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ハートランドの遙かなる日々 第6章 夢のような一日

 それから数日が過ぎて、シュッペル家の共同牧場では羊毛の刈り取りが始まっていた。それは家族総出の大仕事だった。マリウスはもちろん、下働きのカルビン、ペーテル、周囲の村人も手伝って行われた。病気明けのアフラは少し高い岩の上に座って、羊を見張る役をしていた。

「アル兄! ミルヒとシルフが道に出ちゃう! あっち!」

 アルノルトも刈り取りの順に羊を連れて行く仕事をしていたが、病気明けのアフラを走らせるわけにはいかない。アルノルトはアフラの指す方を見定めて走った。子羊のミルヒは柵の下を易々と潜り、道へ出て走って行った。そして物置小屋で見えないところでしきりに啼いていた。
 アルノルトが子羊逹を追いかけて道に出ると、そこには歩いて来る二人の修道女がいた。ミルヒはその人に向かって啼いていたのだった。一人の修道女はやって来た子羊にニコリと笑って、屈んでその頭を撫でた。

「この子はあの子かしら? 名前は確か——ミルヒ。そうミルヒね」

 そう言った声はイサベラだった。もう一人の修道女はクヌフウタだ。

「イサベラお嬢さん……」

 イサベラとクヌフウタはアルノルトに気が付き、小さく目礼する。

「ご機嫌よう。こちらはクヌフウタさん。ボヘミアでは有名なシスターなのよ」
「クヌフウタ・プシェミスルです。お見知りおきを」

 クヌフウタは嫋やかに礼を取った。その修道服は少し目の粗い亜麻糸で編まれているようで、染色をしない薄いオリーブ色に近い生成色をしている。ベルトには結び目を三つ作ったロープが巻かれている。古代から出て来たような修道服だ。

「アルノルトです。前に教会で講話をしてた方?」
「ええ。あなたとは目が合いましたね」
「良いお話だったから、つい……」

 クヌフウタが微笑むと、まるで聖なる陽光に包まれるようだ。それに威圧されたアルノルトは元来た道を数歩帰り、家族の様子を見た。はたしてアフラとカリーナがこちらを伺っている。声を落として、アルノルトはイサベラに言った。

「約束が違う。前に言ったろ? 王家の人が来たら……」
「馬車では来なかったわ。途中から歩いて来たんですもの」
「そうじゃない。ウチが王家と関係があるなんて村人達が知ったら、どれだけ非難を受けるか。前にも見ただろう」
「改めて自己紹介します。私の名前はイサベラ・アニエス・ド・カペー。ブルグントの傍系一族です。来て困るのは、ハプスブルク家の人でしょう?」
「ハプスブルクじゃないって言うんだね?」
「ええ。修道院に入った今は洗礼名でアニエスと呼ばれるわ。今はこの通り一介の修道女です。何か問題があって?」
「……何しに来たんだ?」
「クヌフウタさんと一緒にアフラさんの回復をお祈りしに来ただけです」
「そんなに何度も来て、アフラを拐かすつもりじゃないだろうな」
「私は天に誓ったわ。誓いの通り、誰も連れ去ったりしません。それに、クヌフウタさんはお医者様でもあるのよ」
「と言うとまさか、前に来てくれたシスターのお医者様は……」

 クヌフウタは胸に手を置いて微笑んだ。

「私です。診察をさせていただけるかしら?」
「とてもありがたいのですが、そんなに何度も診て貰う理由がありません」

 首を振るアルノルトに、クヌフウタは昂然と言った。

「理由ならあります。私は医療に関わる者として患者さんに責任があります。妹さんのご病気に、私はしっかりした診断を出来ませんでした。病状をもう一度診察させて戴きたいのです」
「それは治ったのでもういいんです。それより、そうまでするのは何故なのかを聞いておきたいんだ」
「……始めは、アニエスの意志でしたね」

 クヌフウタはイサベラに話しを譲った。イサベラは溜息のように少し笑った。

「ええ。これは私の意志です。理由はそれでいけない?」
「意志? 意志じゃ判らないよ」

 イサベラは目に意思を灯したような顔をした。

「意志を持って行動する時、本当に生きてると感じられるわ。私はいつもお人形のようにお飾りで、自分の意志を持つことすら出来なかった。そんな私にようやく一つの意志が生まれたの。あの日、私はあなた達を見て、あなたの言葉に触れて、この村をかけがえの無いものだと知ったのよ。私の理想通りなの。この村も、あなた達兄妹も……そんなアフラさんと友達になれた。大切にしたいと思ったの。この村にこのままでいて欲しい。アフラさんにも元通り元気になって欲しい。私に出来る事は小さな事しかないけれど、心からそう思ったの。そう祈ったのよ」

 イサベラはミルヒを撫でながら、そして手を合わせながら言った。その心を聞いてしまった今、アルノルトの胸には暖かい火が灯っているように感じた。

「アフラは……元気になったよ。お陰様でね」
「まあ。良かったこと!」
「アフラに会って行くかい? すぐそこにいるんだ」
「いいのですか?」
「君逹はシスターなんだろ。なら来るなとは言えないよ。それに何度も来てくれたことだしね」

 イサベラとクヌフウタが互いの顔に光輝を見せた。

「ありがとう」
「ただ、今日はアニエスの方の名前でいてくれるかい? 家族はイサベラの名はハプスブルクの人だと思っているんだ。アフラには後で言っておくから。いいね」
「はい。もちろん」

 アルノルトは修道女二人を連れて牧場へと上って行った。イサベラは上品にも白い日傘を差している。
 それを遠目に見たブルクハルトは「誰だあれは?」と指を指した。
 アルノルトはその視線を避けるように羊の群れを大回りして、アフラのところまで歩いた。

「アフラ。お客様だ」

 イサベラは満開を迎えた花のように微笑んだ。

「こんにちは。お加減はいかがかしら」
「イサベラさん……」
「シッ」

 アルノルトは静かに口に人差し指を当てた。
 駆け寄って来たアフラの顔を見て、イサベラは言った。

「お手紙ありがとう。とても元気そう……良かった」
「ごめんなさい。私……お手紙書くなんて初めてで……下手だったでしょう?」
「いいえ。お手紙ありがとう。重い病だと聞いていたから心配してたのよ。元気そうな顔を見れて良かった」
「私はもうこんなに元気になったの」

 小さく小回りに走ってみせるアフラに、イサベラは微笑んで頷いた。

「うん。良かった」

 少し離れた所にいたカリーナが、修道女二人の姿を見て歩み寄ってきた。

「アルノルト。この人は?……」
「えーと。アニエスさんとクヌフウタさん。異国のシスターだよ」

 カリーナはクヌフウタの顔を見て、急に畏まった。

「ああ! あなたは前に来て下さったシスター先生ではありませんか!」

 クヌフウタはカリーナに頭を垂れた。

「はい。クヌフウタです。その後アフラさんが重い病だったと聞き、心を痛めておりました。満足な診断が出来ず、心よりお詫び申し上げます」
「そんな! 感謝よりありませんとも。病気の進行はあなたの言う通りでした。仰った通りに看病をしたのです。眠り病という特殊な病でしたから、薬は他から取り寄せましたが、お陰様ですっかり良くなって」
「再診察をと思ったのですが、もう必要無いくらいお元気な様子で。とても安心しました」
「まあ。わざわざお越し頂いてありがとうございます」

 カリーナはクヌフウタに何度もお礼を言った。
 イサベラもカリーナに挨拶に来た。

「はじめてお目にかかります。私はエンゲルベルク修道院の修道女……アニエスです」
「イサベラさん? どうして今日はアニエス……うっ」

 そう口にするアフラの言葉はアルノルトの裏拳で止められた。アルノルトは再び人差し指を口に当てた。アフラはそれで状況を呑み込んだようだった。
 そしてそれはカリーナにも判った。

「アフラの病気はお陰様でかなり良くなりました。どなた様かは存じ上げませんが、いいお医者様を何度も呼んでいただきました。それが誰であるか今判りました。お礼を申します」

 カリーナはイサベラの手を握り、深々と頭を下げた。イサベラは慌てて言った。

「そんな。お礼なんて……いいのです」
「いいえ。アフラはここにいる皆、村の人、山の人、お医者様、貴女様に助けられました。皆の努力で天に祈りが通じたのだと思います。とても危ないところを助けられたのですから」

 遠くから教会の鐘の音が聞こえて来た。正午を示す鐘だ。
 クヌフウタは修道女らしく教会の方へ向かって十字を切って祈った。

「これも神の思し召し、父なる神に感謝致しましょう」

 その祈りにイサベラも十字を切り、カリーナもそれに習った。アルノルトは手を広げてから手を合わせて、アフラにウィンクすると、アフラも慌ててそれに習った。はじめに手を広げるのは、この辺りの流儀だ。
 仕事をほったらかして何をしているのかと歩いて来たブルクハルトは、修道女と共に皆が祈っているのを見て帽子を脱いで胸に抱え、瞑目するような格好になった。その隣でマリウスはキョロキョロしていた。
 クヌフウタはそんな人々の姿を見て、祈りの言葉を唱える。

「天に坐す我らが父よ。アフラさんに病の健やかなる回復を。ここに集える皆に神の祝福を。アーメン」
「アーメン」と、イサベラ、そしてアフラが追従する。
 クヌフウタが祈りを終えると、カリーナが再びお礼を言った。

「ありがとう御座います。これでアフラもきっと元気になることでしょう。良かったわねアフラ」
「うん。ありがとうございます」

 アフラは満面の笑みだった。そして、アフラはイサベラの手を取った。

「ちょうど羊毛の刈り取りをしている所なの。見て行ってね」
「ええ。出来ればお手伝いさせて頂けるかしら?」

 イサベラは笑ってそう返すので、アフラはイサベラの手を引いた。

「ええ。大歓迎! 行こう。イサベラさん」

 ついそう言ってしまい、アルノルトが足を鳴らした。
 アフラは少し舌を出した。
 行く途中で羊番をしていたマリウスが言って来た。

「僕、イサベラ様知ってるよ。様を付けなきゃいけないんだよ」
「しっ! 誰に聞いたの?」
「えーと。馬車に乗ってきた人。前に僕、伝言したよ。鐘がゴラリンゴラリンと今鳴ったよ」

 イサベラはマリウスを見て言った。

「かわいいわ。弟さん?」
「うん弟。マリウスって言うの」
「賢い子ね」
「シスターはイサベラ様?」
「ええそう……でも今はアニエスよ。イサベラは少し忘れておいて欲しいの」
「変なのー」

 イサベラは自分でも変だと思い、苦笑いするよりなかった。
 羊小屋まで歩いてくると、そこには小さく囲った柵があり、そこでエルハルトが羊の毛を刈り取っていた。
 柵の回りには家族連れで数人の見学者が囲んでおり、アフラとイサベラはその隙間に入って中を覗き込んだ。柵の中では羊はお尻を降ろしてエルハルトに後ろから抱えられるような格好で、大人しく毛を刈られている。
 アフラは柵に足を掛けて昇り、それを解説する。

「こうやってね、夏の暑くなる前に羊の毛を刈るの。毛は糸にして毛織物になるのよ」
「かわいい。毛を刈られちゃうのに大人しくしてるのね」
「大人しいのは上手だからなのよ。私がやったら暴れてダメなの」

 エルハルトが二人を見て声を掛けた。

「見学かい?」
「うん。見ててもいい?」
「羊を嚇かさないように静かにしてくれれば大丈夫さ」

 イサベラが柵から顔を出して言う。

「静かにしてますので是非見学させて下さい」
「どうぞシスター。見学は歓迎です」

 エルハルトは小さく礼を返しつつ、一人で羊を押さえながら、手際よく羊に鋏を入れていく。

「上手ね。向こうは二人でやっているのに」

 隣の柵では二人がかりで、ぺーテルが羊を押さえ、カルバンが鋏を入れていた。

「お尻の方は手が届かないから二人でやるのさ。一人でやるにはかなり慣れがいるよ」

 少し遅れてカリーナやクヌフウタが歩いて来た。柵の少し後ろから二人は羊を見て語り合っている。
 さらに後から羊を連れてやって来たアルノルトが言った。

「じゃあ、僕もやるかな」
「おっ。大丈夫か? 俺はこの通り手を出せないぜ」
「まあ、見てて」

 アルノルトは連れてきた羊を地べたに座らせようとするが、羊もなかなか座るものではない。アルノルトが羊の両足を握って倒そうとすると、羊は体を跳ね上がらせて暴れ、倒れた羊はアルノルトの上に転がった。

「うわー」

 悲鳴にも似た声を上げるアルノルトを、イサベラは心配顔で見ていたが、エルハルトとアフラは大声で笑っている。

「アル兄! 大丈夫?」
「羊は柔らかいから大丈夫だけど。いてて」

 羊の下敷きになるアルノルトへ、エルハルトが言った。

「羊のへそを上にしておくんだ。そうしたら動けない」

 そこから立ち上がったアルノルトは羊を仰向けにしてバンザイさせる。すると羊はもう動けなくなって一声啼くと、観念したように静かになった。

「最初が一番大変なんだ」

 アルノルトはそう言って一息を吐いてから、羊を寝かせたままUの字型の大きな毛切り鋏を入れて行った。その手付きは誰よりも丁寧だったが、羊は時々身じろぎをし、ついには大きく体を揺すったので、アルノルトは鋏を取り落としてしまった。
 アフラが鋏を拾って言った。

「じゃあ次、私が切ってもいい?」
「手伝ってくれるのは嬉しいが、鋏入れるのも難しいんだぞ。毛の根本で切って、羊の方を切っちゃあいけない。出来るか?」
「出来るわ」
「じゃあ背中の方から切ってみてくれ」

 アフラは羊の毛を掻き分けてみたが、綿のように固まった羊の毛の弾力で根本まで掴めず、小さく摘んで毛に鋏を入れ、短い毛をパラパラと手から落とした。

「もっと根本から! 毛が長くないと後で毛糸にするのに困るんだ」
「判ってる。ちょっと試しただけよ」

 アフラは今度は大きく毛を掴んで、鋏を入れた。

「羊の毛ってゴワゴワして膨らむのね」とイサベラも羊に触りながらその作業を見ていた。

「そうなの。毛が綿みたいで根元が見えないの」

 そう言いながらアフラの切った毛は、それでも毛の中間くらいの長さだった。

「まだもっと根本だよ。見えないくらいのところを切って行くんだ。まあアフラにはまだ無理かもな」
「いいもん。じゃあ、これを……」

 アフラは羊の毛を両手で掻き分けて、強く引っ張った。

「イサベラさ……」と言ったところでアルノルトがアフラの足を踏んだ。目で言うなと言っている。

「イタタ。いえ。アニエスさん。鋏でここを切ってみて。これならよく見えるでしょう?」
「私が切ってもいいの?」

 アルノルトは目で肯いて言った。

「ああ。お手伝いは誰でも歓迎なのがウチの流儀さ」

 とたんにイサベラは目を輝かせて腕を捲り、頭に被ったベールを外した。そして大きな毛切り鋏を取った。

「こうして毛を押さえてるから根本から切ってね」

 アフラの導くまま、イサベラは丁寧に鋏を入れ始めた。しっかりと根本の際で鋏を入れ、まずは一度切られた毛を取り上げて、イサベラは丸い目で首を傾けた。

「これでいい?」
「そうそう。アル兄より上手だわ」

 アルノルトは少しムッとして、片手で頭を掻いた。
 すると拘束の緩んだ羊が首を丸めてイサベラを振り返り、睨むようにして大きな声で啼いた。
 すぐ近くで大きな羊の目に見つめられ、イサベラは驚いて動きを止め、そのまましばし見つめ合った。

「このオッポは見た目より大人しいから大丈夫だよ。まあこいつも好きで毛を切られるわけじゃないって抗議してるんだな」

 イサベラは羊の目を気にしながらそっと鋏を入れた。すると一段と大きな声で一声啼いた。
 その明らかな抗議の声に、イサベラは少し驚いて手元が狂った。

「あっ」

 そのとたん、羊は身をよじって大暴れをした。

「皮をやったな! どうどう」

 アルノルトは暴れる羊を押さえ切れず、羊は飛び上がって地団駄を踏んだ。アルノルトは散々踏みつけられた。羊の毛が辺りに舞った。

「うわー! 押さえてくれ!」

 そう言われたアフラとイサベラは、羊を押さえようとしたが、ロデオのような跳躍をする羊の体当たりで倒れてしまった。
 エルハルトが作業を止めて立ち上がったが、その頃にはオッポは綿帽子のような毛を振りまきながら柵の出口へトテトテと走っていく。

「止めてくれマリウス! 頼んだぞ」

 ちょうど柵の辺りで番をしていたマリウスは羊の突進にたじろぎながら言った。

「わかった! ウォー」

 マリウスは持っていた篭を持ち上げて羊を嚇かしたが、羊は軽くそれを避けて、柵から走り出た。

「逃がしちゃダメー」とアフラが柵に上って叫ぶ。

「ごめーん」

 羊が牧場へ出て走り回るのを、マリウスは必死に追いかけた。ブルクハルトとカリーナがさらに加わって羊を追いかけていた。
 それを見ていたイサベラは思わず楽しくなり、笑いを堪えるのが大変だった。

「大丈夫かい?」と顔中羊の毛まみれになったアルノルトが声を掛けると、もう笑いが堪えられなかった。

「クッフフフ。アッハハハハ。もう可笑しくてダメ……」

 アルノルトは抗議の声を上げた。

「元は誰かさんのせいじゃないか……」
「フフッ。ゴメンなさい。でも、白いおヒゲみたいよ」

 エルハルトがアルノルトを見て笑った。

「確かに聖ニコラウスみたいだな」
「聖ニコラウスさんだ!」

 アフラもその顔を覗き込んで笑った。下働きのペーテルとカルバンも笑い出すと、アルノルトも天を仰いで笑うより無かった。
 イサベラはその後、毛を刈ることは流石に控えたが、カリーナの案内で羊毛集めの手伝いをした。クヌフウタと一緒に刈った羊毛を篭に集めると、それを持って洗い場に運んだ。
 それは思ったより遠い場所だった。牧場の続く丘を下り、川から水路を引いた水場まで歩き、その袂にある子牛一頭入れそうなくらいの大きな木桶に羊毛を入れた。

「これを足で踏んで洗うんですよ」

 カリーナは羊毛でいっぱいの木桶に水と洗剤を入れた。そこへ遅れてアフラがやって来て、瞬く間に裸足になって膝ほどの高さの縁を飛び越え、羊毛の上を歩くように足で何度も踏んで見せた。が、時に足を滑らせている。

「大丈夫かいアフラ?」

 心配そうにカリーナが聞いた。それは体調を気遣っての事だ。

「大丈夫。歩いてるだけじゃないのよ。隅の方まで満遍なく洗うの。イサベラさんもやってみる?」
「ええ!」

 イサベラは靴を脱ぎ、アフラの手を取ってその中へ入った。そしてスカートの裾を纏めて片手で持ち上げ、アフラと逆向きになって手を繋ぎ、歩を合わせて羊毛を踏んで旋回する。
 少し汚れが落ちた所で桶の横の栓を外し、さらに羊の毛を踏むことで羊毛は濁った水を吐いて、次第に綺麗になっていく。

「そうそう上手上手」
「流れてくー。楽しいわ!」

 イサベラはもう修道女の顔では無く、一人の少女の顔で思いっきり笑った。

「ふふ。でも私逹くらいだとまだ体重が軽くて、濯ぐ時に水捌けが悪いの」
「では! クヌフウタさんも来て下さい!」

 イサベラに呼ばれてクヌフウタは靴を脱ぎ、イサベラの差し伸べる手を取ってその後ろに並んだ。

「重さが丁度良いようですわ。いっぱい流れて行きますもの」
「それは私が重いって事かしら?」
「そりゃあ私達よりずっと長身ですもの……ねえ」
「じゃあこれに乗っかって一気に濯ぎますよ」

 アフラは足の動きを早めて行った。
 桶に水を足しながらカリーナは当惑顔だ。

「あら、シスター先生にも手伝って貰うなんて。悪いですわ」
「いいえ。せっかくこんな牧場に来たのですから、是非お手伝いさせて下さい」

 小さく歩みながら、次第にアフラが軽くステップジャンプを加えたので、二人もそれに習った。

「ウンタッタ・ウンタッタ」

 アフラはステップしながら何か三拍子のダンス曲を口ずさんでさえいる。
 三人が輪になって桶の上を小さくステップしながら周旋する姿は、俄作りの輪舞のようだ。
 狭い桶の上に三人がそうしていると、時々隣の人の足を踏んだ。
 足を踏みそうになって避けたイサベラが転びそうになってアフラにしがみついた。

「キャーッ」

 クヌフウタは倒れそうになったイサベラを支えようとしたが、その足に躓いた。
 そして三人とも桶に転び、服を水浸しにしてしまった。その時ばかりは思い切り笑った。

「アァ。一張羅なのに……」

 クヌフウタとイサベラは顔を見合わせて肩を落とした。
 裕福な修道院なら別だが、物資の少ない修道院で修道服は一着しか持ち合わせが無かった。エンゲルベルク修道院は当然後者だ。

「濡れちゃったものはどの道一緒ね。こうなったら……」

 アフラは尻餅を付いたまま桶に背を預け、足で羊毛を縁に押し付けた。
 すると素晴らしく水が吐き出されて行く。

「こうね?」

 イサベラも同じく横に並んで足で羊毛を押し拉いた。
 修道女にも令嬢にもあるまじき姿だ。
 クヌフウタは足の踏み場も無くなり、濡れた服を気にしながら桶から降りた。

「どこかで洗わなくては……」
「お着替えして行きますか? 家にありますよ」
「お借り出来ますか? お願い出来ましたらアニエスの分も」
「ええ。私やアフラの服で宜しければどうぞ」

 羊毛の洗濯が一段落し、その洗った羊毛を家の軒先に運んで戻ると、カリーナは二人を客間へと案内し、クヌフウタとイサベラは質素な村娘の服に着替えた。
 白いベールを外したクヌフウタは、明るい色のブロンドが目を惹き、白い粗服を着ても東欧のプリンセスという雰囲気がし、この上なく優美だった。尤も彼女は幼少までは本当にプリンセスだったのだ。
 イサベラも金髪の巻き毛で上流階級の雰囲気は隠せない。イサベラの服はアフラの伝統衣裳にも似た濃いオリーブ色の長いスカートに、コルセと呼ばれる黒のベストの姿だ。

「クヌフウタさん! とても似合ってます!」
「そうかしら? 貴女もとても素敵よ」
「クヌフウタさん程では」

 イサベラとクヌフウタは着替えながらお互いに褒め合った。
 自室で着替えて来たアフラは、着替え終わって出て来た二人を見て、服は自分達のものなのに、言葉に出来ないような気品の差を感じた。

「キレイ……」

 クヌフウタの端正な顔立ちはこの上無い程整っていたし、イサベラは背筋が通っていて踊り子のような長い四肢をしている。同じ服を着ても、自分達とは決定的に何かが違った雰囲気を湛えている。
 後から続いてやって来たカリーナも目を丸くして言った。

「まあ、お二人ともとてもお似合いね。ついでに服を洗って、乾くまでここでご休憩されたら如何かしら?」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

 クヌフウタはカリーナに頷きつつ、アフラへ歩み寄って来た。

「少し、診察をしましょうか」

 アフラは少し戸惑いつつ、「はい」と返した。

「体に辛いところは無い?」
「はい。もうありません。少し疲れやすくて、時々フラっと蹌踉けるくらいです」

 クヌフウタはアフラの額を触ったり、脈を取ったり、目の裏を見たりして、手早く診察をした。

「もう熱も無いし、大丈夫のようですね。しばらくは体を暖かくして、しっかり栄養を取る事です。体力を回復させるには、少し歩いた方がいいわね」
「良かった! 少し前に呼んで頂いたお医者様にも同じように言われたわ」と、アフラは手を合わせつつ言った。

「お医者様?」
「イサベラさんが呼んでくれたんじゃ?」

 イサベラは首を振った。

「私は呼んで無いわ」

 カリーナが言った。

「何でもオーストリーからいらしたと仰っていたわ」
「オーストリー!」

 そう聞いて、イサベラとクヌフウタは顔を見合わせた。それを聞けば誰が呼んだか自ずと想像が着いたのだ。
 しかしその可能性は信じ難いものでもあり、その名前は言う事が出来なかった。

「お心当たりが?」
「いえ……」

 次には羊の番をしなければならなかったアフラは、イサベラの手を引いて言った。

「イサベラさん、一緒に来て」
「ええ」

 イサベラはアフラに手を引かれて一面緑の牧場を歩いて行く。牧場には所々に白い羊の群れがいて、イサベラを避けるように移動していく。空には似たような形の羊雲が浮かんでいる。山を開いた牧場は傾斜地が多く、アフラは小さな丘になっているところへ歩いて行くようだ。
 その丘には白や黄色の花が咲いてる草場があった。

「綺麗!」

 イサベラが手を叩いて喜ぶので、アフラは満面の笑みを浮かべた。

「でしょう? ここでお花摘みしましょ」

 そう言うやアフラは坂を駆け下りて、花の香りを嗅ぎ、その花を一輪摘んでイサベラへ渡した。

「いい香りがするわ」

 イサベラもそう言って何度も花の香りを楽しんだ。
 アフラはそうしている内に近くの花を何本も摘んで、手に花束を抱えてイサベラの方へ向けて掲げて見せた。

「もうそんなに取って? せっかくのお花畑が無くなってしまうわ」
「いいの。これも立派なお仕事なの」
「お仕事?」
「この花はね、春のお祭りで使うの」
「お祭り?」
「そう。春のお祭りでは春の乙女達がね、祝福の花片を播いてパレードするの」
「それは素敵ね」
「こうして花片だけを集めてね」

 アフラは白い花片を手に集め、「エイッ」とイサベラの頭上へと放った。
 頭上から降り注ぐ白い花を、イサベラは両手を翳して受けた。不意の春の祝福にイサベラの胸は熱くなった。

「綺麗!」
「じゃあ今度は……エーイ!」

 アフラはもう一度花片を集め、空へ投げた。今度は思いっきり上の方へ。
 白と黄色の花の散華は風に煽られて草原に舞い落ちる。

「綺麗でしょう? お祭りではもっと沢山の花を播くのよ」
「綺麗……しか言えないわ。本当に天から降る祝福のよう」
「でも良かった。もうこんなに元気になったからお祭りに出られそう。病気だったから行くのを反対されてたの。せっかく春の乙女になれたのに」
「春の乙女って?」
「春の乙女はね、春の精霊なの。頭に花の冠を被ってね、ほら、あの時に着てた民族衣装を着るのよ」
「アフラさんの春の乙女姿はきっと素敵だわ」
「そんなあ。ところでアフラさんじゃなくてアフラでいいのよ。年だって一つ下だし、お友達なら気を遣っているみたいで変だもの」
「そうね。じゃあアフラ?」
「なあに?」

 イサベラは思わず笑った。
 アフラもくすぐったそうに笑っている。

「ふふ。呼び慣れないわ」
「イサベラさんったら」
「私もイサベラでいいのよ」
「それは……私が困っちゃうわ」
「いいから呼んで。お友達の印だもの」
「イサベラ……」
「うん。いい感じ」

 アフラは大きく首を振った。

「ダメダメ。呼び捨てなんて! それに今はアニエスさんって呼ばないといけないって、アル兄さんが」
「アニエスは洗礼名なの。天使って言う意味よ」
「素敵。じゃあ私はしばらくアニエスさんって呼ぶわ。今はシスターさんだし。兄さんにまた足を踏まれるもの」
「それもそうね」
「アニエスさん。きっとお祭り見に来てね」
「きっと私、見に行くわ」
「うん」

 二人は頷き合い、再び花を摘み始めた。
 それはとても心楽しい村の仕事だった。


 クヌフウタはその間、休憩もそこそこにカリーナの手伝いをした。
 先ずは自分とイサベラの服を水場で手洗いをして、テラスに置いてある物干しに乾かした。次にはさっき洗った羊毛をテラスの日の当たる場所に干し、そのついでに乾いた羊毛を空いた籠に取り込んだ。
 傍で洗濯物を取り込んでいて、感心したカリーナが言った。

「あなたはとても働き者ですね」
「いえ。皆様ほどではありません」
「修道女にしておくのは勿体ないくらいだわ」
「私にはこれしか無かったのです」

 日の当たるテラスには丸太を切って作った椅子が幾つか置いてあり、洗濯かごを置いた二人はそこへ座った。
 切り口がゴツゴツしているので、少し座り心地は良くない。

「貴女はどうして修道女になったのですか? 綺麗だし、頭もいいし、よく見れば年もエルハルトとそんなに違わなそうなのに」
「ええ……」
「そんな希望一杯の頃に修道女になるなんて、何か理由があるのではなくて?」

 するとクヌフウタは言いにくそうにした。

「少し、複雑な事情があるのです……」

 話しの途中でブルクハルトとエルハルトが休憩にやって来て、その話しを小耳に挟んだエルハルトが言った。

「母さん。無理に言わせちゃいけないよ」
「シスター。言いたくない事は言わなくていいですからな」

 そうブルクハルトが声を掛けるが、クヌフウタはもう言おうとしていた。

「構いませんわ。私には亡くなった婚約者がいたのです」
「これは、聞いてはいけない事だったかしら」

 そう言うカリーナにクヌフウタは首を振った。

「いいえ。でも、その婚約は極めて政略的なものでしたから……。本当の理由はそれを断るために修道院に入った振りをしたんです。でもそれも、振りでしたから、一番の理由はやはり家の事情です。帝国アハト罪ってご存知ですか?」
「アハト? 八つ?」

 皆首を傾げたので、ブルクハルトが咳払いをして言った。

「判事でもある私の出番のようだ。その一族の領土を誰もが略奪許可になるっていう非道い刑罰の事ですな?」
「はい。私は修道院に入ることで、その結婚を拒みました。その事もあって両家の対立は深まり、私の家は帝国アハト罪に問われました」
「まさか! じゃあ少し前の戦争の関係で?」

 クヌフウタは小さく頷いた。

「私達家族はどこへ逃げても追い掛けられ、行く所行く所が戦場になってしまいました。婚約者の家は敵方になり、家領は暴徒に奪われ、何処にもいられなくなりました。知った家に隠れ潜んでも、次々にそこが戦場になったのです」

 クヌフウタはボヘミアの戦争で命からがら逃げ惑った事を思い出した。その途端、その顔は悲痛に歪み、そして両手で顔を覆った。

「私のせいです……」

 そしてそのまま話しは止まってしまった。精神的に大きな傷を負っているようだ。

「シスター、ここは大丈夫ですよ。何かあったらここへ逃げて来ればいい。ウーリならそんな無法は絶対させない」

 エルハルトが動揺しつつ、そう声を掛けた。

「ありがとうございます。ここは皆さん優しい方ばかりですね」

 クヌフウタは涙を拭ってそう言った。

「しかし、そんな無法があったなんて! 非道いにも程を越えている!」

 エルハルトはその過去に対して悔しそうに言った。
 カリーナはいたたまれない気持ちになって言った。

「お可哀想に……。ご家族はご無事でしたの?」
「家族は逃亡の中で散り散りになり、父はその戦争で戦死してしまいました……弟は捕虜になり、ついこの間、その罪が赦免されました。母と小さかった妹は廷臣に匿われて、逃げ伸びました」
「まあ……お辛かったしょう」
「それでも、救いはあるものです。私には修道院で施療院を開いていた叔母がいました。私は叔母の修道院へ匿って貰って、そこで叔母と共に戦災に遭った人の救護や病人のお世話を手伝って過ごしていたのです。そこには戦災を逃れ、救いを求めてやって来る沢山の人で溢れていました。私の医療の心得はそこで学んだのです」
「まあ! とても偉いのね」
「いいえ。私にはそうして修道女になるしかありませんでしたし、それによって私が救われたのです。感謝よりありません」
「立派な叔母様なのね」
「ええ。聖女の再来だと皆に慕われていたものです。でもその叔母も少し前に……病気で亡くなってしまいました」
「まあ!」
「私はご覧の通りまだ未熟者ですが、その後継者に指名されました。その聖業を継いで行かねばなりません」
「そんなにお若いのに? 修道院の院長さん?」
「正式にはローマの外れにあるアッシジの修道院に行って、承認を受けてからです。徒歩で巡礼をしながら、そこへ向かう旅をしているのです」
「そうでしたか。ローマまで」
「はい。ただ、フランチェスコ会は私財を持ってはいけません。旅の間もお金を持てません」
「無一文でそんな長旅を?」
「はい。ですので馬車にも乗れません」
「……そんな無茶な!」

 エルハルトは目を見張って驚いた。

「私達はお金のやり取りを禁じられています。全ては寄付で賄うのです。教会にもたくさんの人がいますが、全ての人が寄付で生きられるようにする事は、とても大変なことです」

 ブルクハルトは考え込んだ。

「なんと大変な……元手が無いとやっていけないでしょう。命の危険すらある……」
「施療院は無料ですが、その分寄付が入ります。しかし薬は高価で、寄付くらいでは間に合いません。手仕事や写本をしても、とても間に合いません。そもそも食糧不足で食べるにも皆が困っている有様です」

 クヌフウタはここにはいない誰かに問いかけるように、空に向かって言った。

「こんな小さな私に、教会を支えていく事が出来るのでしょうか……」

 クヌフウタは涙ながらに悲嘆にくれた。
 カリーナはその肩にそっと手を置いて言った。

「立派な叔母様があなたを信じたのでしょう? あなたも自分を、まず自分から信じてあげなきゃ。あなたなら大丈夫。とても立派だわ」
「ありがとうございます」

 クヌフウタは礼を言いながら、大粒の涙を零した。
 その姿にエルハルトは思わず涙が滲み、後を向いてしまった。
 すると後ではブルクハルトも貰い泣きしている。

「何でも言って下さい! 何でも支援させて戴きます!」

 クヌフウタの手を握り、ブルクハルトはそう言った。

「ありがとうございます。では早速ですが……逗留する修道院にシーツと毛布、食器類も少ないのです。カップや薬缶、鍋もあるといいですね」

 クヌフウタは次々と大量の日用品を要望した。その品目の多さにブルクハルトは途中で覚えられなくなり、顔色を変えてメモを取りに走る程だった。
 クヌフウタはそうした寄付を取り付ける遊説をしながら、ローマとフランチェスコ会の本拠のあるアッシジを巡礼する途上にあった。しかし、お金を全く持たない身では、アルプスの山を越えられずにいたのだった。

 ホルンの音が牧場に響く。
 ウーアホルンと呼ばれる牛の角で作られたそれを鳴らしているのはエルハルトだ。
 その音を聴いて、牛逹、そして羊達は家畜小屋へと帰って行く。

「あっいけない。そろそろ帰らなきゃ」

 アフラはその音を聞き、両手いっぱいの花を抱えて帰り道に着いた。羊逹の方が足が速く、それを追い掛けるような格好だ。アフラとイサベラが家に着いた頃には、もう日が傾いて来ていた。
 二人が家に入るとアルノルトにすれ違い、イサベラにアルノルトが言った。

「山の日が沈むのは早いんだよ。そろそろ帰らなきゃ帰る途中で日が落ちるかもね。どこまで帰るんだい?」

 アルノルトは心配になってイサベラに聞いた。すると彼女は少し狼狽して言った。

「エンゲルベルクまで帰らないといけないの。買い出しの馬車と約束をしていたのだけど、待ってくれているかしら……」
「エンゲルベルクって言ったらあの山の反対側まで回って行くから、馬車道だと道のりはかなりあるね。歩いて行くルートもあるけど、かなりの登山道だよ」

 アフラは家を指差して言った。

「家に泊まって行けばいいわ」
「でも、門限があって……騒ぎになるわ」

 イサベラは逡巡した。それが想像できないほどの大事になりそうだとアルノルトは気が付いた。

「これから馬車で村のお婆さんのところに羊毛を少し届けるんだ。教会がすぐそこだから一緒に乗って行って、そこで帰る方法を相談してみるといい」
「ありがとう。私、そうしてみます」
「じゃあ、すぐ支度出来るかい」
「ええ」
「私も行く」

 アフラは不安そうな顔で言った。

「馬車はもう三人で定員オーバーだ。病み上がりだし、家で大人しくしてろ」
「けちーっ!」

 アルノルトは客間へ行き、両親とクヌフウタに声を掛けた。

「そろそろお嬢さんはお帰りの時間だそうだよ」

 イサベラも後に続いて言った。

「クヌフウタさん、そろそろ帰りましょう。もう門限に間に合いません」
「ええ。そうですね。つい長居をしてご迷惑をお掛けしてしまいました」
「いえいえ。こちらこそ感動的なお話しを聞かせていただきました。また、いつでも来て下さいね」

 アルノルトはそんなカリーナに言った。

「サビーネ婆さんに届けるついでもあるから、シスターを送って来るよ」
「そうね。じゃあそのついでに買い物もお願い。夕食には帰って来てね」
「あ、うん」

 クヌフウタは窓に干していた修道服を手に取った。まだかなり湿気っている。

「着替えがまだ乾かないようね」

 カリーナが修道服を見て言う。クヌフウタは仕方無そうに笑った。

「多少生乾きでもそのまま着て帰ります」
「山はまだ寒いんですよ。風邪をひいてしまいます。お洋服は差し上げますから、着て行って下さい」
「まあ、お母さん。いいのですか?」
「ささやかなご寄付だと思って下さい。とてもお似合いですし」
「感謝致します。本日は大変お世話になりました」
「こちらこそお手伝い頂いて、ありがとうございました。アフラを診て戴いた事も感謝の想いで一杯です」

 クヌフウタとイサベラの帰り支度は干していた修道服を畳んで鞄に入れるくらいで済んだ。
 アルノルトは家畜小屋に馬を引き出しに行きながら、エルハルトの方に顔を出して言った。

「ちょっと送って来るよ。兄さん、後はよろしく頼むよ」
「ああ。やっておくさ。マリウスもいるしな」

 エルハルトはマリウスの肩を叩いた。

「僕何するのー?」
「羊を小屋に入れるぞ」

 そう言ってエルハルトとマリウスは牧羊犬のベルを連れて牧場へと出て行った。
 荷馬車を引き出して来たアルノルトは、玄関口からイサベラ逹を急かした。

「シスターさん方。準備はいい?」
「皆様、大変お世話になりました。ご寄付もお約束いただき、感謝致します。今日はこれにて失礼致します」

 家の戸口で礼を述べるイサベラに、送りに出たカリーナが言った。

「こちらこそ手伝って頂いてありがとうございます」

 アフラが駆け寄って来て、イサベラに不安そうに言う。

「また来てね」

 イサベラは頷いて手を差し出した。
 アフラはその手を取り、静かに握手をした。
 荷馬車の真ん中には御者であるアルノルトが陣取っていたので、イサベラはその右手側に乗り、左手側にクヌフウタが乗った。二人とも目の覚めるような金髪で村娘の服装なので、ぱっと明るく花が咲いたようだ。

「わあ。アル兄さん、両手に花ね」

 アフラの声に照れを隠すように、アルノルトは一鞭入れて馬車を出した。

「皆さんさようなら!」

 クヌフウタは大きく手を振った。イサベラもそれに習い、見えなくなるまで手を振っていた。

「今日のことは、心に栄養を貰ったよう……どんな言葉でも相応しく無いと思えるくらい」

 イサベラはシスター風の口調をもう止めてしまったように、そう呟いた。

「そうね。私も栄養を戴いたようです」

 クヌフウタもそれに深く頷いた。
 アルノルトは二人を見比べ、その栄養というのを想像してみたが無理というものだった。アルノルトにとってはいつもの風景なのだから。

「それよりお嬢さん。家は遠いんだろ。ちゃんと帰れるのかい?」
「馬車はエンゲルベルクでこの近くに用事があるっていう人に広場まで乗せて貰ったの。戻る約束の時間はもう過ぎてしまったけど、きっと広場へ戻って来てくれると思うの」
「ちょうどお婆さんの家は広場が見えるくらい近くだ。寄ったついでにそこで待っているといいよ。外で待っていられるご身分では無いだろ?」

 ご身分と言う言葉には少し皮肉を混ぜている。しかし、イサベラは一向に気にした風もなくニコリと笑った。

「そうさせていただくわ。お心遣いありがとう」

 言葉にしてイサベラは思った。アルノルトの心遣いはとても自然でいて最善のところがある。迷う事がなくて心地が良い。イサベラを取り巻く世界では、上下関係が間に入っているので心遣いはとても窮屈なものになる。かと言って身一つになって見れば、身の回りのことすら一人で出来ない事がここ最近の修道院の生活で判った。何かとクヌフウタを頼りっぱなしだった。

「本当に私、一人では何も出来ないわ。今日のことはあなたのおかげね」
「僕は何もしてないよ。喩えるなら……そうだな。広い野や山のおかげかも知れない」
「野や山の?」
「ここにいるとちゃんと考えて生きないといけないし、それに、野に出れば暗い考えなんて何処かへ行ってしまうだろう?」
「ホント! 本当にそうね」

 イサベラはもう一度遠くなってしまった共同牧場の方を振り返った。するとそこにはアフラとカリーナがまだ見送っていた。イサベラが手を振るとアフラは遠くからも大きく手を振り返している。
 そしてイサベラは心に焼き付けるように、そのアルプの野の風景を長い間見ていた。


 ビュルグレン村の広場に着いたアルノルトとシスター一行は、サビーネの家に羊毛を持って入って行った。

「サビーネ婆さん。羊毛持ってきたよ」
「ああ。アルノルトかい。ありがとよ。手伝いに行けば良かったのだけど悪いね」
「ああ、いいよ。人はいっぱい居たから。採りたての羊毛ここへ置いとくよ」
「ああ。ありがとよ。ところでその人逹は?」
「ああ、えーと、ちょっと遠方の修道院のシスターさんだよ。クヌフウタさんとアニエスさん」
「お邪魔致します」
「アニエスです」

 二人は丁寧に礼をしたが、サビーネは訝しげな目を向けた。

「修道服を着てないシスターなんているのかい?」
「ああ。成り行きで牧場を手伝って貰って、修道服を汚しちゃったんだ。遠くて馬車が無いと帰れないんだって。この辺にずっと止まってる馬車とか無かったかな?」
「馬車ねえ。今日は確かによく馬車が通るが……」

 アルノルトはイサベラを振り返って言った。

「もしかして、この辺をうろうろして待ってるのかも知れない」

 イサベラも目に希望を灯して頷いた。

「ええ。きっとそうだと思います」
「サビーネ婆さん。しばらくここでこの人逹を待たせてあげてもいいかい? 少ししたら馬車が来るかも知れないんだ」
「そりゃまあ構わないよ。じゃあ、そこの窓際の編み物の椅子にでも座って広場を見てるといいよ」
「ここならよく見えます。クヌフウタさん」

 イサベラはそう言ってクヌフウタを振り返る。

「アニエスはここで馬車を見ていて貰えますか? 私は教会と相談して来ます。シュッペルさんから沢山ご寄付を戴けると言うので取り次いでいただくのです」
「はい。ここにいます」
「少ししたら戻ります」

 クヌフウタはサビーネにも目礼をしてから、家を出て行った。
 彼女が広場を歩いて行くのをイサベラは窓から見送った。

「どうぞ気兼ねせず、座って」

 サビーネが椅子を勧めると、イサベラはゆっくりと座った。

「お心遣いありがとう御座います」
「いいえ。ゆっくりして行ってね」

 サビーネは言ってから気が付いた。イサベラはまるで最高級の椅子のように恭しく椅子に座ったことを。

「なんだか村娘風の方がらしくていいね。お姫様にしてはオテンバおっと……」

 アルノルトは危ないところで口を止めた。イサベラは少し怒ったフリをしている。アルノルトは少し居心地が悪くなり、思い出したように言った。

「サビーネ婆さん。何か買ってくる物はないかい? 頼まれた買い物があるからついでに行って来るよ」
「そうだねえ。じゃあパンを一斤買って来てくれるか」
「わかったよ。じゃあちょっと行ってくる」

 アルノルトは足早に家を出て行った。
 残されたイサベラは外を眺めながら、馬車をしきりに探していた。
 そこへサビーネがジュースを入れて持って行った。

「お口に合うかどうか判らないが、この辺りで採れる山葡萄のジュースさ。飲んで行っておくれ」
「まあ、ありがとうございます。いただきます」

 イサベラは山の作業の後でちょうど喉が渇いていたので、一気に飲み干すような勢いで飲んでしまった。もちろん途中ではしたないと止めたが、甘酸っぱささが口中に広がり、目をしばたかせた。

「甘くておいしいです」
「それは良かった。ところであなたはお姫様だって?」

 イサベラはどうして判ったのだろうと思いながら言った。

「あっ。私は貴族の出で、修道院に最近入ったんです」
「そうかいそうかい。じゃあ向かいの教会と関係ある方かい?」
「ええ。一度聖歌隊のお手伝いに来たことがあるんですよ」
「これからどこまで帰るんだい?」
「それがエンゲルベルクの方なのです」
「エンゲルベルクって言ったらあの山の向こう側じゃないか。今からじゃあ日が落ちてしまうねえ」
「ええ。それでアルノルトさんがお気遣い下さいまして、馬車で送って頂いたのです」
「そうかいそうかい。あなたはとても正直そうな方だから言うけども、貴族の出だということは、この辺では言わない方がいいねえ」
「はい。アルノルトさんにもそう言われました」
「それにあなた、馬車でよく来ているでしょう? 村の人に見つかって一騒ぎ起こるといけない。気取られないようにね」

 イサベラは驚きを隠せずに言った。

「それをご存じでしたか! この村にはそんなに貴族への反感があるのですか?」
「今まではそうでもなかったが、今はちょっとした事件の最中だからね」
「この村を王家が狙ってるという話なら誤解だと思います」
「あなた、知ってるの?」
「ええ。老王様はそんな横暴な事をする方では無いと思うのです。信義を重んじるお方ですから」
「そう……そうだといいのだけれど」

 サビーネはアニエスをしばらくじっと見ていた。それは少し驚いた顔から、こんな人もいるんだという笑顔に変わった。

「ふふふ。若い人っていいねえ。信じることにも力がある」
「力?」
「ああ。年を取ると悪知恵が付いて信じる力が無くなって来るのさ。それでいらぬ諍いも増える。不信があってはお互いとも反目してしまうばかり。それは庶民だろうと、王侯貴族だろうと同じ事。そんな老人ではなく、これからはあなたのような若者が国を引っ張って欲しいものだわ」
「買いかぶりです。そのようなことは……」
「手前味噌ながらうちの孫、あのアルノルトを見ててもね、そう思うのよ。何かこう、見えない約束の地を、最善の場所を肌で感じ取って、そしてそれを信じる力がある。行動それ自体は小さな事に見えてもね、その信じる力が人の進む力になるのよ」

 イサベラはその言葉には思い当たる事があった。忘れられない出来事が。

「仰る通りだと思います。アルノルトさんは見えない何かをいつも見てるようですわ。ただ、聖書を学ぶ者としてお尋ねしますが、約束の地って、エルサレムにあると言われてる?」
「ふふ。そうじゃないさ。そしたら約束の地はほんの少しの人しか住めないじゃないか。あれだけ何度も十字軍を送っても争いと憎しみが増えるだけ。それじゃあ約束の地は手に入らないさ。本当の約束の地はね、聖書でも言い表せないし、目にも見えない。ここにあるのさ」とサビーネは胸に手を当てた。

「生まれて来るものに生きて行く場所があるってことさ。そこで精一杯生きるって事が約束なのさ」

 イサベラは恥じた。愚かな質問をしてしまったと。そして思った。このお婆さんやアルノルトが見ているという見えない約束の地、それは即ちこの村の事なのだろうと。そして自分もそう生きれたならと。

「感銘しましたわ。聖書を学ぶ身の私が、逆に大事なことを教わったようです」
「こうしてすぐに分かり合えるのも若い人の特権だね。年寄りはあれはどうだこれはダメだと口うるさくてダメねえ」
「いえ、そんなことは……」
「不信ばかり育てても詮無しだろうに」

 何か老人達に苦労でもしている風な口ぶりに、イサベラは少し笑った。

 しばらくすると、長いパンを抱えたアルノルトが帰って来た。

「ああアルノルト。おかえり」
「ただいま。これ買ってきたよ」とアルノルトはパンをサビーネに渡す。

「ありがとうね。シスターとお話で盛り上がっていたところさ」

 サビーネとイサベラは目で肯き合って笑っている。

「何か内緒話? 馬車はまだ来てないみたいだね」

 聞かれたイサベラは首を竦めた。

「ええ。でももうじき来ると思うわ」
「そろそろ太陽が山に隠れて来た。馬車はもう行ってしまったんじゃないかい? 教会を頼ってみる方がいいかも知れない。泊まる場所くらいはあるだろう」
「ええ……でも……」

 イサベラはひどく狼狽した。今は修道院に身を隠している身。イサベラが一日不明になれば、捜索願いが出て、居場所が王家に知れてしまうかもしれない。

「クヌフウタさんが教会に聞いてくれているかも知れませんわ」

 アルノルトはその表情に、やはり大事になりそうだと悟った。

「大丈夫かなあ」

 そう言っていると、黒の修道服に着替えたクヌフウタが和やかな笑顔で帰って来た。

「只今戻りました」
「もうお着替えになって。この服は?」
「教会にあった古着を一つ戴きました」
「クヌフウタさん、ズルい」
「フランチェスコ派はご寄付戴いたもので生活しなければなりません。これも神の賜物です」

 着替えた服を胸に抱えつつ、クヌフウタは十字を切り、そして続けた。

「馬車はまだのようですね」

 イサベラが椅子から窓を見てから言った。

「まだ、姿は見えません。何か良い知らせが?」
「実は今し方、教会の方からご紹介を戴きました。この隣の村にラッペルスヴィル伯の別邸があって、エリーザベト様がご在宅だそうです。私は彼女を頼ってみようと思うのです。貴女もそうする?」
「私は……」
「エリーザベト様は幾つもの修道院の守護権を持って、支えて来られた方だそうです。一度お会いしておくのもいいわ」

 しかし、現在修道院に身を隠しているイサベラの立場と賓客のクヌフウタの立場は違っていた。

「どちらかが修道院に帰らなければ騒ぎになります。私は今日中に着くものならば、努力してみます」
「そう言われてみればそうですね。では別行動にしましょうか」

 アルノルトはそれを聞いていて、考えながら言った。

「アニエスお嬢さん。馬車が来ないんだったら、一緒に泊めて貰う方がいい」
「私は……帰らなければ。騒ぎになると困るのです」
「今日中にエンゲルベルクに帰ろうって言うなら、今すぐ出ないと無理だ」
「なら私、歩きます。アルトドルフにまで出れば辻馬車も御座いますし」
「わかった。それならやっぱり僕が馬車で送ろう」
「そんな。私の身勝手で悪いわ」
「ラッペルスヴィルの別邸はここから脇道を回って、馬車で行けばすぐだよ。まずクヌフウタさんを送って、そして別邸からアルトドルフはほんの一足だ。そこでまた考えればいい。夜になっては危険だし、出るなら少しでも早い方がいい。馬車がこっちに向かっているなら途中ですれ違えるかも知れないし」
「でも……あなたの帰りが遅くなってしまうわ」
「これは僕の意志だよ。お嬢さんの意志はノー? それともイエス?」

 顔に光輝を見せたイサベラへ、アルノルトは手を差し出した。イサベラは頬に少し恥じらいを見せながらその手を取って立ち上がった。

「じゃあクヌフウタさんも。別邸へは僕がお送りしましょう」

 アルノルトがクヌフウタにも恭しく手を差し出すと、クヌフウタはその手を取って、

「ご親切、感謝します」と礼を言った。
 アルノルトは案内するように、出口の方を差し示し、二人を先導して歩いた。

「サビーネ婆さんちょっと出てくるよ」とアルノルトは戸口で一声を掛けて行く。

「ああ。あんまり遅くなるようだと注意するんだよ」

 サビーネは戸口に迎えに出て来た。

「わかってるさ。さあ乗って」

 イサベラはサビーネの前で礼を言った。

「お婆様。美味しいジュースをごちそうさまでした」
「大変お世話になりました」

 クヌフウタもそこに並んでお礼を言った。
 三人が馬車に乗って去って行くと、サビーネはそれを戸口で見送って呟いた。

「若い人はいいねえ」


 シャトドルフは隣村だが、そこからはラッペルスヴィル領、別の領の扱いだった。
 農園を横断する石積みの塀の境を越え、程無くして一行の馬車は隣村のシャトドルフに到着した。
 ラッペルスヴィル別邸のアーチの前で、クヌフウタは馬車を降りた。

「では、私はここで。アニエスさん。道中危険なようでしたらここへ戻っていらっしゃい。主のお導きのあらんことを」
「はい。クヌフウタさん」
「アルノルトさん。ご親切にお送り戴き、感謝致します」

 アルノルトは言った。

「また村に来て下さいね。異国のお話を聞かせて下さい」
「私もこの村では大変勉強させて戴きました。お父様にはご寄付もいただきましたし、お母様には励ましていただきました。お兄様にも。また寄らせていただきたいと思います。アニエスのナイト役をよろしくお願いしますね」
「はい。お任せ下さい」

 アルノルトは胸を一叩きしてから馬車を発した。
 シャトドルフからアルトドルフまではほぼ真っ直ぐの下り道、馬車ではあっという間に到着する。アルトドルフ広場には市が開かれ、とても活気が溢れている。その先にある辻馬車の発着所まで着くと、そこには大きな荷物を担いだ厳つい男達が行列を成していた。

「もうこの辺りで降ろして頂いても大丈夫です。辻馬車を見つけます」
「辻馬車には行列が出来ているよ。それにこの辺は君には少し危険なようだ。暗くなる前にもう少し先のウンテルヴァルデンまで行くよ」
「まあ! あなたには何て言ったらいいのか……」
「クヌフウタさんみたいに、素直にご親切感謝しますって言っておけばいいよ」
「お世話になります……けど、私のプランはもう全部スルーなの?」
「殆どノープランに見えるよ?」
「……一応あったわ! でも、この先はもう判らないわ。あなたにお任せします」

 馬車はアルトドルフの町を通り過ぎ、湖畔に差し掛かった。峡谷を満たす湖水はエメラルド色の澄んだ水を揺らしている。
 しばらく行くと展望が開け、夕日が湖に映え、キラキラとゆったりした波を湛えている。

「まあ! 綺麗だわ。一日の終わりにこんな風景を見ることが出来るなんて、宝物ね」
「あの日が隠れたら道が見えなくなる。ちょっと急ごう。しっかり捕まってて」

 アルノルトは夕日に見とれるイサベラに構わず馬車に鞭を入れて、馬の足を速め、次第に速度が上がっていく。
 山道に入ったため道も悪くなって馬車の揺れがひどくなっていく。急に向かいから馬車がやって来て、アルノルトは大きく道を避けた。路肩の大きな石に躓いたのか、馬車が大きく跳ねた。

「アァ!」

 イサベラは体のバランスを失って、荷馬車から振り落とされそうになった。手を出しても前方には何も掴むところが無く、前の空間へと落ちて行く。

「危ない!」とアルノルトは驚いて手綱を放し、倒れ行くイサベラに手を伸ばした。
 イサベラの目の前にはもの凄い速度で回転する車輪と流れてゆく地面があった。イサベラの体は御者台の下で宙に揺れ、アルノルトの腕に抱き付くようにして支えられていた。手綱を失った馬車はそのまま容赦ないスピードで走り続ける。
 イサベラはアルノルトの両腕にさらにしがみ付き、腕に小さな胸が押し付けられた。アルノルトは一方の手を持てるところを探って、手を動かした。

「ちょっと何処を……」

 イサベラは恥ずかしさに少し身じろぎをしたが、アルノルトは御者台の縁で足を踏ん張り、一緒に落ちないようにするので精一杯だ。

「馬鹿。じっとして。落ちそうなんだ!」
「戻して……」
「今、引っ張ってる」
「止めて……」
「危ないから! もっと登って来て!」
「あの……どこに掴まれば?」
「どこでもいい。僕の手とか、足とか!」

 イサベラは言われた通り、アルノルトの手を必死でよじ登り、次に足に捕まった。そこでアルノルトは一方の手で肘を捕まえ、体を起こし、イサベラは持ち上げられ、体を御者台の下段に横たえた。そしてすぐに馬車の縁を掴み、大きく息を吐いた。

「しっかり掴まってて!」

 アルノルトはイサベラにそう言葉を掛けて、意を決したように立ち上がり、走る馬の背に飛び乗った。そして馬の口元の手綱を引き、「どうどう。どう」と馬を止めた。
 アルノルトが馬を振り返ると、イサベラは御者台に座り直し、恐怖の余韻に震えていた。

「大丈夫だったかい?」

 アルノルトが馬から降りると、イサベラもそれに習って馬車から降り、肩で息をしながらその場に蹲った。

「怪我は無い?」

 頷きながら、イサベラは恥ずかしくてアルノルトを見ることが出来なかった。

「怖かった……馬車ってこんなに危ないものだったなんて」
「貴族用の馬車だと囲われて見えないから判らないんだろうね。毎年馬車で死ぬ人がいるんだ。注意して乗るのは当然の事だよ」
「あなたこそ馬に飛び乗ってしまったわ。怖くないの?」
「僕だって怖いさ。ちょっと命懸けだったもの」

 イサベラはアルノルトの手が震えているのを見て、自分がしたことを知った。アルノルトは命を懸けるような行為をして、この危機を救ってくれたのだ。ちょっとした不注意で命を落とすこともある。それがこの自然の中の暮らしだった。

「私また、悪い事を……」
「いや。僕が急に速く走り過ぎたせいだ。何かあったら顔向け出来なかったところだ。何ともなくて良かった」

 イサベラはさっきはアルノルトの腕に抱き付いていたことを思い出して顔を赤らめ、不意に背を向けて歩を進めた。アルノルトはその姿をご機嫌を損ねたのかと心配げに見ていた。不意にイサベラは控えめな口調で言った。

「私……ここから歩きます」
「無茶を言うんじゃない。お嬢様をこんなところで放り出せるか。ここまで来たらもう半分来たようなものだ。最後まで行くよ」
「じゃあ、ゆっくり行って。お願い。私も送ってもらったアルノルトさんに何かあったら、アフラさんやご家族に顔向けできないわ」
「わかったよ。そうすることにする。どうせもうじき道が暗くなる。それまでに距離を稼ごうと思ったんだけど、仕方ないね。じゃあ早く乗って」

 二人は馬車に乗り、再び夕日の沈みゆく湖の畔をゆっくりと走っていった。イサベラはずっと言葉もなく沈んでゆく夕日を眺めていた。夕日が地平線に消えた後も、空は紫色のグラデーションを視界一面に描いている。淡い月と星が見え始めていた。

「綺麗……」

 イサベラはそう呟いた頃には、もう木陰の下では道が見えない程に暗くなっていた。そうなると、馬車は歩いているくらいの速さしか出せなかった。
 山道の暗い森の入り口でアルノルトは馬車を止めた。そして荷台にあったランプを取り出した。

「ここから先はランプが要る。歩いていたらランプも無かったろう? まあ油が最後まで保つかは判らないんだけど」

 イサベラは森へ続く道の暗さを見て、アルノルトがいてくれて良かったと思った。一人歩み出した小さな旅に、アルノルトがいてくれて良かったと心からそう思った。

「感謝します……主の巡り合わせに」
「巡り合わせか……。お母さんもそんなことを言ってたな。僕の叔父さんが山奥に隠れ住んでいてね。偶然にその家を見つけた事があるんだ。叔父さんは暗闇でも道が見えていたな」
「山の人?」
「ああ。息子のジェミも見えるんだよ。信じられないけど、星の明かりでも見えるんだってさ」
「まあ。素敵なことね」

 そうして少し進むと、ランプの火が急に細くなり出した。

「えっ。もう油が無くなって来たか!」
「そうなの?」
「人事じゃないよ。真っ暗になると、ここからの山道は険し過ぎて無理だ。引き返すしかないか」

 イサベラは思い出して言った。

「じゃあ、やっぱりクヌフウタさんと一緒にラッペルスヴィル邸を頼ろうかしら?」
「それならまた引き返すけど、それで大丈夫かい?」
「ええ。無理はしない方がいいでしょう?」

 アルノルトは広い所へ出ると馬車を巡らせ、今来た道を戻った。日が山の向こうに落ちても、まだしばらくは明るさが残っていて、道は明るかった。

「火が消えた。でも今日は思ったより日が長くて良かった」

 アルトドルフの町中を抜けて、農園への真っ直ぐな道を行くと、ラッペルスヴィル邸は見えて来た。
 その入り口のアーチの前で馬車を止め、二人は馬車を止めた。
 アーチの中は貴族の私領である為に人を拒む雰囲気が漂う。

「送ってくれてありがとう。ここでいいわ」

 馬車を降りるイサベラの面持ちはとても不安そうだ。
 アルノルトはランプを持って馬車を降りた。

「僕も行くよ。油を少し分けて貰おうかと。行こう」

 二人はアーチを潜った。花壇を両脇に石組みの平らな道が続いていた。空がまだ薄青い光を帯びているのでまだランプが無くても周囲が見えた。広い庭を歩き、教会風の高い塔のある石造りの大邸宅が見えて来るとイサベラは流石に威圧感で先を躊躇した。

「なんだか怖いわ」

 イサベラが小さな声でそう言って立ち止まったのでアルノルトは振り返り、

「お先にどうぞ」
「あなたが先に行って」
「まずは君の事なんだから、自分で言わなきゃ道は開かないよ」
「ええ……でも心の準備が……」

 そんなやり取りをしていると、庭近くの小屋から白い服の少年がやって来た。

「迷子かな。かわいいお客様だ」

 手には一輪のバラを持ち、クルリと回すその仕草は香りを嗅いでいるようだ。背格好はアルノルトとほぼ変わらないが、白い繊細な刺繍入りのチュニックを着ていて、痩せっぽっちな貴公子のような雰囲気を湛えている。

「私はただ、ノックするには扉が大き過ぎてどうしようかと」
「扉の横のベルを鳴らすといい」
「ありがとう。あなたはここの人?」
「そう……だね。一周してきたけどここは狭い領地だ」

 アルノルトは不審に思って言った。

「見かけない子だね。どこの子だい?」
「僕は誰でもなかったけど、小さな領主になったんだ」
「小さな領主? ここはラッペルスヴィル伯の農場でエリーゼ様の別邸だよ」
「ああ。彼女のものであり、同時に僕のものでもある」

 アルノルトにはその言っている意味がさっぱり分からなかった。しかし、イサベラはいつに無く弾んだ声で言った。

「あなたも? 私も小さな領主よ。亡くなったお父様から相続した小さな古城があるの」
「それは奇遇だね。普通の人かと思ったら凄い人だね」
「今は普通の人でいいの」

 イサベラは扉に辿り着き、横にあるベルを探したが見つからない様子だ。

「ベルはどちらかしら?」
「目の前にぶら下がっているよ。その飾り紐を引くんだ」
「飾り紐? これね」

 イサベラは二本ぶら下がっている飾り紐を両方引いたが何も動かなかった。青年を振り返ると笑って言った。

「どちらか片方だけでいいんだよ」

 イサベラが短い方の飾り紐を引くと、その上でベルが傾いて一度鳴った。ベルは天秤状になった釣瓶竿の真ん中に付いていて、天秤の両端に飾り紐が付いていたのだ。
 戸口には厳めしい顔をしたルイード・ブリューハントが出た。イサベラは一瞬で逃げ出したくなった。

「どなたかな」
「夜分に突然訪問致しまして、大変失礼を致します。クヌフウタ・ド・プシェミスルのご紹介により参りました。私は……」

 イサベラが恐る恐る大仰に挨拶する隣でアルノルトは飄々と言った。

「やあブリューハントさん。この人泊めてあげてよ」
「ああ、シュッペルさんのとこの。このお若いお嬢さんは知り合いか?」
「ああ。送って来たんだ。シスターのクヌフウタさんが先に来ているはずなんだ」
「ああ、あのシスターのお連れ様ですかな。エリーザベト様にお取り次ぎ致しましょう。お名前を」
「私はイサベラ・アニエス・ド・カペーと申します」

 イサベラはそう名前を告げる。ベルの音を聞いて玄関前の階段を降りていたエリーザベトは、イサベラの名を聞いて戸口に駆け付け、長いスカートを広げつつ腰を低くし、最敬礼した。

「これは! ブルグント公女様。このような所までようこそおいで戴きました。お話は先に来られたクヌフウタ様から伺っております」
「お久しゅう御座います、エリーザベト様。突然押し掛けましたご無礼をお許しください」

 礼を返すイサベラの言葉にもエリーザベトはまだ敬礼を崩さなかった。

「こちらこそこのような場所でご無礼を。貴女様が王城から脱し、ご無事で在られました事は誠に僥倖です。自由伯領の政変はさぞご心痛のことでしょう」

 アルノルトもブリューハントも、エリーザベトの最敬礼に呆気に取られ、互いに顔を見合わせた。イサベラは話が解ると見たのか、安堵したように言った。

「ご存知でしたか。お気遣い痛み入ります。自由伯領の状況を何か聞いていませんか?」
「まだポラントリュイで攻囲戦が続いているそうです。シャロン=アルレー伯が援軍を出したとか」
「シャロン=アルレー伯は義兄です。無事だと良いのですが」

 アルノルトが聞いた。

「ブルグントで戦争があったの?」

 イサベラは小さく頷いてから言った。

「先日、王軍にブルグント自由伯領国境にあるポラントリュイが包囲されて、周囲の都市はハプスブルク家に服属を迫られているの。ブルグント系諸国が連携して大戦となる恐れもあるの。私はそれで王城から逃げて来たのです」
「大変な事になってたんだ」
「もう日も落ちます。今日はどうぞ当家へ御逗留下さい。心ばかりの歓迎をさせて下さい」

 そこへ扉から覗いていた貴公子風の少年が入ってきて言った。

「大事な人ってこの子の事だったんだね」
「あ。あなた。失礼ですよ」

 エリーザベトはその貴公子の背を押し下げつつ、共に身を低くして言った。

「こちらはルーディック・フォン・ホーンベルク。お恥ずかしながらわが夫となる人です」
「まあ! こんなにお若くていらっしゃるのに……」

 これにはアルノルトも驚いた。

「僕と同じ位なのに……」
「ええ。こう見えても我が家の救い主ですのよ」
「よろしく」

 ルーディックが頭を掻いていると、ブリューハントはその後ろで天を仰いで見せた。

「何をしているんです? ブリューハントさん。ご馳走の準備を」
「畏まりました。只今。あと、シュッペルさんのご子息が来ておりますが」
「まあ、あなたはシュッペルさんの?」
「はい。アルノルトと言います」
「歓迎しますわ。ブルクハルトさんも来る予定です。あなたもご一緒に晩餐をいかがかしら」
「父が? 僕はそのお嬢さんを送って来ただけなんです。でもこのランプの油が切れてしまったから、ほんの少し油を分けて貰えませんか?」
「そう。もう騎士役を果たすなんてご立派。でも油断大敵というものです。騎士ならば常に油は切らさないように注意しないとね。ブリューハントさん。この子に油を」
「はい。こちらに」

 ブリューハントは言う前にもう油の瓶を用意していて、にこやかにアルノルトに渡した。厳めしい顔が取れると一気に場が和んだ。

「こんなにいらないよ。これに少しでいいんだ」

 ブリューハントの顔は途端に厳めしく凄んだ。

「少年よ。ここはおじさんの顔を立てて持って行くのが礼儀というものだ」
「そ、そうですね。ブリューハントさんの顔が立つというなら」

 アルノルトは油の瓶を受け取った。

「僕は家族が待っているのでこれで。お嬢様をよろしくお願いします。それに、油をありがとう」

 アルノルトはそう言って足早に去って行った。

「いい青年ですね。あなたと同じ年くらいかしら」

 エリーザベトが言うとルーディックは言った。

「うん。あの子と友達になりたいよ。もちろんこちらのブルグント公女様ともね」
「まあ! 礼儀を知らない人ね! 場合によっては臣下に叙任をいただきたい程の方なのですよ。そうだわ! なかなか無い機会ですから是非そうして下さい。それならば許可します。でも、始めにくれぐれも言っておきますが、浮気は許しませんことよ」

 エリーザベトとルーディックに夫婦喧嘩が起こる寸前だったので、イサベラはアルノルトを見送ることにして扉を出た。

 日暮れ後の空はまだ薄青く白んで、道や足元はまだ仄青く見えていた。
 アルノルトが庭先でランプに油を注いで火を点けていると、イサベラが追いかけてやって来た。

「あれ? 晩餐はいいのかい?」
「今日はありがとう」
「いや。こっちも目当てがあったからさ」
「目当て?」
「アフラじゃあ無いが、お姫様のお城を見てみたかった」
「まさかそれを目的に?」
「いや、目的は君だ」
「私?」
「ちゃんとどういう人なのかをこの目で確かめたかったのさ」
「それで? どう見えて?」
「お姫様にしては向こう見ずだな」
「まあ。失礼しました」

 イサベラは少しむくれたが、アルノルトが大笑いしたのでどうでも良くなった。

「私、アフラさんに春祭りに誘われたわ」
「良かったじゃ無いか。歓迎するよ」
「私、また来ていいの?」
「ああ。いいよ。アニエスさんでならね」
「じゃあまたお世話を掛けると思うわ。アフラさんとも約束したし」
「君ってエリーゼ様より偉いのかい?」
「偉くなんてないわ」
「この辺では一番偉いエリーゼ様にあんな敬礼させておいて?」
「それは多分、昔の由来伝統を重んじているのよ」
「由来伝統?」
「ブルグントは古い伝統で繋がっている……見えない国なの」
「見えない国? 伝統? 僕にはさっぱり判らないや」

 後ろから声がした。

「伝統を軽んじてはいけませんわ」

 そう言ってやって来たのはエリーザベトと、そしてクヌフウタだった。

「お二人はとても仲がよろしいようですね。お邪魔だったかしら?」
「エリーザベト様。そんなことは……」

 イサベラは顔に火が点いたように真っ赤になって掌で顔を覆った。
 クヌフウタはそんなイサベラを見て笑った。

「やっぱり戻って来ましたね、アニエス」
「クヌフウタさん! 途中で暗くなって戻って来てしまいました。修道院で騒ぎにならなければいいのですが」
「ここに来れたのも天の導きです。きっと大丈夫。事情は来る時に話して来ていますから」
「そうだと良いのですが」

 クヌフウタの後にはアッティングハウゼンと、見慣れない初老の貴婦人も続いてやって来た。

「ルーディックの母、アーデルです。宜しくお見知りおきを」

 その貴婦人はゆったりとスカートを広げて挨拶をした。それはイサベラへ向けたものだ。
 その後ろには立派な身なりの紳士もいて、優雅な礼をしている。

「フリードリヒと申します。年は離れていますが、ルーディックの兄です」

 貴人の面々に囲まれ、アルノルトは少し緊張して「こんばんは」と挨拶した。

「アルノルトではないか。お供とは偉いな」

 アッティングハウゼンが相好を崩してそう言うと、

「こんばんは。可愛いお客様だこと」とアーデルも微笑んだ。
 エリーザベトはアルノルトの背に手を当て、歩きながら話しを続けた。

「この国の伝統についてお話しする必要がありそうですね。一緒に少しお庭を歩きましょうか。バラが咲き始めているのよ」

 エリーザベトは二人を庭へ連れ出した。邸宅の向かいにある広いバラ園には他品種のバラが咲いていた。
 アッティングハウゼンとアーデル、そしてフリードリヒもそのバラを眺めては足を止め、談笑している。

「幾つか綺麗に咲いているでしょう。まだ殆どは蕾の頃です。ここのバラはお爺様の代から世代を掛けて品種改良しているものなんですよ」
「綺麗」

 イサベラが歩み寄ったバラの近くにはいつの間にかルーディックがいて、バラを剪定していた。

「バラは咲き過ぎると撓んで痛むんだ。こうして取ってあげないとね」

 ルーディックは剪定したバラを一輪、イサベラに渡した。そして持っていたもう一本をエリーザベトに渡した。

「美しい人にはバラがよく似合う。ね」

 ルーディックはイサベラと、最後はエリーザベトを向いて言ったが、美しい人とはどちらを指しているかは微妙だ。

「ありがとう」とエリーザベトは自分の事として胸に収め、話を始める事にした。

「さて、伝統の話でしたね。この辺りは昔、ツェーリング家の領でした。アルプスの一帯を領としたツェーリング家はドイツよりもブルグントの流れを汲む家で、ブルグント総督の地位を持ちました。キーブルク家や私達ラッペルスヴィル家はその遺臣の家系に当たるので、元々はブルグントの臣下なのです」

 アルノルトは驚きを覚えつつ言った。

「ブルグントって意外に大きいんですね」
「そうよ。昔は中部フランク王国というもっと大きな国があったのです。その王国はカール大帝からの皇帝の位を継承して、一時はイタリアからネーデルランドまで中欧を縦断して世界の中心として栄えたのですよ」

 ルーディックは謡うように言った。

「昔々のお話だよ。カール大帝がフランク王国を建てた後、王国は三人の王子逹に分領されました。東フランク、西フランク、そして中部フランクという三つの国。カール皇帝の冠を戴いたのは中部フランク王国のロタール王。でもそれはほんの一代のことでした、中部フランクはその王子逹にさらに三つに分領されました。その後王子達は王位を巡って争い合い、中部フランク王国は東フランクと西フランク、イタリアに分割されてしまったのでした。ただ一つ残ったのはブルグントという小さな国でした」
「その通り。ブルグントは僅かに残った中部フランクの領邦なのです。時代を経てドイツ、フランスに分領されていても、ブルグントを元とする国の姿はそのままなのです。そのために今もブルグント自由伯領をはじめとするブルグント系諸国は同盟を結んでいます。フランス領側のブルグント公国にはフランス王家のカペー家が婿入りして今の王家がありますが、領民の連帯は同じです」
「素晴らしいお話です。このお話、国のお兄様はご存知かしら?」

 イサベラの漏らした言葉にエリーザベトはさも嬉しそうな顔をした。

「今を時めくブルグント公ならば当然ご存知でしょう。ブルグントは国が分割されてしまっても、遺臣達はその伝統を受け継いだ公爵から叙任を受け、その下に連携しています。国境は見えないけれど、そうして今も中部フランクは一つの国の連帯を保っているのです」

 アルノルトは嘆息を漏らした。

「はぁ。見えない国って本当だ! それが伝統なんですね」

 エリーザベトは勢い良く言った。

「その通り! 真に国を形作るのは国境よりも伝統です。領主が継承するのは領土や権利よりもまず、先人の伝えて来た風習、そして美風、つまりは伝統なのです。それを高めつつ継承を続けることで、目を閉じて心に浮かぶような心の国となるのです。伝統の大切さ、判りましたね?」
「はい。とても良く。ブルグントは伝統の国なんですね?」

 そう言って首を傾げるアルノルトにイサベラが寂しそうに言った。

「ええ。でもね、ブルグント公国は正統が何度か絶えてしまっているし、私達はフランス領側で育ってフランスの風習になって来ているわ。ドイツ領側の自由伯は今やハプスブルク王家との戦になってしまったし、今にもバラバラになって消えてしまいそう」
「自由伯ってなんだい?」
「自由伯はね。ブルグントでありながら帝国自由都市としてドイツ旧王家の領下にあって、ほぼ自治領に近いの」
「へえ、じゃあウーリのように自治の国なんだ」
「そうね。でも色々と違うわ。ちゃんと領主がいるし、自治は一部の権利者に占有されてる。それにドイツ王家との婚姻で王家直轄ともなって、ドイツへの献納義務があるわ。青空会議で決めるウーリの自治にはとても及ばないわ」
「へえ。でもその国とは仲間になれそうだよ」

 エリーザベトは顔に光輝を見せた。

「自治の国は仲良くなれる。これはいい話しです。次の時代がやって来たら、その時は違う国同士でも、仲良く出来る事でしょう。あなた達のようにね」
「エリーザベト様……」

 イサベラは少し顔を赤らめ、一人歩を早めた。
 逆にアルノルトは少し歩を落とし、考え込んだ。

「でも、もし、もしだよ。伝統をみんな知らなくなってしまって、良くない物に取り替わってしまったらどうなるんだろう」
「その時はこうなります」

 エリーザベトは着ていた外套でアルノルトの持っていたランプごと覆った。もう既に空は暗く、辺りは闇に包まれた。

「世界は暗黒になる。暗闇では自分の心しか見えず、他人に疑心暗鬼で生きることに意義を感じられません。でも、そんなことにはならないと信じます。暗闇の中であなたはすぐ光を探すでしょう?」

 エリーザベトはランプを覆う外套をゆっくりと開いた。

「伝統は光です。誰も光のある場所に戻りたいですもの。それは原点の場所に戻ればいいだけです」
「その場所が判らない時は?」
「暗黒の時代を迎えるでしょう。今、ブルグント自由伯領はハプスブルク王家に服属しようとしています。伝統が壊されれば暗黒が待っています」
「伝統の事を知らない僕は、暗闇の中にいるのかな?」

 考え込んだようなアルノルトに、エリーザベトは不意に微笑んだ。

「あなたの村は伝統そのものなのよ。自治や共同牧場も伝統によって築かれたもの。高地まで放牧地を開拓したり、共同牧場でおいしいチーズを作ったり、暖かい毛皮を編み込んだ服を作るでしょう? ウーリの伝統は原点のもの、世の光です。まだ闇が多いこの世界の中で尊い宝物ですわ」
「僕らは教わった通りに家畜を育てて、そして助け合って土地の開拓をしているだけさ」
「それは最も古くて理想的な伝統ではなくて?」

 アルノルトはその言葉に目が開かれるような気がした。いつも接している村の風習にそんな価値があるとは思わなかったのだ。

「私もそう思います」

 白亜の柱のフォリーに辿り着き、振り返ってそう言ったのはイサベラだった。

「だから私はウーリの事をもっと知りたいと思うのです。これからは諍いばかりしている帝国やフランスより、ウーリの自治を世に広げるべきです。そうなれば世界が良くなると思いますわ」

 エリーザベトは腰を低くしてイサベラに最敬礼の姿勢を取った。

「ウーリの守護権を持つ私共にとりまして、それは僥倖です。全く同意致します。遠くない未来、それを実現して行く時が来るでしょう。その時は臣下にお加え戴きますよう。お心にお留め下さい」

 アーデルはルーディックの背を押した。

「さあ、ルーディックも」

 ルーディックもイサベラに歩み寄り、片膝を折り、胸に手を置いて言った。

「ブルグント公女様、その政道にこの僕もお加え下さい。貴女の騎士となりましょう。小さき領主ではありますが僕はここを守る事から始めます」

 イサベラはその口上に気押されて、少し困った顔をアルノルトに向けた。
 近くまで歩いて来て、アルノルトは右手を挙げて言った。

「ウーリの事は自治の民である僕が守るよ。僕はここしか知らない。けど、ウーリは最高だと思う」

 イサベラはアルノルトに向き直って言った。

「それは誓いと受け取って良いですか?」
「誓う。天の神にかけて。僕には誓うくらいしか出来ないけど」

 アルノルトは跪いて両手を広げ、空を仰ぐ。そしてそのまま自身を十字にして伏して地を仰ぐ。それはウーリに古来伝わる礼拝の所作だ。
 エリーザベトが感心したように言った。

「これは古式の誓い……」

 ルーディックも負けじと短剣を頭上に捧げて言った。

「僕も誓います。叙任の儀に習い、我が剣を捧げます」

 イサベラは思いがけない出来事に少し感動した。

「まあ。素敵!」

 エリーザベトが言った。

「仮初めの儀で良いのです、ルーディックに騎士の叙任を頂けますか?」

 小さく頷いたイサベラはルーディックの短剣を受け取った。
 エリーザベトが次を促すように言った。

「剣を抜いて肩に擬し、お言葉を」

 イサベラは短剣を抜き、ルーディックの肩に刀身を当てるや、剣を高く掲げて揚々と言った。

「共に伝統を守る者として、この地を守る者として、天に誓う儀によって、ここに仮初めの盟を結びましょう」

 静かに月明かりに語りかけるようなイサベラの声は胸を打つ美しさだった。ルーディック、そしてアルノルトも、その姿を見上げ、しばし心を奪われた。

「剣を今再び御下賜下さい」

 エリーザベトの言葉にイサベラは短剣を鞘に収めて差し出し、それをルーディックは恭しく受け取った。

「ありがたき幸せ。これで僕は君の剣となろう」

 ルーディックとアルノルトが並んで立ち上がると、改めてお互いを見た。エリーザベトは笑顔になって言った。

「あなた逹は仲良くなれそうですね」

 ルーディックがアルノルトに手を差し出して言った。

「共に叙任を受けた仲だね」
「とんでも無い。叙任だなんて」

 アルノルトに握手は拒否されたが、二人は至って笑顔だった。

「家族がパンを持って帰るのを待ってるんだった。僕はもう帰るよ」
「そうか。しばらくはここに滞在してるんだ。またいつでも遊びに来てくれ。何なら明日にでも」
「これでも働き手でね。忙しいんだ。では、皆さん良い晩餐を」

 アルノルトはそう言って手を振って駈け出し、一度振り返った。
 すると高貴な面々が皆、優雅に手を振って見送っていた。
 アルノルトはひどく場違いな思いがして、その場を急ぎ足で立ち去ろうとした。
 そこへアーチを潜って来たのはブルクハルトだった。

「やや。アルノルトか。こんな所にいるとは。馬車を待ってたら遅くなってしまったじゃないか」
「ごめんよ。いろいろあってね。シスター達はここ送ったんだ」
「そうか。馬車は置いて歩いて帰るんだ。勝手に使った罰だ」
「はーい」

 ブルクハルトはエリーザベトの所へ行って貴族風の挨拶を始めた。
 アルノルトはランプを馬車の御者台に置き、買い物袋を抱え、野道を歩いて帰った。
 その道は月明かりに照らされ、今日はしっかりと見えた。ヴィルヘルムやジェミに少し近付いた気がした。



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