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ハートランドの遙かなる日々  第四章 来訪者


 朝霧が棚引き、雲の厚い朝は日が高くなっても暗い。寝坊をしたアルノルトは慌てて牧舎へ駆けつけた。エルハルトは既に起きて牧舎を掃除していた。

「兄さんごめん。寝坊したよ」
「まあ昨日は遅かったしな。それに今日は天気も悪そうだから放牧は牧場内で済ますつもりだ」
「天気に救われた。またどやされるかと思ったよ。起き駆けにしか見てこなかったけど、アフラの様子はどうだろう」
「昨日エドフィーユさんから貰って来た薬草が少し効いたみたいだって母さんが言ってた」
「それは良かった」
「でも母さん、あれじゃまともに寝れてないな」
「そうだね……」
「薬が間に合えばいいが……」
「間に合うさ。きっと………掃除手伝うよ」
「当然」

 掃除も終わりに近付いた頃、雨が降ってきた。その雨の中、遠くから馬車の音がした。降り出した雨を見ていた下働きのペーテルとカルバンは、その馬車の立派さに驚いて「何処の貴族だ?」「さあ?」と話し合った。
 馬車は牧舎を通り過ぎ、シュッペル家の前に止まった。びしょ濡れのレオナルドが勢い良くそこから降りて来て馬車のドアを開けた。

「雨が降り始めましたので、足下にお気を付け下さい」

 馬車から飛び降りてきたのはユッテだった。

「キャア。濡れるわ」

 ユッテは牛舎の中へと駆け込んで言った。

「牛よ。牛が一杯いるわ」

 そう言って走り回るユッテに、馬車の中からイサベラが言った。

「勝手に入ってはいけないんじゃないかしら?」

 牛舎の中にはペーテルとカルバンがいて、こちらを見てポカンと口を開けていた。

「ご機嫌よう」とユッテが挨拶する。
 ペーテルはにこやかに頷いてから聞いた。

「おめえどっから来たんだ?」
「湖からよ」
「どこかの貴族の子だろう。こんなところに来てもいいのか?」
「あら、見学は歓迎だって言われたのよ」

 ユッテは至って強気だ。

「それは、まあ……。でもそれは自由民でないとなあ」
「私たちだって自由だもの。自由民だわ」
「なら、まあ……」

 ペーテルはカルバンと顔を見合わせた。

「いや! さすがに拙いだろ。ちゃんと向こうの家に言って許可を貰ってからにしてくれ」

 カルバンがそう言うのを聞かずに、ユッテは「あっ羊!」と走り出した。

「ちょっと待て!」

 カルバンがユッテを追いかけて手を伸ばすと、御者のレオナルドが駆けて来てその腕を掴んだ。

「何だあんたは」
「ご無礼は許さない!」

 さらに腕を強く握られたカルバンだったが、そのままレオナルドの腕を捻り返し言った。いつも力仕事をしている腕っ節は強く、一回り太い。

「そういう態度で来るなら、出て行って貰おうか! ここは自治州なんでな」

 レオナルドはカルバンに腕を捻り上げられ、牛舎から引きずり出されて行く。

「いてて。判った。判った。出て行く、しかしお嬢様をお連れしなければ! な? そうだろう。それが先だろう」

 カルバンは頭で方向を指すように踏ん反り返って見せてから、レオナルドの腕を持ち直し、後手に返して、牛舎への中と反転した。
 そうしている間、ユッテは隣接する羊小屋に辿り着き、羊達の柵を覗き込んだ。

「ふーん。あっ、あなたミルヒ?」

 ユッテは子羊を抱きしめようとして柵に入ったが、子羊逹は何匹も居て、ユッテの手から逃げ惑った。子羊は逃げ足が速く、なかなか追いつけない。

「こんなにいると見分けが付かないわ。ミルヒー。ミルヒどこ?」

 そんなユッテのお尻にぶつかった子羊がいた。

「まあ、あなたミルヒね」

 返事をするようにミルヒは啼いた。

「何の騒ぎだ」

 近くを掃除していたアルノルトがしきりに羊の声のする方を覗き込むと、そこにはユッテがいた。

「あれ? どうしてここにいるんだ?」

 言いながらアルノルトは羊の柵を開けてその中へ入って行く。
 ユッテはアルノルトに気が付いて言った。

「あら、お兄さん。ご機嫌よう。ちょうど良かったわ。ミルヒはこの子? 見分けが付かないの」
「ミルヒ!」

 アルノルトは強めに呼ぶ。すると子羊は啼いた。

「ミルヒだ。合ってる」
「合ってる? 良かった! やっぱり覚えていてくれたのね、私のミルちゃん」

 そう言いながらユッテはミルヒを抱き締める。

「勝手に私のにしないでくれよ」
「判ってるわ。皆の羊でしょう? でも皆のなら私のでもあるわ」
「そう来たか。もう誓いを忘れたとは言わないだろうな」
「今だけ。わざわざ遠くから会いに来たんだから、今だけは私のにさせておいて!」

 アルノルトは頭を掻いて言った。

「わざわざミルヒに会いに?」
「そうよ。それとアフラのお見舞いに来たの」

 ユッテはミルヒの両頬を撫で回した。

「お遊びついででアフラのお見舞いは止めて欲しいな。それにアフラはずっと寝てるよ。お見舞いは無理だ」

 ユッテは少し顔色を変えた。

「それははいけないわね。少し顔を見るだけでいいの」

 アルノルトは何か言おうとしたが、ユッテはアフラと同じ年のまだ子供だと思い、言うのを止めた。

「ここで君に話しても仕方無い。一人で来たんじゃないね。君の保護者はどこだい?」
「保護者って失礼しちゃう。護衛騎士とイサベラもいるわ。遠慮してまだ馬車にいるみたい」

 アルノルトが外を見ると、家の前に見覚えのある馬車が止まっていた。
 そこへレオナルドと後で腕を握り上げたカルバンがやって来て、羊と戯れるユッテをようやくの事で見つけた。

「ユッテ様、帰りましょう」

 レオナルドは帰るよう説得した。ユッテはそれを「嫌よ」と一言で拒否した。レオナルドが何をどう言っても「嫌」の一点張りだった。大の大人がこうも小さな子に振り回されるのは、見ていて可哀想になる程だった。
 そこへエルハルトも気が付いてやって来た。

「何の騒ぎだ? 見物客じゃないのかい?」

 レオナルドの手を離して、カルバンがエルハルトに言った。

「勝手に入って来た上に脅して来たんだ」
「騒動起こすんならお引き取り願うしかないな」
「まあお姫様の戯れだ。すぐ飽きると思うよ」

 アルノルトはそこをエルハルトとカルバンに任せ、牛舎の入り口へと歩いた。小降りになった雨の中を走り、馬車を覗くと、馬車の中にいたのは果たしてイサベラだった。

「あらお兄さん。こんにちは」
「君達は何故来た?」

 アルノルトの語気が強い。イサベラはその声音に気がつかない振りをして、努めて笑顔で言った。

「アフラさんのお見舞いに来たの。お加減は如何かしら?」
「アフラは……高熱でずっと眠ってる。眠り病なんだ」

 イサベラはその事に驚いて言った。

「眠り病?」
「ずっと……眠ったままになるかもしれない病だ」
「診てくれた人の話ではそんなこと言って無かったわ」
「やっぱり! 医者を送ってくれたのは君だったんだね」
「ええ私、それとユッテ様ね。ユッテ様は一緒にここに来たのよ」
「そうだったのか。でも、これは医者も知らない山の病気だ……。ほぼ一日中眠ってるんだ」
「そんな!」

 イサベラは目に涙を浮かべて言った。

「そんなに重い病気だったなんて……」
「ありがとう。アフラは今、君達に貰った果物だけを摺り下ろして食べている。看病もシスター先生の言った通りにしている。それには礼を言うよ」
「そんな……」
「でもアフラは今は会えない。それに、この村で君達の家はとても迷惑なんだ。だからもう、こんな馬車でここには来ないで欲しい」
「お兄さん! 知っているの?」
「イサベラお嬢さん。僕は……君とちゃんと話しをしたから、人となりを知っているよ。だからこそこうして話しも出来る。でも村人はそう思わない。うちの父もそうだ。前の騒ぎは見たろう? 村人からおかしな目で見られてしまうんだ」
「……判ったわ。今日は帰ります」
「判ってくれて良かった」
「でも、一つお願いがあります」
「お願い?」
「アフラさんの容態が回復したら、ここにお手紙をと伝えて欲しいの」

 イサベラは紙に住所を書き始めた。

「判ったよ。伝えておく」

 書き上がったメモをアルノルトが受け取った時、イサベラの手はその紙を離さなかった。

「もう一つ。聞かせてくれたら帰ります」
「……何なりとも」
「あなたのお名前は?」

 アルノルトは戸惑った。もう来ないと言ったのに、名前を聞いてどうすると言うのだろう。

「アルノルトだ」
「洗礼名は?」
「コンラート」
「助言者の意味ね」

 メモを静かに離して、イサベラは微笑んだ。

「いいお名前ね」

 アルノルトは褒められたようには思えず、かなり苦い顔になっていた。

「私からも手紙を送れるわ」
「僕に? 止めてくれよ。ここで王家の名前はかなりダメなんだ」

 アルノルトは大きく手を振って拒否を示した。

「誰と話してるんだ?」

 その時、エルハルトが馬車へやって来た。ユッテとレオナルドを連行するカルバンとペーテルもやって来た。
 アルノルトは振り返り、「例の獅子の籠の主」と答えた。
 エルハルトは馬車とイサベラの様相を見て、その高貴さに驚いて言った。

「ハプスブルクか!」

 エルハルトがそう言うと、ユッテとレオナルドを連行してきた下働き達が言った。

「ハプスブルクだって?」
「お前等何をしに来た! 村の品定めに来たのか!」

 カルバンに凄まれてレオナルドは手を振った。

「いや、違う! 見学と、お見舞いだ」
「出て行け!」
「何よ。さっきは見学していいって言ったじゃない」

 ユッテはお冠の様子だったが、ペーテルは首を振って「出てけ」の一言だ。
 レオナルドとユッテは追い立てられるように馬車に乗った。

「馬車を出します!」

 レオナルドがそう叫んだ。イサベラはフルーツの入った篭を取り、アルノルトに渡そうとした。

「これは、お見舞いに……」

 その時、レオナルドは急いで馬車を出した。

「あっ」

 篭はその勢いで手から零れ、地面に落ちた。

「二度と来るな! ハプスブルク!」

 下働き達は走り去る馬車の背に石を投げ、そう言い放った。
 それでもイサベラは馬車の窓から顔を出し、アルノルトの姿を探した。アルノルトが篭を取り上げて男達を止めているのを見て、イサベラの胸は喜びに溢れた。そして同時に痛みに変わった。それは想うことさえ許されない恋の萌芽だと、イサベラはまだ気が付かなかった。

 アルノルトはイサベラから貰った篭を持ってアフラの寝室へやって来た。アフラはまだ眠ったままだった。アフラの横の布団では、マリウスが看病に疲れて寝ていた。

「アフラ。イサベラさんがお見舞いに来たよ」

 アルノルトは篭をその場で開けて見せ、さもアフラが起きて聞いているかのように話しかけた。

「また篭一杯に果物くれたよ。リンゴにミカンにメロン。タルトも入ってる。やっぱりお金持ちだよなあ。イサベラお嬢さんは」

 アルノルトはタルトを取り出して、アフラの目の前に近付けた。

「どうだ。いい匂いだろ」
「アル兄ちゃん……何してるの」

 声を聞いてマリウスが目を覚ました。

「マリウス。起こして悪いな。お見舞いを貰ったからアフラに見せてたんだ。早く起きなきゃおみやげ食っちゃうぞ。ほーら」

 アルノルトがさらにタルトを近付けると、アフラは僅かな反応を見せ、静かに目を開けた。

「アフラ!」
「お姉ちゃん!」

 アフラは息も掠れ掠れに言った。

「……タルト?」
「ああ!」
「イサベラさん……来たの?」
「うん? ああ! お見舞いはまた篭一杯のフルーツバスケットだ。このタルトも入ってた。食べるか?」

 アフラは笑顔を見せた。

「うん……あーん」

 アルノルトはタルトをアフラの口に運び、アフラはそれを僅かにひと齧りして首を横に振った。

「おいし……もっと食べたいけど……うまく食べられない……」
「そうか……大丈夫だ。もう少しの辛抱だ」

 アルノルトの励ましの言葉にアフラは小さく頷いた。

「マリウス。お母さんを呼んできてくれ」
「わかった!」

 マリウスは台所へと走っていった。
 アフラは苦しげに言った。

「頭が痛い……苦しい……」
「大丈夫か?」
「息が苦しいの……とても……」
「今、母さんが来るからな」

 アフラは苦しそうに息をして、その目は虚ろに宙を彷徨った。

「大きなお花の中で……回ってるみたい」
「大きな花?」
「目を閉じると、赤いお花の中みたい……」
「それは……幻覚?」

 アフラは体を起こそうとしたが、何故かうまく体が動かなかった。

「体がうまく動かない……私……死んじゃうのかな」

 アルノルトは言葉が継げなかった。

「お父さん……お母さん……」

 アフラは涙を流していた。
 アルノルトはアフラの頭を撫でて言った。

「大丈夫だよアフラ。高熱のせいだ。もうすぐ特効薬が届くんだ」
「特効薬?」
「そうさ。だから苦しいのもそれまでの辛抱だ」

 アフラはそれを聞いて安心して頷いた。

「うん……私、すごい汗かいちゃった」

 アルノルトは額の汗を拭いてやった。汗の噴き出た首の辺りも拭いてやる。

「これは着替えた方がいいな」
「目にも汗……」
「馬鹿」

 アルノルトは少し笑って目の涙も拭いてやった。

「あとねえ……」
「何だ?」
「背中が痒いの……」
「急にわがままだなあ。自分で掻く方が早いだろう」
「体が……変なの……うまく動かない……」

 言いながらアフラは背を向けようとしてもがいた。その手は震え、思うように力が入らないようだった。
 そこへカリーナとマリウスがやって来た。

「アフラ? 目が覚めたの?」
「うん……」

 カリーナは少し涙を浮かべて言った。

「良かった……昨日の薬は良かったみたいね」
「お母さん……体がうまく動かないわ」
「体が?」
「背中が……掻けないの」

 痛ましくなったアルノルトは、布団を捲り、動こうとするアフラの体を横向きにして、当てずっぽうに背中を掻いてやった。

「痒いのはこの辺か?」
「もう少し下……」
「本当に汗びっしょりだな」
「もっと下……」
「ここか?」
「少し横……」
「ここだな」
「もう少し上……」
「判らないよ。じゃあこれでどうだ」

 アルノルトは、おしぼりを取って首から手を入れてアフラの背中を拭いた。
 次に下の方からとシュミーズを捲ると、アフラのお尻が丸見えになっていた。この時代シュミーズという下着があればあまりパンツを穿く習慣が無い。少し目のやり場に困っているアルノルトにカリーナが言った。

「あら、はしたない。私がやるわ」

 カリーナはアフラに布団を掛けてやり、アフラの背の痒いあたりを強く拭いてやった。

「いいきもち……」

 アフラは気持ちよさげに目を閉じた。そして段々眠りに落ちていく。でもアフラは眠ったら、またいつ起きるか判らない。アルノルトはアフラの肩を揺すった。

「まだ寝るなよ。アフラ!」
「う…ん……」
「汗だくだから、着替えるんだろ」
「……」

 しかしアフラは次第に眠りに落ちていく。とっさにアルノルトは言った。

「アフラ、おしりが見えてるぞ」
「……ヤッ……」

 アフラは声に反応して体をよじろうとした。しかし体が思うように動かず、心中で何かと闘っているように悶えた。
 アフラの手足は不自然に震え出した。

「どうしたの? アフラ?」

 カリーナがその手を握ると、アフラの体に思いがけない力が入って体が反り返った。

「アルノルト! 手を持って!」
「どうしたんだ!」

 アフラの手足は不自然な形で硬直し、アフラの目は裏返って白目を見せている。カリーナの手はアフラに強く握られ、解こうとしても取れなかった。

「引き付けを起こしたみたい。しっかり押さえて!」

 アルノルトはアフラの腕を押さえ、カリーナはようやくにして握られた手を解いた。

「お姉ちゃんしっかり!」

 マリウスもアフラの足を押さえた。

「凄い力だ」

 その力はカリーナとアルノルトの二人掛かりでも押し返すほどで、マリウスは部屋の隅に弾き飛ばされた。

「マリウス!」

 そのアルノルトの声をきっかけに、引き付けは次第に収まり、アフラは何か言おうとして、気を失ったように眠った。

「アフラ! アフラしっかり!」
「収まったみたいだ……母さん。今のは? 僕が変なこと言ったせい?」
「これは引き付けよ……小さい子には時々あることよ。熱が頭に来ているせいね。しっかり冷やしておかないとね」

 カリーナはそう言って氷嚢をアフラの頭に乗せ直した。

「母さん……アフラは大丈夫だよね……体が動かないって言ってたし、今の引き付けも普通じゃなかった」
「大丈夫よ。眠りの森からの薬を飲めば、きっと良くなるわ。きっと……」

 カリーナは自分に言い聞かせるように言った。しかし、その手は震えていた。この一日でアフラの病は体の自由を奪う程に進み、その上、この発作は予断を許さない状況だった。

「一刻も早く、薬が欲しいわ……」
「薬が来るのにはまだ四日あるよ」
「そう……もっと早く来ないかしら」
「山の向こうから運んで来るんだ。仕方ないよ。今は、エドフィーユさんに貰った熱冷ましを飲ませておこう」
「そうね……ところでマリウスは?」
「マリウス?」

 振り返ると、マリウスはそこにもういなかった。

 マリウスはサビーネの家へ続く道を必死に走っていた。道沿いの木の柵の下を潜り、広い牧場へ出て一直線に走った。走り疲れてきた頃、柵の向こうに藁を積んだ荷車が同じ方向に道を下っていた。マリウスは柵の上によじ登り、その荷車の藁の山に飛び乗った。すると藁の山が次第に崩れ、マリウスは藁の束ごと下に落ちてしまった。

「誰か降って来たと思ったら、マリウスか! 藁をどうしてくれるんだ!」

 腹立ち紛れに言ったのは、荷車を曳いていたジルだった。ジルはマリウスの三歳上の少年だった。

「ごめん! 急いでるんだ!」

 マリウスが走り出そうとすると、一緒にいた二人の仲間がその道を遮った。

「待てよ。ごめんだけで済むかよ」
「ごめんよ。ホントに急ぐんだ」

 マリウスは慌てて荷車の上に乗り、元来た牧場の方へと柵を跳び越えた。

「あっ待て!」

 ジル達三人はマリウスを追って柵を越えた。そして走って逃げるマリウスを追いかけた。マリウスは必死に走ったが、体格のいいジルにすぐに追い付かれ、後ろ首を掴まれた。

「よーし。観念しろ!」

 後ろ首を掴む手を払いながら、マリウスは方向を急旋回して走った。
 その勢いでジルは前に倒れ込んだ。ジルは水溜まりに転び、泥だらけになった。マリウスはその隙に柵へ走ってその間を潜り抜けた。

「あーあ」

 倒れたジルが起き上がった頃には、もうマリウスの姿は何処にも見えなかった。
 マリウスは下り坂の草場を背中で滑り降り、民家の影で座り込んで息を吐いた。後ろを向いて誰も追ってこない事を確かめると、そこからは歩いてサビーネの家へ向かった。

「おばあちゃーん!」

 玄関を入るなり、マリウスは大声を上げた。

「マリウスかい?」

 サビーネは玄関先へ出て来て、マリウスを迎えた。

「どうしたんだい? 朝からそんな息を切らせて」

 マリウスは息も絶え絶えに言った。

「お姉ちゃんが!」
「アフラがどうかしたのかい?」
「お姉ちゃんが……目を覚ましたんだ!」
「それは良かったねえ」
「それが良くないの。もう僕を蹴っ飛ばしてふっとばして大変なんだ」
「お前、アフラに何か悪い事したろう?」
「違う! そうじゃないよ。お姉ちゃんが白目になってひっくり返ったんだ」
「引き付けを起こしたんだ! そうだね?」
「僕よくわからないけどそんなの。怖かったよ。お姉ちゃんが、悪魔みたいな顔になって、すごい力だったんだ。あんなのお姉ちゃんの力じゃない。きっと悪魔が憑り移ってるんだ!」
「マリウス! そんなこと絶対に他で言うものじゃないよ。判ったね」
「でも……おばあちゃん。お姉ちゃんは大丈夫なの? 助けてくれる?」
「じきに特別な薬が来る。その薬を飲めば治るさ、きっと。どれ。心配だから、すぐ見に行くとするかね」

 サビーネは、すばやく出かける支度をして、玄関を出た。振り返るとマリウスが付いて来ていなかった。

「マリウス!」

 サビーネが玄関を見ると、マリウスが、開けたドアの後ろに隠れていた。

「どうしたんだい? 行くよ」
「僕怖いんだ。おばあちゃんひとりで行って来てよ」
「何言ってるんだいこの子は。あんなに気勢よく呼びに来たのは、お前じゃないか!」
「僕、しばらくここにいちゃいけない?」
「ここに一人いても、仕方ないだろうに。急ぐんだろ?」
「わかったよ。行くよ」

 サビーネとマリウスは家を出て、村の広場を横切り、牧場への登りの道を歩いた。

「こっちだよ。おばあちゃん」

 マリウスは柵の壊れたところを見付けて、手を引いてサビーネを呼んだ。

「こっちが近道なんだ」
「そうかい。だけど道が悪そうだね。どっこいしょっと」

 柵を跨いだサビーネは、マリウスに手を引かれて広い牧場を歩いたが、何故かマリウスは方向を大きく逸れていく。

「マリウス。こっちは少し遠回りだろうよ」
「いいんだ。こっちの方が」
「そうかねえ。あっちに見えるのがお前の家じゃないのかい?」
「いいの。いいの」

 そう言い合っていると、遠くの方でマリウスを呼ぶ声がする。ジル達三人組が、マリウスを見付け、柵を乗り越えて走ってきた。

「マリウス! 婆さんのお出迎えか!」
「さっきのこと覚えてるよなあ?」

 ジルの膝にはさっき転んだ時の泥がたっぷり付いていた。
 マリウスはサビーネを先に通らせ、間に立ちはだかって言った。

「今は急いでるんだ。相手をしている時間は無いよ」
「マリウス。俺たちにあんなことしておいて、それはないだろう?」
「だって、どうってことない。藁が落ちたって、病気に比べればどうってことない!」
「こいつおばあちゃんといるから、とたんに強くなってやがる」

 ジルたち三人は、悪ぶった笑いを浮かべた。

「お前達!」

 サビーネはマリウスを押しのけて言った。

「病人の家へ行くところだから、諍いには後にしな」
「俺達は、そこのマリウスに用があるだけだぜ」
「マリウスが、何をしたんだい?」
「荷車に、急に飛び乗って来たもんだから、積んだ藁が崩れたのさ」
「なんだそんなことかい。マリウス。それは謝らなきゃねえ」
「ごめんなさい! お姉ちゃんが病気で苦しんで暴れてるから急いでたんだ」

 マリウスは頭を下げて謝った。

「まあ、小さい子供のすることさ。許してやっておくれ。それじゃあもう行くよ」
「藁を積み直すのに、今までかかってたんだ。それにこの泥さ。そう簡単に許せねえ。腹が収まらねえよ」
「お前達。お前達をお産の時、取り上げたのはこの私だよ。お前は難産で、ひと晩かかっても産まれなくてよぉ、大変だったわ。大変だからこそ産まれた時は可愛くて、尊く思えてねえ。それがなんだい! 藁を積み直した? それに一晩かかるのかい! そんなことで病人の為に走って来たこの子をどうかしようなんて! そんな曲がった根性の奴なんて、取り上げるんじゃなかったよ!」

 ジルはそう言われると返す言葉もなく、困ったように手を上げた。

「サビーネ婆さんには敵わねえや。アフラが病気なんだろ? 今回は病人を助けた事にしとくよ」
「そうかい。じゃあ急がせて貰うよ。やっぱり私の取り上げた子だ。助け合う村の良い子だ」

 サビーネはジルの頭をくしゃくしゃに撫でた。

「止せよ。急いでるんだろう?」
「あたしゃあね、お前達がどう育つだろうと、我が子のように思って見てるよ。覚えておくんだよ」
「敵わねえなあ。サビーネ婆さんには」

 サビーネはマリウスの背を叩き、歩き出した。

「ほら行くよ」

 しばらく歩いてマリウスが、嘆息の声をあげた。

「おばあちゃんってすごいや」
「何にも凄いことなんかない。村の人は大抵私が取り上げるからね。皆私の子供みたいなものね」
「やっぱり、すごいや!」
「大した事じゃ無い。ああは言ったが、私は手伝うだけで、別に大した事しなくても子供は天の授かり物で自然に生まれて来るものよ。たまに難産があるが、そう言う時は手助けてしてやるのさ。ジルの時は難産だったね」
「僕が生まれる時も、おばあちゃんが取り上げたの?」
「もちろん。アフラもお兄ちゃん達もだよ。お父さんは私が産んだから、取り上げられなかったねえ」
「おばあちゃんはお医者さんみたいだ。お医者さんとは違うの?」
「お医者さんは、病気のことだけ考えていればお金がもらえる。でもあたしゃあ病気だけじゃない。村の人のことなら何でも考えるのさ。問題事や、性格や、暮らしぶりもね。病気もそのうちの一つね。長年見ていれば詳しくなって、村の皆にも頼られるようになったよ。でも私が何でも知ってるなんて思っちゃいない。昔から伝わる方法を教えるだけさ。お医者さんでないと出来ないことも多いわ。だから私はお医者さんというわけではないんだよ」
「でもお姉ちゃんの病気は、おばあちゃんにしか判らなかったよ」
「あの熱病は山の辺りにしかないから、そこらのお医者さんに判るもんかね。長年ここに住んでいるからこそ判ることもあるもんだよ。年の功というものだね」
「おばあちゃんは、お姉ちゃんを治してくれる?」
「あたしゃあ手助けをするだけだ。今回は山の薬が頼りだしねえ。でも薬が届けば、きっと治ると信じているわ」
「早く届くといいのに。その薬」

 サビーネは小さく笑顔を向け、マリウスの後ろ髪を撫でた。

「大丈夫。あなたの叔父さんが届けてくれるわ」
「おじさんって?」
「おじさんは叔父さんよ」

 サビーネは、意味ありげに笑って見せるだけだった。
 サビーネとマリウスが家に着くと、早速アフラの様子を見に行った。カリーナとアルノルトは、エドフィーユに貰った花を煎じて、アフラに少しずつ飲ませているところだった。
 サビーネは薬を飲んで眠るアフラの熱を診て言った。

「すごい熱だ。このままだと大変だよ。すぐに熱を冷やすんだ」
「でももう氷がなくなってしまって……」
「氷は村に行けば溜めてる家があるさ。アルノルト、ちょっと頼んで分けて貰って来ておくれ」
「うん。判った」

 サビーネはアルノルトに氷を取りに行かせると、自身は濡れたおしぼりでアフラの体を拭いて、ハンカチで扇ぎ、何かを探した。

「ああこれがいい。これを持って扇いでおくれ」

 サビーネが取り上げたのは、薬草を乗せていた盆で、カリーナは盆を持ってサビーネが拭いたところを扇いだ。

「汗が出るのは良いことさ。熱と体の毒が出ていくからね。汗をためないようにしながらこうして扇いでやるんだよ。それが今のアフラには一番の薬さ」
「はい」

 カリーナは必死にアフラを扇ぎ続けた。
 しばらくしてサビーネも手が開くと、ハンカチを両手で広げてアフラを扇いだ。しばらくの間そうしていると、ずっと看病であまり寝ていなかったカリーナは、少し目眩を覚えた。

「お義母さん。いつまでやるんでしょう。私は少しくたびれましたわ」

 サビーネはアフラの額に手をやって言った。

「熱が少し下がるまで頑張るんだよ」
「そうですね」

 しかし、アフラの熱はその後も一向に下がらず、二人の熱病との格闘は、そのまま夕方まで続いた。


 ブルクハルトは教会の前で荷馬車を止めた。今日はアッティングハウゼンの家で今後の算段を話し合って来た帰りだった。そこでは大きな進展を得た。ラッペルスヴィル家のエリーザベト女伯とホーンベルク伯を引き合わせる見通しが立ったのだ。あとは当人同士が厭と言わない限りは成婚に至ると思われた。
 上機嫌に村の広場を歩くブルクハルトは、村人の奇異な目に晒された。ブルクハルトが訝りながら、教会の門へと歩いて行くと、その途中で長老格のヘンゼルに呼び止められた。

「おう。ブルクハルト」
「なんだい、ヘンゼル爺さん」
「やっぱり裏で何か企んでるんだろう」
「また人聞きの悪い。どうしてそんなことを言い出すんです?」
「お前の家にハプスブルクが来たそうじゃないか」
「ハプスブルクが俺の家に? またとんでもない言いがかりだな」
「ハプスブルクと密談でもして来たのか」
「なんだってそんな言いがかりばかり! 俺はなあ。今日もアルトドルフのアッティングハウゼンさんのところで今後の算段だ。病気の娘も放って置いて、村の為に奔走してるんだぞ!」

 ブルクハルトはヘンゼルに掴み掛かったが、周りにいた村人が止めに入り、途中で踵を返して言った。

「呆れる。嘘もまあほどほどだ」
「お前んとこの下働きが言ってたんだ。嘘じゃないだろうよ」
「そんなことが在るわけがないだろう?」
「まあ出かけてちゃあ知らんのじゃろう。くれぐれも貴族の犬にゃあなるんじゃないぞ」
「ならんよ。断じて」
「俺たちが知りたいのは、お前さんに裏がありそうだからじゃよ。本当に裏が無いんだな?」
「裏か……まあ、後のお楽しみはあるな」
「ほら。何か隠してるだろう。みんなに言ってやれよ」
「今言ったら水の泡になる。だからまだ言えんが村には良いことだ。後の楽しみにしておいてくれ」
「そういうのが怪しいんだ!」

 村人はその大声にざわめいた。

「ヘンゼル爺さん頼むよ。事を荒立てないでくれ。今は信頼して貰うしかない。頼む」

 ブルクハルトはそう言って教会へ入って行った。そして証書の進捗状況を神父と話し合うのだった。
 その間中、村の広場は何やら噂話の声で賑やかだった。

「ありゃあ良からぬ噂をしているな」

 ブルクハルトは気が滅入るばかりだった。
 この頃、広場に接している自由市場では、アルノルトが氷を探していた。そこには簡単なテントと木箱で出来た店が並び、あちこちからやって来た行商の人々が商売をしていた。モランの店先でアルノルトは話しかけた。

「氷はあるかい? 妹が高熱で大変なんです」
「あのアフラが? あいにくだが売れる氷はもう無いな。でも村長さんやヘンゼルさんの家の貯蔵庫ならあるだろうよ」
「ありがとう。行ってみるよ」
「ヘンゼルさんならあそこを歩いてるよ。ヘンゼルさん!」

 モランが呼びかけると、ヘンゼルが「なんじゃ」とやってきた。

「この子が氷を探してるんだ。家にありますか?」
「ああ。あるとも、貯蔵用のがな」

 アルノルトは顔に光輝を見せて言った。

「ヘンゼルさん。妹が病気で高熱を出してるんです。氷を分けて貰えませんか」
「ああ」

 そう言って、ヘンゼルは荷馬車を顎で指した。一緒に乗れと言うことと見て取ったアルノルトはそこへ乗った。

「モラン。お代はまだツケといてくれ」
「まだですかー。支払いはお早めにー」

 荷馬車を出しながらヘンゼルが言った。

「父親はブラブラほっつき歩いてるというのに、子供は妹のために偉いものだ……どれくらいいる?」
「出来るだけ多く欲しいんです。この革袋一杯くらい」

 その羊の革で出来た袋は一抱えくらいはある。

「そりゃあ無理だ。家の氷が無くなっちまう」
「すぐに山から取って来てお返ししますから、出来るだけお願いします」
「ならまあ、いいが……あとは村長のとこにも貯蔵庫があるから寄っていくとしよう」
「ありがとう」

 アルノルトはこうしてヘンゼルと村長の家を回り、皮袋をほぼ一杯にすることが出来た。

 エルハルトが牧場の仕事を終えて帰ってくると、家の中はひっそりと静まり返っている。この時間にはいつも台所にいる母の姿も無かった。

「ただいま。母さん?」

 エルハルトは階段を昇り、アフラの部屋へ行ってみた。
 そこにはシーツを二人で上げたり下げたりしているサビーネとカリーナの姿があった。サビーネがエルハルトに気付いて言った。

「エルハルト。良いところに来た。年寄りにゃあ辛い作業だよ。代わっとくれ」
「代わってくれって、一体何やってるんだい?」
「こうしてアフラを扇いでいればいいのさ」
「どれくらいこうしてるの?」
「そうさのう。昼くらいからだったか」
「そんなに? もうすぐ夕方だよ」
「大変! まだ晩ご飯の支度をしてなかったわ」

 カリーナが慌てて部屋を出ようとしたとたん、目が眩んでその場にしゃがみ込んだ。

「母さん! 大丈夫?」

 助け起こすエルハルトに、カリーナは言った。

「大丈夫。アフラが引き付けを起こしたんだよ。今は少しでも熱を下げないといけないんだ」
「ロクに寝ないで無理してたらお母さんも体を壊すよ。ここは僕がやるから。横になって休んでてくれよ」
「いいの。食事の支度もあるし」
「食事くらい遅れても平気さ。とにかく今は休んでて」

 サビーネは静かに言った。

「そうだね。少し休まないとダメだ。疲れていたらそう言ってくれないと。もう一人病人を作ってしまうところだったよ………。カリーナ、無理をさせて済まなかったね」
「私なら大丈夫です。眠れないくらいはどうってことありませんわ。お義母さんこそ大丈夫ですか?」
「私も腰が疲れたよ。エルハルト、しばらく代わって扇いでいておくれ。私ら年寄りは休憩にするよ。さあカリーナ」

 サビーネは頷くカリーナの肩を支えて歩き出した。歩いてみると、その足取りはとても辛そうで、カリーナはエルハルトとサビーネに支えられながら歩いた。

「何。今日の料理くらいは私がしてあげるさ、それまで休んでな」
「まあ。そんなこと」
「いいんだよ。たまには私も料理を作ってあげる人がいないと、腕が鈍るんだよ」

 エルハルトは歩き出した二人を見送りながら言った。

「しかし婆さんは、母さんより元気だねえ。元気過ぎるよ」
「まあ元気さで言ったらお前達にゃあ負けない。年季が入ってるからね」
「違いない!」

 エルハルトは笑いながらシーツを両手に広げた。

 しばらくすると、アルノルトが袋に一杯の氷を持って戻った。

「ふう。重かったよ。あれ? 今日はお婆ちゃんが夕食を?」
「おかえり。待ってな。腕によりをかけて作ってあげるからね」
「氷取って来たよ。ヘンゼルさんと村長さんが有りったけくれたけど足りるかな」
「十分だ。よく取ってきてくれたねアルノルト。ところでマリウスは?」
「家に帰ってないの?」
「お前の後を追って行ったよ」
「山道はあいつには大変だから、すぐに家に帰したんだ」
「どうしたんだろうね。マリウスは」
「そういえば、表に樽が出してあったけど、サビーネ婆さんがやったの?」
「いや。誰もそんな暇は無かったはずだよ。もしかしたら!」

 その時、表で水を零すような音が聞こえた。

「マリウスだ!」

 アルノルトは玄関を開けて庭先を見た。するとマリウスが倒れてバケツを一つひっくり返していた。もう一つ手には水が入ったバケツを大切そうに持っている。

「マリウス。何してる」
「ちょっと躓いちゃった」

 そう言うと、マリウスはバケツに残った水を大樽になみなみと注ぎ込んだ。

「こんなに水を汲んでどうするんだ?」
「へへへ。シェッヘン川の水は雪解け水で冷たいでしょ。だからいっぱい汲んで来たんだ」

 アルノルトはその大樽の中の水を触ってみた。

「マリウス。残念だが水は置いておくとだんだん温くなるんだ」
「これだけいっぱいあれば大丈夫でしょう?」
「確かに今はまだいくらか冷たい。でも少しすれば普通の水になってしまうよ」
「ええー。せっかく川まで行って汲んできたのに」

 サビーネも表へ出て来てそれを聞いていた。

「マリウス。これはご苦労なことだね」
「おばあちゃん。雪解け水なら十分冷たいよね?」

 サビーネは雪解け水に手を入れて言った。

「これは冷たいねえ。うん。この冷たさは保たないが、今のうちなら……これは使えるねえ」
「ほらあ」

 得意げに言うマリウスにアルノルトが聞いた。

「どうやって使う?」
「え? どうやるの?」
「荒療治になるが、やってみるかい?」
「うん!」

 サビーネは二人にその水を風呂用の桶に運ばせた。大分水が溜まってくる頃合いを見計らって、サビーネはアフラの部屋へ向かった。そこでシーツを広げてアフラを扇いでいたエルハルトに声を掛けた。

「アフラを運ぶよ」
「何処へだい?」
「風呂場まで運んでおくれ」

 エルハルトはアフラを抱え上げ、着替えを持ったサビーネの先導で風呂場へと向かった。
 それを見たマリウスが言った。

「お姉ちゃんを冷たいお風呂に入れるんだね」
「そうだよ。よくわかったね」

 風呂場を見渡して「アフラを何処へ降ろそう?」とエルハルトが尋ねた。足場は石組みでごつごつしている。

「この上に降ろしとくれ」

 サビーネは洗濯籠を裏に向けて幾つか並べた。
 エルハルトはアフラをその上に横たわらせ、頭を手で支えた。
 やって来たアルノルトがサビーネに言った。

「じゃあ氷も風呂場でいいね」

 アルノルトは革袋に入った氷を風呂場へ届けた。

「助かるよアルノルト」

 マリウスが一桶の水を汲んできて言った。

「これで最後。お風呂するにはちょっと少ないみたいだ」
「ありがとう。まあ水を足してなんとかなるだろう。あとは女同士でやるよ。カリーナ。ちょっとカリーナを呼んできておくれ」

 マリウスはカリーナの休んでいる居間へ母を呼びに行った。

「お母さーん」

 マリウスに呼ばれてカリーナは、風呂場に顔を出した。

「一体どうしたんです?」
「もう大丈夫かい? 今日は大変だったが、一日あれだけやってもアフラの熱が下がらなかった。今は一刻も早くアフラの熱を下げないと、頭が熱でやられてしまう。そうなっては遅い。判るね」

 カリーナは涙を溜めて頷いた。

「マリウスが川の雪解け水をたんまりと汲んで来てくれた。ここに氷もある。これでアフラを氷風呂に入れるんだ」
「はい!」

 サビーネとカリーナは、二人でアフラの服を脱がせ、雪解け水の入った桶に入れてやった。平たく四角い大きな桶は体を伸ばすと足と頭が出る。そうしてから氷をその水に浮かべた。

「この氷はアルノルトが村中回って集めて来てくれた。エルハルトもここまで運んでくれた。みんなで力を出し合ってやることは、きっと効くものさ。ここには皆の祈りが集まっているからね」
「はい」

 カリーナは胸に十字を切り、祈るようにアフラの頭に氷水を掛けて流した。それはちょうど、牧師が赤ん坊に洗礼をする時の仕草に似ていた。

「アフラの洗礼の時を思い出しますわ」
「そうね。あの時はアフラが嫌がって大変だったわ。今日は良い子ねえ。あなたの洗礼をとても大人しく受けているわ」
「嫌ですわ。お義母さんたら」

 しばらくの間それを続けていると、アフラの唇の色が紫色になってきた。

「水が冷たすぎて、体を悪くしないかしら」
「今は体が熱すぎるんだ。心配は要らない」

 サビーネはアフラの額を手で触ってみて言った。

「でも大分熱が引いてきたようだよ」
「ああ神様! 良かった!」

 サビーネとカリーナは冷えた手を握り合って喜んだ。

「きっと普段の行いが良かったのさ」
「いいえ。そんな。今日は私休んでしまいましたもの。夕食のお料理をお義母さんに任せてしまって本当にすみませんでした」
「あ! スープを煮ているんだった! もう焦げているかねえ」

 サビーネは慌てて台所へ向かった。

 ブルクハルトがとても疲れた顔で家に帰って来た。自治の領邦であるウーリで、管区長は人望が第一の職と言っていい。それがあらぬ噂でかなり揺らいでいるのを肌で感じた。
 居間へ入ると子供達も疲れた顔で食卓を囲んでいた。

「ただいま。どうしたんだ。みんなそんな疲れた顔して。夕飯はまだなのか?」

 エルハルトが台所を顎で指して答えた。

「サビーネ婆さんが料理に失敗したって。夕飯は遅くなるそうだよ」

 台所からは少し焦げた匂いが漂って来ている。

「珍しいこともあるもんだ。サビーネ母さんがウチで料理するなんて」
「お母さんが倒れかかったんだ。ここの所寝てなかったみたいだからね。今も部屋で休んでるんだ」
「それは心配だな。お前達、お母さんばかりに苦労かけるんじゃないぞ。マリウスも自分の事は自分でするんだぞ」

 マリウスは眠たそうに言った。

「今日は僕、頑張ったよ。だからお腹が空いたよ」

 隣にいたアルノルトがマリウスの肩を叩いて言った。

「そうだな。アフラの熱が引いたのはお前の頑張りのお陰だ。よく頑張ったマリウス」

 ブルクハルトは喜んで言った。

「アフラの熱が引いたのか? それは良かった」

 アルノルトは真顔になって答えた。

「良くないよ! アフラは今日ひきつけを起こして大変だったんだ。今はサビーネ婆さんの処置で、熱が引いてるだけだ」
「処置って?」

 アルノルトに代わってエルハルトが言った。

「アフラを氷風呂に入れたんだ。体温はかなり低くなって、さっき上へ運んで来たばかりだ」
「氷風呂か。よくそんな氷があったな」

 マリウスが自分を指差して言った。

「僕が川から雪解け水を汲んで来たんだよ。氷はアル兄ちゃんが村から集めてきた」
「そうかそうか。二人のお陰でアフラは良くなったか。良かったことだ」
「氷風呂に入れて熱はなんとかなったけど……治ったわけじゃない。アフラの病気はそんな生やさしくないんだ!」

 アルノルトの悲痛な声に、サビーネが台所から顔を出した。

「ブルクハルト。アフラを放っておいてお前はどこをぶらついてるのさ。みんな頑張ってるのにお前だけ留守じゃあ、アルノルトに言われても仕方ないだろう」

 ブルクハルトは母にそう言われてしょげ返った。

「アフラを見て来てやりな。今日見られなかった分ね」
「ああ。そうさせて貰うとしよう」

 ブルクハルトは階段を登ってアフラの部屋へ向かった。
 エルハルトは言った。

「薬が届くには五日かかるって言ってたから、あと四日だな」
「四日じゃあ遅い……一刻も早く薬が欲しいよ……」

 エルハルトがアルノルトの肩を叩いて言った。

「さっきからどうしたんだ。お前らしくないぞアルノルト」
「あんなアフラを見たら……兄さんだって落ち着いてられないさ」

 エルハルトは静かに言った。

「そんなに気に病んでも良いことはないさ。明日は放牧の時に羊に積んで、氷を山ほど持ってきてやろう? いくら心配しても出来る事なんて限られてるさ」
「うん。そうだね。けど、どうやって羊に積もうか。羊も冷たがるよ」
「考えがある」

 しばらくしてサビーネが料理を運んで入ってきた。全員待ってましたとばかりに喝采を送ったが、サビーネが食卓に伸びるマリウスの手を払って言った。

「だめだよ。みんなでお祈りしてから! ブルクハルト。夕食が出来たよ!」

 ブルクハルトは階段を下りてきて言った。

「母さんの料理とは久しぶりだねえ」

 カリーナも出てきて言った。

「あなた、おかえりなさい。村の人の様子はどう?」
「そう。それだ。村でひと騒ぎあったんだ。家にハプスブルクが来たとか言ってな。そんなこと在るわけ無いのにな」

 カリーナは料理を並べながら言った。

「そうねえ。でも外が騒がしいと思ったら、変な馬車が来ていたわ。白くて大きいのが。お前達は知らない?」

 言われたエルハルトとアルノルトは顔を見合わせた。

「知っているのか!」

 ブルクハルトがエルハルトに詰め寄ると、言いにくそうに言った。

「アルノルトが……知ってるよ」
「アルノルト。何があった?」

 アルノルトは上目遣いに父を見て、しばらく何も言わずにいた。

「言うんだ! アルノルト!」
「前にアフラが言っていたイサベラさんだよ」

 エルハルトが追補するように言った。

「ハプスブルクの娘だ」

 ブルクハルトは真っ青になって頭を抱えた。

「何てことだ!」
「でも、もう来ないでくれって言って帰って貰ったんだ。彼女はアフラのお見舞いに来ただけで、悪気は何も無いんだ」
「村の人が何て言ってるか判るか?」

 アルノルトは首を振った。

「判らん。そうだ。もはや判らん」

 そう言うと、ブルクハルトは料理も食べず部屋へ引っ込み、そのまま寝込んでしまった。
 アルノルトもその日は食べ物が喉を通らず、夕食の殆どを残した。

「悪かったねえ。今日は料理を焦がしてしまって」

 多く残った料理を見て、サビーネはしきりに謝りながら帰って行った。


 
 薄青い空が渓谷の高原を薄明るく照らし始めていた。
 エルハルトとアルノルトは羊を連れて、いつもより早くに家を出た。今日は氷河のある高山まで行って、氷を取ってくる予定だった。羊達の首には大小の籠がぶら下がっていた。エルハルトが氷を運ぶために付けたものだった。中には獅子の紋が入った籠もあった。
 しばらく登って尾根に出たところでアルプスの眺望が広がっている。エルハルトは山に対峙して、天気を見た。

「兄さん。今日の天気はどうだい?」
「今日は途中から雨になるかも知れないな」
「それはダメだよ。いくら兄貴でもダメだ」
「山の天気じゃあしょうがないだろう」
「昨日村の氷を使ってしまったから、氷を取らずに帰るわけにはいかないよ。朝にはアフラの熱もぶり返していたしね」
「判ってる。少し下れば夏の山小屋があるだろう。雨が降ったら今日はそこに雨宿りしよう。泊まってもいいくらいの仕度もあるしな」
「それはいいけど、薬を届けてくれるエドフィーユさんの道も悪くなる。そしたら薬も遅くなるよ。今日ばかりは兄さんの天気も外れることを願うよ」
「少し急ごう。降る前に出来るだけ進んでおくんだ」

 二人は足を早めて、山を登った。
 急き立てられた羊達は、もっと落ち着いて草を食べさせろとばかりに頻りに啼いては二人に抗議した。
 遠くの峰の向こうからは、次第に厚い雲が流れて来ていた。

 ブルクハルトは昨日の心労で太陽が高く上がっても寝込んでいた。カリーナもまた連日の疲れが出たのか、朝の用事が済むとアフラのベッドの傍の腰掛けでうつらうつらしている。そこへマリウスが木桶を持って言った。

「僕、また川の水を汲んでくるよ」
「私も行くわ。その方が早いでしょう」
「お母さんはちゃんと部屋で休んでいてよ。看病は僕一人でも大丈夫だから」
「マリウスは偉くなったわ。じゃあ頼んだわね」

 マリウスは家から坂を少し下ったところのある川で水を汲んだ。バケツに半分の水を入れ、両手に持ってバランスを取る。昨日苦労して編み出した持ち方だった。
 水を汲んで家に戻ると、それを大樽に入れた。そして木桶にその水を汲み、アフラの部屋へ冷たい水を届けに行った。

「お姉ちゃんに冷たい水だよ」

 部屋の中ではカリーナはアフラの隣でベッドに凭れかけて眠っていた。マリウスは起こさないようにそっと入ってその水におしぼりを浸し、アフラの額に当てて囁いた。
(どうだ。おねえちゃん。冷たいだろう)
 アフラの額に氷嚢を乗せ、マリウスは再び水を取りに行った。川から水を汲む時、今度は水をさっきより増やしてみた。力を振り絞ってようやく持ち上がるも、こぼさないように坂を登って運ぶのは大変だった。バケツの水を揺らさないように顔を真っ赤にして坂を上がって行くと、途中でその場にしゃがみ込んでしまった。少し休憩してからふと林の中を見ると、木の陰から顔を出している緑の服の狩人がいた。その背丈はアフラくらいだろうか。小さな狩人はどうやら家の方を覗いているようだった。少し離れたところには馬車が隠して止めてあり、御者が所帯無げにうろうろしていた。
 マリウスはその狩人の足下へ座ったまま膝で歩いて行って言った。

「何してんの?」

 驚いて振り向いた狩人の視界には、マリウスのことが目に入らず。狩人はキョロキョロしている。少し草陰に入ると狩人の緑の服は木々の緑に溶け込んで見え難くなる。

「お兄ちゃん、怪しい人だ」

 狩人は再び驚いて振り向き、ようやく足下で座り込んでいたマリウスを見付けた。

「お兄ちゃんじゃない。怪しい者でもない。私は狩人だ」

 良く見ると狩人の年は若く、その声はまだ子供のようだ。

「じゃあ何してんの?」
「狩人は狩りをする。そういうものだろう」
「僕の家で狩りをしたらお父さんに怒られるよ」
「お主、この家の子供であったか」

 狩人は急に改まって、マリウスの前に立て膝を付いた。

「ひとつ訪ねたい。この家に病気で臥せっている人はいるか」
「いるよ。お父さんもお母さんも今は疲れて寝てるんだ」
「そうか。でもその……重くて寝ている娘がいるだろう?」
「重い……これ重いんだ。持って」

 マリウスは狩人に持っていた二つのバケツを渡した。持ってみると華奢な狩人はその重さに蹌踉めいた。

「重い!」
「重いでしょう?」
「この重いではない! 病気が重い子がいるだろう?」
「持ってきたら教えてあげる」

 マリウスはそう言って、一人歩き出した。
 狩人は狼狽しつつ、バケツを持ったまま追いかけた。
 従者はそれを見て、慌てて追いかけてくる。

「何処へ行かれるんですか?」
「良い。ここで待っててくれ」

 狩人は蹌踉めき、水を零しながらマリウスを追った。

「こぼしちゃダメだよ。狩人さん」
「しかしこう重くてはね」

 這々の体で家の前まで着いた狩人のバケツを覗き込むと、水は半分くらいしかない。

「こんなんじゃ全然足りないよ。もう一回行かなきゃ」

 マリウスは無邪気な天使の笑みを浮かべた。

「私は下働きはせぬ。行かぬぞ」
「なら僕も教えない」

 そう言ってそっぽを向いて、マリウスはバケツの水を大樽へと注ぎ込んだ。

「取引というわけか」
「そうだよ」
「いいだろう。だが長居は出来ぬ。先に聞かせてくれ」
「お兄ちゃんは貴族?」
「私は……狩人だと言っただろう」
「下働きしないで、馬車に乗って、狩りをするのは貴族くらいだ」
「ふむ。なかなか目の付け所がいい。だが貴族と言うには少し違うな」
「本当?」
「わたしは病人が心配なだけだ。医者を連れてくることも出来る。だから教えて欲しい。ここに病気の娘がいるんだな?」
「狩人さんはお医者さん?」
「医者ではないが……まあ、名医を知っている」
「じゃあ世界で一番のお医者さんを連れて来てくれる?」
「容易いことだ」
「お姉ちゃんは普通のお医者さんには判らない病気だっておばあちゃんが言ってた。ちゃんと判るお医者さんを呼んで来てよ」
「そうなのか。わかった。お姉ちゃんか。その子のところに誰かお見舞いに来たかい?」
「何回も馬車が来たよ」
「そうか。私もお見舞いをしたいのだがいいか?」
「お姉ちゃんの知り合い?」
「まあそうだな」
「じゃあ、その水を運んでくれたらいいよ」

 マリウスは狩人を二階のアフラの部屋まで案内した。木桶に先程の川の水を入れ、運ぶのは狩人だ。部屋に入るとそこにはアフラは寝息を立てて眠っている。最近は窓からの風を当てるために布団も掛けていなかった。狩人は床に置いた木桶を抱えつつ、しばらくアフラの寝顔をただ見ていた。

「まるで眠り姫だな」
「お姉ちゃんは高熱でずっと寝てる。もしかしたらこのままずっと眠ったままになるかもしれない。そういう病なんだって」

 マリウスは言ってから思わず涙を零した。そしてアフラの額からおしぼりを取って狩人に渡した。

「せっかくだから、おしぼりをその水に漬けて替えてあげてよ」

 狩人は持っていた桶を脇机に置いて、冷たい水に布巾を浸し、絞ってからアフラの額に置いた。
 手に触れたアフラの額の温度は驚くほどに高い。見たことも無いような高熱だった。
 狩人は帽子を取り、しばし瞑目して跪いた。

「あんなに跳ねっ返りだったのにな……」

 そう言って狩人は踵を返した。マリウスは慌てて見送りに出る。

「ありがとう坊や」

 狩人は馬車のある林の中へ歩いて行った。馬車からは御者と鋭い目をした貴族が出てきて狩人を迎えた。

「ねえ! もう一回水を汲みに行くって言ったのは!」

 狩人は笑って手で会釈を返すだけで振り向きもせず、繁みの中へ入って行った。
 その姿を追いかけてマリウスは叫んだ。

「お医者さん呼んできてくれるっていうのはー?」

 そこへブルクハルトが庭に出て来てマリウスに声を掛けた。

「大きな声上げてどうしたんだ?」

 マリウスは馬車を指差した。
 狩人は馬車の中へ入り、御者に言って馬車を発した。
 狩人は馬車の窓から一度顔を出し、去って行った。

「あれは誰だ?」
「ウソツキの狩人だよ」

 ブルクハルトは不審げに馬車を見送った。
 
「おかあさーん!」

 家に駆け込んで来たマリウスはカリーナを呼んだ。
 居間で寝ていたカリーナはその声に目を覚まして言った。

「あらいけない。マリウス。どうしたの?」

 マリウスは部屋に駆け込んできて言った。

「お母さん。変な人が来たよ」

 カリーナは目を擦りながら立ち上がった。

「お客様? じゃあ行かなきゃね」
「もう馬車に乗って行っちゃったよ。水を一回しか運んでくれなかったの」
「水汲みを手伝ってくれたのね。それは良かったじゃない。近所の人かしら」
「狩人だって。全身緑で変ちくりんでウソツキなんだ」
「そんなこと言っちゃ駄目よ。手伝ってくれた人を悪く言うものじゃないわ」

 ブルクハルトが続いて部屋へ入ってきた。

「アフラの具合はどうだ」
「あらあなた。今日はお休みかしら」
「ああ。そうだな。教会の騒ぎも一段落したし、少しはアフラを見ていられそうだ」

 そう言ってブルクハルトはアフラの部屋へ行き、アフラを見た。アフラの様子は昨日より顔色が悪くなっていた。

「さっきはマリウスの声で起こされたよ。しかし、あれは誰なんだ……」
「誰だろう?」

 マリウスも首を捻った。

「あなたも会ったの?」
「遠目に見ただけだが、どうやら貴族のようだった」
「貴族じゃないって言ってたけど、あれは絶対貴族だよ」
「何を話していたんだ?」
「それが変なんだ。病気のお姉ちゃんはいるかって言うの」
「それは確かに変だな……」
「世界一のお医者様を連れてきてくれるって言ったんだ。ウソツキだから本当かどうか判らないけど……」
「もし本当なら親切な人もいるものね」

 カリーナはそう言って、アフラの氷嚢を取って氷を詰めた。

「今は藁でも縋りたい気持ちよ。世界一のお医者様が来てくれたらアフラも治るかも知れないわ」

 カリーナは思い当たる何かに想いを託すように胸で手を合わせた。
 ブルクハルトはアフラの額に手を当てながら言った。

「そうだな。前にも親切なシスターの医者がいたしな」

 これにはカリーナは黙って肯くより無かった。
 マリウスもアフラの額に手を当てて言った。

「お姉ちゃんの熱、また熱くなってきたね」
「そうね。今日もアフラを扇いであげなきゃ」

 カリーナはシーツを両手で広げてアフラを扇ぎ始めた。

「どうしてシーツでお姉ちゃんを扇ぐの?」
「こうすると涼しいでしょ。熱が下がるのよ」

 マリウスは昏々と眠るアフラに言った。

「涼しい? お姉ちゃん?」

 マリウスはアフラの口元に耳を傾けて言った。

「うんうん。涼しいって言ってるよ」

 ブルクハルトとカリーナは思わず微笑んだ。

「マリウスったら」
「僕もやる!」
「じゃあこっちを持って」

 カリーナはマリウスにシーツの端を持たせた。

「上げて」とカリーナがシーツを持ち上げると、マリウスも「上げてー」と遅れて続く。それを見てカリーナは「下げて」とシーツを下げ、マリウスが「下げてー」とそれに習う。シーツは空気を孕んで大きく膨らんで周囲に涼やかな風が起こった。

「わあ。いい風」
「いい風でしょう?」
「お姉ちゃん涼しい?」

 マリウスの扇ぐタイミングはなかなか合わなかったが、カリーナが加減してアフラへ向かう風は程良いくらいに送られた。
 しばらく扇いでいると、マリウスはすぐに疲れてしまった。

「もう疲れたよ。あとどれくらい扇いでたらお姉ちゃんは治るの?」
「そうねえ。目が覚めるまでね」
「ええ! そんなこと言ったら昨日からお姉ちゃん目が覚めてないよ?」

 それを聞いて愕然としたのはブルクハルトだった。

「そうなのか!」
「そうだよ。僕がどれだけ話しかけても、何にも返事が無いんだ。ねえどうして?」
「どうしてかな? きっと起きたくない夢でも見てるのかな?」
「風邪なら寝ていれば治るのに……こんなに寝てて少しも良くならないんだよ。どうしてなの?」

 カリーナは言葉も見付からず、涙をこらえて「そうね」と呟くだけだった。
 ブルクハルトはそれを見かねて立ち上がった。

「アフラ! 起きてくれ! アフラ!」

 ブルクハルトはアフラの体を揺すった。
 しかし、アフラは一向に反応を示さなかった。

「何てこった……こんなことって……」

 ブルクハルトは愕然としてアフラを抱きしめた。

「俺は一体何をしていたんだ……村を守ると言っても自分の娘一人守れないのか!」
「あなた……」
「儂はどうすればいい……どうすればいいというのだ」
「じきに山からの薬が届くわよ。ヴィルからの薬が……今はそれを待つしかないわ。それを信じましょう」
「ああ。こんな時でも儂等は天から恵まれてるなあ。いち早く病気を診てくれるサビーネ母さんがいてくれて、そして山にはヴィルがいる」
「ええ。そうね」
「僕もね」とマリウスが胸を叩いた。ブルクハルトはアフラを右手で抱え直すと、マリウスを左手に抱いて頬を付けた。

「ああ。そうだな。マリウスも、母さんもいる。エルハルトやアルノルトもな」

 三人はそう言って頷き合った。


 急いだ甲斐もあってか、予定より早く山の頂きにも近い高地のアルプへ着いたエルハルトとアルノルトは、早速山に残る氷河の氷を籠へ詰めた。

 羊の首に結わえた紐にその籠をぶら下げると、羊は重さを嫌って首を振ったり籠を地面に擦りつけたりして抵抗した。
 その仕草が角を振って挑戦する仕草にも見えたのか、羊の中でも大きなオッポとネロは角で押し合って小競り合いを始めた。ネロは性格が一番猛々しい羊のボスだ。

「アルノルト。上のあの二匹を抑えてくれ。大将が乱れると群れが荒れる。あのケルンの方は崖だからあっちへは絶対に行かすな」

 坂を駆け上り、オッポを抑えながら、アルノルトが言った。

「どうどう。やっぱり重いのが嫌みたいだよ兄さん」
「まあ時期に慣れるさ」

 その言葉通り、しばらくすると羊達も慣れて大人しくなり、草を食み始めた。再び氷を籠に詰めていると風が次第に強くなって来た。向かいの山には霞が立ち、細い雲が尾を引いている。

「雨が来そうだ。これで切り上げよう」
「まだ全部入ってないよ」
「一嵐来る。山小屋へ避難するんだ。上の方へ行った羊をこっちに連れて来てくれ」

 そう言ってエルハルトは牧羊犬のベルに「集合!」と声を掛けた。ベルは彼方此方を走ってエルハルトの方へ羊を追い始めた。しかし高い所にいたネロは群れとは逆のさらに高い方へと走っていく。
 アルノルトはネロを追って急坂を登りながら空を見た。その空は雲も少なく、まだ青空が見えているので嵐なんてまだだろうと思えた。
 しかし、しばらくすると雷の音が響いて来た。そして幕を引くように雲が空を覆うと小さな雨粒が降り出した。
 坂の下にいるエルハルトにアルノルトが叫ぶような声で言った。

「雨だ。兄さんは本当に山の声が判るんだ」
「お前も時期に判るさ。ネロを頼む」

 山の上で羊のネロは一点をじっと見つめていた。
 その先の崖にはカモシカがいた。カモシカは崖を跳ねながら降りて来る。草原に着地したカモシカはネロを威嚇するように首を振った。ネロはそのカモシカの仕草を見て追いかけ始めた。カモシカはケルンのある峰の方へ逃げ、ネロもそれを追いかけて行く。

「ネロ。そっちはダメだ!」

 アルノルトはネロを追って走るが、残雪もあり、斜面は急なので足が追い付かない。
 カモシカは翔け上がるように峯の崖を登り、頂きに立った。ネロは峰の手前でカモシカを追うのを諦めたようだ。ネロはカモシカを見たままビクとも動こうとしない。カモシカはこちらには目もくれず空をじっと見ている。
 アルノルトがその方向の空を見ると生きて動くかのような雲を見た。その雲の中に稲光が走った。山は生きている。そんな兄の言葉が心を過った。
 雷鳴が鳴り響く。カモシカはその音で峯を逆へと駆け下りて行った。ネロが踵を返した所でアルノルトはネロに追い付いて首を掴んだ。
 もう少し登るとケルンがある。その向こうの崖からは雲がもっと見えそうだった。
 アルノルトはケルンに向かって歩いて行った。そのうちに雨は次第に強くなって、大粒の塊が頬を叩いた。

「何をするつもりだ? 早く行くぞ!」

 強風に煽られ、アルノルトにはもう兄の声が聞こえず、足早に山を登って行く。エルハルトは羊達を見るために追うことも出来ず、先に行くわけにもいかず、蹈鞴を踏んだ。
 ケルンに着いたアルノルトは断崖の上に立ち、迫る雲を見上げた。空を見上げると、雲の渦が幾筋の流線を描いて迫ってくる。それは命を持つ帯のようにアルノルトへ向かってきて、目の前で渦を巻いた。この雲の中に命を持った何かがいる。

「山の主なのか?」

 アルノルトにはそう思えた。
 すると言葉が降って来た。

——我に名は無くこの天空を翔る者

 その言葉は何かの声であるのか、自分でいきなり考え付いたのか、良く判らなかった。
 それは風の中にいる私のような何かの声だろう。この時は私では無かったが。
 アルノルトはケルンの上に積もった雪を手で払いのけて、そこに石を一つ積んだ。

「雨を止ませてくれ! 雨で雪を溶かさないでくれ! 病気の妹に持って行くんだ!」

 アルノルトはその雲の上に叫んだ。声に呼応するように雲間には無数の稲妻が走り、直後轟音が鳴り響いた。辺りは真っ白に光って頬に熱さえ覚えた。
 アルノルトはさらに石を積み、そして雲に向かって塊を投げた。
 それは手に握り込んでいた雪の塊だった。
 その瞬間、雷鳴と共に突風が吹いた。アルノルトはその風に立っていられなかった。強風に薙ぎ倒されるように坂を駈け、勢いで羊の近くまで駆け降りて手を付いた。羊が声を上げて啼く。
 アルノルトは羊の首を抱き抱えながら、尚も荒れ狂う空に叫んだ。

「僕は決して山を荒らす者ではない! 羊を守り、山と共に生きる者だ!」

 すると雨は雹に変わって激しく身を打った。
 エルハルトが近くでアルノルトを呼ぶ声がした。
 それでもまだアルノルトは雲の渦の向こうに目を奪われていた。雲は目の前で大きく渦を巻き、見たこともない大きな何かを描いていく。それは巨大な龍にも見えた。

「天空の主なら聞いてくれ。雨を止めてくれ!」

 尚も稲妻が轟音と共に光った。雷が森に落ちた。その場所に大きな木が見えた。

——判ったから早くここを下りるといい

 再び声のようなものが聞こえた。
 それは私の心のつぶやきだった。
 アルノルトにエルハルトがようやく追い付いて来た。

「アルノルト! この場所は危ない! 早く山を下りるんだ!」

 エルハルトの声にアルノルトはようやく我に戻り、兄を振り返った。

「あれを見て」

 見上げると雲はもう形を失い、暗雲が空を渦巻くのみだった。
 再び立ち上がった二人を、強風と雹が痛いほどに叩きつけた。

「急げ。山小屋へ避難するぞ」

 二人はネロのお尻を叩きながら支え合うように急な坂を下りて行った。
 再び羊の群れに合流して歩き出した頃、雹が止み、見上げれば強風に煽られた雲が飛ぶように散っていく。
 空から次第に光が零れてきたかと思うと、やがて雲の切れ間から晴れ間が見えた。気が付くと、雲は羊の群れのように切れて、山に小さな影を落とすだけになっていた。

「これは……天気が変わりやすい山でも、こんな事は初めてだ。一体どうしたんだ!」

 エルハルトは空を見上げながら、アルノルトの肩を叩いた。

「雲の向うの主がやったんだ」
「お前、叫びながら何か投げただろう」
「雪を主に返したんだよ」
「アブラハムが子のイサクの代わりに羊を捧げたような風景だった……」
「僕が捧げたのは、雪だ……。まさか僕自身かも?」
「お前は天気を読まなくてもいいようだ」

 アルノルトは兄に不服を訴えるように言った。

「どうして?」

 エルハルトはアルノルトの背を叩いて笑うのみだった。
 そして、二人は少し山を降った大きな岩陰にある夏の山小屋へ辿り着いた。
 羊や牛達が春に低地のアルプの草を食べ尽くした後、夏になると牛飼い達は高地のアルプに移動して、この夏の山小屋で暮らす。そして秋はまた麓に降りて、その間に豊かに育った草を刈り取って冬に備えるのだ。季節はまだ春だったので、この辺りはまだ雪が解けたばかりだ。
 小屋の中は雪を防ぐ為しっかりと閉められた雨戸が閉まっているため真っ暗だ。エルハルトとアルノルトは積もった埃を払いながらいくつかの雨戸を開け、羊達とさらに自分達の寝床を藁で作り、そこで一晩を過ごした。

 夜が明けるとエルハルトとアルノルトの兄弟は羊にたっぷりと草を食べさせてから、羊達に氷の入った籠を一頭一頭取り付けて行った。そして準備を終えると、羊を追いつつ山道を下った。
 その間の天気は不安定で、小雨が降ったり止んだりを繰り返して、服は常に湿っていたが、大降りにはならなかった。
 そうして村へ着いたのは日が傾き始めた頃だった。
 エルハルトとアルノルトは村の牧舎へ着くと、早速羊の首に付いている籠を集めた。アルノルトはその籠を開けて言った。

「兄さん。もう溶けて半分くらいになってるよ」
「まあこれだけあればしばらくは足りるさ」

 エルハルトは氷を皮の袋へ詰めて、半分地下に埋めてある氷室の中に入れた。氷を籠から取り出すアルノルトは、氷の冷たさとまだ湿っている服の冷たさに震えた。

「ただいま」

 二人が家の中に入って行くと、カリーナが迎えた。

「おかえり。大変だったわね」

 アルノルトはカリーナに言った。

「氷を沢山取ってきたよ」
「そう。助かるわ。服が濡れてるじゃない。山で雨にあったの?」
「うん。ずっと雨だった。けど、少しで止んだんだ。大丈夫だよ」
「すぐ着替えた方がいいわ。最近はエルハルトが付いててもよく降られるようね」

 エルハルトは静かに言った。

「これからは雨のことはアルノルトに言った方がいい」

 カリーナは訊いてみた。

「アルノルトがお天気を当てたの?」
「いや。それ以上さ」

 カリーナは首を傾げてアルノルトを見た。
 アルノルトも小首を傾げてみせた。そして手拭いで頭を拭きながら母に訊いた。

「それよりアフラの様子はどう?」
「うん……昨日より熱は無いようだけど、変わりなく寝てるわ……」
「昨日から眠ったままなの?」
「ええ……」
「そんな……薬はまだ?」
「まだよ……早く二人とも着替えてらっしゃい。風邪引くといけないから」
「うん」

 二人は着替えるために部屋へ行き、着替え終わると隣にあるアフラの部屋へ行った。
 エルハルトとアルノルトは、部屋の入り口からアフラの部屋を覗いた。そこではサビーネとマリウスが看病をしていた。

「どう? アフラの様子は?」
「なかなかこの熱は下がらないねえ」

 サビーネは溜め息を吐いて扇いでいた布を置いた。

「フーッ。まだまだ冷やし方が足りないようだよ」
「また氷を取って来たから、氷風呂をすればいいよ」
「そうかい。二人ともありがとう」

 マリウスが横から言った。

「ボクも水汲んできたよ」
「そうだね。マリウスもありがとうね。おかげでまた氷風呂に入れてやれるよ。じゃあ早速準備するとしようか。氷と水をお風呂場へ運んでおくれ」

 「こっちこっち」とマリウスにエルハルトは引張られて行き、水の入った桶のある方へ連れて行った。アルノルトもそれに付いて行き、水を運ぶのを手伝った。
 三人で大きな桶を運ぶと、風呂桶の水はあっという間にいっぱいになった。

「兄弟三人もいると、重労働も早いもんさね」とサビーネは笑った。

「あとは氷だね」とアルノルトが山から取ってきた氷雪を貯氷庫から持ってきた。
 サビーネはそれを見て言った。

「これはたっぷり取ってきたねえ。時間たっぷり入れそうだねえ。少し砕いてそこの桶に入れといておくれ」

 そこへブルクハルトが村の仕事から帰って来た。

「ただいま。サビーネ母さん来てくれたのかい?」
「おかえりブルクハルト。丁度いい、お前も手伝っておくれ」
「アフラのお風呂かい?」
「お風呂と言っても冷たい氷のお風呂ね」
「噂の氷風呂か!」
「こういうことは全員で一致協力してやると祈る以上に願いが通じるものさ。さあ、お前にも手伝って貰うことがある。アフラを風呂場に運んでくれ」

 ブルクハルトは軽々とアフラを腕に抱え、サビーネの先導に従って階下へ降りて風呂場へと入って行った。
 カリーナもタオルや着替えを持って後ろから付いていく。
 サビーネとカリーナはアフラをゆっくりと氷風呂に浸からせた。
 アフラの体が十分に冷えるまで、ゆっくりと時間をかけたので、夕食は忘れ置かれる事となった。
 それでもアフラが氷風呂から出て来たら次こそは熱が下がるのではないかと男達は期待半ばに待っていた。
 そうして、お風呂場から出てきたアフラの熱は、果たして完全に下がったとも思える程に冷たくなっていた。しかし唇がもう紫色になっている。

「冷やし過ぎじゃないだろうか」

 ブルクハルトはアフラを運びながらそう言ったがサビーネは頷いた。

「またすぐ熱は上がるだろうさ」

 サビーネはアフラを二階に寝かせ、しばらく静かな寝息を見守った。

「まあ、これならしばらくは大丈夫だろう」

 ベッドの上に顎を付けて見ていたマリウスは安堵して言った。

「よかった。よかった。でもお姉ちゃんお腹空いてるよね。ボクもこんなに空いてるくらいだもの」
「そうだね。じゃあ摺り下しリンゴを食べさせてあげようか」

 アルノルトが「林檎と下ろし金を持ってくるよ」と言いながら、もう階段を降りて行く。

「アルノルトにも助かるねえ。いい兄妹だわ。誰に似たのかしら」

 後ろで見ていたブルクハルトとカリーナが顔を見合わせて笑った。

「ま、アルノルトは誰よりも妹思いだな」

 そう言ったエルハルトのお腹が鳴った。

「あら私ったら。まだご飯の支度をしていなかったわ」

 カリーナは慌ててアルノルトを追って出て行った。

「食器並べるくらいは手伝うよ」とエルハルトもそれを追うように出ていった。
 カリーナは台所で林檎を手にうろうろしているアルノルトを見付け声をかけた。

「下ろし金ならここよ。その棚の奥」
「ああ。あったよ」
「その林檎を貸して」

 カリーナはその林檎を素早い包丁さばきで4つに切って、皮を剥いていった。林檎を受け取るとアルノルトはそれを下ろし金で全速力を上げて下ろし、小鉢に流し入れた。

「そんなに慌てることないのよ。下ろし金で怪我しちゃうわよ」

 苦笑いするカリーナにアルノルトが言う。

「大丈夫だよ。ほらあと二つ」
「ハイハイ」

 アルノルトがアフラの部屋へ戻る頃には指を嘗めていた。

「林檎摺下ろしてきたよ」

 サビーネは恭しく受け取りながら「ありがとうよアルノルト。おや手をどうしたんだい」
「なんでもないよ」

 サビーネは目で判ってると言わんばかりに「そうかそうか」と頷いた。そしてサビーネは摺下ろした林檎をスプーンで掬った。そしてアフラの口を開けてやって、口の中へと流し込んだ。

「僕もやる」とマリウスがせがんだ。

「マリウスもやるかい?」
「うん!」
「でもまだこの一口分を呑み込んでからだよ。そうしたらもう一口呑ませておくれ」

 そう言ってサビーネがマリウスにスプーンを渡した。
 マリウスはアフラの口を睨んで、呑み込むのを待った。しかしアフラはなかなか呑み込まなかった。

「呑み込まないねえ」
「じゃあこうして喉を摩ってやるといいよ」

 マリウスがアフラの喉元をしばらく摩ってやると、アフラはごくりと呑み込む動作をした。

「呑み込んだ! お姉ちゃん呑み込んだよ」

 サビーネが頷きながら言う。

「そうかいそうかい。じゃあもうもう一口だ」
「うん!」

 マリウスはスプーンで摺った林檎を一さじ掬い、アフラの口元へ持って行った。

「はい。おねえちゃん。あーん」

 アフラは口を閉じたままなので、マリウスはアフラの鼻をつまんだ。するとアフラは苦しそうにした。
 ブルクハルトは慌てて言った。

「何をするんだマリウス」

 アフラは口を開けて息を始め、そこにマリウスはさじをねじこんだ。
 アルノルトが窘めるように言った。

「マリウス。お前、アフラに食べさせる時、今までこうやってたのか」
「そうだよ。こうしないとなかなか口を開けてくれないの。ボク考えたんだ。お兄ちゃんもやってみる?」

 頭を抱えるようなそぶりをしたアルノルトは、とりあえず首を振った。

「呆れた。オレは兄貴と食卓を手伝うとするか」

 アルノルトはそう言って部屋を後にした。

「おねえちゃん。もう一口食べる? 早く呑み込まないと食べれないよ」

 マリウスはまた喉元を摩ってやり、アフラが呑み込むのを目を凝らして待った。

「ブルクハルトもやっておくといいよ」
「ああ。そうだな。今日は珍しく家にいるからな」

 マリウスは木のさじを渡して誇らしく言った。

「はいお父さん。鼻をつまむんだよ」
「それよりこうだな」

 そう言ってブルクハルトはアフラの体を起こし、上を向かせてから下あごを押し下げた。

「マリウス、アフラの口を押さえておいてくれるか」
「うん。こう?」
「ちゃんと口が開くだろう?」
「ホントだ。さっきはちっとも開かなかったのに」

 そうしてブルクハルトは一さじ林檎を掬い、少しずつアフラに食べさせてやるのだった。


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