見出し画像

ハートランドの遙かなる日々 第五章 夢から覚めて


 アフラは赤い花の中で眠っていた。
 誰かに呼ばれた気がして、その中で目を覚まし、一つ伸びをして、おしべから花の蜜を飲んだ。喉が渇くとここから蜜が溢れて来るから不思議だ。
 長い時間を花の中で過ごして、そろそろ飽きも限界だ。
 試しに花を押し開けると、そこは広いお花畑だった。
 その真ん中には一人の老婆が立っている。

「こっちへおいで」

 指を動かしてそうアフラを呼ぶので、花から出て、そこへ歩いて行った。

「こんにちは。ここはどこですか?」
「ここは夢の森だ。むこうに森があるだろう」

 老婆の目はほぼ閉じていて、どうやって見えているのか不思議なほどだった。

「お婆さんの目は見えるの?」
「ああ、見えるよ。夢の中でここを見てるからね」

 空には急に黒い雲がやってきた。雲には馬のように手綱が付いていて、鉄兜の騎士が乗っている。その騎士がこっちを見て次第に降下して来た。

「悪いのに見つかったようだ。おいで」

 老婆はそう言って、道の向こうに続く鬱蒼とした森へと走って行く。

「兄さんが、森に入ってはいけないんだって」
「私と一緒なら大丈夫だ。おいで」

 アフラは老婆を追って走った。そして一緒に森へ入って歩いて行く。
 雲の騎士はそれを見て反転し、空へと戻っていった。

「どうやら諦めたようだ」
「お婆さんは誰ですか?」
「私かい? そうさのう、長く夢を見過ぎて忘れてしまったんだ。向こうに娘の新しい家があるそうだから、行ってみようと思ってね」
「そうなんですか。場所は判るんですか?」

 老婆は鼻をすんすんと鳴らして言った。

「この匂いだ。近いぞ。もしかしてお嬢ちゃん、行ったことがあるね?」
「え? 知らない」
「ああ。どうやらお嬢ちゃんの記憶の中にあるようだ。連れて行ってくれないか」
「私の? それはどんな家ですか?」
「大きな楢の木の下の、花がたくさん咲いている家だ」
「あ。あの家? 知ってるかも。でも、ここからどうやって行けばいいかしら」
「私の手を握って」

 アフラはその手を握った。

「目を閉じてその場所に必ず連れて行くと、そう心に誓うだけでいい」

 アフラは目を閉じて誓った。

「連れて行くわ」

 目を開けると、そこは見たことのある大木のある場所だった。
 老婆の手を引いて、大きな木の下の木の根の階段を抜けると、その森の奥にはお花畑が広がって、楢の大木が聳えている。
 その外れには窓を花で満たした家があった。

「お婆さん。着いたわ」

 振り返ると、そこに老婆の姿は無かった。握っていたはずの手には少しの暖かさが残っていた。

「お婆さん?」

 仕方が無いので、アフラは家まで行き、ドアをノックした。
 玄関にはジェミと、母親が出てきた。

「やあ、また来たね?」
「いらっしゃい。何のご用かしら?」
「こんにちは。実は……」

 アフラは後ろを振り返った。しかし、やはり老婆はいない。

「誰かいるの?」

 母親——エドフィーユはそうアフラに聞いた。

「ここに来たいって言っていたお婆さんがいてね。せっかく連れて来てあげたのに、いなくなっちゃった」
「そう。どなたかしら?」
「ここを娘の家だって言ってたの」
「まさか、お母さん?」

 エドフィーユは家を飛び出し、その人の姿を探した。ジェミとアフラも一緒に来た道を探しまわったが、どこにもいなかった。
 エドフィーユは楢の大木に両手を差し伸べて、高らかに言った。

「楢の木の精よ、私の母のいる場所を知っていたら教えて」

 すると、アフラの手に霧が取り巻いていた。

「ここね」

 エドフィーユはその霧に触れ、何かを唱えた。
 すると、その霧は大きく広がって辺りに渦を巻き、それは老婆の姿になった。

「お母さん!」
「ああ、もう着いたようだね。エドフィーユ、立派になって!」

 エドフィーユは泣きながら老婆を抱きしめた。

「お母さん! ようやく目覚めたんですか」
「いえ。この通り、まだ夢の中を彷徨っているよ。だからお嬢ちゃんに連れて来て貰ったのさ」

 家のテラスで、老婆とエドフィーユは長く話をした。
 その間、ジェミとアフラはお花畑で白い花を摘んでリースを作った。

「この花は悪いものを避けてくれるんだ。おまじないだよ」

 ジェミはそう言って白い花のリースをアフラの手に巻いてくれた。

「ありがとう」

 そうすると、たちまち霧が渦を巻いて周りを取り囲み、老婆の姿は消えてしまった。
 エドフィーユは怒って言った。

「何をしたの? 帰っちゃったじゃない!」
「ごめんよ。知らなかったんだ」
「仕方無いわね。じゃあ、私達もお家へ帰りましょうか」

 エドフィーユはアフラを見て言った。

「あなたは帰らなくていいの? 遠いんでしょう?」
「私も帰らなきゃ。でも、道が判るかしら?」
「僕が森の外まで送っていくよ」

 そして、アフラはジェミと手を繋ぎ、帰り道へと歩いて行った。


 夜の闇に全てが寝静まり、山の端が僅かに薄青く明け始めた頃だった。戸口を叩く音がシュッペル家に響いた。
 一階で寝ていたマリウスはその音に目を覚ました。隣で寝ているはずの母がいないのは、きっと今もアフラの看病をしているのだろう。父はいびきをかいて寝入っている。こんな時間のお客なんて来たことが無く、何かの間違いのようにも思えた。
 マリウスはもう一度眠ろうと目を閉じた。しかし、しばらくするともう一度音がした。マリウスは眠い目を擦りながら玄関のドアへと向かった。

「だあれ?」

 しかしドアの向こうでは声がしなかった。
 マリウスがドアを開けると、そこには自分と同じくらいの男の子が激しく息を乱して立っていた。

「ここはシュッペルさんのお家ですか?」
「そうだよ。ぼくん家さ」

 男の子はとたんに顔を耀かせて言った。

「じゃあアルノルトの家だね?」
「うん。お兄ちゃんもだけど、どっちかって言うとずっといるぼくの家だね」

 男の子は懐から小さな小瓶を取り出した。

「薬を持ってきたんだ。アフラにこの薬を飲ませてあげて」
「お薬? よく効くの?」
「うん。多分。今ならまだ大丈夫」

 ジェミは力強く頷いた。
 あとから起き出してやって来たカリーナが言った。

「こんな朝早くからどなた?」

 マリウスは少し考えてみてから少年に聞いた。

「きみ、どなた?」
「僕はジェミ」
「僕はマリウス。よろしくね」

 と、マリウスは満面の笑みで振り向いて、少し怪訝そうにしているカリーナを見たマリウスはもう少し聞いてみた。

「どこから来たの?」
「あの山の向こうさ。君たちが眠りの森と呼んでいるところだよ。ずっと走ってきたからもう疲れたよ」とジェミはその場に座り込んだ。
 カリーナは口に手を当てて「まさか! あなたがヴィルの……」と言ってから言葉に詰まる。
 ジェミは少し誇らしい顔をして「そうだよ」と頷いた。
 マリウスは「あの山から走ってきたの?」と信じられない面持ちだ。

「そうさ、大急ぎで届けたんだ。お母さんや叔母さんや山の人達はこの薬の材料のためにもっと山を越えて方々を走ったんだよ。さあ、早くこの薬をアフラに飲ませてあげて」

 差し出したジェミの手からカリーナは薬を受け取った。

「こんなに早く届けてくれて、ありがとう! まだあと一日二日かかると思っていたのに……ありがとうね」

 ジェミは照れたように言った。

「僕は薬を持って山を少し下ってきただけさ。お礼は薬を作ってくれた眠りの森のみんなに言っておくれよ。それよりアフラの様子は大丈夫なのかい?」
「お姉ちゃんは、ずっと寝てる。最近はなかなか目が覚めないんだ」
「それは大変だ! 眠りっぱなしになると薬も効かなくなるってお母さんが言ってた」
「大変!」

 カリーナは薬を胸に抱き、階段を駆け上がった。
 マリウスとジェミもそれを追って後に続いた。
 部屋へ入るなりアフラを抱え起こしたカリーナは、薬の瓶を開けてスプーンでアフラの口に含ませた。アフラの口から赤黒い薬が少し溢れた。

「飲んで!」

 アフラはその声に応えるように、薬を飲み込んだ。

「どれくらい飲ませればいいの?」

 後から入ってきたジェミは頭を掻いて答えた。

「スプーン一杯でいいんだよ」

 その話し声を聞いてエルハルトと、続いてアルノルトがやって来た。

「どうしたんだんだい。大きな声上げて」
「ジェミ! ジェミじゃないか」
「やあ。アルノルト」
「よく来たね。もしかして、もう薬が?」

 ジェミは旧友に会うようにはにかんで笑った。

「うん。持って来たよ」
「ほんとかい? どこ?」

 カリーナが顔を上げて言った。

「薬は今飲ませたところよ。スプーン一杯でいいらしいのだけど、沢山飲ませちゃったわ」

 アルノルトとエルハルトは驚喜の声を上げて互いの手を取った。

「やった! やったやった!」
「驚いたな。五日はかかるって言ってたのに」
「お母さんは山里に着いてすぐ材料集めを山の人達で手分けしたんだ。帰り道もお母さん、お父さんとイェルクが山道をリレーして走ったのさ。眠りの森の人が総出だったんだよ」
「ジェミも走ってくれたんだ」
「僕は森の家からね」
「あの森の広場の家から!」

 アルノルトはジェミの手を握って言った。

「ありがとう。本当にありがとう」

 その手にエルハルトも手を被せた。

「ありがとう。これでアフラは治る。本当に嬉しい」
「僕もね。こんなに人のために頑張ったこと無かったよ。それが出来て嬉しいんだよ。アルノルトもアフラも、もう友達だから」
「友達……従兄弟って友達になれるのかな?」
「もちろん。従兄弟だって友達になれる人となれない人がいる」
「そうか。そうだね」
「それにアフラとは、もう一度会ったら友達になるって約束をした。それが本当になるには早く目を開けてくれるといいな」
「じゃあ、アフラが目を覚ますまでここで待っているといいよ」
「うん。そうする。薬の効き具合を皆に教えてあげないといけないしね」

 カリーナが言った。

「じゃあジェミにも朝ご飯を用意しないとね。でもジェミの話を聞いているとアルノルトよりしっかりしてるみたい。年はマリウスくらいなのに」

 アルノルトは頭を掻いて言った。

「ジェミは凄いんだよ。この年で山道では僕より足が早いんだ」
「そうなの!」

 朝ご飯が出来るのを待ちながら、一同はしばらくアフラの様子を見守った。マリウスはいつもしていたようにアフラの氷嚢を取り替えた。

「お姉ちゃん、息が楽になってきたみたい」

 アフラの寝息は次第に安らかになり、顔色も良くなったようだった。
 ジェミはその顔を覗き込んで言った。

「薬が効いてきたみたいだ」
「本当だ! やったあ!」

 マリウスは喜びの声を上げた。

「よかった!」と取り囲んで見守る家族達にも安堵の声が広がった。
 その声でブルクハルトも起き出してきた。

「どうかしたのか?」
「お父さん! 薬が届いたんだ。飲んだとたんにもう顔色が良くなってきた!」

 ブルクハルトはジェミを見つけて言った。

「君は、ヴィルの?」
「僕はジェミ。ヴィルヘルムは父です」
「そうか! ヴィルの子か! ありがとう! ありがとう!」

 ブルクハルトはジェミの頭を何度も撫でて髪をくしゃくしゃにし、ジェミに少し嫌な顔をされた。
 そして一緒にブルクハルトもアフラの顔を覗き込んだ。するとすっかり顔色が戻り、熱も下がって来ている。

「熱が引いた。これは奇跡か。ああ神様!」と胸に十字を切った。家族一同はそれに習って十字を切って祈りを捧げた。
 ジェミだけはその所作に首を傾げていた。

 薄曇りの空から少し遅い太陽が顔を出し、部屋の窓に柔和な光が指して来た頃、アフラはその目をゆっくりと開いた。その長い眠りからの目覚めを、カリーナは努めて平静に迎えた。

「アフラ。アフラ。おはよう」

 目に涙を溜めて、そう呼びかけると、アフラは答えた。

「おはよう。お母さん。どうして泣いてるの?」

 その声はまるで寝坊した朝のような、いつものお寝坊声だった。

「どうしてみんな私の部屋に集まってるの?」

 部屋の奥にはエルハルトとアルノルト、そしてマリウスが見えた。

「眠り姫がようやく起きたか」
「こんなに早く薬が効くなんて!」
「おはよう。お姉ちゃんおはよう」

 兄弟達は肩を叩いて笑った。カリーナは微笑みながら涙を拭って言った。

「お前は丸三日も寝ていたのよ」
「うそぉ!」

 アルノルトはさもしょうがないといった風に言った。

「しょうがない奴だなあアフラは。何度呼んでも起きないんだもんな」
「だって。寝てる間は何にも覚えてないんだもの」

 そう言っているとアフラのお腹が鳴った。

「そう言えば……お腹がペコペコォー」

 マリウスが泣きながら言った。

「お姉ちゃんが……お腹ぺこぺこって言ったよー。全然食べてくれなかったのに……」

 アルノルトが言った。

「マリウスがすり下ろし林檎を食べさせてくれてたんだ。ここ一週間ちゃんと食べてなかったからな」
「そんなに!」

 エルハルトが大きな手を広げて言った。

「良かった。食欲が出てくれば一安心だな」

 カリーナは立ち上がってアフラに言った。

「何か食べたいものはある? 何でも作ってあげる」
「じゃあ……タルト!」

 カリーナは残念そうに言った。

「まあ。贅沢な子。今はタルトを作る材料も無いから、カボチャのスープで我慢してくれる?」
「うん」

 カリーナはその声に頷いて台所へ出て行った。その後、アルノルトが思い出したように言った。

「あ。そう言えばタルトあるよ」
「ホントー?」

 アルノルトはバスケットの中からタルトの小さな欠片を出した。

「三日前にアフラ、一口食べたろ。その余りだけど」

 エルハルトはそれを見咎めて言う。

「それ古いだろ。今お腹壊すとまずいから止めておけ」
「えーっ。せっかくタルト食べられると思ったのに……せめて匂いだけでも」

 と、アフラが言うのでアルノルトがタルトを鼻の近くに持って行く。必死にその匂いを嗅ぐアフラだったが、いきなり小さくそれを囓った。

「こ、こら。お腹壊しても知らないぞ」
「ちょこっと味見。やっぱり美味しい」
「まあ元気になったと言う事だな」

 そう言って兄弟は笑った。
 マリウスが林檎を持ってやってきた。

「じゃあハイ。お姉ちゃん。これ僕が剥いたんだよ」と、渡す林檎は少し古びて黄色味が差している。

「マリウスが? ありがと……」

 マリウスはアフラに林檎を渡してニッコリと満面の笑みだ。
 その圧力に断れなかったアフラはそれを一口食べた。
 久しぶりに食べたせいか、なかなか呑み込むことが出来なかった。

「おいしい」
「おいしい? 良かった」
「マリウス。どうせなら新しいのをあげろよ。古いのはみんなで食べてしまってさ」

 そう言ったエルハルトのその背にはジェミが顔を覗かせていた。

「ジェミ?」

 ジェミは小さくはにかんで笑った。

「やあ」
「どうしてここに? ジェミもお見舞いに来てくれたの?」

 アルノルトが言った。

「ジェミは山向こうから薬を持ってきてくれたんだ。アフラが治ったのはジェミと、そのご家族のお陰なんだよ。アフラはお礼を言わないとね」
「ありがとう。ジェミ……」
「よかった。無事に治って何よりだよ」

 アフラは記憶を辿るように言った。

「私ね……夢を見たの。夢でジェミと会ったの。あの森のお家にあったお花畑でね、ジェミと遊んだの。だから会うのもこれで三回目だから、もうお友達?」
「そうだね。もう友達だよ。元気になったらまた家に来たらいいよ」
「うん。ありがとう」
「熱はもう無い?」
「どうだろう」

 ジェミはアフラの額と自分の額に手を当てて言った。

「ほんの少し熱いだけだ。もう大丈夫そうだね」
「うん」
「でもまだ完全に治るには半月はかかるって言ってたから、しばらくは静かに休んでて。いいね」
「うん。ジェミってお医者さんみたい」
「お母さんが山のお医者さんみたいな人だからね」
「へえ。私のお婆ちゃんみたい」

 アフラとジェミが笑うと、周囲にいた家族もそれに釣られて笑っていた。

「じゃあ僕はもう行くよ」
「まだゆっくりして行くといいのに」
「お父さんが待ってるんだ。行かなきゃ」

 そう言うジェミの足はもう入り口を向いていた。

「また来てくれる?」
「うん。もういつでも来れる。また来るよ」

 入り口ですれ違ったカリーナもジェミを引き止めた。

「あら、朝ご飯くらい食べて行くといいのに」
「薬が効いたこと、早くみんなに伝えたいんだ。お父さんがきっと待ってる」
「そう……じゃあ、皆さんチーズはお好き?」
「うん」
「じゃあ、お礼に持って行って。少し重いかしら……」

 カリーナは階下へ行って棚からチーズの丸く大きな塊を取り出した。ジェミの手には一抱えするほど大きい。それでも満面の笑みでジェミは笑って言った。

「うわー。いいの? ありがとう」
「でも持って帰れるかしら」
「これくらい大丈夫さ」

 後から付いてきたアルノルトが言った。

「こんな大きいのを持って帰るの? 背負い袋をあげるよ」

 アルノルトは大きな背負い袋を持って来て、チーズの塊を入れた。カリーナはその袋に大きなパンも幾つか入れた。

「これは朝ご飯にしてね」
「チーズもパンもみんな大好きだから喜ぶよ。とくにお父さんがね」
「そう。ヴィルにももう一つ入れておくわ」

 アルノルトは袋をジェミが背負えるように紐を短くして結わえ付けて言った。

「エドフィーユさんにも薬をありがとうって伝えておいて」
「うん。それじゃあ僕帰るよ」
「荷馬車で送るよ」
「いいよ。僕ら山の民は馬車なんて使わないんだ。自分の足が一番だから」
「そう。アフラが元気になったら、きっとまた会いに行くよ」
「うん。待ってるよ」

 ジェミは自分の体ほどもあるチーズの塊を背負って、森に帰って行った。
 アフラの病気はそれから見る見る良くなっていった。仕事から帰ってきたブルクハルトはすっかり元気になっているアフラを見て驚喜し、抱き付いて来た。が、すぐにアフラに押しはがされた。
 久々にベッドから起き出した時は足元もふらついていたが、しばらくすると歩みもしっかりしたものになった。熱も引くにつれ食欲も旺盛になって行った。普段よりも沢山食べるようになって、看病にやって来たサビーネを驚かした。

 数日後、突然見知らぬ医者が訪ねて来た。カリーナはまたイサベラの関係の人だろうと思い、アフラを診て貰った。ブルクハルトもそれに付き添った。
 医者はアフラを診察して言った。

「重病と言われてせっかく来たのにこれはどうしたことか。熱も無し、意識もはっきりしてる。どこも異常は無いようだ」

 カリーナは嬉しそうな声を上げた。

「ああ先生。それは嬉しいこと!」
「本当に重病だったのかな」
「つい一昨日までは高熱が出ていたのですが、山の薬ですっかり治ってしまったのです」
「熱くらいならば何もあの方が関わることはあるまい……」
「それが眠り病とも言われている風土病で、眠りっぱなしになったり、引き付けを起こしたりしたのです。病の後遺症はありませんでしょうか?」
「風土病か。私の故郷にも似たような病気がある。熱が引いたなら峠は越えたと見ていいだろう。今は体が弱っているが、まあしっかり栄養を付ければじきに回復するだろう」

 アフラの顔にも生気が返っていた。

「ホント? もう外で遊んでもいい?」
「ああ。それはいいとも。外で遊べるくらいになればかえって健康にいい。あとはよく食べて、よく歩くことだ」
「やったーぁ!」

 カリーナもこれには涙ぐんで喜んだ。

「本当に良かったこと……」

 ブルクハルトは涙するカリーナの肩を抱いた。

「良かった……良かった……」

 溢れ来る涙を娘には見せないようブルクハルトは上を向いていた。
 しかし医者は困った顔をしている。

「元気になって何より……しかし……良くないこともある。せっかく遠くから来たというのに、健康な人を診てもお代は頂けない。これは困った」
「ではせめてお車代を……」
「いやいやそれには及ばん。後で私の名に傷が付いては適わぬからな」
「もしや名高いお医者様なのでは」
「そうさのう。ここらでは無名だが、オーストリーでは多少は名が通ってるだろうな」
「オーストリー! まさかそんな遠くからなんて……」

 カリーナは尋常でないこの措置を取った人に恐れを抱いた。

「しかし、眠り病がこうも劇的に治るとは。後学のために聞きたいのだが、どうやって治したのかな」

 医者は病気の経緯や特徴、薬の作り方までを聞いてきたが、カリーナも多くは知らないのでほんの少ししか答えられなかった。山からの薬を貰った場所が言えなかったのは言うまでもないが、医者はしつこく聞いてきたので、ただヴァリス人の病だからヴァリス人の薬を貰ってきたのだと説明をした。

 アルプの山道を下ってきたアルノルトは、眼下の牧場に少女を見つけた。遠目にそれがアフラであることがアルノルトには判った。

「アフラ!」

 アルノルトが山道を下りて行くと、果たしてふらついた足取りでアフラが山道を登ってやって来る。

「無理をしちゃあ駄目じゃないか」
「エヘへ。もう体が鈍っちゃって」
「こんなに歩いて大丈夫なのか?」
「お医者さんがもう熱もすっかり無いし、治すにはよく食べて、よく歩くことだって。今日はアル兄は羊と山へは行かなかったの?」
「行ったさ。行ったけどこいつがまた山を駆け下りて迷子になるところだったんだ」と、指差した先にいたのは子羊のミルヒだった。

「ミルヒ!」

 ミルヒは答えるように啼いた。

「こいつったら帰り道だけはしっかり判るみたいだ。前も一人で家に帰ろうとしたのかも知れない」
「ちょっと見ない内に大っきくなったわねミルヒ」

 アフラは子羊のミルヒの両頬を揺らして首に抱きついた。それを嫌がったミルヒは首を振って後ろへ下がり、アフラはそれに引き摺られて足がよろけて、簡単に倒れてしまった。

「痛あい」
「ハハハ。子羊に負けるんじゃあ手伝いも出来ないな。まあ羊飼いにはなれないな」
「いいもん。私お姫様になるんだもん」
「あーあー。そりゃあ大層な野望だなあ」
「あーあ。イサベラさんみたいな素敵なお姫様になりたいな」
「あっ。そういえば思い出した。そのイサベラお嬢さんから伝言があるよ」
「イサベラさんから?」
「一度馬車で来た時に、元気になったら手紙を書いてくれってさ。貰ったフルーツバスケットの中に住所の書いたメッセージが入っているよ。まだ残っているはずだ」
「ホント? 書く書く! 絶対書く」
「それから……」
「それから?」

 アルノルトは言葉に迷った。

「イサベラお嬢さんはきっともう……来ない」
「ええ! どうして?」
「村が……いや、父さんが貴族だと聞いて反対してるんだ。なんでもイサベラさんは王家一族で村の敵なんだそうだ」
「そんなー」

 アフラは今にも泣きそうな顔になっていた。

「どうすればいいの? 約束したのに……」
「でもまあ、手紙を書くのは自由さ。かなり心配してたから早く元気だって書いてやるといい」
「うん。そうする。お兄ちゃんは優しいね」

 アフラはそう笑ったが、イサベラにもう来ないでくれと言ったアルノルトにはその言葉が少し苦かった。アフラはそんな兄を気にもしない風に今来た道を戻って行った。それにミルヒがついて行く。アフラは足音に振り返ってそれに気付いた。

「あっミルヒーッ。付いて来ちゃダメー」

 アフラはミルヒを振り払おうと右へ左へと走ったが、ミルヒはステップするような仕草をして付いてくる。振り返るとさらにステップをしてじゃれついてきた。

「アル兄、ついて来ちゃうー」

 アルノルトが後方から言った。

「羊とダンスするくらいならもう元気そうだ」
「ダンスじゃなぁいー」
「アフラ。ミルヒはさっきから戻りたくてしょうがないみたいだから、家まで連れて行って羊小屋に入れておいてくれ。また道を戻られると事だ」
「うん。判った。じゃあしょうがない。おいでミルヒ」

 ミルヒはアフラの後へ来て小さく啼いた。アフラは羊を連れて緑の野を下って行く。
 アルノルトは山へと踵を返しながらも、小高い丘から長くそれを見守っていた。


 家に帰って羊を小屋に入れたアフラは、その後、手紙を書いた。
 そしてその日に角笛を鳴らしながら肉の配達にやって来たレギンにそれを渡した。レギンはまだ二十代の若者だ。食肉ギルドは肉を新鮮なうちに流通させるために、夕方近くに角笛を吹きながら馬車で村中を回って捌いた肉を配り歩く。殆どの家が買いに出て来るので、その時に手紙があれば渡す事になっていた。
 宛名の住所を見てレギンは驚いた。

「カペー? まさかカペーって言ったらお隣の国の王族!」
「知ってるの?」
「あちこちに肉と一緒に手紙を届けて回るこのレギン様に知らないことは無いよ」
「そんなに有名なの?」
「そりゃ有名も何も、向こうの国で知らない人は無いさ」
「へえ。じゃあお願いね」
「駅舎に届けておくよ」

 手紙はアルトドルフの駅舎に纏められ、そこからは特急馬車に乗せて宛先の領邦の駅舎へと届く。そこからはその町それぞれの流儀で配られるが、イサベラのいる場所はザールネン城、城から毎日取りに来る使者がいた。
 アフラの書いた手紙は翌日にはイサベラの手に届いた。

親愛なる、イサベラ様

 先日はお見舞いに沢山のフルーツをいただき、ありがとうございました。
 おかげさまで病気もだんだん良くなって、私はもう元気です。一時は眠ったままで、そのままになるところだったそうです。羊と一緒に野を歩けることが、こんなにうれしく幸せなことだとは今まで気が付きませんでした。病気が治ったことを神様に感謝せずにはいられません。私の病を治すには、山向こうからの薬が必要だったそうです。おばあさんや兄さん達はその薬のために山まで行ってくれたそうです。お母さんや弟も看病してくれました。薬を届けてくれたジェミや山の人々にもいつかお礼をしなければと思います。家族のみんなにも感謝です。私は今は何もしてあげられない小さな子供だけれど、いつかいつかきっとお礼したいと思います。
 イサベラさんにも大変ご心配をおかけしました。イサベラさん、そしてユッテさんも何度も馬車で来てくれたのでしょうか? せっかく来て頂いたのに、私はそのとき病気で眠ったままで、お会いすることも叶わず、とても申し訳なく思っています。
 イサベラさんはあの草原での約束をまだ覚えていますか? せっかく迎えの馬車に来てもらったのですが、私は病気になってしまい、すっかり気弱になってしまいました。病気の間に村の危機があったようで、皆は心配過剰になり、家族が強く反対していて、お城へ行くお許しをもらえません。
 また元気になったらあの広い草原で、皆さんとピクニックが出来るといいですね。ご一緒したあのタルトのおいしさが今も忘れられません。
 それではまたお便りしますね。
                        アフラ・シュッペル

 ザールネン城の一室で、イサベラはアフラからの手紙を読んでいた。古びた大きな窓からは木漏れ日が差し込んで来て、時に手紙を眩しく照らした。

「イサベラー。入るわよ」

 ノックと共にそこへ入って来たのは、レオナルドを引き連れてやって来たユッテだった。

「あっ。お兄様からのラブレター?」
「ユッテったら。そんなはずないじゃない」
「そんな事ないわ。お兄様ったら満更でも無かったんだから」
「もう。その話はもう止しましょ。アネシュカに決まったようなものだもの」
「前々から二人の婚約は決まっていたのよ。そこへイサベラが現れた。そこで一から仕切り直すかのように、隠れん坊しましょうって事になったの。判る? イサベラがどれ程有利だったか」
「まあ! でもそれはもういいの。私がアネシュカに譲ることにしたの」
「その手紙、アフラから来たの?」
「ええそうよ。病気が治ったそうよ」
「よかった! 私のことは書いてある?」
「ええ。眠ったままでお会いできなくて申し訳なく思ってますって。あと、またあの広い草原で、ピクニック出来るといいですねって」
「そう。いいわね! また行きたいわ! そうだ。貴女にもう一つ手紙が来たの。ブルグントからの特使だったのよ」

 入り口で畏まっていたレオナルドは、持っていた手紙をイサベラに渡した。

「こちらで御座います」
「ありがとう。送り主の名前が無いのね」

 イサベラは新たに来た手紙の封を切って、便箋を開いた。

「お母様からだわ」

 一読してイサベラは顔の血の気が引いた。
 イサベラの顔を見て、ユッテは訊ねた。

「どうして? 顔色が真っ青よ」
「修道院に入る事になったの」
「修道院? どうして?」
「それは……」

 イサベラはそれを言うのを躊躇った。

「急を争うの。黙って行かせてくれる?」

 ユッテはイサベラに取り縋るように言った。

「ちゃんと帰って来る?」
「ええ。勿論よ。しばらく行くだけになると思うわ」
「時々行ってもいい?」

 イサベラは首を振って耳元でささやいた。手紙が告げた出来事の事を。

 イサベラはユッテを伴って城の裏口へやって来た。
 近くにはブルグントの紋を付けた馬車が一台止まっていて、御者が馬車をこちらへ寄せて来た。隣にはもう一人の貴族が座っている。

「お待ちしておりました。イサベラ様」

 馬車の御者台からはブルグントの特使が降りて来て、イサベラを馬車へと誘導した。
 御者の手を取って素早くイサベラが馬車に乗り込むと、ユッテも後に続こうとする。

「この方は?」
「ユッテ王女です」
「王女……様とは」

 ユッテは軽く礼の仕草を取って言った。

「イサベラのいる場所が見たいの。送ってくれる?」
「しかし……」
「私からもお願いします。引き替えに秘密を守ってくれる約束をしましたので」
「畏まりました」

 特使は胸に手を置いて礼を取った。そして手を差し伸べて、支えになる。
 当然と言うように、ユッテも馬車に乗り込んだ。
 イサベラ、加えてユッテはこうして城を発し、エンゲルベルクへ発った。
 エンゲルベルクは山中深くにある修道院領で、ウーリよりも古くから独立自治を確立していた。ザールネン城のあるオプヴァルデンからは山を二つ程超えた隣の領と言って良い。しかし、そこへ至るにはニートヴァルデンを経由して山を大きく迂回し、谷を巻いて行く険しい道を行かねばならなかった。それ程に人里離れていたが故に独立自治が自然に出来上がったとも言える。
 山道を馬車で揺られて行くイサベラは、母、ベアトリスからの手紙を何度も読み返した。手紙はある変事を伝え、イサベラに一刻も早く王城を離れてエンゲルベルク修道院に入るように伝える内容だった。修道院宛の逗留願いと紹介状も同封されていた。

「すごい山ね。どんなところなのー?」

 窓の景色を眺めながら、ユッテは無邪気この上ない。

「噂では、山の奥で自給自足で暮らしているそうよ」
「すごいわ。私もしばらくそこで住もうかしら」

 イサベラは苦笑いするより無かった。

「修道女じゃなきゃ入れないわ。それに貴女が居なくなったら大騒動になるから、帰った方がいいと思うの」
「じゃあ時々行くわ!」
「駄目よ! これは遊びじゃ無いの。戦争が起こってるの。私は身を隠さなきゃいけないの。貴女が来たら見つけて下さいって言ってるようなものじゃない!」

 イサベラの剣幕に、ユッテはいつになく悲壮な目をした。

「……じゃあ私、随いて来て迷惑だった?」
「そんなことないわ……。でも絶対に秘密が漏れないようにしてね。護衛騎士のレオナルドにも」
「もちろんよ。秘密は守らせるわ」

 ユッテは強く首肯した。これでも彼女なりにイサベラの危機を感じていたのだ。
 山道の途中で修道女の一行がこちらへ歩いて来るのが見えた。イサベラはその顔に見覚えがあった。

「あれは、クヌフウタさん?」
「ホント! クヌフウタさんだわ。止めて!」

 御者が馬車を止めるとイサベラは扉を開け、声を掛けた。

「クヌフウタさん。どちらへ行かれるんですか?」
「ああ、イサベラさん。それにユッテさんも、こんにちは。こんなところで偶然ですね。この山の上に天使の住まうという修道院があると聞いて、途中まで行って来たのですが、何でも他国の人は紹介が無ければ領内にさえ入れないのだそうで、途中で戻って来たのです。あなたは?」
「エンゲルベルク修道院へなら、私、これから馬車で行くところです。お乗りになりませんか? 紹介状もここにあります!」
「ああ、それはまさしく天の助けです」

 クヌフウタと連れの修道女は十字を切って祈りを捧げてから馬車に乗り、道中を共にした。

「クヌフウタさん。ちょうど身の上の思い悩む相談があるのです」

 イサベラは手紙の事についてクヌフウタに話しをした。それは一国の危機を告げる出来事だった。

 ——ブルグント自由伯領をご存知ですか?
 そこはブルグントでありながら帝国領に組み入れられた、かなり特別な領なので、少し遡ってお話しなければなりません。
 現領主はアンデクス家のオットー四世で、先代領主のアデライーデ女伯が病で亡くなって、正式に伯位を継承されたのは四年前の事です。
 アンデクス家は前王家ホーエンシュタウフェン家の系統で、女系ながらアデライーデ女伯はバルバロッサ赤髭大公のお后様からの流れを汲んでいて、それに由来して自治の特権が付与されて来ました。
 ただ、男子継承が出来ず、女伯継承をして婿養子を取る事が続いていて、アデライーデ女伯もまたそうした女伯継承だったのです。
 その婿養子だった当主のユーグ卿が亡くなった時は、リヨン大聖堂の大司教をしていたサヴォイア家のフィリップ卿を頼り、再婚をして、共同統治をすることでその領を保ったのです。
 大司教様が結婚なんて聞いたことあります? もちろんそのために聖職からは全て退いたんですって。
 サヴォイア家はベルンの南方の山岳地の大領主で、フィリップ卿の御兄様がその領主をしていたのですが、それから程なくして亡くなると、フィリップ卿はサヴォイア領主にも就任しました。そちらの領地とブルグント自由伯領を併せた大領地を夫妻は共同統治したのです。それはアデライーデ女伯が亡くなられるまで十年程続きました。
 サヴォイア家は元々はブルグント公国の出身貴族ですし、リヨン大聖堂は教皇様が公会議が行われたくらいブルグントでは今一番権威のある修道院ですから、その大司教だったフィリップ様はブルグントを代表する高位の人でもあります。その声望は周囲にも日に日に高くなりました。
 ブルグント自由伯領とサヴォイア伯領の間には幾つか国があって、ベルンやゾロトゥルン、ムルテン、大小の領邦があります。ベルンはサヴォイアの保護領でしたし、それらは元々がブルグント領でもあって、互いに同盟を持つようになって、連携を深めて行きました。
 ブルグント自由伯の諸侯達はドイツ側の人の扱いなのですが、元々ブルグントの民ですし、ブルグント王家とは婚姻関係で繋がっているのです。ブルグント公国の私達との交流も深く持つようになって行きました。
 自由伯領のシャロン=アルレー伯には私のマルグリッド姉様が嫁いだのです。伯爵はアンデクス家の方ですから、これは国を結ぶ大事な事だったそうです。
 こうして縁が深くなると、ブルグント公国、そして自由伯領、サヴォイア領、そして周辺都市という、昔のブルグント圏全体が一つになって行きました。それは帝国自由都市だったブルグント自由伯領が実質的にサヴォイア領、大きくはブルグント領へと変わって行く事でもあったんです。
 自由伯領の領主に就かれたオットー四世は、アデライーデ女伯と前夫のユーグ卿との子ですのでフィリップ卿からは血が繋がりません。アデライーデ女伯の遺言によって領主権を譲渡されたそうです。ですので依然オットー四世のアンデクス家自体は前王家由来のドイツの名家です。
 帝国は計略を巡らし、自由伯領を確保しようとしたようです。
 十年以上前の話ですが、そのサヴォイア伯とハプスブルク王家はキーブルク家の遺領の継承問題で抗争があって、ルードルフ老王様はサヴォイア保護下にあったムルテンへと兵を送って来たそうで、夫妻は同盟関係にある周辺の諸都市と連携して防戦をしました。そうしているうちにモラヴィアとの戦争が始まると、休戦協定を結んで、一時休戦中だったのです。
 それが再燃したのが先週の事です。ブルグント自由伯領の国境の町ポラントリュイにハプスブルク王軍が結集したのです。ポラントリュイの領民達は、大慌てで峠道を封鎖し、多くの人は城の中に籠城しました。そこから発した急使は隣のモンベルガルトへ行き、モンペルガルト伯のルノー卿に危急を告げました。ルノー卿は増援の兵をポラントリュイへ発し、そして兄のオットー四世、シャロン=アルレー伯、義父のフィリップ一世へ急使を送りました。そして姉の旦那様のシャロン=アルレー伯は周辺諸都市、そしてブルグント公国、そして我が母のベアトリスの住まう古城にも急使を飛ばしたのです。
 シャロン=アルレー伯からの書状によれば、ハプスブルク王家からはバーゼル司教のハインリヒ卿の解放とポラントリュイのバーゼルへの委譲を要求されたようです。ハインリヒ卿はハプスブルク家の腹心で、就任に不正があってルノー卿に審問されていたのです。
 加えて書状には、ブルグント自由伯領内に王軍が攻め入れば、ブルグント諸国同盟を含んだ大きな戦争になることも予想される、そして、ブルグント王家の娘である私がハプスブルク王家の城内に在る事は、今後いつ人質にされて脅迫されるかもしれない、とも書かれていたのです——

 ブルグントの居城で、イサベラの母ベアトリスは急使が渡した書状を読んで言った。

「そんな事って……これは本当の事ですか?」
「ベアトリス様、ドイツ王はブルグント自由伯領国境のポラントリュイを大軍で包囲を続けています。ドイツ王はこれを期にブルグント自由伯領へ攻める構えです。そうなるとブルグント諸都市の同盟国を巻き込んで大戦へと発展します。公女様がハプスブルク王の人質になっていてはあまりに危険。至急ご避難を願います!」

 頭を垂れる使者にベアトリスは言った。

「イサベラを王家の手の届かない、山奥のエンゲルべルク修道院に避難させる事としましょう」

◇   ◇   ◇

「そして私は修道院に入れられる事になったのです」

 イサベラから事件の顛末を聞いて、興味津々な目をしたユッテは、

「そう言う事だったの。ようやくわかったわー」と拍手をしている。

「勉強になりますね」

 クヌフウタも頷いて笑った。

「ユッテ、それにクヌフウタさんも。笑い事ではありません」
「ごめんなさい。あまりに大掛かりな話なので笑ってしまいました」
「まあ。他人事と思って。でも、こんな若くして私は修道女になるべきなのでしょうか?」

 クヌフウタはまた笑った。

「クヌフウタさん! 真面目に聞いているのですよ」
「フフ。ごめんなさい。貴女は修道女になりたいのですか?」
「私、クヌフウタさんがなるべきだと言うなら、なります」
「修道院は他人が無理に入らせるものではありません。生涯を神に捧げると自ら誓った人だけがなれるのです。生涯に関わるものですよ。貴女は誓えますか?」
「それは……」
「でしょう? それは貴女が決めるのです。こんな事情ならまだ決めなくてもいいの。それにすぐ取り越し苦労に終わるのでは無くて?」

 そんな長い話しをするうちに、馬車は切り立った谷を抜け、エンゲルベルクの領内に入った。小さな民家に門番役の老夫がいて、紹介状が有ると言えばすんなりと通してくれた。
 狭い谷を抜けると、こんな山奥と言うのに広い平原が広がり、まだ端々には残雪が見える。またその向こうには大きな屋根の修道院が見える。頭上には雪嶺が屋根のように聳えていた。

「キレイ。雪山が天使の羽根のようね」
「本当」

 白く霞んだその山の形は片翼の天使の翼のようにも見えた。
 エンゲルベルク修道院はこの辺りでは一番古い修道院で、建物は古かったがそのゴシックの様式美は工芸品のようだった。

「キレイ! 想像してたよりずっといい場所。この窓の細工もいいわ。山奥にこんな素敵な場所があったのね」

 修道院に着くや否や、ユッテははしゃぎ回って修道院前の彼方此方を走り回った。

「イサベラ見て! ステンドグラスもキレイ!」
「ユッテ! 窓から見てる。恥ずかしいから静かにして!」
「……ぅ。イサベラの第一印象悪くしちゃいけないし、帰るわ」

 窓から見る修道女達の目にユッテは行いを恥じたのか、すぐ馬車に戻り、大人しく帰途に就いた。

「元気でね」
「ユッテも」

 クヌフウタとイサベラはユッテを送って行く馬車を見送った。
 イサベラとクヌフウタは到着してすぐに女子修道院長のクレアと面会し、母から送られた書状と紹介状を示し、逗留の許可を得た。クヌフウタと連れの修道女も同じ紹介状で入って来たため一緒に逗留する事になった。クヌフウタはボヘミアへの帰途の途中だったが、馬車も無い長旅の途上の事、こうした逗留はよくある事で、良い勉強が出来るとむしろ喜んだものだった。
 エンゲルベルク修道院は自給自足を気風とするだけに、その暮らしは物資に乏しく、初日は毛布が足りず、一枚に二人が入って寒さに震えて寝たものだった。そして朝から日暮れまで野良仕事が山のようにあった。慣れない仕事に四苦八苦しながらも、イサベラにとって結婚の事や公爵家のしがらみも無いその場所は、過ごしやすい場所だった。実質は逃避行のような心細いものでもあったのに、心は和んだ。
 そこへ身を寄せ、落ち着いたイサベラは、アフラへの返事の手紙を書いた。

 親愛なる アフラ様

 季節の過ぎ行く足音は早く、アルプの野に咲く花は今やもうすっかり変わっている事でしょう。病が快癒され、羊と一緒に歩いたとのこと、とても元気そうで何より嬉しいお便りです。皆様もさぞお喜びの事でしょう。でも、病は治り際も大切です。お体ご自愛下さい。
 さて、私は今、訳あってエンゲルベルク修道院にいます。エンゲルベルクはウーリと山を一つを隔てた所です。この山の向こうに語りかけるようにこのお手紙を書いています。ここでは戒律に従った自給自足の生活をしなければなりません。早朝からやる事が細かく決められていて、とても厳しいですが、クヌフウタさん逹も一緒なので心はとても穏やかです。このまま修道女になろうとも思ったのですが、クヌフウタさんはもう少し考えてからでいいと言ってくれます。しばらくお手紙はこちらに下さいね。
 こんな状態なのでお城へご招待するお約束は当分保留になってしまいました。お約束をちゃんと守れない駄目な私で御免なさい。
 落ち着いたら一度そちらへお見舞いに伺いたいと思います。その時はきっと修道服姿ですので驚かないで下さいね。ではまたお便りします。
                   イサベラ・アニエス・ド・カペー

 その手紙はエンゲルベルクの買い出しの馬車に託され、ウーリの宿舎へと届き、肉の配達役のレギンがシュッペル家へと届けた。
 カリーナがその手紙を受け取り、カリーナから手紙を貰ったアフラはその場ですぐに手紙を開き、それを声に出して読んで聞かせた。カリーナはそれでイサベラの人柄を知って安心するのだった。


中世ヨーロッパの本格歴史大河小説として、欧米での翻訳出版を目指しています。ご支援よろしくお願いいたします。