た。それはやがて激しい雨になった。マリウスは桶を頭に被り、道を返して小屋の方へと走り戻った。

「雨だ! 大丈夫?」
「雨漏りするー」

 ポリーが見上げる屋根からは、雨漏りが始まっていた。マリウスは慌てて雨漏りの場所に桶を置いて防いだ。

「水が溜まってちょうどいいや」

 が、すぐに雨漏りの場所は幾つも増えて行き、手に負えない数になった。

「アーン。服が濡れちゃう」
「これはダメだー」

 マリウスは垂れ布を捲って小屋の屋根を見た。そしてある事を思い付いた。
 マリウスは入り口に垂らしてある布を持ち、十分に腰を落としてから力一杯上に投げた。布は屋根の上まで飛び、屋根の上にくしゃくしゃになって落ちた。

「おしい!」

 布は四枚掛けられていて、マリウスはそれを一つまた一つと上に投げて行く。だんだんコツが分かって、四つ目の布は綺麗に屋根を覆った。

「よし!」

 マリウスが中へ入って確かめてみると、布が被さった所は雨漏りがしなくなっていた。

「いいぞ。ここに来るといいよ」

 ポリーがその場所へ行くと確かに雨漏りが無かった。

「ここは大丈夫みたい。ありがとうマリウス」

 その場に座って微笑むポリーにマリウスは照れて笑い返した。二人は並んでそこへ座った。
 外の雨は緩むこと無く降り続いた。

 シュッペル家では夕方になって、放牧に行っていたエルハルトとアルノルトが帰って来た。二人とも激しい雨に降られてびしょ濡れだった。

「ただいま」
「おかえり。雨で大変だったわね」
「もうびしょびしょだよ」

 カリーナはタオルを二人に渡した。

「早く拭いて着替えて。今日はアフラがまた熱を出したのよ。怪我が元らしいのだけど」
「えっ。じゃあ牛の藁は届けられなかったの?」
「代わりにマリウスが届けたわ」
「大丈夫かな。この雨で」
「そう言えばまだ帰って来ないの。雨具も持ってなかったし、ちょっと心配ねえ」

 そこへドアの開いていた入り口から、フード付きの外套を着た女の子が家に飛び込んで来た。アルノルトは驚いて飛び退りながら言った。

「ソフィアじゃないか。どうしたの?」
「こんにちは。うちのポリーは来てませんか?」

 カリーナが言った。

「妹さん? 来てないけど……」
「マリウスと一緒に馬車で行ってしまったまま帰って来ないんです!」
「まあ! 大変!」

 エルハルトが言った。

「この雨だ。何処かで雨宿りしてるんじゃ無いかな」

 ソフィアは雨除けの外套を抱えて言った。

「そう思ってあの子の外套を持って探してたの。でも近くにはいなかったわ」
「この雨はしばらく続きそうだ。もう少ししたら日が落ちてしまうし。心配だな」
「この雨の中、何処にいるのかしら……」

 カリーナも心配顔だ。
 アルノルトは玄関へ歩き出し、空を見上げてから振り返って言った。

「馬車を出そう。国境までの道を辿れば殆んど一本道だから、多分途中で会えるよ」
「ありがとう!」

 アルノルトは納屋へ行き、荷馬車の用意をしようとしたが、あいにくブルクハルトが使っていて、そこには無かった。そこへエルハルトが外套を持って来た。

「これを着て行け。馬車が無いな」
「馬に乗って行くさ」

 アルノルトは外套を着込み、馬に乗った。鞍が無いので乗るのに手間取り、エルハルトが支えた。

「大丈夫か? 急ぐよりも、気を付けてな」

 玄関先で待っていたソフィアは驚いて言った。

「アルノルトが馬に乗ってる! 乗れるの?」
「上手くは無いけど乗れるさ。乗って行くかい? ソフィア」
「馬車は?」
「あいにく無かったんだ」
「乗せて!」

 再びフードを被ったソフィアはアルノルトの手に捕まって馬に乗り、アルノルトの背中にしがみついた。

「怖いわ」
「しっかり捕まってね」

 ソフィアが脇腹の布をギュッと持ったので、アルノルトはくすぐったいのを堪えて緩やかに馬を発した。二人乗りだったので馬の足はいつもよりゆっくりだ。それでも馬の足だと歩くより遥かに早い。家はあっという間に小さくなり、村の広場が見えて来た。

「早いわ! もう村が見えて来た」

 アルノルト達の馬は村の広場へ入って行った。モランが店から声を掛けた。

「こんな雨の中、馬で相乗りして何処行くんだい?」
「モラン。弟が帰って来ないんだ。仔馬の馬車が通らなかったかい? この子の妹のポリーも一緒なんだ」
「いやーずっとここにいたけど見てないな」
「じゃあ、まだ村にも戻ってないって事だね」
「まあ、そうなるな」
「ありがとう」

 モランは片手を上げて二人を見送り、店の片付けに移った。
 アルノルトはソフィアに言った。

「まだ村に帰っていないようだと。まだ遠くにいるんだ。僕が探して来るから、そこで降りて家で待っててもいいよ」
「私、行くわ」
「あちこち探してるとかなり遅くなるかもしれない」
「いいわ。あの子を早く見つけてあげたいの」
「分かった」

 アルノルトは手綱を緩やかに降り、アルトドルフへの道へと馬を発した。馬の歩みはさっきよりゆっくりだ。

「もっとスピード出ないの? アルノルト」
「二人乗りだからゆっくり歩いてるんだ。ソフィアが振り落とされるといけないからね」
「大丈夫よ。しっかり捕まってれば」

 ソフィアはアルノルトのお腹あたりに腕を回し、ギュッと抱き付くような格好になった。
 アルノルトはちょっと照れながら言った。

「じゃあ少し跳ばすよ。しっかり捕まってて」
「もう捕まってまーす」
「ハイア!」

 アルノルトは手綱を振り、馬を叩いた。馬は走り出し、見る見る速度を上げた。

「キャー早い! 早い!」
「もう少し遅くする?」
「いえ。もっと早くして!」
「えーっ! これ以上はダメだよ!」
「ケチッ」
「ケチじゃないよ。危ないんだ」

 二人を乗せた馬は長い坂道を下って、あっという間にアルトドルフの町に入った。町には人通りが多いので、そこではさすがに馬の足は落とさざるを得ない。
 二人は通り沿いの家々の軒先を探したが、マリウスとポリーらしい姿はどこにも見当たらなかった。
 
 その頃、マリウスとポリーはまだ国境の牛小屋にいた。

「寒くなって来ちゃった」

 薄着だったポリーはしきりにそう言って体をさすっている。

「雨、止まないね。そろそろ帰らないと日が沈んで来ちゃう」

 マリウスは空を見上げて溜息を吐いた。マリウス一人だったら雨の中でも行くのだが、寒がっているポリーを降り頻る雨の中に出す訳にはいかなかった。

「雨避けマント持って来れば良かった」

 マリウスは牛の体を撫でながら言った。

「牛の体は少し暖かいね」

 マリウスはそう言って寝そべっている牛の背に凭れかかった。

「ポリーもこっちおいでよ」

 ポリーはマリウスの隣に座り、牛に背を当てた。

「背中があったかいわ」
「でしょう?」

 二人は牛の大きな背中に凭れてしばらく暖を取っていた。が、急に牛がモゾモゾと動き出した。二人はその場を飛び退いた。

「立たないで!」

 牛は立ち上がろうと踏ん張るが、右前脚がロープで体に結び付けられているのでバランスを崩して膝を着く。

「あっ。危ない! ダメだよ」

 牛は体制を整えてから、勢いを付けて立ち上がった。体に巻き付いたロープで右前脚は吊られたまま、三本足で巨体を持ち上げたのだ。
 ポリーが驚きを込めて言った。

「立ったら大きいわ」
「ゼンメル。座ってないとだめだ。足がもっと悪くなるんだ」

 マリウスはそう言って足を摩るが、牛はそっぽを向いて草を食んでいる。
 クスッと笑ったポリーは、楚々とゼンメルの前に立って言った。

「ゼンメル頼むわ。また背中を貸して。お前の背中はあったかいの」

 牛はそれを聞いて動きを止め、やがて俄かに座った。

「聞いてくれたみたい」
「ポリー! 凄いや!」
「いい子ね」

 ポリーはゼンメルの頭を撫で、再びその体に凭れて座った。ポリーがその隣を叩くので、マリウスもその隣に並んで座った。ポリーは許可を得たからか、さっきよりも深く座り、半分寝そべるような姿勢だった。
 そうしているうちに次第に外は暗くなり、灯りの無い小屋の中も当然暗くなって来る。
 マリウスは壁の丸太の隙間から外を覗きながら言った。

「とうとう日が沈んじゃった。雨は止まないね」

 ポリーは泣き出しそうな声で言った。

「お腹減った。お姉ちゃん迎えに来てくれないかな」
「こんな所までかい? 無理だと思うよ。兄貴達ならともかく」

 するとポリーは本当に泣き出してしまった。

「どうしたの?」
「帰りたいよー。お姉ちゃん。置いて来てゴメンなさーい」
「連れて来ちゃって僕もゴメンよ」

 マリウスは気不味くなって、丸太の隙間から外を見た。

「あれ? 馬が来たよ」

 すると外から声が聞こえて来た。

「ポリー。いる?」
「お姉ちゃんの声だ!」

 ポリーは飛び起きて外へ出て行った。

「ポリー!」

 ソフィアは馬を飛び降りた。

「お姉ちゃん!」

 ポリーは駈けて行き、二人は馬の下で抱き合い、そして涙した。

「これを着て。外套持って来たの」

 ポリーは急いで外套を着込んで言った。

「ありがとう! 寒かったの!」

 ソフィアはポリーのフードを直しながら言った。

「濡れなかった?」
「大丈夫! 寒くてずっとここにいたの。牛の背中も暖かかったし」
「そう。良かった」

 遅れてマリウスが出て来ると、馬の上からアルノルトが言った。

「いたなマリウス! 外套だ」

 投げられた外套をマリウスは受け取って言った。

「アル兄なら来てくれると思ってたよ」
「生言うな」

 マリウスは外套を濡れないように小屋の軒下に戻って着込んだ。

「じゃあ、馬に乗って行くかい。君ら二人とも軽いから乗れるよ」
「うん! 馬に乗りたいわ!」

 ソフィアはポリーの足を抱えて馬に乗せ、ポリーはアルノルトの後ろに乗った。ソフィアはその後ろに乗り込んだ。
 アルノルトはマリウスに言った。

「マリウスはそのポニーで帰って来るんだ。先に二人は送って帰るよ」
「えーっ。僕は一人?」
「その馬車に乗ってくればいいだろう。馬足はそこまで変わらないさ」
「お父さんがこの馬車は乗っちゃダメだって」
「そうなのか? ならポニーに乗ればいいさ」
「そうか。その手があった!」
「暗くなる前に行くぞ!」

 アルノルトは馬を出した。三人乗りだったのでその馬足は遅かったが、鞍の無いポニーに乗るのに手間取ったマリウスは、気が付けば一人置き去りにされてしまっていた。

「待ってー」

 日が落ちて暗くなって来る中、マリウスは一人馬に任せて道を進んで行った。その途中、ランプを灯して歩いている人が見えた。後ろ姿だったが、マリウスには判った。それは昨日の牛飼いの大男だった。

「おじさん。こんばんは」

 牛飼いはランプを持ち上げて振り返り、マリウスの顔を覗き込み言った。

「お前は誰だい」
「昨日の赤い頭巾の弟だよ」
「ああ、赤頭巾娘のか。そう言えばどうした? 今日はお姉ちゃんはいないのか」
「お姉ちゃんは熱を出してしまったんだ。だから僕が国境まで藁を届けたんだよ」
「国境って、あの小屋へ行ってきたのかい? エサをあげる人に祝福をっていう」
「そうだよ」
「どっから来たんだい?」
「ビュルグレン村だよ」
「そんな所から藁を持って来てるのか? 大変だね」
「この馬車があればへっちゃらさ」
「そうかそうか。ハッハッハ。そう言えば昨日預かった藁があるんだが、持って行くかい?」
「もう今日の分は届けたんだ。道ももう暗いから早めに帰りたいんだ」
「そうかそうか。遠くから来るのも難儀だろう。その藁はおじさんが明日、国境の小屋まで届けておいてやろうか」

 マリウスの顔はとたんに輝きを見せた。

「本当?」
「ああ。何なら毎日儂が届けてやろう。ここからならすぐ傍だからな」
「おじさん見かけに寄らず優しいね。ありがとう」
「見かけに寄らずは無いだろう。見かけもこんな優しそうだろう」
「うん。そ、そうだね」
「じゃあもっと優しい所を見せてやろう。この灯りを持って行け」
「えっ。おじさんの道が真っ暗になってしまうよ」
「儂は近いからいいんだ。お前はまだまだ遠いだろう」
「ありがとう。おじさんは絶対優しい人だ」
「そうだろうそうだろう。じゃあな坊主」

 牛飼いは馬車の欄干にランプを掛け、手を振って徐ろに道を外れて草地を歩いて行った。家がもう近いようだ。

「ありがとう。牛にエサを頼むよ。絶対毎日だよ」
「ああ、毎日な。大丈夫だ」

 マリウスは牛飼いを見送ってから、馬車を再び出発させた。

 アルノルトはいち早くソフィアとポリーをビュルグレン村の家に送り届けた。

「さあ、着いたよ」
「お陰様で早く帰れたわ。ありがとう。アルノルト」
「ありがとう」

 ソフィアとポリーはお礼を言ったが、アルノルトは二人に謝った。

「ごめん。ウチの弟が遠くまで連れて行ってしまって」
「いいえ。ポリーの方がせがんで乗せてもらったの。マリウスが悪いんじゃ無いのよ」
「そうだったの?」
「うん。だから、怒らないであげてね」
「ああ」

 二人は家の玄関を開け、母親に出迎えられ家に入って行った。
 一安心するとマリウスが心配になって来た。
 アルノルトは馬を返し、アルトドルフ方向へ向かう下りの坂道を駈けて行った。
 山の斜面に沿って出来た牧草地沿いの道をしばらく行くと、ランプの灯りが見えた。近付いて行くとそれはマリウスの馬車だった。

「マリウス!」
「お兄ちゃん!」

 アルノルトはマリウスの横に並んで馬を歩ませた。

「どうしたんだ、そのランプ」
「近所のおじさんがくれた」
「近所の?」
「うん! 優しい人で、明日からは藁を国境の小屋まで届けてくれるって。しかも毎日!」
「そんな人がいたのか」
「優しいでしょう?」
「ちょっと怪しいな」
「どうしてさ」
「牛を盗もうとして探っているのかも」
「ランプをくれたんだ。優しい人だよ。顔は怖いけど」
「そうか……怖いのか。まあ明日行けば判るだろう」
「うーんと、お兄ちゃんが行くの?」
「お前が行くに決まってるじゃないか」
「えーっ。せっかく届けてくれるのにー」
「牛の世話をしないといけないだろう。シスターも来る事だし、行って来るんだ。いい馬車が出来たんだろ。ランプも返して来い」
「ちぇっ。でもそうだね。帰りはポニーに乗れて楽チンだったよ」

 二人の兄弟は馬を並べて話しながら家に帰って行った。
 

 
 次の日の朝、アフラの熱はかなり良くなっていたが、お腹の傷の治りは思わしくなく、ブルクハルトはやはり大事を取ってしばらく休ませる事にした。同時にマリウスがしばらく藁を届ける事も決定事項となった。

「おはよう」

 マリウスが起きてくると、カリーナが言った。

「おはようマリウス。傷が塞がるまでアフラは休ませるから、今日も藁を届けて来てね」
「近所のおじさんが届けてくれるって」

 マリウスは昨日もそう言ったが、カリーナは言った。

「でも、何かあって届いてなかったら、牛は食べる物が無くなっちゃうでしょう。エンゲルベルク修道院の方々が待っているし、しっかり届けて来るのよ。ちゃんとお世話してくれてるかも見て来ないとね」
「チェッ。兄さんと同じ事言うんだね」

 ブルクハルトはマリウスのポニー馬車に藁を乗せて準備をし、ポニーを引いて来た。

「マリウス。これで行くんだ。気を付けてな」
「お父さん、早く馬車に乗れるように直してよ。僕も乗って行きたいし、ポリーを乗せてあげる約束をしたんだ」
「そうか。でもこれからしばらく出掛けて留守にするんだよ。帰って来たらな」

 マリウスはその場に膝を突いて言った。

「えー。しばらく国境まで届けるのにー……」
「またか。そう悄気るな。お土産買ってくるから、頑張ってくれ」
「やった! お土産!」

 マリウスはお土産に気分を直して立ち上がり、ポニーに飛び乗った。鞍が無いので跨がるのには少し時間がかかった。

「おっ。もうポニーに乗れるのか」
「うん。これで帰って来たからね」

 ポニーはマリウスが乗ると徐ろに歩き出した。が、それは決して合図で動いた感じでは無かった。

「気をつけて……」

 ブルクハルトとカリーナは手を振ってマリウスを見送った。

「行ってくるよ」

 マリウスは振り向いて、ポニーの歩みに体をヨロヨロさせながら手を振った。
 
 マリウスを乗せたポニーは、ポカポカと軽快な足音を立ててゆっくりと道を進んだ。マリウスがほんの僅かしか合図を出さないでも道を間違えずに歩くので、まるで道を知っているかの様だった。
 村を過ぎ、町を過ぎ、そして湖畔の山道を抜け、開けた草原が見えてくる。
 この日は出発が早く、馬足も早かったので、まだ朝方のうちに国境に着いた。マリウスは馬車を停め、ポニーを小屋の側の木に結えつけた。小屋の中では囁くような声がする。泣き声のような声もあった。
 マリウスは元気良く中に入って行った。

「おはよう! 藁を持って来ました! 今日は間に合って良かった!」

 そこで数人の修道女達が泣いていた。イサベラもその中にいた。

「おはよう……。でも、ゼンメルはもう……」

 そう言ってイサベラはまた泣いた。
 ゼンメルは肩や腿を切り刻まれ、横たわっていた。もう息をしていないのが判ったのは、多量の血が見えた時だった。

「お姉ちゃんは昨日から熱を出してしまったんだ。代わりに僕が……ゼンメル!」

 マリウスは膝を突いてゼンメルの背を摩った。

「昨日はこの背中を貸してくれて、暖かかったのに! もうこんな冷たいなんて……」

 マリウスの目にも涙が滲んだ。
 修道女達は祈りを唱え、瞑目した。

「祈りましょう。ゼンメルが天国に行けるように」

 マリウスも手を合わせるが、聞かないではいられなかった。

「何があったの? ゼンメルはどうしてしまったの?」

 イサベラは涙を拭いて言った。

「足を見て」

 その右前脚は大きく折れ、折れた骨が表皮を突き破り飛び出している。

「ゼンメルは自分で立ち上がって、それでヒビが入っていた脚の骨を完全に折ってしまったんでしょう。痛かったでしょうね」
「昨日も立ち上がったよ。その時はロープに足が吊られたままだったから大丈夫だったんだ」
「そう……。ロープは切れているわ。ナイフで切ったような痕。誰かが来たのね。そして肩と腿の肉を取って行ったようね」
「あ………」

 マリウスはその時、ゼンメルの傍らに藁束を発見した。それは一昨日に牛飼いの所に置いて行った藁束の形そのものだった。マリウスは立ち上がった。

「ちょっと行ってくる!」
「どこへ?」
「その誰かの所!」
「えっ。判るの?」

 マリウスは足早に出て行き、お腹でポニーに乗った。すると、後ろの馬車が揺れた。そのまま振り返るとイサベラが馬車から藁束を下ろしていた。そしてその後、自身がそこに乗り込んだ。

「ダメだよ乗っちゃ。まだ補強が済んでないから弱いんだ」
「私きっと藁束より軽いわ」

 言いながらイサベラは残った藁にの上に座り、華奢な体を縮こまらせる。そうしていると確かに軽そうだ。マリウスはポニーに座り直して言った。

「じゃあ行くよ。しっかり捕まっててね」
「ええ」

 マリウスはポニーを出発させた。馬足はゆっくりではあったのだが、イサベラは馬車の両側の欄干を両手でしっかりと握り続けていた。
 馬車は湖畔の道を下り、少し先の牧場の前で止まった。屋根だけの牛小屋の前で、牛飼いが座ってパイプ煙草を燻らせていた。

「おじさん!」
「おお。坊やか」
「ねえ! 牛が死んでたんだ! おじさんどうしてか知らない?」
「その事か……」
「おじさんが行った時はどうだったの?」
「まだ生きていたさ。だが儂に驚いたのか暴れ出してな。ひどく足を折ってしまったんだ。骨が皮を突き破ってな」
「何て事……」

 イサベラは小さく十字を切った。マリウスはやっぱりと思ったが、惚けるように言った。

「それでおじさんはどうしたの?」
「足の傷を見てやった」
「本当?」
「嘘じゃないさ。しかし、あれは酷い傷だった。手術しか無いと見た」
「手術で助かるの?」
「上手くすればな。しかし、ちょっとやってみたら牛が暴れてな。手元が狂って血管を切っちまった」
「ええっー」
「血が一杯出てな。その内に牛は動かなくなってしまったんだ」
「おお神よ」

 イサベラは再び十字を切った。

「この人は?」
「エンゲルベルク修道院のシスターだよ」
「すると牛の持ち主?」
「そうみたいだね」

 牛飼いは即座にイサベラに大きな頭を下げて手を合わせた。

「面目ない! しかしこれは不可抗力だ。儂はただ藁を届けた通り掛かりだったのだから」

 イサベラは赫怒の色を目に浮かべ、男を見据えた。

「通り掛かりで一つの命が潰えるとでも? ゼンメルは首を割かれていました!」
「それは牛が死んだ後だ。血抜きをしておいてやったのさ。でないと肉がすぐ傷んで食べられなくなってしまう。それは牛が死んだ後にはやるべき事だ」

 その理由にイサベラは頷くより無く、矛先を失ったように言葉は勢いを失くした。

「そうでしたか。足のロープがナイフで切られていたのです。それもあなたですか?」
「そ、それは足が折れた後暴れるから絡まって切ったんだ」
「後?! 後でしたら足は地面に付かない筈では?」
「ロープが緩んでたんだろう……暴れたらロープが解けて足が付いてボキッっといったんだ」

 その慌てた様子は何かを隠しているようで少し怪しい。

「百歩譲ってゼンメルの死についてはあなたの言う通りだとしてもです。肩や腿の肉を切り取ったのは?」
「そ、それは………」
「盗みとなるのはお判りでしょう。罪を認めますね?」
「放っておけば全部傷んでしまう。傷んでしまえばもう食べられなくなってしまう。その前に手間分くらいは貰っておいてもいいだろう。そもそもこの緩衝地で死んだ牛は皆で配り合う慣習なのさ」
「罪は罪です。償わなければいけません」
「そんな殺生な。なら返すよ! 持って行ってくれ」

 牛飼いは家の方へ行き、肉の入った袋を持って来てイサベラに渡した。イサベラはその肉を覗き見て、涙して言った。

「これがゼンメル………これで罪が消えるとでも? 裁判を受けて貰います」

 牛飼いは怒って言った。

「儂も少し悪いとは思うが、今言ったように必要な処置をしただけだ! 儂の処置が無ければ全部の肉が駄目になってただろう!」
「それを頼んだ覚えはありません。そもそも手術の措置もです。あなたが殺したようなものだわ!」

 牛飼いは目を見開き、顔を真っ赤にして言った。

「これ以上解らん事言うと儂にも考えがあるぞ!」
「どうすると言うんですの?」
「こうだ!」

 牛飼いは小屋の横木を手に取って、軽々と振り上げた。

「キャー!」
「助けて!」

 イサベラとマリウスは一目散に逃げ惑った。
 すると、後ろから鞘走る金切音がした。木の茂みから剣を持った騎士らしき細身の男が出て来て、牛飼いに切っ先を突き付けた。

「命が惜しくばその木を下ろすんだ」
「何だ何だ。何者だお前は!」
「何でもいい。捨てろ!」

 男に剣を首に当てられると、牛飼いは木の棒を路上に投げ捨てて手を挙げた。もう一人の男は剣を収めると牛飼いの手を後ろ手に捻り上げて捕まえた。

「この方に手を上げるとは重大な国際争議だ。宮廷にしょっ引いて裁いてやる」

 牛飼いは抗議するように言った。

「何を言う。この邦は自治州だぞ。自治共同体のアーマンが裁くのが道理だ」
「では、そこまでご同行願おうか。家が割れてるんだ。逃げると為にならんぞ」

 シュンと項垂れる牛飼いの手を騎士はロープで縛り上げて連れて行った。
 馬車の影に、というより殆ど馬車の下に隠れていたマリウスは、這い出て来て車輪の影にしゃがみ込んでいたイサベラに聞いた。

「あれは、誰?」
「私の護衛なの。ここまで随いて来ているなんて、知らなかったわ」
「へえー。すごいや。僕らもあっちに随いていく?」
「戻るわ。とても怖かったもの」
「そうだね。シスター達も待ってるだろうし。じゃあ僕の馬車で送るよ」
「ありがとう」

 安心した笑みを投げかけ、イサベラは小さな馬車に乗り込む。マリウスは馬を引いて再び丸太小屋へと向かって歩いた。
 小屋へ着くとイサベラは修道院長に一連の事情を説明した。

「まあ! もう犯人が? お手柄ね。ボク」
「そうでもないよ?」

 修道院長に褒められたマリウスは、照れて頭を掻いた。

「お礼にこのお肉は皆さんに持って行ってね。私達は牛のお肉は食べてはいけないの」
「えっ! こんなにいいの? みんな喜ぶよ。ありがとう!」
「後のお肉も食肉ギルドの人がさっき偶然に来てね。引き渡す事にしたわ」

 その時イサベラがアッと叫んだ。
 その手にはゼンメルの足に付いた紐が握られていた。

「紐は何処も解けてないわ。一箇所で綺麗に切られているだけ。あの人、嘘を吐いてる」

 マリウスもそれを見て、頷いた。

「先に解けたって言うのは嘘だったんだ」
「そうなると言ってた事が全部嘘に思えてきたわ!」

 マリウスは牛飼いが少し可哀想になって言った。

「あのおじさん、始めは優しい人だったよ。ランプをくれたり、藁束を預かってくれて、ここまで届けてくれたんだ。きっと事情があるんだ」
「そう……。あとは裁判で調べて貰いましょう」

 そう言ってイサベラは、ゼンメルの足からロープを解いてやった。
 その頃、罪人がアルトドルフ公館に連れて来られたが、判事を務めるはずのアーマンであるアッティングハウゼンとブルクハルトは留守だった。そのため髭の牛飼いは公館の屋根裏に閉じ込められ、虜囚となった。

 マリウスが家に戻ったのは、まだ日の高い頃だった。馬車の後ろには大きな袋が乗っていた。玄関を開けるやマリウスは大きな声で母を呼んだ。

「お母さーん。来てーっ」

 カリーナは慌てて出て来た。

「早かったわね。マリウス。どうしたの?」
「これ、貰って来た。開けてみて」

 カリーナが馬車に乗っていた袋を開けると、そこにはズッシリと肉が入っている。

「こんなにお肉! どうしたのこれ!」
「シスターからだよ。この手紙も貰って来たんだ」

 マリウスはイサベラからの手紙をカリーナに渡した。それにはこう書かれていた。

 皆様には私達の牛の為に、多大なるご助力をいただきまして、誠に感謝に堪えません。
 しかしながら、今朝の事ですが、私達の牛、ゼンメルは侵入者により足の怪我を悪化させ、息を引き取りました。天国に無事に辿り着けるよう、共にお祈りいただけましたらと存じます。この土地の慣習に習い、牛の肉をお届け致します
                  イサベラ=アニエス=ド=カペー

 この手紙を声に出して読んで、カリーナは驚いて聞き返した。

「あの牛が死んでしまったのね?」
「そうだよ。おじさんが入って行くと驚いて、足を折ってしまったんだ。おじさんはそれを治そうと手術して、失敗しちゃったんだって」
「それは気の毒だったわね。おじさんって誰?」
「小屋の近所の人。大きくて髭もじゃなんだ。僕がこの人が犯人って見つけたからお手柄なんだって」
「へえ。それはお手柄に違いないわ」
「そうでしょ? お姉ちゃんにも自慢してくるよ」
「まあ!」

 マリウスは階段を上がって行った。
 アフラはの熱はもう下がっていて、今はただお腹の傷が塞がるまで無理をしないための静養だったので、ベッドの中ですっかり暇をしていた。そのためマリウスの声が聞こえると、ベッドから飛び降りて部屋を出た。しかし今朝方カリーナにウロウロしないで部屋で大人しくしてなさいと怒られたので、階下に降りることは躊躇われ、階段の上の欄干からその声を聞いていた。
 マリウスが階段を上がってくると、欄干から覗き込むアフラとそこで目が合った。

「お姉ちゃん。いたの?」

 マリウスが呼ぶ声に、アフラが答えられなくなって俯いた。イサベラの胸中を想い、涙が溢れて来たのだ。

「お肉いっぱいあるよ。犯人が取って行った肉だけど。その犯人は僕が見つけて取り戻せたんだ」

 アフラが顔を伏せてるのに気が付いたマリウスはその様子に気が付かない振りして自慢気に言った。ともかくこの稀に見る大活躍を聞いて喜んで貰えると思ったのだ。

「院長さんに褒められて、肉を沢山貰えたんだよ。今日は肉料理だって!」

 そう言って微笑むマリウスを見て、涙を振り払うようにアフラを首を振り、大声を出した。

「そんなの! 食べられるわけないじゃない!」

 悲しげに見つめる目は赤い。アフラは顔を背けると部屋へと帰り、思い切りドアを閉めた。
 マリウスは酷く悲しくなり、涙が滲んだ。

「ワァーン」
「あらあらどうしたの?」

 カリーナは階段を降りて来たマリウスが泣いているのを見て言った。

「お姉ちゃんがー。お肉食べられないって!」
「そう。仕方無いじゃない」

 カリーナはそう言って泣き止むまでマリウスを撫でてやった。

「ただいまー」

 夕方になってエルハルトとアルノルトが放牧から帰って来ると、食卓には食器が並んでいて、マリウスがナイフとフォークを握り締め、唸っていた。

「遅いよー」

 アルノルトが皿を見て言った。

「どうしたんだ。空の皿を並べて?」
「これからお肉を焼くんだ。座って。早く!」
「お肉? 父さんがいないのに?」
「そうだね。食べられなくてかわいそうだね」
「そうじゃなくて。まさか勝手に牛を捌いたりしてないだろうな」
「違うよ。国境の牛が死んじゃって、その肉を貰って来たんだ」

 エルハルトが言った。

「あの牛が死んでしまったのか! またどうして?」
「足を折っちゃって……おじさんが手術失敗して、肉をドロボウしちゃったんで、この僕が取り返しに行ったんだ。それで犯人は逮捕されたんだ。スゴイでしょう?」
「なんだか判ったような判らないような……」
「それでお礼に院長さんがその肉をたくさんくれたんだ。犯人はランプをくれた人だよ。藁を届けてくれるって言ってた人」

 アルノルトは身を乗り出して言った。

「あの人か! ほら見ろ。怪しいって言っただろう」
「そうだね。アル兄ちゃんは昨日から言ってたっけ。負けた……」

 マリウスは思わずテーブルに額を落とし、思いの外痛くて頭を押さえ、飛び上がって目を白黒させた。
 台所からカリーナがやって来て言った。

「二人ともおかえり。今日の夕食はお肉が食べ放題よ! マリウスがお手柄だったの」
「そうか! お手柄か! マリウス凄いな」

 エルハルトのその声に、マリウスはようやく満面の笑みを浮かべた。

「えへへー。そうでしょうー」
「じゃあこれからお肉焼くけど、いい?」

 一同は腹ペコなのも手伝い、異論は無かった。

「もちろん!」

 アルノルトが頷くが、一人足りないのに気が付いた。

「アフラは呼ばなくていいの?」
「あの子はどうにも食べられないんだって。仕方ないわ」
「そうか。勿体無いなぁ」

 嘆息するアルノルトだったが、エルハルトは笑った。

「俺もあの巨牛には敬意を表したいが、死んだ牛に義理立てしても意味は無いな。まあ食べることで弔いにもなる。それにお腹は別だ。まあアフラも肉が焼けてきたら匂いで降りて来るんじゃないか?」
「腹ペコには勝てないだろうね」
「匂いがして来たら僕、階段で仰ぐよ」

 台所でカリーナが肉を焼く音が聞こえ始めると、だんだん芳ばしい匂いが部屋の中に立ち込めて来た。

「これはいい匂いがして来たな」
「マリウス。今だ。仰ぐんだ」

 マリウスは階段の下に行って、お盆で上へ上へとゆっくり仰いだ。

「もっとだ。部屋まで届かないぞ」

 マリウスは必死の形相になって思い切り仰ぎ、すぐに疲れて休み、そしてまた仰いだ。
 二人の兄はそれを見て笑っていた。
 しばらくすると、厚手の手袋をしたカリーナが焼けた肉を鉄板ごと持ってやって来た。

「お待たせ。ステーキ食べ放題よ」

 そう言ってカリーナはまだ脂の弾ける鉄板のプレートをテーブルに置いた。マリウスは椅子の上に立ち上がって顔を近付けてそれを見た。

「うわーっ。美味しそう!」
「お祈りが先よ」

 カリーナは食事の前の祈りを捧げ、兄弟達もそれに習う。そして、「いただきます」とナイフとフォークを取った。
 三人の兄弟は器用に肉を皿に取り、ナイフで切り分けて、また一口、また一口と食べた。

「どう?」と気にするカリーナだったが、三人はそれには答えず、黙々と食べた。最強の牛の肉を美味しいと言うのは不謹慎に思えたのだ。
 ただ、マリウスは頬張った口を休めて、「最高」と言うのみだった。

「じゃあまだ食べそうね。もう一回焼いて来るわ」とカリーナは再び台所に立った。
 半分ほど食べたマリウスは、階段に駆けて行き、

「最高! 最高級だよ。美味しいなー」

 そう言って、階上を仰ぎ、耳を澄ませた。
 するとアフラが階段を降りて来る足音がした。
 マリウスは素早く席に駆け戻り、「来た」と声を出さずに言って、素知らぬ振りで肉に齧り付いた。
 それに笑いを噛み締めつつ、アルノルトは聞こえよがしに口に出した
「美味いなあ。これは美味いよ」

 お腹を押さえながらアフラが食事の部屋に顔を出し、

「もうお腹ぺこぺこなのを我慢してるのにぃー」

 これに部屋にいた兄弟は爆笑した。
 アルノルトが言った。

「もう体調は良くなったようだね」
「うん。もうすっかり大丈夫。でも怪我が化膿してるの」

 エルハルトがテーブルを指して言った。

「そうか。怪我してる時は肉を食うと治りが早いんだ。今日は食えるだけ肉を食うといい」
「本当? でも……アニエスさんの気持ちを思うと、とても食べる気になれなくて」

 浮かない顔をして俯くアフラに、アルノルトが言った。

「そのアニエスさんがくれたんだ。後で食べなかったって言うより、いっぱい食べてアフラが元気になったって言う方が喜んでくれるんじゃないか?」
「あれ? そうかも?」
「怪我を早く治す為にも、しっかり食べとけ」
「うん! 食べる!」

 ケロッと笑ったアフラが自席に座ると、隣のマリウスが一切れ余っていた肉を取って、予め用意してあったアフラの皿に乗せた。

「お姉ちゃん、はい。食べて食べて」
「マリウス。さっきはゴメンね。つい大きな声出しちゃって」
「ううん。いいんだ」

 マリウスは少し目を潤ませて姉を見つめた。アルノルトはその表情を見て言った。

「今日はマリウスの大手柄もあるからな。主賓はマリウスだ」
「私の代わりに行ってくれてたんだものね。偉かったねマリウス」
「エヘヘ」

 照れて頭を掻くマリウスに微笑んで、アフラはナイフとフォークを取って一口食べた。

「んぅー。本当に美味しい!」

 エルハルトは静かに言った。

「これは最強の牛ゼンメルの弔いでもある。それはあえて言わないでおこう」

 それを聞いて兄妹達は肉を食みつつ、闘牛の時のゼンメルの勇姿に想いを馳せ、追悼の想いを食む心地になった。
 そこへ台所からカリーナがやって来た。

「あら、アフラが食べてるわ!」
「怪我にいいってエルハルト兄さんが言うから食べることにしたの」
「そう、良かった。ちょうどおかわりが焼けたわ」

 そう言って空になったプレートを持って行くカリーナに、エルハルトは席を立って言った。

「もう十分だ。ご馳走様」

 アルノルトもそれに続いた。

「ああ、胸がいっぱいだ。ご馳走様」
「あらあら、せっかく沢山焼いたのに」

 カリーナは溜息顔だ。
 マリウスは追想から覚めたように言った。

「僕が食べるよ。残すとゼンメルに悪いから」
「私も食べる」

 その言葉通り、二人は手分けして兄の分も食べるのだった。
 

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