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ハートランドの遙かなる日々 第25章  ラッペルスヴィルの思い出

懺悔教会 

「あなた」
 ルーディックはエリーザベトに廊下に呼び出された。
「足はもう歩いて大丈夫ですか?」
「うん。この通り。エリーザベトも大丈夫かい?」
「ええ。もう大丈夫です。では、日が沈まないうちに懺悔に行って来て下さい。牧師さんに待ってもらってますから」
「頭打って忘れてくれたら良かったのに……」
「何か仰いました?」
「いいえ……」
 ルーディックは一人懺悔へと出て行った。
 それをアルノルトが追って来た。
「どこへ行くんだルーディック」
「懺悔教会さ」
「ああ、例の懺悔か。懺悔教会?」
「懺悔に使われてる小さな教会があるんだよ」
 さらに後からはユッテとイサベラ、そしてアフラが歩いて来た。
「どちらへ?」
 イサベラが聞いてきたが、懺悔に行くとは言い出しにくい。
「すぐそこの教会へ……」
 しかしすぐにアルノルトが補足して言った。
「懺悔教会があるんだって」
「湖に行く前に、行ってみようかしら?」
 と、令嬢達も付いてくる事になった。
 城の裏口を潜って出ると、さらに防壁のアーチ型の通用門があり、それを出てすぐの所にその教会はあった。大きさは小さな家程だが、壁は白く塗り込められ、絵や装飾が施され、所々に宝石が入っていて、とても美しかった。
「小さくて、かわいい!」
 アフラが小さく跳ねて振り返ると、ユッテ、そしてイサベラも言った。
「キレイね。壁が白いクリームみたい」
「お菓子の家のようだわ。これが懺悔教会ですか?」
 ルーディックは正視出来ないように顔を背けつつ言った。
「ここは正式には聖母教会なんですが、みんな懺悔をここで行うので、通称、懺悔教会です」
「ルーディックはこれからここで懺悔なんだって」
「アルノルト、恥ずかしいから……」
 ユッテは言った。
「中に入れるかしら?」
「懺悔をしてる間は、プライパシー保護の為に他の方は入れません。今からドアを開けますので、その入る隙に入り口から見るだけにして下さい」
 そう言ってルーディックは振り返り、入り口の扉を大きく開けて中へ入って行った。
 ユッテとアフラは扉の際まで来て中を覗き込み、中もしっかりチェックしたが、一階部分は正面に小さな十字架がある他は、脇に幾つかの部屋と、二階へ続く階段があるだけだった。二階に上がると礼拝堂があるようだ。
「中は普通の部屋?」
 ユッテがそう言うと、控えていた修道士から睨まれたので、ルーディックは振り返り、手でドアを閉めるジェスチャーをして、軽く礼を取った。
 アフラはドアをゆっくりと閉めながら、小さく礼を返した。

 それから、令嬢達は湖の船着き場へと歩いて行った。アルノルトも成り行きで後について行く。
 階段の途中で立ち止まり、そこから湖と船着き場を見渡した。
 茜色の夕日の染まった湖は、さっき見た以上に美しかった。
「キレーイ。長い架け橋もステキ!」
「向こうの小島や長い桟橋の先にも修道院があるわ。行ってみたいわね」
 ユッテとイサベラが風景を見てそう言い合っている。
 アルノルトが後から言った。
「前に向こうから橋を渡ってここまで来たよ」
「ホント? 繋がってないのに」
「桟橋の途中が移動する浮き橋になっているんだ。向こうから見た風景も城壁が壮大で凄かったよ」
「すごいお城ね。完全に負けたわ」
 ユッテはそう言って天を仰いだ。
「ユッテさんが負けを認めちゃうなんて、凄いお城ですね」
 アフラはそう言ってから指差して言った。
「あの船、帰って来るみたいです」
 船着き場には小島や向こう岸を結ぶ連絡船が通っている。
 船が着くと数人の人が降りて来た。その多くは魚の入った袋を持っている。
 アルノルトはそれを見て言った。
「魚が捕れるようだね。水もいいし、美味しそうだ」
 ユッテは手を合わせて言った。
「魚料理好きなの。夕食に出るかしら?」
「出るんじゃないかな? あそこにブリューハントさんがいるし」
 船からはブリューハントが降りて来た所だった。手には大きな魚の入った網の袋を持っている。
 階段の近くまで歩いて来てブリューハントは驚いて言った。
「これはこれは、お出迎えいただきまして」
 階段に並び、一同は笑顔を返す。アルノルトが大きく手を振って言った。
「湖を見に来てました」
「ああ、いい風景だ」
 イサベラが小さく礼を取って言った。
「おひさしぶりです。魚を捕って来られたんですか?」
「ああ、これは向こうの小島に網を張っていましてな。いつでもこうして魚が捕れるというわけです」
 そう言ってブリューハントは袋の中の魚を見せた。大きな魚がたくさん入っている。
「わあ」とイサベラが、そしてユッテ、アフラも覗いて「すごーい」と驚く。
「すぐ近くでこんな魚が捕れるなんて、いいですね」
 そう言ってると、階段からの上からルーディックが駆け下りて来た。
「おーい」
「あれ? ルーディック? もう終わったの?」
「超高速で終わらせて来たよ」
「あーっ。ルーディックさん。まだ安静に!」
 アフラが怒ったように注意した。
「あ、はい……」
 ルーディックは足を緩め、静かに歩いてアルノルトに並び、はにかんで笑った。
 ブリューハントは階段を上って来て言った。
「どこかお悪いのですかな?」
「気にしないで。ちょっと足を切って怪我しただけだよ」
「左様でしたか。今日の晩餐に、魚を捕って参りました」
「それはいい! ここの魚は美味しいから」
 ユッテはそれを聞いて大喜びだ。
「わあ。それはご当地のごちそうですね。私達の為にありがとうございます」
 ユッテはもう満面の笑みだった。

 そうして一同はブリューハントと一緒に城へと戻り、しばらく城内を散策した。
 城の回廊には幾人も客が待っていて、今はエリーザベトが順番に面会をしているようだ。
 その中に、ユッテが近付くと、何故か顔を隠して逃げ出す人が何人かいた。
「失礼しちゃう!」
 少しお冠なユッテに、ルーディックが言った。
「きっとお忍びで来ているのでしょう。見逃してあげて下さい」
「そう。まあいいわ」
 ユッテ自身がよくお忍びで遊んでいる事もあり、そう聞けば寛容にならざるを得ない。
 メインパレスと三つの塔からなる城は広く、かつ高い。塔や城壁に登り、歩き回るだけで一同は疲れて来た。
「もう歩けない。完敗よ。広さでも負けたわ」
 ユッテは城壁のテラスへ出た所で欄干に突っ伏してしまった。
「疲れましたね。見て回るにも休憩が必要ね」
 イサベラもユッテの隣で欄干に凭れた。
 山に慣れたアルノルトとアフラはまだ平気でいたが、疲れはある。一緒に休むようにテラスから外の風景を見た。
「町が見える」
「いい眺め」
 夕闇の迫る中、そこからは隣の大きな修道院と、眼下には朱色屋根の町並み、そして広場が見えた。
 広場にはたくさんの人がいて、こちらに気が付いた子供が手を振っている。
 アフラはそれを見て手を振り返した。
 ルーディックも手を振りつつ言った。
「ここからでも町の様子がしっかり見えるでしょう。よく広場で集まりをしていると、ここで覗いているんですよ」
 ユッテはその風景を見て言った。
「町を見守るいいご領主のようでよろしいですこと。私の城は山と湖しか見えないまるで隔絶地のようね」
 その声には何か悔しさのようなものが滲んでいる。
「もう日も落ちますね。戻りましょうか」
 そこから一同は少し遠回りしながら部屋へ戻った。
 そうしているうちに晩餐の時間となった。
 晩餐には先程の魚がムニエル料理として出された。
 ユッテは好物を待ち構えていたようにそれを食べて、思わず笑顔が零れた。
「美味し……お魚がとてもすっきりした味わいで」
 冒頭から叫びそうになって、ユッテは上品に取り繕いつつそう言った。
「本当ですね。身がすっきりしてさっぱり」
 アフラが相変わらずユッテより早く食べてそう言うと、エリーザベトが言った。
「お気に召して頂いたようで。ここの魚は水が綺麗ですから、澄んだ味わいで美味しいんですよ」
 イサベラはその魚をじっくり味わって食べ、エリーザベトに聞いてみた。
「本当に! 水が綺麗だと、どうして身がすっきりするものなんですか?」
「どうしてかは判りませんが、雑味が少なくなります。水が綺麗だと、遠くまで見えて、悩む事も少なくて、身も心もすっきりするんでしょう」
「願わくば」と、クヌフウタが言った。
「願わくば、私達もそのような綺麗な水のような所で生きたいものですね」
「本当にそうですね……」
 イサベラが少し悲しそうな顔で頷いた。
 アルノルトはその顔を見て、イサベラの涙を思い出した。隠しきれずに溢れた、その涙を。
「僕らはいつも澄んだ空気の中で山々を遠くまで見ているし、未来も同じように暮らしているだろうからと、あまり思い悩むこともないです。これは綺麗な水で暮らしている魚のようなものかもしれないと、今思いました」
 ルーディックはそれをからかうように言った。
「じゃあ、アルノルトを食べると美味しいってこと?」
「食・べ・な・い」
 これには聞いていた人達も失笑せざるを得ない。
 クヌフウタも笑いつつ言った。
「でも、アルノルトさんの言う事は良く判ります。お城の生活でも、修道院の生活でも、いつも心は不安で、何かに追われているようでしたが、ウーリにいると心が安らいで、とても落ち着きましたから」
「本当にそうです!」と頷いたのはユッテだった。イサベラも同意するように言った。
「私もウーリに行くと澄んだ気持ちになれるんです。正に澄んだ綺麗な水のような、そんな気持ちに」
 ルーディックもこれに追従して言った。
「僕もウーリが好きですね。これはウーリの人が最高だって言うことだよ、アルノルト」
 アルノルトはしかし、違う事が気になった。アルノルトと同じ疑問をアフラが聞いた。
「クヌフウタさんはお城で生活してたんですか?」
「ええ。アフラくらいまではお城の生活で、その後からは修道院生活でした。修道院は子供には厳しかったんです。フランチェスコ派ですからね」
 ユッテが隣から諭すように言った。
「クヌフウタさんはボヘミア王国の王女なの。知らずに失礼の無いようにね」
「王女様!」
「ええっ!」
 アフラが驚くと共に、アルノルトも驚いて顔を見合った。
 見ればエルハルトは驚いてないので知っていたようだ。
「別に珍しくないわよ? イサベラもブルグントでは王女ですもの。公爵ってこっちで勝手に呼んでるだけで」
 姉達も王女ばかりでユッテの周辺では王女が珍しくない。その言に無理は無いと言えたが、普通は珍しい。
「知ってた?」
 アルノルトが聞くと、エルハルトは当然というように頷いた。
「元王女という方が正しいですね。もう弟のべンケルが王位を継ぎましたから」
 クヌフウタが訂正すると、ユッテは追補する。
「それでも王女と言って差し支えありませんわ。因みにベンケルは私の婚約者ね。結婚したら、クヌフウタさんはお義姉さんになるんですね。その時はよろしくお願い致します」
「こちらこそ」
 ユッテとクヌフウタは小さく礼を交わした。
 あまりの話の大きさに、一同は押し黙った。
 沈黙を破るようにアルノルトは二人を見て言った。
「ボヘミア王国は少し前まではハプスブルク家と戦争してたんですよね。今はもう仲良く結婚してしまうなんて、正直言って僕ら庶民にはとても理解出来ないよ」
 ユッテは寂しげに言った。
「父はね、結婚を政治手段にしているのよ。感情は全く関係なく、国の統治の利で結婚を決める。最近は信じられない結婚話が幾つかあって、私も信じられなくなって来たところ」
「それって……」
 イサベラはそう聞いて、ユッテと見つめ合った。ユッテは目配せをしてから言った。
「でもね、私達はそれに関係なくていいんじゃないかしら? むしろそれに乗じて親しくして打ち克ってしまうの。その方が、楽しいでしょう?」
「とてもいいですね」
 そう言うクヌフウタよりも強く頷いたのは、イサベラだった。
「ええ。そうね。私もそう思うわ」
 イサベラの頷き方にはいつもより熱が籠もっている。クヌフウタは言った。
「それはとても良い覚悟の持ち方だと思います。私は断ってしまった方なんですが」
 ユッテは思い出したように言った。
「クヌフウタさんは亡くなったハルトマン兄様と婚約されていて、お断りになったんですよね」
「ええ。修道院へ入ってお断りのお手紙を何度も出して、諦めていただくまでは大変でした」
「いいお兄様でしたのに、どうしてそんなにお嫌いだったんですか?」
「両家が戦争寸前に仲が悪かった事もありますが、幼少の頃、もう婚約していた人がいたんですよ。内戦で一時失踪してしまっていたのですけど」
「婚約を二重に? どうしてそうなってしまったのかしら?」
「その方は実父と内戦をして跡継ぎを取り消されて失踪しましたから。どちらの婚約も父が決めて、今は詳しくは聞く事も出来ません。私は王の娘としては政略結婚も務めだと諦めていました。でも修道院に入れば、断る事も出来ると叔母に言われたんです」
「クヌフウタさんも同じご苦労をなさってるんですね」
 ユッテは目頭を熱くしてクヌフウタを見詰めた。イサベラが聞きにくそうに聞いた。
「クヌフウタさんは、やっぱり最初の婚約者の方を今でも想って?」
 クヌフウタは首を振った。
「まだ幼かったですし、相手はもう大人でしたから、恋心というよりは、親しみでした。マルグレイヴ・フォン・マイセン様はとても人望のある方でした。シュタウフェン家の後継を名乗る方で、エルサレム王、シチリア王の権利を訴えていたので、その方を次期皇帝に推す人も多かったくらいでしたから」
「へえー初耳です。御父上様はかなり運が良かったみたいですね」
「そうですよ。私の叔母は前王フリードリヒ二世の求婚を何度も受けて、修道院に入って断っていたそうですし、それがどちらか叶っていれば、今頃は……王位を勝ち取れていたか、判りませんよ?」
 ハプスブルク家はシュタウフェン家から来た后妃がいたとは言え、当時まだ小領主だったので、東欧をハンガリーまで縦断する程の大領主だったボヘミア王国と、シュタウフェンの血統があるマイセン家との婚姻関係があれば、歴史は大いに変わっていただろう。叔母のアネシュカ・チェスカーと前王との結婚がもし成っていたら、それを上回る出来事になったはずだ。
「えーっ。強敵がいっぱいだったんですね」
「私も修道院へ入ってしまおうかしら……もしそうなったら……」
 イサベラがそう呟いたので、慌ててユッテはイサベラに抱き付いた。
「早まらないでー!」
「あら? 歓迎しますよ。純粋な動機でしたらですけど」
 クヌフウタはイサベラに笑いかけるが、本音は見透かしているようだ。
 しかし、イサベラはいつになく真剣な表情で言った。
「諦めてくれるまでだけ修道院に入っていてもいいものなんですか?」
「それはその修道院によりますね。基本的には生涯を神に捧げる人が入るのです。その後に事情で離れる方はいらっしゃいますけどね。誰か結婚を迫る方が?」
「いいえ……まだです……」
 イサベラの声は何故か心苦しそうだ。
 ユッテがごまかすように言った。
「いずれ現れるっていう話よね?」
「ええ……」
 イサベラは浮かない顔をするばかりだった。
 その様子から、問題はどうやら結婚話にあるようだとアルノルトは察しをつけるのだった。


侵入者

 食事が終わると、それぞれの部屋へと案内された。
 シュッペル家の兄妹四人が同じ部屋だったが、着替えに困ったアフラは別の部屋がいいと言って、ユッテの部屋を頼ってみた。
 ユッテの部屋ではイサベラ、そして従者達が同じ続き部屋にいて、従者が二人一部屋になれば部屋を開ける事が出来た。
 小部屋を一つ譲られたアフラが空気を入れようと窓を開けると、すぐ目の前の城壁に黒衣の人がいた。
 ここは城壁の角付近で、城壁と同化した建物が斜め前に接していて、人影はロープを伝い、その窓に取り付いている。
「キャッ。誰?」
 その声に、その人影は口に人差し指を立てる。
「キャァァーッ!」
 その甲高い声に人影は慌ててロープで下に降りて行った。アフラは廊下へ駈けて行き、窓を指して叫んだ。
「キャアキャア。変な人がいる!」
 声を聞いてレオナルドがやって来た。
 レオナルドが窓から外を覗き込むと、ロープを伝って降りて行く侵入者の姿が見え、侵入者が中庭に降り立ったのが判った。
「侵入者だ! そっちに行ったぞ」
 レオナルドは窓から衛兵に叫んだ。
 門の近くにいる衛兵は中庭に出て行き、不審者を発見した。不審者は門とは逆へと逃げて行く。
 レオナルドは吊り下げられたロープを辿り、それが窓枠の無い上階から吊り下がっている事を見て言った。
「あの上階には何が?」
「上は確か見晴らし台?」
 もう一人の護衛のマルクと、ユッテとイサベラも部屋へやって来た。
「何があったの?」
「不審者がいました。向かいの窓から中庭へ逃げたようです」
「エリーザベト様に知らせなきゃ!」
「他にもまだ侵入者がいる可能性が大きいです。今王女様の警護を解くわけには行きません。ここで警戒体勢を取りましょう」
「それじゃあ他の人が危険じゃない。じゃあ、私も一緒に行くから来て」
 ユッテは部屋にいた全員を引き連れて、エリーザベトの部屋へ向かった。
 セシリアやロザーナは箒や衣裳ケースを持って武装して歩いた。
 ユッテはエリーザベトの執務部屋の戸を叩き、返事と共に部屋の扉を開けて中へと入った。
「エリーザベト様! 夜分遅くすいません」
 部屋へ入るとエリーザベトは、ブリューハントと、そしてルーディックと溜まった書類の山を処理している。
「どうしました? そんなに大勢で」
「大変です! 不審な者がいました」
「不審者? 何処です?」
 レオナルドが進み出て言った。
「向かいの建物の窓に、不審な者がロープで取り付いていました。ウーリのお嬢さんが発見して大声を上げたので、中庭へ逃げております。衛兵が気が付き、それを追っています」
「何てこと!」
「行こう、ブリューハントさん!」
「はい!」
 ルーディックとブリューハントは急いで出口へ歩いて行く。
 レオナルドはさらに言った。
「まだ中に侵入者がいるかもしれません。しばらくこの部屋で待機させて頂いてもよろしいでしょうか? 我々で護衛致しますので」
「それでこんな人数に。そうですね。ここでブリューハントさんの返答を待ちましょう」
 レオナルドとマルクは入り口を堅め、ユッテとイサベラは不安そうに手を取り合って長椅子に座った。
 アフラは「兄さん達に知らせて来る」と、部屋を出て、元いた部屋へ向かった。

「侵入者?」
「本当か?」
 エルハルトとアルノルトは驚いてアフラに聞き返した。
「うん! 私、目が合っちゃった」
「どんな奴だ?」
「黒い服だし、顔はマスクしてたし良く判らなかった。門とは逆に逃げたし、すぐ捕まるんじゃないかしら?」
「この堅牢な城へ入ったんだ。何か出る方法もあるんだろう」
 そう言ってると、ルーディックが部屋へやって来た。
「アルノルト、皆無事かい?」
「ああ。侵入者だって?」
「ああ。取り敢えず皆無事だったようだ」
「見つかったのかい? 犯人は」
「衛兵は見失って、今方々を探してるんだ」
「それって、まだ中にいるってことじゃないか……。危険は去ってないな」
「そうなんだ。女性達はエリーザベトの部屋で一緒にいて貰って警戒態勢を敷いているよ」
「この高い壁の何処から入ったんだ?」
「ロープがあったから、外から城壁を最上階まで登って、上階から内側へ降りて来たところを妹さんが見付けたんだろうと思う。見付けてくれて良かったよ。ありがとう」
「私、アフラが見付けました」
 アフラは小さく礼を取った。
「じゃあ、その進入経路をまず警戒しなくちゃな」
「鋭いねアルノルト。行ってみるよ」
「僕も一緒に行くよ」
 エルハルトが「気を付けろよ」と声をかけ、自らの大きめのナイフを渡した。
「うん。借りとく」
 ルーディックとアルノルトは部屋を出た。
 すると、アフラもついてくる。
「アフラ! お前は部屋にいないと危ないぞ」
「犯人の顔知ってるの、私だけよ。目しか見えなかったけど、紛れていたら判るかも」
「でも武器を持ってるだろうし……」
「じゃあ、兄さんも危険じゃない?」
「いざとなれば、二人とも僕が護るから大丈夫さ」
 と、ルーディックは腰のサーベルを叩いた。
「頼もしいです……」
 アフラは無邪気に笑っている。
「笑ってる場合じゃない! あ、丁度いいものが」
 廊下には剣と楯が飾ってあり、アルノルトはその剣を取った。楯はアフラへ渡した。
「重い……」
「まあ持っとけばいざとなれば防御出来るだろう。じゃあ行こう」
 ルーディックの先導で、アルノルトとアフラは城壁の上へと歩いた。そこは普通なら屋根の無い城壁の屋上なのだが、木造の二階建ての小屋がその上に乗ったような構造になっている。そこへ行くには塔の扉を開ける必要があり、鍵が無ければ出入りは出来なかった。
 ルーディックはその鍵を開けてから、扉を押し開けた。
「暗いな。ランプを貸して」
 アルノルトは壁に掛かっているランプを取って、ルーディックに渡した。
 それを渡している所で、黒衣の人影が襲って来るのが見えた。
「危ない!」
 アフラは咄嗟に楯を出して前に出た。
 キンと金属を弾く音がした。
「キャアァァァッ」
 その音にアフラは怖じけて下がった。
 入れ替わってルーディックはランプを放って素早く剣を抜き、その人影を払った。
 人影はそれを剣で避けて大きく下がった。
 落としたランプは床を転がって行き、油を零して類焼したが、辺りを明るくした。
 黒のローブ姿で背の高い男がそこにいた。口には黒い布を巻いているので顔は判らない。腰には剣の他に、クロスボウやロープをぶら下げているのが見えた。
「二人とも下がってて。僕がやる!」
 ルーディックはそう言って、剣を構えつつ前に出た。
 そして猛然と斬り、払い、突き返す。その剣戟の素早さは、目を見張る程だ。
 しかし、ローブの男はそのすべてを軽々と避けた。それはまるで本気を出している気配が無く、かなりの余裕を感じさせる。
 アルノルトは扉の中まで下がって言った。
「アフラ、誰か助けを呼んでくるんだ!」
「でも……」
 アフラは楯を構え直して言った。
「それは貸せ。アレは強い、出来ればエーバーハルト先生くらい強い人を連れて来て」
「判った!」
 アフラは階段を駆け下りて人を呼びに行った。
 アルノルトは楯を構えつつ、前に出た。
「重心を低く……」
 そう呟いて、楯を低く構えつつ、近付いて行った。
「アルノルト! 来るな!」
「アフラにも出来たんだ。僕も出来るさ」
 そう言ってアルノルトは楯を持って侵入者に突進した。
 低い体勢からほぼ体を隠すようにして突き出された楯を、ローブの男は長い足を出して蹴り返した。
「ッタ」
 楯は持つところが一点しかないので、こうされると楯の下が押し込まれて足の脛を打った。目から火花が出るほど痛い。
 勢い止まる事も出来ず、アルノルトは地を転がった。
「アルノルト! 早く起きろ!」
 ルーディックは無防備になったアルノルトの方へは行かせまいと、そこに飛び込んで斬りかかった。
 チャンスと見た黒いローブの男は、その剣戟を軽くいなし、アルノルトに剣を向けた。
 アルノルトは急いで起き上がるが、足が痛くて動きが遅れ、立つ前に剣を胸に当てられた。
「動くと此奴の命は無いぞ!」
 布でくぐもった声が響いた。
「下がれ。そして剣を捨てろ」
「汚いぞ!」
 ルーディックは悔しそうに剣を捨てた。
「よし、後まで下がるんだ」
 ルーディックは言われた通りに下がるよりない。
 アルノルトは「これは流石にまずい。僕の命と天秤なんて」と独り言のように言った。
「僕はまだ武器を持っているけど、捨てなくていいのか?」
 アルノルトはそう続けた。
「捨てろ」
 と、男は言ったが、顔はすぐルーディックに向けた。警戒すべきはルーディックだけだと知っているようだ。
「じゃあ捨てよう」
 アルノルトは剣を滑らした。ルーディックの足下に。
「お前!」
 と、振り向いた男へ、アルノルトはさらに楯を投げた。それはローブの男の向こう脛に当たった。
 楯の転がる金属音と共に、痛みに呻く声がした。
「お返しだよ」
 怒った男はアルノルトに打ちかかった。
 ルーディックは剣を手に取って走った。
 アルノルトは斜め前に踏み込み、そこから肘を伸ばす。
 三者がぶつかった。
 男の剣はルーディックに弾かれ、アルノルトには当たらなかった。
 ルーディックの剣はしかし、弾かれてアルノルトの肩を掠めた。
 アルノルトの肘は男の首までは届かず、胸下に当たり、それでも痛撃を与えた。
 そして、アルノルトはさらに体で男を押し込んで床に倒した。そしてその体の上に座り込む。
 すかさず剣を持つ手を脇に抱え、腰のポケットからは兄のナイフを取り出して首に当てた。
「剣を捨てろ」
 アルノルトは勝ち誇ったように言った。
「やったよ! アルノルト!」
 ルーディックはそう言って男の手から剣をもぎ取った。
 その後から声がした。
「そうだ! でかしたアルノルト君!」
 後からはエーバーハルトが来た所だった。その後にはアフラとエリーザベト、ブリューハントも一緒にいた。
 アルノルトが後を向いたとたん、黒ローブの男はアルノルトの腕を掴んで弾き飛ばした。
 そして窓へと走ってそこへ飛び込んだ。
「あっ!」
 ブリューハントがそこへ駆け寄ると、その窓の外には刺さった矢とそれに結わえ付けられたロープがあり、城壁の下までロープが垂れていた。
 その下には木々が生い茂る林が続いていて、暗いので人影は見えない。
 ブリューハントがそのロープを引っ張ると、既に逃げた後で、軽く引っ張り上がった。
「これは! ここから上がって来たのか!」
 その矢を見てアルノルトは気が付いた。それは、クロスボウの短い矢だ。男はクロスボウを腰に付けていた。
「危ない! 顔を出さないで!」
 窓から顔を出して下を見ていたブリューハントをアルノルトは引っ張った。
 その数瞬後、その窓へ、矢が飛んで来た。
「矢か! 危なかった! おかげで命拾いしたぞ」
 そう言いつつブリューハントはまた窓から顔を出すので、再び矢が飛んで来た。
「わっ! 何て奴!」
「これは矢も達人だ!」
 アルノルトがそう言うと、エーバーハルトが言った。
「良く判るね」
「最近クロスボウを貰って練習してるんです。この短い間隔で、狙いが正確だ。かなりの腕利きです。追わない方が安全かもしれません」
 しかし、ブリューハントは言った。
「この城にこんな易々と入って来る奴をタダで逃がすわけにはいかん。捕まえてやる!」
 そう言ってブリューハントは下に駆け降りて行き、エーバーハルトもその後を追った。
 エリーザベトはアフラと一緒に旗から取った布を持って来て、床に類焼していたランプの火を叩き消した。
「危うく城が燃えてしまう所だわ!」
 ルーディックが振り返り言った。
「ゴメン。エリーザベト。ランプを放ったの僕だ。出た時に急に襲われてね。あの時はアフラが楯で助けてくれた。ありがとう」
「そんな事が! 心から感謝します、アフラ」
「どういたしまして。無事で何よりでした」
 アフラは誇らしく笑った。
 エリーザベトは感謝を込めて言った。
「アフラにも、アルノルトさんにも、ウーリの方には本当に助けられますね。感謝の言葉もありません」
「本当に助かったよ。そうだ、アルノルトにも謝らなきゃ。肩を怪我させてゴメン。大丈夫かい?」
 ルーディックがそう言って、アルノルトは初めて肩の怪我を見た。
「これくらいはかすり傷……血が!」
 肩から袖は、かなり血で染まっていた。
「再三だけど、クヌフウタさんに診て貰おう」
 そう言ってルーディックは傷にハンカチを巻いて強く結んだ。
 アフラがやって来て言った。
「怪我したの? また、卵の膜を貼る?」
「あれか。お手柔らかに頼む」
 アフラは中庭側の窓を指差して言った。
「それでね、向こうの窓にも矢が刺さってて、ロープが付いてるの」
「どこ?」
 その窓へ行ってみると、窓枠の内側に矢が深々と刺さり、そこにロープが付いていた。中庭側へと降ろされていたロープは今は上げられて、床に巻かれていた。
「ここからロープで人がぶら下がってこっちを覗いてたの。私は向こうの窓にいてたまたま開けて見付けたの」
 アフラが窓から指を指しつつ言った。アルノルトはその矢を引き抜こうとしつつ言った。
「抜けない。こういうクロスボウの使い方をするなんて。ロープは巻き上げてあるな。さっきの男がやったのか」
「誰も触ってないから、そうだと思う……」
「どう思う?」
 ルーディックが聞いた。
「どうって?」
「ここに入った目的は何だ? 王女の部屋を覗いていた? 王女、もしくは、イサベラ姫を狙っていたという事かもしれない……。それに、ここから入った男はここに上れたと思うかい?」
「ここは目立つから、上っていたらすぐ誰かが見付けただろうな。上るのは時間もかかるし」
「アフラは見ていたんだよね。ぶら下がっていた男と、ここにいた男は同じ奴かい?」
「同じような格好だけど、目は違う感じがしました。背もあんなに大きくなかったような?」
「じゃあやっぱりそうだ。まだ一人は中にいて、ここにいたのは逃走経路を確保するために……わざわざロープを巻き上げたのもそのためだろう」
「まだ危険は去ってないって事だ!」
「ユッテさんと、イサベラさんが危ないわ!」
 アフラがそう叫ぶように言った。
「王女と姫には護衛を増やそう。これは今夜は警戒を解けないな」
 ルーディックが悩ましげに言うと、アルノルトは言った。
「ということなら、ここに戻って来るかもしれない。逆にロープを垂らして、ここを張っていればいいんだ」
「罠を張って、上がって来た所を捕まえる?」
「できればロープを上るところを挟み撃ちしたいね。抵抗出来ないように」
「いいアイデアだ。でも、人手がいるし、まずは君の傷の手当てだ。それに姫君達の防衛だな。行こう」
 ルーディック達はエリーザベトの部屋へと戻った。
 その入り口にはレオナルドとマルクの二人が門兵のように立っていた。
 エリーザベトが声を掛けた。
「こちらは変わりありませんか?」
「はい。異常ありません。捕まりましたでしょうか?」
「いいえ。まだ不審者は中にいるようです」
 アルノルトが肩を押さえつつ言った。
「逃がしちゃったよ……」
「そうか。怪我したのか!」
「これは戦った勲章みたいなものだね」
 ルーディックが言った。
「話は後。怪我人だから。緊急だよ」
 護衛二人はすぐドアを開け、四人は部屋の中へ入って行った。
「アルノルト! どうしたの?」
 皆の集まっている部屋へ入って行くと、ユッテとその女中達、イサベラ、そしてクヌフウタ達、エルハルトやマリウス、そしてルードルフとハルトマンまでいて、たくさん人が寄って来た。
「こんなに血が……」
「どうして?」
「不審者に斬られたのか?」
「いたい?」
 いきなりアルノルトは質問攻めだった。しかし、ルーディックの剣で斬られたとは言えず、答えるのに苦慮していると、アフラが言った。
「話はあとで。クヌフウタさんに診て貰うの」
 そう言われれば皆道を空けた。ルーディックと共にアルノルトはクヌフウタの座る長椅子の前に行った。
 そしてルーディックが言った。
「クヌフウタさん。すみませんが、アルノルトを診てあげて下さい」
 ルーディックはハンカチを外してアルノルトの肩を大きく捲り、傷をクヌフウタに見せた。その傷はやはり深かった。
「これは深い傷! どうしたんですか?」
 ルーディックが沈痛ならない面持ちで言った。
「僕のミスで……剣先が当たってしまったんです」
 ユッテがルーディックを責めて言った。
「あなたなの! なんてことするの!」
 アルノルトが鋭く言った。
「ルーディックは悪くない! 護ってくれたんだ。話はすると長くなるから後でするよ。今は静かに手当てをさせてくれ」
「まあ! 失礼しちゃう……失礼しちゃいました……」
 ユッテは尻つぼみの声で言った。
「出血が酷いですね。血止めをしないと……」
 クヌフウタはハンカチでアルノルトの脇の辺りを固く結んだ。そしてオトギリ草の花を磨り潰し、傷口に塗った。
 その間、アフラはアルノルトの腕を支えた。
 アフラは薬草の花を見て聞いた。
「前とは違う花ですね」
「エヘテス・ヨハンニスクラウトです。血止めにはこの花がいいんです」
「また、卵の膜を貼ります?」
「うーん。この深さだと、針と糸で縫わないとダメですね……」
 そう言ったのを聞いて、ペルシタは太い針と糸を黒鞄から取り出した。
 アルノルトは目を丸くして言った。
「この太い針で? 痛いんじゃないですかそれ?」
「痛くても動かないで下さいね。痛み止め塗りますから」
 クヌフウタはそう言って、今度は白に紫の葉脈状の模様のある花を、置いてあったコップの水にしばらく浮かべる。
 そして、その水をスポンジに含ませてアルノルトの肩の傷に置いた。
「だんだん痺れてきた……こんなちょっとで痺れるって怖いな」
「効いてる証拠ですね」
「この花は何ですか?」とアフラは聞いた。
「シュバルツビルゼンクラウト。ヘンベインとも言いますね。これは有毒です。神経の毒ですから気を付けて少量のみ使います」
 アフラは肩にアルノルトの腕を乗せ直しつつ苦笑いした。
「毒々しい色だと思ったわ」
「卵の膜の方が怖くなくていいんですが……」
「この出血だと無理です。覚悟を決めて下さい」
「そうですか……」
 ペルシタは針に糸を通し終え、蝋燭で少し針をあぶってから、クヌフウタに渡した。
「しっかり押さえてね。動くと傷が酷くなりますよ」
 アルノルトは椅子にしっかり腕を置き、アフラとペルシタでしっかりと腕を押さえると、クヌフウタは針をアルノルトの肩に刺した。
「アーッ!」
 アルノルトは痛みで叫んだ。
「動かないで! 男の子でしょう?」
 エリーザベトとイサベラは思わず目を背けた。ユッテは耳を塞いで遠くへ行ってしまった。
「とても見てられない。僕は出て一仕事してるよ」
 ルーディックはそう言って部屋を出て行った。エリーザベトもその後を追った。
 クヌフウタは一針目を縫い、次の針を刺していく。その頃には毒草で麻痺して来て、痛みがそれ程ではなくなって来た。
「あまり痛くない……」
「薬が効いてきましたね。もう少し待てば良かったですね」
「この薬、体に害は無いんですか?」
 クヌフウタは縫う作業をしながらも、アルノルトに痛みを意識させまいとしてゆっくりと話した。
「通常だと、眠うくなるくらいです。むしろ眠ってしまった方が、痛みが無くていいですね。でも、運動麻痺や、呼吸麻痺が出て来たら言って下さいね。処置が必要ですから」
「呼吸麻痺だと言えないです!」
「コラ。動かないで下さいね。三時間もすれば薬効が引きますから、大丈夫ですよ」
「呼吸三時間しないと死んじゃうんですが……」
「いざとなったら人工呼吸で保たせます。大丈夫です」
「それってマウス・トゥ・マウスっていう?」
「はい。時間が長いと、交代でやらないといけませんけどね」
 アフラが変な笑顔で言った。
「ふふん兄さん。変なこと考えちゃダメよ」
「変じゃないよ! もう死に掛かってる時の話だから!」
「コラ。動かない」
「はい……」
 そうしてクヌフウタは七針を縫い終えた。そして傷に湿布と包帯をした。
「これで大丈夫。あまり患部を動かさないように。一、二週間くらいで抜糸をしないといけませんね」
「自分でしてもいいものですか?」
 と言ってアルノルトは肩を触ってみるが、そもそも肩には手が届きにくかった。
「化膿の心配もあるので、エンゲルベルクに一度来て頂けるといいのですが」
「じゃあ、一週間後にアフラと一緒に行けばちょうどいいかな?」
「一緒に? 一週間後?」
 アフラはイサベラの所へ行って言った。
「一週間後でも大丈夫ですか?」
 イサベラは少し困った笑顔で言った。
「ええ……実は、もう使者が来ていて待たせていて……何とか引き延ばしてみるわ」
「そうでしたか……じゃあ兄さんもう少し早く怪我治って」
「ああ、がんばるよ。って無理だろ」
 遠くで見ていたユッテがやって来て言った。
「手当は済んだわね。さあアルノルト。話を聞かせて。いったい何があったの?」
 そう言うと、皆が聞きたがって、注目が集まった。
 アルノルトは肩を少し気にしながら言った。
「簡単に言うと、ルーディックと僕で、侵入者を見付けたんだ。城壁上の暗い所で急に襲って来てね、戦いになった」
「嘘!」
「私も!」とアフラが言った。
「そうだ。アフラもだ。初撃をよく楯で防いだな。大活躍だった」
 そう言ってアルノルトはアフラの頭を撫でた。
 アフラは満足げに笑った。
「それで?」とエルハルト、
「それでそれで?」とマリウス、
「それで、どうなったの?」と続きが聞きたいユッテだった。
「ルーディックは剣を抜いて果敢に戦った。けど、相手は強くて余裕があって、疲れるのを待ってるようだった。だから僕はそこへ楯を持って突っ込んだんだ。でも、蹴られて倒れて、捕まってしまった」
「蹴られて?」
「かっこ悪い……」とマリウスの顔が曇る。
「そう。剣先を突きつけられてね、ルーディックはもう剣を捨てざるを得なかった」
「もう絶体絶命じゃない!」
「そう。僕はルーディックが僕のために命を投げ出すなんて許せなかった。だから持っていた剣を、ルーディックに投げた」
「危ないじゃない!」
「承知の上さ。でもすぐに楯も投げてね。敵の急所に命中さ。一瞬怯んだけど、やっぱり敵はすぐに斬りかかって来た。そこへ剣を取ったルーディックが走って来て、それを防いでくれたんだ。僕はその隙に斜め前に踏み込んで、教わった例の肘打ちをして、見事敵を倒した。それで兄貴のナイフを当ててね。剣を捨てろって言ったんだ。この劇的勝利を見せたかったよ」
「おお! 勝ったのか! オレのナイフで?」
「うん! 決め手で役に立ったよ」とアルノルトはナイフを兄に返した。
「ワオ! 大活躍だ!」
「すごい! 捕まえたんだ!」
 と、ハルトマンとルードルフは拍手をした。
 イサベラやクヌフウタ、セシリア達もこれには歓声を上げて小さく手を叩いた。
「じゃあ、その怪我はどこで?」
「ああ、ルーディックが防いだ時にその剣が当たったようだ。夢中で何か引っかけたくらいにしか思わなかったけど、見たらこの流血さ。でもルーディックが防いでくれたから僕は生きてる。彼は僕を護ってくれたんだ。ルーディックが剣を振るったからこそ、気を取られて肘打ちも決まった。これは二人で勝ったんだよ」
「そうだったのね……。悪い事を言ってしまったわ……」
 ユッテは少し涙を滲ませつつ、落ち込んだ。
「まあ気にしてないと思うよ」
 イサベラが嬉しそうに言った。
「じゃあ、もう無事侵入者は捕まったのね?」
「いや、まだだ。その後油断して、窓に逃げたんだ」
「窓に?」
「窓から城外にもロープが伸びててね。そこから滑り降りて逃げた。それに、まだ城内にいるみたいなんだ。アフラが最初に見た男とは違ったみたいでね」
「別の人? そうなの?」
 アフラは力一杯頷いた。
「はい。目しか見えなかったけど、違う感じでした」
「だからまだ警戒態勢だ。ここの警備も増やすそうだよ」
「まだ元の部屋へは戻れないのね……残念だわ」
「それは残念ね。早く捕まらないかしら」
 イサベラとユッテは不安を隠せない様子だった。


眠りの毒花

 そこへ、リーゼロッテとエリーザベトが、クッキーやビスケットのお菓子を持ってやって来た。
「皆様。お腹がお空きでしたらお夜食にどうぞお食べ下さい」
 エリーザベトがテーブルに置いてそう言うと、部屋には明るい空気が蘇った。
「わーい」「わーい」と仲良く同時に喜んだのは、マリウスとハルトマンだ。
 アフラも「いただきます」と言うのは良いが、誰よりも早く食べてしまった。
「おいしい」
「私も!」
「おいしそうだな」
 そこにいた多くは十代の子供なので、クッキーは飛ぶように無くなって行った。
「ゴホッ。ゴホッ。喉に詰まった」
 アフラは既に二個目のビスケットを頬張って喉に詰まらせ、咳き込んだ。
「ほらー、アフラ。欲張って急いで食べるから」
 アルノルトはここぞとアフラを注意したが、咳き込みはかなり激しくなった。
「お姉ちゃん大丈夫?」
 マリウスはそう言って、近くにあった水を渡した。
「ありがとう」
 アフラはその水を飲んだ。しかし、それは変な味がした。
「何この水、苦ーい」
 それを聞いて、クヌフウタの顔色が変わった。その水はさっき毒草を漬けた水だったのだ。
「アフラ! すぐ、吐いて! それは毒よ!」
 クヌフウタは飛ぶようにやって来て、アフラを床に四つん這いに座らせ、背を叩いた。そして皿を取ってアフラの口元へ持って行く。
 アフラは懸命に咳き込んで吐くが、詰まらせたビスケットが出たくらいだった。
「苦しい。口が痺れてきた……」
 クヌフウタはますます顔を青くした。
「おお神よ! どうしましょう! ミルク! ミルクはありませんか!」
 マリウスやエルハルトは「ミルクミルク」と言いつつあちこちを右往左往するばかりだ。
 リーゼロッテが隣の部屋から急いでミルクのピッチャーを持って来て、コップに注いだ。
「アフラ、ミルクをいっぱい飲んで流すのよ」
 渡されたミルクを、一杯、二杯とアフラは懸命に飲んだ。しかし、飲んでいるうちに眠くなって来て意識が薄くなる。注ぐ時間も惜しく、三杯目はピッチャーを取って直接飲んだ。が、飲みながら、アフラはそのまま倒れるように床に眠ってしまった。大量のミルクがアフラの顔と絨毯を濡らした。
「キャー! アフラ!」
「お姉ちゃん!」
「起きろアフラ!」
 アルノルトが耳元で呼んでも、アフラは起きなかった。
 クヌフウタはアフラに手を当て、脈と呼吸があるのを確認し、ペルシタと持ち上げて長椅子に寝かせた。
 アルノルトが呆然と言った。
「アフラは……どうなってしまうんですか?」
 クヌフウタはしかし、決然としていた。
「ミルクはしっかり飲んでくれました。少量ですから、死ぬことは無いはずです。呼吸麻痺だけ気を付けていれば大丈夫です。薬効が切れる三時間、いえ、四時間の勝負です。どうなろうとも付きっきりでいますので、私がきっと帰してみせます」
「クヌフウタさん。アフラを頼みます。僕も付いていたいけど、さっきから眠くて仕方ないんだ……」
 そう言って、アルノルトはその場に膝を突いた。そしてハンカチで、ミルクにまみれたアフラの顔や髪を拭いてやった。そうしているうち、アルノルトも椅子に凭れるように眠ってしまった。
「大丈夫!」
「アルノルトもか!」
「クヌフウタさん、薬が効き過ぎです」とユッテが責めるような口調で言う。
「効き方にも個人差があるんです。アルノルトさんをこっちの長椅子に寝かせましょう」
 アフラの向かいの長椅子にアルノルトは運ばれ、そこでアルノルトは深い眠りに落ちて行った。

 
 水の音がする。
 アルノルトは、湖の底を泳ぐように歩いている。
 とても体が重く、なかなか前には進まない。
 息が苦しいが、不思議と呼吸は出来ている。
「大丈夫? アルノルト」
「クヌフウタさん、薬が効き過ぎ!」
 そんな声がどこか隣の領域から聞こえる。
 確かに効き過ぎだろう。こんな湖にまで来させられたのだから。
 アフラはどうしたろうと、周囲を探しても、砂地ばかりの水底が続くばかりだ。
 しかし、どこか近くの場所にアフラがいるはずだという気がした。
 湖の水面には城の灯りだろうか、光が見える。
 アルノルトは水底を蹴り、そこまで泳いで行く。
 水の上には、果たして城があった。
 その場所は確かにラッペルスヴィル城の地形なのだが、その建物はローマ時代の神殿のような造りをしている。しかも夜ではなく、もう昼だった。
 船着き場から陸へ上がり、白亜の神殿めいた城へと入って行くと、中では哲学者や神官、政治家達が大勢いて議論をしていた。
 その奥の高い高い壇上の玉座には神の如き出で立ちの老王がいて、その話を聞いて頷いている。
 両脇には天使か天女のような姿の美女が何人も控えていた。
「少年よ。よくぞ此処まで来た。何を気掛かりにしておるか?」
 老王は高い壇上から、朗々と話しかけて来た。
「妹がここにいませんか? 今、毒を飲んでしまって大変なんです」
 アルノルトは率直にそう訊ねた。
「うむ。緊急であるの。誰か知る者はおらぬか?」
 哲学者達は聞き取れない程早口で多くの議論を始めた、その多くは担当の押し付け合いのようだ。
「火の神官が行くべきだ」
「いや、水の神官が行けばいい」
 一人の神官が進み出た。
「泉の巫女に聞きましょう」
「うむ。では、水の神官に預ける」
 アルノルトは水の神官に連れられて、裏口を出てすぐの泉の神殿の門まで導かれた。
「お先にどうぞ」
 神官は入り口で立ち止まり、そこからはアルノルトを先行させて歩かせた。
 門の先の泉はまるで露天の温泉だった。泉は綺麗な石が敷き詰められていて、天然石で囲われている。貫頭衣状の薄衣を纏う幾人かの巫女がいて、泉で水浴びをしていた。アルノルトはその近くへと歩いて行った。
「無礼であろう。故あっての狼藉か?」
 中央で体を伸ばして水浴びをしている泉の巫女は言った。長い布二枚を肩で結んだだけの薄衣はかなり透けて見える。
 アルノルトは慌てて後ろを向いた。
 かなり後ろの方から、水の神官は言った。
「この方の人探しの神託をお伺いしたく」
 アルノルトは後ろを向いたまま言った。
「妹を探してます」
「妹? どう言う人かもっと判らねば探せぬぞ?」
「アフラと言って、小さい女の子で、目がくりっとして、髪は亜麻色で、今さっき、毒の花を漬けた水を飲んでしまったんです」
「毒の花とはこれか?」
 アルノルトのすぐ後ろまで来た泉の巫女が肩口から花を見せた。
 それは、さっきクヌフウタが使っていたヘンベインの花だった。小さく振り返って見ると、泉の辺にはその花がたくさん咲いていて、泉にはその花が幾つも浮かんでいた。
 水浴びをする別の巫女は辺に咲くその花を摘み、さらに泉に浮かべた。
「神託を頼む者は、泉に入らねばならぬ」
 アルノルトは巫女数人に泉に引きずり込まれた。
「頭まで、全身入るのだ」
 泉の水はほの温かく、温泉と言ってもいいくらいの温度だった。
 しかし、毒の花がずっと入っていたのだ。この水はかなり強い毒になっているはずだ。アルノルトは必死になって巫女の手を逃れ、泉から出た。
「毒! 毒の泉なんて、どうしてこんな事を!」
「決まっているだろう。神託のためだ。泉に入らなければ神託は出せぬ」
「毒が過ぎると死んでしまうんだぞ!」
「慣れてしまえば耐性が付き、もう毒ではなくなる。そのために泉に浮かべている」
「こんな危険を冒してまで慣れて、どうするんだ?」
「心と神経まで眠りに就けば、夢の通り道になる。お前は知ってるはずだ」
「僕が?」
「夢を通ってここへ来たのであろう。ここが何かは知ってるだろう」
「ここが? 何なんでしょう?」
「基底だ。生きている世界の基底にあるのは判るだろう」
「判る? 今初めて聞きました」
「聞かなくても判る事だろう」
「そんなことあるの?」
「あんまり鈍いと世の毒に飲まれるぞ」
 そう聞くとアルノルトの体は痺れてきた。
 体が思うように動かなくなって来た。これは運動麻痺というものだろう。
 真っ直ぐ立てなくなって、その場に倒れそうになった。
 水の神官がそれを支えた。
「もっと毒の鍛錬があると良かったな。ところで、そなたの探し人だが、奥の泉にいる」
「奥の泉?」
 アルノルトは奥の方を見た。泉の奥のさらに高い所に屋根付きの泉があり、祈るようにそこに入ろうとしている巫女がいる。
 それは巫女の姿をしたアフラだった。
「アフラ‥‥」
 そう叫んだが、声はもう小さくしか出ない。
 アフラは祈りを唱えると、一束の花を持って泉に入った。そして泉にヘンベインの花を浮かべる。泉には何本も花が浮いていた。
「それは毒だ‥‥」
 しかし、アフラは泉に体を沈め、さらに頭まで潜った。
「お前もああして作法を守っていれば、体も慣れて苦労は無かったがのう。あの娘は以前もここへ来てしばらくいたが、とても有望だ。ずっといて泉の巫女を継いで貰いたいくらいだ」
「それはダメだ。連れ帰らせて貰います」
「まあ、よかろう。兄が連れて帰ると言うのなら止めぬが、歩けるのか?」
 アルノルトは水の神官に支えられ、奥の泉へと千鳥足で歩き出した。
「アフラ……」
 アフラは別の巫女に呼ばれ、兄がいることに気が付いた。
「兄さん?」
 アフラは慌てて泉から出て、まるで屈託の無い笑顔で兄の元へ駆けて来た。
「どうしてここに?」
「決まっているじゃないか。お前を探しに来たんだ」
「私の為に? ありがとう」
 アフラはそう言って抱き付くかに見えたが、単に支えを水の神官と代わったのだ。
「帰ろう。許しは貰った」
「もっと泉に浸からなきゃ」
「あれは毒だぞ。この通り動けなくなって、最悪死ぬかも知れない」
「ここでは死は無いわ。私は何度かここへ来て知ってるわ。何百年も生きている人ばかりよ」
「まさか! ここはもう天国とか……」
「そうならもう戻れないかも?」
「いや、湖から来たんだ。湖から帰れるはずだ」
「今度は湖で水浴び?」
「そうだ。水浴びしてれば帰れるかも」
 そして二人は湖へと歩いた。
 歩いていると、火の玉が後方から飛んで来た。
 後ろを見れば城郭からは老王と火の神官達が何か火の玉を飛ばして来る。
 アルノルトとアフラは慌てて湖へ走った。
 そして桟橋から湖に飛び込んで、全身を湖に沈めた。
 水から顔を上げると、そこはもう夜で、ローマ神殿風の建物ではなく、元のラッペルスヴィル城だった。
「アフラ! 戻ったぞ!」
 しかし、何処にもアフラの姿は無かった。
 アルノルトは再び水に潜った。しかし、何度潜っても、何度呼んでもアフラはいない。
 水の中で、再び声がした。
「アルノルト、気が付いたか?」
「悪い夢を見ているようね」
 水の底に、部屋があった。
 長椅子に自分とアフラが寝ていて、兄やクヌフウタ達が集まっている。
 そう言えば、あそこに自分はいたのだ、そう思って、アルノルトはそこへ降り立った。
 部屋の中に水の泡が大きく立った。


 アルノルトは長椅子の上で目を覚ました。
 微かにペパーミントの香りがする。
「アルノルト、気が付いたな」とエルハルトが言った。
「悪い夢を見ていたようね? うなされていましたよ」
 とクヌフウタが汗を拭いてくれた。
「アフラは?」とアルノルトは隣を見た。
「アフラはまだ眠ってます。変わりはありませんよ。少し呼吸は弱いですけどね」
 アフラは隣で血の気の引いた顔色で眠っていた。
 アルノルトが起き上がると、ユッテやイサベラもやって来た。
「アルノルト! 起きたのね! 大丈夫?」
「ああ。気分はいい」
「良かった。アルノルトさんはもう大丈夫そうね。あとはアフラだけね」
 アフラは眠り病の時のように昏々と眠り続けていた。
「お姉ちゃん……」
 アフラの足下ではマリウスが座り込んで泣いていた。
 毒の入った水を渡してしまった事を後悔して止まないのだろう。
「マリウス、きっと大丈夫だよ」
 アルノルトはそう言って頭を撫でてやった。
「僕が渡さなきゃ良かったんだ……」
「途中まで一緒に帰って来たんだ。アフラもすぐ帰って来る」
「帰ってくる?」
「途中までって?」
「一緒に?」
 マリウスもそうだが、ユッテもイサベラもその言葉の意味が判らなかった。
 言ってから、アルノルトも意味が判らなくなった。
「あれ? 夢でさっきまで一緒にいたんだ。もうあまり覚えてないけど」
「ああ、夢ね」
「アルノルトったら」
 皆それを聞いて笑ったが、クヌフウタは笑えなかった。ヘンベインには幻覚作用もあったからだ。
 夜も遅くなると、続き部屋には多くのベッドが調えられた。ただ、人数には少し足りない。
「これあげる」
 眠りに行く前に、ハルトマンはマリウスを慰めようとおもちゃの木剣を渡した。
 マリウスが「ありがとう」と言う前に、ハルトマンは先に行ったエーバーハルトとルードルフを追って部屋に入って行った。
 夜が更けても兄弟と姫君達は寝ずに起きていた。
 クヌフウタもまたアフラに付きっきりの看病をし、それは深夜まで続いた。


 ルーディックは普段は衛兵の休憩する詰所の窓から中庭の様子を伺っていた。
 既に城壁の上からロープを垂らし、上にも衛兵を隠れさせ、挟み撃ちにする体勢は整っていた。
 しかし、侵入者は姿を現さなかった。
 追跡から帰ってきたブリューハントが言った。
「取り逃がしました。夜陰に乗じて逃げたようで」
「仕方ないです。まあ怪我が無くて何よりです」
「あとは、王女の部屋を見て来ましたが、ドアが全部開いていました。侵入者が入った模様です」
「だとすると、やっぱり狙いは姫君か。それに、まだ何処かに身を潜めているね。しかもそれは城の中だ」
「そのように思われます」
「姫君達がすぐ移動したのは、結果的に良かった」
 最上階のエリーザベトの部屋周辺は、既に警備を厳重にしたので入れないだろう。
「それと、これは事故ですが、お客が毒を飲んだそうです」
「誰だい?」
「ウーリの小さい女の子です」
「アフラだ!」
 ルーディックはその場をブリューハントに任せて部屋へ行ってみることにした。
 階段を駆け上がり、部屋へ入って行くと、アルノルトが横たわるアフラにキスをしていた。
 周囲ではユッテやイサベラが半泣きになってそれを見ていた。
「これは、一体何が……」
 エリーザベトがそれに答えて話した。
「アフラが医療用の毒を誤って飲んでしまって……だんだん呼吸が弱くなって、交代で人工呼吸をしているんです」
「人工呼吸! そこまでだなんて……」
「次は私が人工呼吸してでも、ここでは絶対死なせませんわ」
 エリーザベトは力強く言った。
 クヌフウタがアフラの様子を見て言った。
「待って。少し呼吸が戻って来たようですね」
 アルノルトはしかし、泣きそうな顔で首を振る。
「僕は、ずっと水の中にいるように息が苦しかったのを覚えてる。まだ息苦しいと思うんです」
 そう言ってアルノルトは様子を見つつ、再びアフラに息を吹き込んだ。
 そうしていると、だんだん顔色に血の気が差して来た。そして少し口が動いた。寝返りのように手も動いた。
 クヌフウタがそれを見て言った。
「動いたわ! 顔色もだいぶ良くなって来ましたね。もう大丈夫だと思います」
「はあーっ。良かった!」とアルノルトはへたり込んで、大きな息を吐いた。
「良かったぁー」とユッテとイサベラは手を握り合った。
「アルノルト、よくやった」とエルハルトは弟を褒めた。
「アル兄ちゃん、よくやった」とマリウスも褒め讃えた。
「褒めるくらいじゃ足りないわ」
 とユッテがやって来て、アルノルトの頭に手を当てた。そしてその頬にキスをした。
「え?」
 アルノルトが呆然としていると、イサベラもやって来て、もう片方の頬にキスをした。
「えええ?」
 アルノルトは両方の頬に手を当て、左右の姫君を返り見る。
 二人は照れた笑顔を見せ、走り去って行った。
 見ていたルーディックは頭を抱えた。
「いやあ、また先を越されたよ。アルノルトはまたまた男を上げたね」
「本当に……私もキスしてあげたいくらい」
 エリーザベトはそう言って涙ぐんでいたが、ルーディックは苦笑いがさらに苦くなった。
「僕は僕の出来る事をしよう。徹夜してでも捕まえて見せる」
 そう言ってルーディックは再び警備に戻って行った。
 クヌフウタはペパーミントの入った小瓶を開けて、アフラに嗅がせた。
 しばらくして、アフラは不意に声と共に目を覚ました。
「ミルク。ミルク飲まなきゃ!」
「もういいのよ。大丈夫。薬効は消えたはずだから」
 クヌフウタは目を開けたアフラに笑顔で言った。
「起きた!」
「起きた起きた」
「アフラ、目が覚めた?」
 兄弟達と姫君二人が顔を寄せて来た。
「気分はどう? おかしいところは無いかしら?」
 クヌフウタが聞くと、アフラは体を起き上がらせて言った。
「変な感じです。水の中にいるような……」
 クヌフウタはアルノルトを振り返ったので、アルノルトが言った。
「息は苦しくないか?」
「そう。とても苦しかったの。水の中で息が出来なくて、泳げなくて。でも、兄さんが呼んでくれた。今はそこから上がったばかりの感じ。少しだけ頭が重いけど、大丈夫」
 それを聞いた一同の顔に安堵が灯った。
 ユッテが息を吐いて言った。
「良かったわ。一時は本当に息が止まっちゃったんだから。クヌフウタさんとアルノルトが人工呼吸してくれたのよ」
「えっ。奪われちゃったの?」と、アフラはアルノルトを見た。
 惚けるようにアルノルトは言った。
「覚えてないならノーカウントだろう」
「覚えてない。ノーカウントね」
 ユッテは唇に手を当てて言った。
「私達は……覚えてるわ。ねえ」
「ええ」とイサベラも頷いた。
 アルノルトはどう答えて良いか迷いつつ、
「ノーカウントだ。みんな全部まとめてノーカウント」
「ええーっ。ひっどーい」
 ユッテはかなりお冠だった。
 エルハルトがアフラに言った。
「アフラ、お礼を言っておけ。クヌフウタさんが手当てしてくれなければ死んでいたぞ。アルノルトにもな」
「ありがとう、クヌフウタさん。それに、兄さんも」
 アフラは礼を言ったが、クヌフウタは首を振った。
「いいえ。私こそ謝らなければなりません。あの水を不用意に置いていた私の責任です。本当にごめんなさい」
「僕が悪いんだよ! あの水渡しちゃってゴメンなさい」
 マリウスもべそをかくように謝った。
「何かいい夢を見ていたので、私としては何も悪くなかったです。だから気にしないで」
 アフラがケロッとして笑うと、なんだかずっと泣く程心配していた周りの人々は空しくなった。
 ユッテは見回して言った。
「私達の、この気持ちはどこへ?」
 イサベラが頷いた。
「ね? どこにぶつけましょう?」
 ユッテはアルノルトの肩を一叩きした。
「イタッ! そこ怪我……」
「知ってる」
 そう言ってユッテは欠伸をしつつ部屋の外へ出て行った。
 部屋の外では護衛二人がいて、ユッテを止める。
「どちらへ?」
「そろそろ眠いわ。部屋に帰って眠りたいの」
「部屋には侵入者が入った形跡があったそうです。この階で警備を固めていますので、こちらの方で……」
「嫌よ。ちゃんと着替えて落ち着いて寝たいもの」
 ユッテはそう言って部屋へ帰って行くので、護衛と従者は大慌てで追随して行った。
 イサベラとアフラも続き部屋のベッドへ行き、一緒に眠りつつ話をした。
「よかった。息が止まった時は、本当に寿命が縮む思いだった……」
「ご心配かけてごめんなさい」
「でも、あなたはご兄弟に大切に思われていて、いいわね」
「たぶん普通じゃないかしら」
「私の兄は異母兄弟で、そうでもないの」
「イサベラさんならご兄弟にも可愛がられるでしょう」
「私の母は後妻で、始めからあまり良くは思われなかったの。今でも母と兄は領地配分を巡って係争しているわ。父の遺言を巡ってね」
「そんな事情があるなんて…‥」
「私が王宮へ送られたのも、后候補という面目の人質だったのよ。それもあまり捨てても惜しくない人質」
「そんなこと……ブルグントの戦争は、イサベラさんが捕まってからすぐ収まったって……」
「そうね。きっと重臣が私を見捨てないでいてくれたのね。でも、また利用する道を見出したのかも知れないの」
「心安らかな家ではないですね」
「ええ」
「そんな所へ帰って行かれるんですね」
「そうね。だからウーリのあなたの家に、安らぎを覚えたのかも知れないわね」
「いつでもまた、遊びに来て下さい」
「ありがとう。またきっと、会いに来るわ」
 イサベラとアフラはそう約束をして、眠りに就いた。


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