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ハートランドの遥かなる日々 第13章 チューリヒの聖堂

 アッティングハウゼンとブルクハルトは、チューリヒへの馬車の道中にあった。多くは山道ではあったが、馬車道の整備が進み、殆どの道は均され、軽快な速度を出して走ることが出来た。馬を御するのはヴァルターで、後席にアッティングハウゼンとブルクハルトが並んで話していた。

「明日の披露会には結構な偉い方々が集まるそうで」
「チューリヒはこの辺り一帯のヴァチカンにも等しいからのう。エリーゼ様はその中心となる聖母聖堂の守護者だ。少し前の空位時代なら周囲の領主から君主と仰がれてもおかしくは無いじゃろうな」
「そんなにすごい方だったのか!」
「その家がシュタウフェン公に連なるバーゼルの名家、ホーンベルク家と一緒になるんだ。ルーディック伯も若年ながらに賢明な方だ。両家が合わさるとなればますます皆が放ってはおかないという事さ」
「ルーディック様もこの披露会で声望は一気に高まるでしょうね」
「そうだな。この絵図を描いたシュファウファッハ殿は大したものだ」
「まあ、そうですな」

 馬車がチューリヒを巡る城壁を潜り、都市の中に到着すると、片隅にある公館を訪れた。そこはシュウィーツのシュタウファッハ一派の拠点となっていて、小さなホテルくらいには大きく、集会所や講堂を兼ねているような大広間があって、多くの人がそこに集っていた。
 シュタウファッハは人々と政情談義をし、熱弁を振るっている所だった。演説を急いで切り上げたシュタウファッハは、アッティングハウゼンとブルクハルトを見つけるや声を掛けて来た。

「やあやあ。ようこそウーリの皆さん」
「お邪魔をしたかの」
「これはすごい人だな。何の集まりなんだい?」

 キョロキョロして入って来るブルクハルトに、シュタウファッハは人々を振り返りつつ言った。

「我が党員たちだ。ここを拠点に政治活動している。支持者の数を集めるのは民主政治の基本さ」
「ん? うちではこんな事しないな」
「じゃあどうするんだ?」
「率直にそのまんま話すのさ」
「そのまま?」
「ああ、そのまんまだ。多数派工作なんてしたら、多分怒られる……」
「そうじゃな。影で密謀するなとかえって反発されるだろうな」

 シュタウファッハは顎に手を当てて考えるように言った。

「我が州は議会があるし、こうした党もある。ここからチューリヒ中枢へ人を送り、議会工作さえもする。少し勝手が違う様ですな」
「シュタウファッハの多弁が鍛えられるわけだ」
「多弁と言われればただのおしゃべりみたいじゃないか」

 一同は声を挙げて笑った。

「いやいや、弁才と言った方がいいか。それを頼りにはしているんだ」
「シュウィーツは一案を通すにも根回しが大変なのさ。自治とは言え大きな修道院や、ハプスブルク家、ラウフェンブルク伯、ラッペルスヴィル伯、それぞれの利権があって、その関係団体の派閥争いもあって微妙な勢力バランスで成り立っている。お陰で毎日がこんな騒ぎさ」

 そこへ広間にいた一人が立ち上がり、近付いてきて言った。

「皆さんお揃いで。また会いましたな」
「オイデスリートさんではないか!」
「私もエリーザベト様からご招待をいただきまして。それにニートヴァルデンの代表としても、この慶事に加えていただきたいと思いましてな」
「オイデスリートさんもなかなか抜け目が無いですな」
「いえいえ。これもシュタウファッハさんの口利き、彼の掌で踊っているようなもののようで」
「そうなのか? シュタウファッハ」

 シュタウファッハは含笑いを浮かべて頷いた。

「それについては聞いて貰いたい事がある。その事があってここに早目に寄って貰ったんだ。こんなところで立ち話も何ですので、奥の部屋で少し話をしましょう」

 シュタウファッハは一同を奥の客間へ通し、ゆったりとしたソファーへ腰掛けて言った。

「この度のご成婚はホーンベルク家とラッペルスヴィル家のものです。しかし影響圏となるバーゼル周縁国とチューリヒ周縁国が一堂に集まり、政治的にも纏まることになる。南北の大合同と呼べる婚儀になるのです。これに我々も乗ろうではないか。共に和を取り結ぶんだ」

 首を傾げたのはアッティングハウゼンだった。

「和を結ぶ?」
「同盟を結ぶと言う事です」
「おお。それはまた絵図を大きく広げましたな」
「夢ではありませんぞ。すでにチューリヒ中枢で話を進め、概ね良い応えを頂いています」
「それは本当か!」
「ええ。あとは条件が折り合えば、調印するだけです。頼んでおいた印章はお持ち頂けましたかな?」
「おお。ここに」

 ブルクハルトは懐からウーリの州章を取り出した。
 オイデスリートも懐に手を当て「こちらもありますぞ」と頷いた。
 シュタウファッハは「素晴らしい」と大袈裟に驚いて見せてから言った。

「披露会の後、主だった議員を集め会談の場を設けます。その時にご調印を頂けますかな」

 オイデスリートは胸を張って言った。

「もちろん我が州は乗らせてもらいますよ。私はそのためにこそここへ来たのだから」

 ブルクハルトはしかし、苦い顔をして言った。

「シュタウファッハよ。我が州は根からの自治の州だ。そういう事は我等の一存では決められない」

 シュタウファッハはそれはおかしいと首を振って言った。

「ここにウーリの代表者三人がいるではないか。それで議決出来ないのか」

 アッティングハウゼンは首を振って言った。

「そのような大事案は、皆と青空会議で決めねばならない」
「しかし、この同盟は内密のもの。まだ公に明かす事は避けなければなりません。青空会議で話すと言うなら、残念ですがウーリは外れてもらわねばなるまい」

 アッティングハウゼンは慌てた。

「少し待っては貰えまいか。話す事も出来なければ決める事も出来ない」
「今、多くの州が揃っているのです。この機会を逃すわけには行きません。今回は残念ですが」

 ブルクハルトは立ち上がり、シュタウファッハの腕を掴んで言った。

「そんな殺生な事言うな……なんとか大目に見て村民と話し合う時間をくれ」
「無理だ。それに話しが漏れて王家に知られては切り崩されてしまう。そもそも間に合わないだろう?」
「そんな……」

 ブルクハルトは膝を床に落として頭を抱えた。
 オイデスリートは助けるようにブルクハルトの背を叩いてから言った。

「我が州のように委任を取り付ければ良いのです。少なくとも外交においては!」
「なるほど! ならばみんなに委任状を取ろう!」

 シュタウファッハはニヤリと微笑んで頷いた。

「いいだろう。但し、明日の昼から披露会が始まる。期限は丸々一日だ」
「ま、間に合わない」と頭を抱えるアッティングハウゼン、

「特急馬車で行って、手分けすれば大丈夫でさあ」と胸を叩くヴァルター、

「行こう! 今すぐ!」と跳び上がるブルクハルト、
 頷き合った三人は慌てて部屋を発ち、特急馬車に乗り込んだ。特急馬車は各都市にある駅舎で馬を取り替えながら、走行速度を上げて走る便だ。郵便や荷物も一緒に運ばれる事が多い。
 荷物に囲まれ、悪路に激しく揺られながら、アーマン達はウーリへと戻って行った。

 管区長達がアルトドルフの宿駅に着いたのは、辺りが夕焼け色に染まりだした頃だった。

「どっこいしょっと。早く着いたな。急いで出来るだけたくさん委任状を取るんじゃ! この際数合わせで女子供でもいい。出来るだけ人数を集めるんだ」

 アッティングハウゼンが馬車を降りて言うと、続いて降りて来たブルクハルトは夕暮れの空と家々を見上げて目を回した。

「ウヲォー! 間に合うか! ここらは家も沢山有り過ぎる。どこから回ればいいんだ」

 アッティングハウゼンが言った。

「それぞれ管掌の区で手分けすればいいだろう」

 管掌の区としては、アッティングハウゼンはアルトドルフ周辺の一帯、ヴァルターがビュルグレンより東のシュピリーガン、ブルクハルトにおいては聖母聖堂所属の村という配置だった。
 その村はビュルグレン村だけでは無く、東部と南部に別れて幾つもあるのだ。

「ウヲォー。儂だけあちこちあり過ぎる!」
「じゃあ儂はアルトドルフの面々に声を掛けるとして、南のジーレネン方面と西側は息子二人に回らせよう。お前さんはビュルグレン村とその奥のシェッヘン谷だけでいい。ヴァルターはシュピリーガン一帯で、一緒にこのまま馬車で東に行くがいい。あとは各自で考えて、なるだけ皆で手分けしてな。明日の早朝、この宿駅に再集合じゃ」
「解った!」
「アイアイサー」

 そうして三人は別れて委任状を取りに回った。
 ビュルグレン村のすぐ奥はシェッヘン谷と呼ばれている。シュッペル家のある共同牧場は、ビュルグレン村の端からシェッヘン谷にかけて位置していると言ってもいい。
 道をさらに奥へ行くと、シュピリーガンというさらに深い谷の集落で、そこはヴァルターの管掌地区だ。
 ブルクハルトとヴァルターは共に馬車に乗り、東へと走った。

 その頃、家でカリーナは夕食の支度をしていた。昨日の肉を今回はシチューにして長く煮込んでいた。
 家の中には次第に何とも言えない香ばしさが漂い、アフラとマリウスは匂いに釣られて台所へやって来た。

「いい匂いだ」
「フゥーン。ほんと。美味しそう」
「今日はビーフシチューよ。部屋で待ってなさい」

 二人は台所から追い出されたが、アフラはまだ戸口で料理を見ていた。

「じゃあ、アフラ、かき混ぜるの手伝って」
「はーい」

 アフラは木のお玉を受け取って、鍋をゆっくりかき混ぜた。

「フゥーン。いい匂い」

 そこへエルハルトとアルノルトが放牧から帰って来た。

「ただいま。いい匂いがする」
「これはビーフシチューの匂いだ」

 エルハルト、そしてアルノルトがそう言うと、カリーナは台所から顔を出して言った。

「おかえりなさい。当たりよ」
「へえ、美味そうだね」
「これなら沢山食べられそうだ」

 子供達は料理が出来上がるのを待ち遠しく食卓で待った。
 しばらくすると、そこへ玄関を潜ってブルクハルトが部屋へやって来た。

「いい匂いだな」

 マリウスが言った。

「あ、お父さんおかえり! なんだかみんな匂いに寄って来たみたいだ!」
「俺のいない間に肉料理なんて狡いじゃないか」

 そんなブルクハルトをカリーナは訝しむように言った。

「あらあなた。おかえりなさい。どうしたの? 結婚披露会はまだ明日じゃなかったの?」
「ちょっと火急の用があって途中で戻ったんだ。委任状を沢山取らなきゃならなくてな」
「委任状?」
「とりあえず村長に署名を回して貰うようお願いして来たところだ。お前達もこれを書いてくれ。選挙権は無いが、数合わせだ」

 ブルクハルトは家族に一枚の署名用紙を回して、一人一人にサインを書かせた。

「何の署名なの?」
「外交交渉の委任状だ。政治的な駆け引きが必要な事をチューリヒで決めて来るという事だ」

 サインを済ますとアルノルトが言った。

「お父さん、結婚披露会って、もしかしてラッペルスヴィル家の?」
「ああ、そうだ。よく解ったな」
「行けるなら僕も一緒に行っちゃいけないかな。そう言えばルーディックに招待されていたんだ」

 そう言ってアルノルトは一枚の招待状をお尻のポケットから取り出した。
 見ればルーディックとエリーザベートの連名でサインがされている。

「何と! ルーディック卿に頂いたのか?」
「そうだよ」
「それはむしろ行かなければならない! 早く言え! 明日早朝に出るから支度しておくんだ」
「四人まで一緒に行ってもいいって言うんだ。母さんは行ける?」
「私はダメよ。家の事がいろいろあるから」
「あたし行きたい!」と叫ぶように台所から飛んで来たのはアフラだった。

「アフラはダメだろう。お前は怪我人だ」

 ブルクハルトがそう言えば、アフラは「ケチー!」と地団駄を踏んだ。

「兄貴は……」
「お前が抜けてオレが放牧に行かなきゃ誰が行くんだ」
「悪いね兄貴。じゃあ、マリウスは?」
「うん。行く!」
「あと二人行けるけど、誰かいないかな?」
「僕の仲良しだとポリーとソフィアだね」
「あの二人か。うん。前のお詫びにちょうどいいかも」
「でしょー?」

 ブルクハルトは困惑気味だ。

「遊びじゃないんだ。子供ばかりそんなには連れて行けないぞ」
「ウチの馬車を出せばいいよ。何なら僕が御者するから」
「明日の朝の特急便の馬車で行くんだ。馬車代も高いし、もう大人三人いる。そんなに乗れないかも知れないぞ」
「馬車がいっぱいだったらその時諦めればいい。馬車代は取り敢えずベルケルさん所に行って出せるか聞いてみるよ」
「ならまあいいだろう。ベルケルのとこにも行かなきゃならん。食事が済んだら一緒に行こう。エルハルトとカリーナも一緒に来てくれ。すまんが手分けして委任状を取るのを手伝って欲しい」
「ああ、いいよ」
「知り合いを回って来ればいいの?」
「ああ。一晩で回れるだけ集まればそれで十分だ。しかし、まずはその美味そうなシチューを頼む。もうお腹が鳴りそうなんだ」

 ブルクハルトはカリーナの背を叩いて台所へ行った。入れ違いにアフラが台所からパンとパン切り包丁を持って来た。

「俺が切るよ」

 エルハルトはそれを受け取ってテーブルでパンを切り始める。田舎パンは固いので、切るのに技と力が要るが、エルハルトが切ればあっと言う間の手際だ。
 手が空いたアフラがアルノルトへ駆け寄って来て、小声で言った。

「お兄ちゃん、そのパーティーはイサベラさんも来るの?」
「うん、招待はしてたから、多分来るよ」
「えーっ 私も行きたい!」
「アフラは怪我してるんだろ」
「もう治った!」

 アフラはそう言ってお腹を捲って包帯も捲り上げた。
 脇腹の怪我はしっかりと厚い瘡蓋が出来ていた。

「治ってないじゃん」
「昨日までは瘡蓋も出来てなかったの。だからあまり無理出来なかっただけで、もう大丈夫よ」
「でもなあ。特急馬車はかなり揺れて大変だよ?」
「大・丈・夫!」
「まあ父さんに言うんだな。俺は決められない」
「そんなぁ。絶対ダメって言うわ」
「これから二人誘ったらもう人数一杯だしな」

 アフラがむくれると、エルハルトがパンを切る手を止めて真顔で言った。

「取り敢えずたらふく肉を食って、明日までに怪我を治せ」
「えーっ。治るかしら。だったらお替わりするわ」

 子供達はドッと笑いに沸きながら、パンを皿に取り分けた。
 そしてそのすぐ後には母と父の手でビーフシチューが運ばれて来て、全員が食卓に着いた所で食事前の祈りが始まった。久々に家族の揃った夕食だった。
 
 夕食後、早速ベルケル家を訪れたブルクハルトとアルノルトは、ボルクとハンナに署名のお願いをし、その署名をしている最中にアルノルトが招待状を見せて結婚披露会の事を話した。

「明日か? 家の子に誘ってくれるのは大変光栄だが、急だな」
「ポリーはあれから少し熱を出してねえ。ちょっと遠出は無理だろうねえ」

 ハンナがそう言うとブルクハルトが和やかに言った。

「そうか。小さい子にはチューリヒは遠すぎるし無理させることは無い。それに明日朝の特急馬車に乗るから、少し費用もかかるんだ」
「奥さんに仕度金を多めに貰ったし、それくらいは払うが、あとはソフィア次第だな」
「仕度金?」
「聞いてないのか? お前んとこの馬車が壊れて娘が怪我したんだよ。その馬車を今ウチで直してる」
「そうなのか。それは済まない事だった」
「ダメだよあんな馬車使わせちゃあ」

 ボルクは少し怒った口調でブルクハルトに馬車の悪いところを並べ立て、次には自慢気に改良点を話し始めた。
 それを横目にハンナは家の奥に向かってソフィアを呼んだ。

「ちょっとソフィア。いらっしゃい」
「はーい」と奥の部屋からソフィアが顔を出した。

「明日、チューリヒで偉いご領主様の結婚披露パーティーがあるそうだけど、行きたいかい?」

 ソフィアは目を輝かせて言った。

「私が行ってもいいの?」

 アルノルトは招待状を見せながら言った。

「前にマリウスが迷惑をかけたお詫びだよ。僕宛ての招待状があるんだけど、四人まで同行していいんだ。ウチは僕と父の他はマリウスくらいしか行けなくてね」

 ソフィアは小躍りして頷いた途端に頭を抱えて言った。

「でも、そんな所へ着て行くお洋服が無いわ。どうしましょう」
「それを言ったら僕らも無いさ。ねえ、父さん。どこかでいい服を借りれないかな」
「そうだな。アッティングハウゼンさんならパレードの時のいい服を保管して持っているから借りれるだろう」
「だってさ。なら行くかい?」
「うん! じゃあ私、行くわ!」
「決まりだね」
「ポリーも行けるといいんだけど………」

 ソフィアに困った顔を向けられて、ハンナが言った。

「ポリーは風邪がひどいし、小さいからお留守番よ」
「そうよね」
「滅多に無い機会だから、あなたは行っておいで」
「うん」

 ブルクハルトは夫妻の書いた委任の署名を回収して言った。

「明日早朝迎えに来るよ。帰りは自前の馬車中泊の予定だから宿代、馬車代はいらないが、明後日になる」
「大事な娘だ。ちゃんと無事に帰してくれよ」
「ああ。責任持って送り届ける」

 そう言ってブルクハルトとアルノルトはベルケル家を後にした。そしてその後は手分けして村中の署名を集めてまわり、その夜のうちに多くの署名を貰う事が出来た。


 
 次の日の朝は霧が深かった。アルトドルフの大通りに面したアッティングハウゼンの駅舎の前に、幌を掛けた荷馬車が止まった。馬車を御するのはエルハルトで、御者台のその隣にはアルノルト、そしてブルクハルトが座っていた。

「着いたぞ。荷を下ろせ」

 御者台にいたブルクハルトは馬車を降り、後の荷台へ声を掛けた。
 幌を被った荷台の中では、何故かマリウスの笑い声が聞こえるばかりで出てくる気配が無い。
 ブルクハルトは荷馬車の幌を大きく捲った。

「どうしたんだ。早くしろ。ん?」

 荷馬車の中にはマリウスとソフィアが座っていて、大きな毛布で梱包した荷物に紐を巻いている。

「なんだこの荷物は!」
「僕の荷物さ」

 マリウスがその荷物の前に立ちはだかって言った。

「さっきこんな大きな荷物無かったぞ」
「どうしたんだい」

 御者台を降りて来たアルノルトがやって来て、幾つか鞄を下ろし、軽々と荷台に飛び乗った。

「これかい? マリウスの荷物って?」
「うん! そうだよ」
「こんなに要らないだろ。ちょっとは減らして持って行け」

 アルノルトが毛布を捲ると、そこにアフラの顔があって目が合い、思わず毛布を戻した。そしてマリウスとソフィアを見ると、肩を竦めてお願いのポーズをしている。

「あ。ソフィアの荷物も一緒? 仕方無いなあ。持てるかな」

 アルノルトが持ち上げてみると、かろうじて持ち上がる。

「ほら、マリウスも手伝え」

 その毛布の荷物は二人で持ち上げて、荷台から石畳の地面に下ろした。

「アタッ…」
「ん? 何か声がしたような」

 幾つか鞄を抱えたブルクハルトが荷物を振り返るが、すかさずソフィアがそこへ「エイ」と飛び降り、アルノルトとマリウスは急いで毛布を持ち上げて立ち去って行った。
 そこへエルハルトが声を掛けた。

「荷物は全部降りたかい?」
「ああ、これで全部だ。ありがとう」
「じゃあ、僕は戻るよ」
「留守を頼むよ」

 エルハルトは一つ頷いてから馬車を発した。
 馬車から下ろした荷物はアッティングハウゼンの持つ駅舎の玄関口に入れた。ブルクハルトが駅舎の二階に続く広い階段を上って行くと、その上の広間に続くレストランを兼ねた待合室には既にアッティングハウゼンとヴァルターが待機していた。

「待っていたぞブルクハルト。どうかね。署名は首尾よく集まったかい」
「村周辺の者は殆ど集まったよ。そちらはどうかな」
「通り毎に手分けして居る者はほぼ書いて貰った。上首尾じゃ。ヴァルターもな」
「こっちは山ばかりでしたが、集落は通り沿いだから、通りに近い所だけ回ってきたんでさ」
「ひとまずそれは良かった。実は子供達を連れて行きたい。ルーディック卿から招待されていたんだ」
「特急馬車に乗れるといいんだが。何人だ?」
「三人だ」
「確か六人乗りで意外と広かったから大丈夫じゃないでしょうか?」
「もう一人いたら辛い所だったがの」

 階段を半ば上がって座っていたアルノルトは、その声に耳をそばだて静かに階段を上がっていった。

「ひとつ頼みがあるんだが、パレードの時に使った服を子供用に借りたいんだ。なにぶん良い服が無くてな」
「ああ、構わんよ。階段裏のその衝立の裏に戸棚があるじゃろう。その中にある。見繕って持って行くがいい」
「すまないな」
「あまり荷物が溢れると、行きみたいにまた荷物に囲まれるから程々にな」
「ああ」

 ブルクハルトは衝立の奥へ入っていき、戸棚から服を幾つか見立てて取り出した。幾つか選んで鞄に押し込むと、アルノルトが階段を上がって来た。

「ああ、この子か」

 その声にブルクハルトは鞄を抱えて顔を出した。

「おお、我が息子、アルノルトだ」
「実は……」

 アルノルトが口籠もった。

「どうした。挨拶をしろ」
「あ、おはようございます」
「おはよう」
「実は……もう一人いるんだ」
「何? 他に客が来たか?」
「いや、荷物の中にアフラがいた」
「何だって! あれかー!」

 ブルクハルトは階段を駆け下りた。アルノルトもそれに続く。
 階段を降りる途中、マリウスが毛布の荷物に話しかけているのが見えた。
 毛布をよく見れば丸くなった人の形をしている。

「いるのか?」

 ブルクハルトがそう聞くと、マリウスは慌てて離れながら大きく首を振る。

「いるだろ」

 ニヤリと笑ったブルクハルトは毛布を引っ張ってみた。そこには足の形が出て来た。
 ブルクハルトは足のあるらしい毛布の端を指一本で擽ってみた。

「ふっ!」

 何か声にならない息が聞こえた。が、その後の反応は無かった。

「こっちかな?」

 ブルクハルトはもう片方の足をコチョコチョと擽る。

「キャーっ! 止めてー! もうダメーっ!」

 毛布ごともぞもぞと暴れ出すが、紐が掛かっているため、ただ転がって捩れた。
 アルノルトは慌てて顔の布を取った。

「アフラ、観念して出て来い」

 毛布から顔を出したアフラは苦しそうに顔を真っ赤にして「はあー。ごめんなさーい」と言って悄げている。
 マリウスは紐を解き、毛布にくるまったアフラを開梱した。

「怪我しているんだから家にいろと言ったろう。どうして言い付けが守れない?」

 ブルクハルトはしゃがんでアフラに顔を近付けて言った。

「だって……」
「だって?」
「私も行きたい!」
「ダメだ! 長旅だ。傷に悪い」
「熱もずっと無いし、傷は瘡蓋出来たもん。治ったもん!」
「それは治ったとは言えないだろう」
「マリウスもソフィアも行くのにぃー! 私も行きたい! 行きたい! 行きたーい!」

 涙目を見張らせて服に掴みかかって言うアフラに、ブルクハルトはやれやれといった風に頭を掻いた。

「駄々っ子か……。しょうが無い奴だな」

 おもむろにアルノルトは跪いて、優雅な仕草で左手を胸に、右手を帰り道へ向けて言った。

「お嬢様? 上流貴族の集うパーティーに嗜みの無いお子様はご遠慮願います」

 ブルクハルトは感心して言った。

「さすが領主と付き合いのあるアルノルトだ。もう礼儀が身についたな」
「うぅ」

 青くなったアフラはアルノルトの逆を向いて聞かない振りをしたが、アルノルトは畳み掛けて言った。

「おやおや、服は寝間着のようですね。笑い者になりに行く? ずいぶん面白い方のようで」
「ヤーン!」
「荷物に紛れて来た侵入者はどうすべきか? 地下牢か、次にはサーカスにでも売ろうか?」
「えうぅ。売らないで。お父さーん。ごめんなさーい」

 アフラは半ば泣きながら父に縋った。
 ブルクハルトはしかしその言葉に唸った。

「うーん本当だぞ。ここで見つからずに行っていたらどうなることだったか。危なかったぞ」

 目を向けられたアルノルトも目で頷いた。

「考え無し過ぎるぞアフラ。その格好で! ここから帰るにも着替えがいりそうだな」

 ブルクハルトはさっきの鞄をアフラに渡して言った。

「いい服を借りてある。取り敢えず着替えて来い。二階に衝立があるからそこを借りるといい」
「うん」

 アフラは鞄を受け取って二階に上がると、優雅にお茶を飲むアッティングハウゼンとヴァルターの目を避けるように鞄を楯にして隅の衝立まで走り、衝立をしっかりと囲い込み、そこで着替えをした。

「例の子かの?」
「そのようですな」

 二人のアーマンは目で笑い合った。
 そうしている内に特急馬車が駅舎にやって来た。
 この特急便は南の峠の入り口にあるジーレネンの宿駅を始発とし、そこからアルトドルフへやって来て、しばらく停留する。
 ブルクハルトは馬車の前方にある荷物スペースに持って来た荷物を載せ込みつつ、アルノルトを駅舎の二階に呼びに行かせる。アルノルトに呼ばれて幾つもの荷物を抱えつつやって来たアッティングハウゼンとヴァルターは、御者にこの便で運搬する郵便物を渡し、その後荷物スペースに自身の荷物を載せ、自身も馬車に乗り込んだ。続いてブルクハルトも馬車に乗った。
 そこへアルノルトに続いて白い雪の女王のドレスに着替えたアフラがスカートの裾を持ち上ながら歩いて来た。春祭りのパレードの時にイサベラ達が着ていたものだが、サイズが一回り大きいようだ。

「わぁっ! アフラ。お姫様みたい。似合うわ!」

 ソフィアはその姿に飛び付いてアフラの回りを回っている。

「これ、少し大きいの。引きずっちゃう」
「少しだけよ。少しヒールの高い靴を履けば大丈夫じゃない?」
「ソフィアも同じのがあるわ。きっとサイズは合いそうね」

 アフラはそう言って鞄を開けて見せた。

「うわーっ! 私も着て来ていい?」

 鞄を受け取ったソフィアは近くにいたアルノルトへそう聞いて来るが、馬車はもう今にも出発しそうなので父の顔を伺った。

「何してる、早く乗れ。アフラは帰るんだ」

 ブルクハルトがそう言ったので、アルノルトは首を振って「だってさ」と言ってからひとまず馬車に乗り込んだ。続いてアルノルトの手に引かれ、マリウスが乗り込み、それにソフィアも続く。
 一人残されたアフラは長いスカートを持ち上げたまま悲痛な声を上げた。

「私も行きたい!」

 ブルクハルトは手で帰れという風に山の方を差した。
 アフラは落胆してスカートを落とし、項垂れながらも、まだ言った。

「私も行きたい……」

 強くなりだした雨がアフラの服に染みを作って行った。
 御者がやってきて「乗るんですか?」とキョロキョロする。
 アッティングハウゼンがそれを見て言った。

「乗せてやるんじゃなかったのか」
「怪我してるのでな」
「さっき元気に走っとったぞ。大事ないじゃろ。着替えておいて可哀想じゃ無いか」
「今年の春の乙女です。参加資格は充分でさぁ」
「席がもういっぱいだが……」
「詰めて詰めて」
「つめてつめて」

 対面する前席に座っていたアルノルト、そしてマリウスとソフィアは席を出来るだけ詰めて座ってみた。すると小さい子ならギリギリ座れそうなスペースが出来た。

「なんとか大丈夫そうだよ」
「大丈夫、大丈夫!」

 ブルクハルトはそれを見てアフラに手招きして呼びかけた。

「許可が出た」

 アフラは跳ねるように顔を上げた。

「いいの?」
「傷には注意しろ」

 そう言ってブルクハルトはアフラに手を差し伸べる。

「やったぁー!」

 バンザイして飛び上がったアフラはブルクハルトの手を掴み、馬車に駆け上るように飛び乗った。

「ゆっくりだ。傷には注意しろって言ったばかりだろう」

 そうブルクハルトが言っている内に「よかったね」と言うソフィアとハイタッチし、マリウスともハイタッチをし、アフラは隣の狭い隙間にお尻をねじ込んだ。

「きっつ!」
「定員オーバーかも」

 騒ぐ子供達を置いて御者は馬車の扉を閉めた。

「それでは、特急馬車、出発します!」

 御者は鐘を鳴らしてから御者台に上り、手綱を振って馬車を発した。
 特急馬車は馬は四頭立てで、特急というだけあって速度は早い。道を横切る人があると、鐘を鳴らして警告を発しつつ、馬車は速度を上げていく。その分揺れが酷く、道を曲がる度に子供達は悲鳴を上げ、はしゃぎ声を上げた。
 ブルクハルトが五月蠅そうに目を潜ませて言った。

「舌を噛むからあまり喋るなよ。それでアフラ、出るとき家には言ってきたのか」
「う……説得出来なくて、寝るふりしてからこっそり毛布被って馬車に乗り込んだの」
「それじゃあ、カリーナは知らないのか! 家で一騒動になるじゃないか!」
「ごめんなさいっ」
「次の駅舎で速達の手紙を出しておくか」

 湖畔の山道は所々道が荒いが、急な坂が無いように整備されている。今までに無い速さで馬車がシュウィーツ市街の駅舎に着いた。御者はすぐに四頭立ての馬を交換する。
 その作業の間、子供達はゾロゾロと馬車を降りて、揺れで痛めたお尻を撫でつつ体操をし、ブルクハルトは駅舎に手紙を出しに行く。アフラとソフィアは行き交う行商人を目聡く捕まえて、底の高い安い靴を荷物の中に見つけ、ソフィアが多めに貰っていた小遣いで買った。アフラは小遣いも何も持って来ていないので、ソフィアはお揃いのものを一緒に買ってあげた。
 そして馬車は準備を終え、全員が再び乗り込むと、御者はベルを鳴らして馬車を発する。
 広いアルプに沿った平坦な道は、昇り道となり、谷間へと入って行き、山に囲まれた盆地の湖沿いの村、アルトに着いた。そこでは馬は換えないが、届け物の小包を降ろすため、しばしの停車をした。僅かな間でも子供達は馬車を降りてお尻を擦った。
 さらに馬車は湖沿いを蛇行する道を進んで行く。湖の色はエメラルドよりも澄んだブルーだ。

「綺麗な湖ーっ」

 アフラが窓から見てそう言うと、ブルクハルトが答えた。

「ツーク湖だ」

 波の少ない湖面を真っ直ぐに船が行くのを見て、アルノルトが言った。

「船便の方が楽そうだな」

 アルトの港からは船が出ていて、そこから長い湖を縦断して幾つかの町を繋いでいる。

「荷物が沢山ある商人は、実際ここから船でツークまで行って、そこから馬車に乗せ替えるんだ。ところで次のツークでしばらく停まるが、降りるんじゃないぞ」
「どうして?」
「ハプスブルクの代官の根城になっている。変な難癖をつけられるからな」
「おしり痛いのにー」
「我慢するんだ」

 しばらく進むと湖の北端に背の高い建物が見えた。それがツークの町並みだ。船が沢山行き交う港があった。
 ツークでは馬を換えるので、馬車は少し長めに停留した。その間子供達は荷物置き場で立ち上がって、体を伸ばして過ごした。
 外では偉そうな騎士が荷物を確認に来て、馬車を覗き込んで来た。その騎士は幾つかの荷物を引き取って帰って行ったが、重々しい雰囲気がこの町にはあった。

 その先からは山越えの道だった。馬車は深い森を駆る険しい道を進んで行った。
 山を越えるとやがて道は舗装されたように揺れが無くなり、眼下には霧深い大きな湖が見えた。
 うっすらと対岸が見える長く細い湖は、まるで大きな川のようでもある。

「あれは川? 大きい」

 アフラが窓から見てそう言うと、ブルクハルトが答えた。

「チューリヒ湖だ」
「細長くてウーリ湖に似てるね」
「ルーチェルン湖でなく?」
「対岸から来る人はルーチェルン湖って言うけど、こちら界隈ではウーリ湖でいいんだよ」

 ソフィアとアルノルトそんな湖の名前の談義をしていると、ブルクハルトが指を差して言った。

「この辺から東半分は見えるだけラッペルスヴィル領だ。湖の北端の一帯が目指すチューリヒだ」
「ラッペルスヴィル家ってこんなに大領主だったのか。チューリヒより広いんじゃないか」
「すごーい。ウーリより広いんじゃないかしら」
「まあそうだな。そろそろ着替えておけ」

 アルノルトが服を出してみると、豪華に膨らんだ袖のある赤い天鵞絨のローブに同じ生地のカボチャ型の半ズボン、それに紫とオレンジと左右で色の違うタイツ状のショースというスタイルだ。マリウスも緑の色違いのような服だがショースは無難に白い。アルノルトは服を広げて見て苦い顔をした。

「このショースは何かの間違いだよ。色が片違いだ」
「文句を言わず着るんだ」
「穿き間違えと思われるよ。穿かなくてもいい?」
「裸足でもかっこ悪いだろう。これが流行の先端なんだ」

 座席の前部にある荷物スペースにはカーテンが付いていて、アルノルトとマリウスはそこで着替えた。ソフィアは皆が降りてから着替えるという。
 霧深い湖畔の道をずっと進んで行くと、湖の北端に城壁が広がっているのが見えた。チューリヒ市街は城壁に囲まれた中にある。
 一行がようやくにしてチューリヒ市街へ入ったのは、集合の三〇分ほど前だった。乗ってきた馬車はチューリヒ市街の修道院前広場に隣接する駅舎に止まった。一行は馬車を降り、荷物を引き出して下ろしてから、ソフィアの着替えを待った。アルノルトが色違いのショースをごねて到着する間際になって穿き出し、両足の脛には黒布を巻いたので、降りる時間が遅くなり、少し時間が遅れている。

「アルノルト、これを被れ」

 ブルクハルトは大きな白い羽根の付いた黒い帽子をアルノルトに被せた。赤く豪華絢爛な服装と合い、その格好はかなり裕福な子息に見える。

「いいなあ、アル兄。かなり立派よ?」
「格好悪くないかい?」

 アルノルトはまだ足の色違いを気にしている。

「格好いいってば。大丈夫」
「雪の女王も羽帽子があったんじゃなかった?」

 ブルクハルトは荷物の山を指して言った。

「帽子は置いて来た。嵩張って邪魔だろう」
「じゃあ僕のこれは?」
「今、そこで買ったんだ。新郎の友人と来たら幾らかは立派でないとな」

 通りには幾人かの露天商が並んでいて、そこで帽子が売られていた。

「アル兄にもいい靴があると良かったのにね」

 アフラが店を覗きながら言ったが、靴は無かった。アルノルトは履き古した羊革の靴の片足を上げながら言った。

「僕はまあこれでいいよ」

 そう言っていると、急に短く鐘が鳴り、馬車が走り出した。

「キャーッ」とソフィアの声がする。

「あ! 待って! まだ中にいる!」
「止めて!」

 慌てて追い掛けたアフラとアルノルトが馬車を止め、ソフィアを馬車から連れ出した。

「連れて行かれるかと思ったあ」

 出て来たソフィアの雪の女王姿は少し様子が変だった。サイズが少し小さかったのか、胸とお腹の線が張り詰めていて、二の腕あたりもふっくら張っていて田舎っぽさが丸出しなのだ。ソフィアは十五歳だから各所サイズが合わないのは当然だ。小さなアフラの場合なかなか似合ってはいるが、逆に布がダブついて余っている感じだ。

「ソフィアも似合ってる。ねえ」

 アフラはそう言うが、アルノルトはお前の方が似合ってるよと心の中で妹贔屓をした。


 そこから会場となる修道院へは徒歩でしばらく行った場所だったが、まずシュウィーツの公館へ向かい、預けてある馬車に荷物を載せ込み、それが済んだ後、馬車で修道院へ向う。
 ルーディックとエリーザベトの結婚は、書類上は時を遡り、今年初めの面目で入籍を済ませており、遅れて行う結婚披露会となっている。まずは結婚の宣誓を聖母聖堂で行った後、移動してラッペルスヴィル家の教会で披露パーティーをする事になっているので移動のための馬車も必要だった。
 修道院前の広場では受付コーナーが設けられ、既に集まって来た人々が多くいて談笑していた。

「やあ、間に合ったようだね」

 そこにいたシュタウファッハはブルクハルトを見つけて朗らかな笑顔を見せ、大げさに手を広げ声を掛けて来た。

「ああ、ギリギリようやく辿り着いたよ」
「仲人がみっともなく遅れてくるなんて事にならなくて良かった。準備は諸事万端、私がやっておきましたよ」

 それにブルクハルト、アッティングハウゼン、ヴァルターは渋い顔をした。

「そりゃあ意地でも間に合わせるさ」
「委任もなんとか取れましたからな」
「イヤミでさあな」

 シュタウファッハは笑顔を崩さず言った。

「ご挨拶だなあ。首尾良くいったようでこれでも心から喜んでいるんだ。そちらはお子さんかな?」
「ルーディック卿の友人枠だ。我が息子と娘、この子は近所の子だ」
「ソフィアです。よろしくどうぞ」
「アフラです」

 二人は並んでスカートを広げて礼を取った。

「こちらこそよろしく。素敵なお揃いのドレスだ。これはいい! 女の子二人でこれから少しお手伝いをしてくれないか。これからの行進の介添えだ。新婦のロングベールを持って後を歩いて欲しいんだ」

 アフラとソフィアは互いに顔を見合わせて様子を伺い、

「どうしましょう?」
「どうする?」

 と、何度も言い合っているとシュタウファッハが続けて言った。

「無理強いはしないんだが、新婦のエリーザベト様は既にご親族を亡くされていてね。始めのエスコート役にも困っているんだ。これは名誉な事だよ」
「是非やらせてください!」

 とんとん拍子で事が決まり、アフラとソフィアの二人と、そしてついでにとマリウスとブルクハルト、アッティングハウゼンは、シュタウファッハの案内で控の間で手伝いをする事になる。

「シュタウファッハ殿は人を巻き込むのが上手過ぎる」

 残されたヴァルターは軽い感嘆を漏らしながら修道院の門へ入って行き、アルノルトも「確かに」と同意しつつ後に続いた。
 修道院の回廊を進み、さらに高い天井の礼拝堂へと入って行く。
 高い窓とステンドグラスから美しい光が零れ、柱に様々な聖者達の装飾の入った礼拝堂の中では、祭壇の両側に修道士と聖歌隊が並んで待ち構えていた。
 右の方には豪華な装飾の入った帽子を被った修道女のいる貴賓席がある。妙齢の丸っこい印象の修道女は聖母聖堂のエリーザベト修道院長その人だった。守護権者であるエリーザベト・ラッペルスヴィル女伯とは同名で間違えられ易いのだが、こちらは修道院を領主とするチューリヒの最高権利者だ。チューリヒでは聖母聖堂の修道院長が市長を任免する権利を持ち、ウーリを始め、シュウィーツや周辺国にも広大な領地をその領下にしていた。
 礼拝堂に並ぶ席には関係者だけなのか、そう多く無い参加者が静かに席に座って待っている。壁沿いは木製の飾り机の付いたボックス席になっていて、そこには修道院服の関係者が多い。
 その中にベールと飾り紐でくるんだ緑の尖閣帽を着けた、異国の貴婦人の姿が目に入った。その顔はベールで半ばが隠れていて、そこから覗く風貌は一部しか見えなかった。アルノルトが空いた席を探しながら、その異国の帽子の貴婦人を珍しく見ていると、その若草色の服には見覚えがあるような気がした。
 ふと、その顔を上げて振り向いて、目が合ったその人は、イサベラだった。イサベラは豪華な若草色のドレスに身を包み、挨拶するように小さく首を傾げて微笑んでいる。隣にはピンク色のベールを被ったユッテ、数席離れた所にはラウフェンブルク夫妻と息子達もいた。
 アルノルトは頭を抱えた。

「アルノルトどうした、席はこっちだぞ」
「う、うん」

 アルノルトは見なかった事にするように顔を背けて歩き、ウーリの修道院の一団のいる席があったので、そこに並んで座った。
 一同が席に座りしばらくすると、聖歌隊が静かに歌い始めた。天使の到来のような美しい声が響く。歌う修道女のベールから覗く顔を見れば、それはクヌフウタだった。透き通るように高く細い声は礼拝堂の高い天井まで響く。クヌフウタの高く昇る声を包み込むような混声コーラスが美しいハーモニーを奏でる。
 その歌声が響く中、金色の髪を後に固めたルーディックと白く長いウエディングベールを纏ったエリーザベトが入り口に立ち、ゆっくりゆっくりと中央通路を歩いて来た。腕を組んで並んだ背丈は、高い靴も手伝ってエリーザベトの方が頭一つ高く、やはり年はそぐわない感が拭えない。それでもルーディックは背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見て、腕を組んだエリーザベトを引っ張るように歩く姿は立派だ。
 エリーザベトの白いウエディングドレスはそれほど豪華では無い質素なものだ。ただ羽織ったケープは幾重にもドレープがあり、少し豪華さを添えている。頭に付けたロングベールは床に長く引き摺るくらいあり、それを引き摺らないようにアフラとソフィアがニコニコ顔で持ちながら続いて歩いて来る。お揃いの白と銀のフワフワしたレースの衣裳は誂えたように雰囲気に合っていた。二人の間を一歩下がって歩くマリウスの緑の衣裳はまるでキューピットのようだ。マリウスは花片の入った籠を手に持っていて、時々それを空高く撒いて歩いた。アフラも時々その花片を取って撒いている。これは春の乙女の再現だ。
 小さく拍手や囁きが起こるが、聖歌の美しく静かな調べがそれをすぐに掻き消す。

「あんなにも若々しい婿なんて」
「ねえ。若いわ」

 話し声に混じるのはルーディックの年若さについて揶揄する声だ。若くして聖母聖堂の守護権を采配し、チューリヒでも地位の高いエリーザベトの婿であれば、その家長となる責任が重いのも当然で、その関係者の厳しい目に晒されていた。
 行進の後からはブルクハルトやシュタウファッハ、アッティングハウゼンも入って来て、さりげなく空いた席に座った。
 少し階段を上った丸い祭壇前にはいつの間にか神父が待ち受けており、そこへ二人が辿り着くと、神父が聖書の一節を読み、夫婦の宣誓が始まる。

「誓います」と上ずった声で言うルーディックは、アルノルトと同じ十五歳、どうしてもアルノルトには結婚する年とは思えなかった。そして互いに指輪交換がされ、ルーディックはベールを持ち上げて腰を屈めたエリーザベトの額にキスをした。
 宣誓式が終わるとその場で式は自由解散となる。新郎新婦が祭壇前から降りてくると、参加者が思い思いにエリーザベトに挨拶にやって来た。ルーディックは知らない人ばかりだったようで、来る人を見上げては小さく挨拶をするのみだった。アフラとソフィアはベールを少し巻き上げて、エリーザベトが躓かないように後を付いて歩いている。
 そんな中、ルーディックはアルノルトを見つけ、意外なものを見たように笑った。

「アルノルト! いい衣裳じゃないか」

 一気に注目が集まったアルノルトはその衣裳を恥じ、小さく手を振ってから短く言った。

「おめでとう」
「ありがとう」

 微笑んだルーディックは遠くから大仰な礼をして、先を歩いて行くエリーザベトを追いかけた。
 祭壇の右端のエリーザベト修道院長の前で深く礼を取り、エリーザベトは挨拶をした。

「この度は婚儀にご助力を賜りまして、誠に感謝を申し上げます」
「こちらこそお二人にはありがたい事です。修道院の守護権がこれで落ち着きます。お二人ともこれからですもの。期待しています」

 座ったままの修道院長はエリーザベトの腕に触れてそう言うと、エリーザベトは腰を低くし、その手に両手を添えて言った。

「ありがとう存じます」

 ルーディックは恭しく跪き、修道院長に挨拶をした。

「若輩者ですが、ご指導、お引き立て願えますよう」
「まあ、立派なご挨拶だこと。行く末が楽しみね」

 そこへ席を立って待っていたイサベラとユッテが近付いた。それを見つけて顔を輝かせたルーディックは、駆け寄って片膝を付いてさらに恭しい挨拶をする。

「これは我が姫! ようこそおいで下さいました」
「ご成婚、誠におめでとうございます」

 イサベラが折り目正しくお祝いを述べると、ユッテは少しだけ怒ったようにそれに続いた。

「おめでとう。ルーディックは遠い親戚にもなるのだけど、私への挨拶は無いようね」
「おお、姫、本日もご機嫌麗しゅう」

 ルーディックは間を置かずユッテの前にも立て膝で座り直し、挨拶をする。
 座ってそれを見ていた修道院長が目を剥いてエリーザベトに顔を近付けた。

「この子ったら、遊興に長けた殿方になりそうかしらね」

 エリーザベトは苦笑いで「はあ」と溜息顔だ。
 ルーディックは流石にしくじったと思ったのか、すぐに立ち上がった。ユッテも少し苦笑いで言う。

「あまり麗しくは無いのだけど、こんな席だしお祝いしたいと思うわ。この後はどうするの?」

 そうユッテが聞いて来たが、次のパーティー会場となる場所は少し離れている。招待状に地図はあったのだがここは王族、ルーディックは丁重に答えた。

「これに地図がありますが、少し離れたラッペルスヴィル家の教会でパーティーを行います。馬車でお越しでしょうか?」
「ええ。歩いては行けないのね?」
「歩くには少し遠いかと。何なら私の馬車で先導しましょうか?」
「そうしてくれると助かるわ」

 それを遠目にして聞いていた人々も頷いて出口へ動き出した。きっと馬車の行列が出来ることだろう。

「アフラさんが介添え役だなんて、驚いたわ。そちらのお嬢様は?」

 イサベラがエリーザベトの後のアフラとソフィアに話しかけた。ソフィアはお嬢様だなんてとひどく恥ずかしがった。

「友達のソフィアです。招待枠ギリギリ使って潜り込んだんですよ」
「まあ。あの時の衣裳ね。可愛いこと」

 ユッテもその衣裳を見て目を輝かせた。

「村ではいいお洋服がこれくらいしかなかったみたいで……」
「私より似合ってるわ!」

 アフラは少し顔を赤くして言った。

「そんなぁ。ユッテさんの方がお姫様みたいですから」

 ユッテは目を丸くした。姉は全員嫁いでいるので、現在王宮でお姫様と言えばユッテだけだ。

「お姫様……」

 ユッテは自分を指差して、イサベラを見た。
 イサベラは吹き出しそうな笑いを堪えてユッテの肩に触れる。

「褒め言葉だと思って」
「そうね」

 祭壇中央の円卓前では、エリーザベトがホンベルク家の親族と話していた。

「アーデル様、フリードリヒ様、この度はご尽力頂きまして誠にありがとうございます」

 初老のアーデル女伯は何度も頷いて言った。

「ルーディックはきっとこの為に生まれて来たのかも知れません。あなたとはとても運命を感じますね。猶子であっても我が子。後継ぎの無い我がホンベルクの家名を継ぎ、あなたの家も継ぐ。不思議な巡り合わせです」

 隣にいた長男のフリードリヒには子が無く、親戚から猶子という形で引き取った次男のベルナーは十九歳で一人の子を残して早世してしまい、さらに後継ぎとしてルーディックが猶子とされていた。ついでに言えばルーディックの実母はホーエンシュタウフェン、つまりユッテの生母の家との繋がりがあった。

「ルーディックは今はまだ若過ぎますが、成長すれば我が期待の後継者です。ご負担をお掛けするかもしれませんが、宜しくお願いします」

 そう言って握手を求めてきた長男のフリードリヒは現在のホンベルク当主であり、年は三十半ばだろう。ルーディックとは親子ほど年が離れている。

「こちらこそ。私も成長を期待して楽しみにしているのです。これからは義兄義妹として宜しく願います」

 エリーザベトは恭しくフリードリヒと握手をした。

「ルーディックなら血統では次代の皇帝だって狙えるかも知れない……と、私はそれくらい期待しているのですよ」
「まあ!」

 その後、エリーザベトはラウフェンブルク家に挨拶をし、その後にはシュタウファッハ率いるシュウィーツ一団、そしてウーリのアーマン達もそこへやって来てエリーザベトにお祝いを述べた。
 エリーザベトはそれぞれに丁寧に受け答えをして、話は長くなって行った。しかしルーディックは大人の会話に入れず、隣で頷いているのみだった。

「そろそろうちの妹達を返してくれよ」

 その隙間からアルノルトはルーディックにそう声を掛けた。ルーディックはようやく話し相手を見つけたように笑った。

「ああ君の妹さん? 助かったよ。とても綺麗だったし」

 それを聞いて笑顔でエリーザベトが振り返る。

「そうね。可愛かったわ。そろそろこれは外しましょうか。お二人ともありがとう」

 エリーザベトは頭に付けたウエディングベールを外そうとした。
 ソフィアはエリーザベトに微笑みつつ、さりげなく長いベールを外し、器用にアフラと皺にならないように畳み直した。
 出来るだけ新婦の手を使わせないのが介添えの大事な仕事だ。

「控の間までお持ちします」

 朗らかなソフィアの声にエリーザベトが礼をするように小さく頷き笑みを返す。
 ルーディックがエスコートしながらエリーザベトが退場して行くと、本格的に皆が解散を始めた。
 ソフィアはエリーザベトの後を追って歩いて行った。

「誰かと思ったらお兄さん?」

 ユッテがアルノルトを見て言った。

「お兄さんは上にもう一人いるんだ。アルノルトと呼んでくれよ」

 アルノルトがそう言うと、ラウフェンブルク夫妻の周辺の貴族達は驚いたようにそれを見た。王女に対するものでは無い口調のためだったが、今日はベールを被っているのでそれを知るのは高位の貴族のみのようだ。
 アルノルトとユッテはそんな事は気にしないで話しをしていた。
 ユッテは改めて宜しくと言うようにスカートを摘んで小さく礼をした。

「過分に豪華な恰好ね。どうなさったの?」
「これくらいしかいい服が無かったんだ。最新の流行らしいよ」

 イサベラが目を瞬かせて言った。

「とても斬新でかっこいいですわ!」
「そ、そうかい? そうでも無いよ。足が左右で色違いだし」

 手が空いたアフラが会話に入って来た。

「かっこいいですよねぇ」

 アルノルトは急に思い出したようにアフラを捕まえて耳元で言った。

「今日は貴族流儀だ。行儀良くな。それとお嬢さん達がいるけど、ウーリの人達の前ではあまり話さないように」
「アル兄は今普通に話してたのに?」
「!」

 言葉に詰まったままアルノルトは周囲を見た。いつの間にか周囲に注目を浴びているようだ。
 父も不思議な目でこちらを見ている。

「まずい……。手遅れかも。とりあえずばれないよう今会ったような振りをするんだ」

 アルノルトとアフラは頷き合った。

「アルノルトです。お見知りおきを。これにて先に失礼をば……」

 誤魔化すように胸に手を当ててアルノルトは出口へと歩いて行った。

「本日はよろしく」と、アフラもスカートを摘まんで一礼してからその後を歩いて行く。
 アフラが兄に追い縋って小声で言った。

「兄さん、ここは貴族ばかりなら変に隠さなくていいんじゃ無いかしら」
「いや、お前がまだ知らない災厄が隣に居るんだ」
「災厄?」

 アフラは振り返って考えて見たが良く解らない。
 アルノルトとアフラは控の間まで歩いて行き、そこでソフィアと合流し、ラッペルスヴィル夫妻に挨拶をしてから退出した。


中世ヨーロッパの本格歴史大河小説として、欧米での翻訳出版を目指しています。ご支援よろしくお願いいたします。