澁澤龍彦 『快楽主義の哲学』

本の感想の前に

 性に関する事柄はまるで禁忌であるかのように秘匿され、公には触れられずむしろ避けられる問題です。最近は少しずつ、女性の社会進出、生理など女性に対する世間の抑圧や無理解を是正し、LGBTの人たちを社会的に承認する動きが見られます。しかし、それが大多数の主張となった時点でその運動は、また新たな抑圧を生み、最初の純粋な動機を失っていくように思われます。

 昨今ジェンダーの問題が取り沙汰されている。だから、現代に生きる人間はそういった問題にまあいくらか関心を持っておこう、偏見を持たないでおこう。このように考える善良な人たちが多くいると思います。実際私もそのように考えていました。

 ただし、これらの人たちがジェンダーの問題についていくらか偏見を持たなくなったのは、その問題が大学やメディアでもてはやされる、もはや常識と言っても過言ではない風潮となったからだと思われます。

 メディアの発達、スマートフォンの普及によって現代の若者は流行や新しいものに右顧左眄しています。ジェンダーの問題もそうです。偏見を持つということ自体が古い世代の考えのように後れたもののように感じるからです。

 けれども、そのような若者の生活信条の一端を垣間見れば、服は規格品を着、評価の高い料理店で食事をし、映画やショッピングを嗜み、就職活動に励む、というようにほとんど判を押したような人間ばかりです。そして、意識的であれ無意識的であれ、昔の時代を偏見にまみれた頑迷無知なものとして一括りに片づける、という場合が多いでしょう。

 SNSのやり取りもそうですが、人の顔色を伺う、あるいは他人の意見に敏感であるような人が増えたのかもしれません。団塊世代の家父長的抑圧に対する反抗は鳴りをひそめ、少子化も相まって家庭内の不幸(親との対立)は減少しました。そうなると、社会(外部)との融和を求めるのが自然です。家庭内での円満状態はその人の深窓意識に強く根を張り、その状態が外に敷衍されるよう欲します。周囲との不和は軋轢を生みます。そこで、周囲や社会に調和していくために、一種の事なかれ主義が生じ、失敗することを強く恐れるようになります。

 ここで取り出したのは一つの例で、特に私に当てはまるものです。こんな人間はただの人畜無害でただの腑抜けです。人間らしさを失い、ましてその人が流行に流されなくとも、他人の顔色に右顧左眄している意味では両者は等しく同じです。

 これは極端な例ですが、実際今の若者の多くの性向に通ずるものがあると思います。個性とは大多数の意見に迎合しないことであるとすれば、殆どの人が個性を取り違えていると言えるでしょう。


感想

 長い前置きでしたが、本の紹介に入りましょう。『快楽主義の哲学』では、このような小心翼々たる人間を痛罵し、既存の道徳をあざ笑う、読んでいて痛快な本です。自分を曲がり者あるいはひねく者と自称している人にも、この本を読んで何らかの新しい発見があると思います。

 著者の澁澤龍彦(以下、澁澤)は、幸福は快楽でなく、「前者はむしろ苦痛を回避しようという傾向であるのに対し、後者は、進んで快楽を獲得しようという傾向」であると、多くの人が混同しやすい二つの概念を峻別しています。

 傾城を抱いたり、美食をたらふく食ったりすることは、誰もが快楽と認めるものです。そのような本源的な快楽を抑圧して、「現実原則」に則った生き方をここでは戒めています。

 「現実原則」に従うことは、家庭の中の善い父であったり、将来のために快楽を引き延ばすことを意味します。澁澤はそのような快楽を陰気で、みみっちい不健康なものとしています。

 また、幸福は全く相対的なものであると澁澤は言います。粗末なあばら屋で日々の食事に困っても気高く生活している人もあり、足るを知り、身の丈に合った暮らしをしている人もいます。金銭は必ずしも幸福をもたらしません。

 この書では、中世の日本の隠者やギリシャの哲学者ディオゲネスの生活について言及されています。隠棲して質素に暮らしたり、樽の中で雨風に洗われて生活するのは快楽とは程遠いようなきが致しますが、澁澤がこの書で言いたかったことは、他人の意見に頓着しないことのようです。

 もっとも人間に快楽をもたらすであろう性の快楽について、この書でも一つの章が設けられていますが、やはり主張の根底には他人の目を気にしない強い精神があります。

 サド侯爵はその猟奇的な性の奔放によって、社会から白い目で見られ不遇の生を送った人です。世間の常識に飼いならされた人間から見れば、この人物について不潔だとか、頭がおかしいだとか言いたくなるかもしれません。

 しかし、サドを道徳の視点から離れて眺めると、自分の本能の欲求のままに生を楽しもうとした空っ風のような明るい人物像が浮かび上がります。自分の本能を抑圧し、「現実原則」に従う近代人の方が余程歪んだ存在と言えるでしょう。その噴出したものが、浮気やら怪しげなパーティーに他なりません。

 しかし、本能の赴くままに生活すれば、社会は安定しません。好き勝手に殺人を犯せば、社会は混乱します。澁澤は情死を例とした死のエロスについてこの書で語っていますが、残念ながら殺人の快楽については言及していません。おそらく、どちらも肉体に対する欲求の点で似通っていると思われます。

 澁澤は性感帯の拡大というテーマを掲げています。恋人の性感帯を探すのは探究的です。その側面を評価し、現実生活でも人間は幼子のような探究心でものを見なければならないことを説いています。

 年をとると、時間の流れが速く感じられます。外界に対する情報の積み重ねがあるため、もうそれ程興味を抱かなくなってしまったからで。世の中、何でも規格品(服やら食べ物やら)が日本の隅々まで行き渡っていて、それが普遍的であると、日本人は不感症にならざるを得ません。こういった現象や考え方に疑問を抱き、もっと好奇心を旺盛にしていくことが、追求型である快楽と相似関係なのでしょう。

 快楽主義の具体的な方法は提示されていませんが、つまらない日常生活を変えていく上で、欠くことのできない意識を教えてもらいました。



 以下に、内容を伺い知るに便宜な目次を載せておきました。

目次

第一章 幸福より、快楽を

 人生には、目的なんかない/幸福は快楽ではない/文明の発達は、人間を満足させない/「快楽原則」の復活を/幸福は、この世に存在しない

第二章 快楽を拒む、けちくさい思想

 博愛主義は、うその思想である/健全な精神こそ、不健全である/「おのれ自身を知れ。」とは愚の骨頂/動物的に生きること

第三章 快楽主義とは、何か

 死の恐怖の克服/退屈地獄からの脱出/隠者の思想/政治につばを吐きかけろ/快楽主義の落とし穴/好色ということ/人工楽園と酒池肉林/東洋的快楽主義と西洋的快楽主義

 第四章 性的快楽の研究

 量より質を/最高のオルガスムを/情死の美学/乱交の理想郷/性感帯の拡大/快楽主義は、ヒューマニズムを否定する

 第五章 快楽主義の巨人たち

 最初の自由人ー樽の中のディオゲネス/酔生夢死の快楽ー酒の詩人李白/ペンは剣よりも強しー毒舌家アレティノ/生きる技術の名人ー行動家カザノヴァ/リベルタンの放蕩ーサドと性の実験/調和型の人間ーゲーテと恋愛文学/遍食動物の理想ーサヴァランと美食家たち/血と太陽の崇拝者ー反逆児ワイルド/ユーモアは快楽の源泉ー奇人ジャリの人生/肉体が夢を見るーコクトーとアヘン

 第六章 あなたも、快楽主義になれる

 わたしの考える、快楽主義者の現代的理想像/誘惑を恐れないこと/一匹オオカミも辞さぬこと/誤解を恐れないこと/精神の貴族たること/本能のおもむくままに行動すること/「労働」を遊ぶこと/レジャーの幻想に目をくらまされないこと/結びー快楽は発見である

  澁澤兄貴の愉快にっしてざっくばらんな談論 浅羽通明

出典 澁澤龍彦『快楽主義の哲学』 1996年 文春文庫 

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