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多様性の話

多様性という言葉。最近よく聞くようになったように思います。昭和の時代にはなかった価値観かも知れません。平成から色々な人がいることが知られ始め令和になった今年より、LGBTや様々な気質、病気等、議論されることも増えたと思います。

では多様性ってどんなものかわかりますか?

これは私の考え方ですが、多様性とは「多数決で決める場面での少数派意見」のようなものだと思っています。

日本人は「普通」や「流行」が大好きですよね。会話の中で「普通は」という言葉を使ったことがない人はいない気がします。また流行に乗ることがステータスであり、「かっこいいこと」という価値観を持っています。

実はこれ、あまり海外では見られない現象かもしれません。海外では「人と違うことをしたい」という意識の方が高いようなのです。私がアメリカでホームステイをしていたときに「日本の女の子はみんなピアノを習っているのはどうして?」と聞かれたことがありました。もちろん私は「みんながやってるから」と答えたのですが、ホストファミリーはとても驚いてこう言いました。「みんながやってるなら私は違うものを習いたいと思うわ!一緒は嫌だもの」今度は私が驚く番でした。

話がそれましたが、日本人の価値観として「一緒が安心する」という心理がありますよね。「みんなと違うことは怖いことである」とも言えます。これが実は多様性から一番遠い意識なのです。

「女の子」をイメージしたとき、どんなことを思い浮かべますか? 多くの方が「お花」「ピンク」「スカート」などのイメージを持ったのではないでしょうか。逆に「男の子」をイメージしたときが「ロボット」「青」「ズボン」などのイメージだったと思います。

では「ロボットが好きな女の子」のことはどう思いますか? または「ピンクが好きな男の子」のことは、どんな風に思うでしょうか? 「違和感」がありますか? 「普通と違う」と思いますか? 「おかしい」と思いますか?

「ロボットが好きな女の子」も「ピンクが好きな男の子」も、多様性のひとつです。つまり「少数派」の個性と言えます。多様性を受け入れるというのは、その個性を個性として認めることだと私は思います。女の子がロボットを好きでもいいし、男の子がピンクを好きでもいいのです。多数派と違うからと言って、否定されていい個性などありません。

例として好きなものの少数派を述べてしまいましたが、多様性とは人の思考の数だけ存在する輪郭がとても大きなものです。だから「ロボットが好きな女の子」に違和感を持つのも個性ですし、「ピンクが好きな男の子」を受け入れられないのも個性です。受け入れるのも受け入れられないのもそれぞれの考えあってのことです。嗜好も性別も宗教も全て、ひとりひとりが違って当たり前なのです。そこに正しさや間違いはありません。心は自由であるべきなのです。

どんな思考も自由だという前提ではありますが、「否定すること」だけは多様性の理解から遠ざかる感情になります。違和感や拒絶は多様性のひとつです。そういう思考があるのはいいと思います。しかし、誰かの思考の否定だけはしてはならないことだと私は思っています。

多数決をとるときにAという案に10票、Bという案に3票入ったとしましょう。B案に賛成した人は、おかしい人なのでしょうか? 普通と違いますか? 頭がおかしいですか? そんなことありませんよね。B案に投票した人はただB案がいいと思った人にすぎません。それ以上でもそれ以下でもないのです。

多様性を受け入れるとき「あなたはこう言うけど私はこう思う」が成立しなければならないと思っています。「私はこう思うのであなたは間違っている」という否定は多様性の拒絶です。先ほども言いましたが、人の考え方や意見は人の数だけあっていいものであり、どれも尊重されるべき意見なのです。

世の中にはあなたのことを否定するようなマイナス側の意見を持っている人も多くいるでしょう。決めつけや偏見でそういう意見が出ているかもしれません。でももしかしたらなにかつらい経験をして、そのマイナス意見に辿り着いてしまったのかもしれません。なにか正義感があって、そういう意見を持っているのかもしれません。あなたを否定するマイナス意見はただの意見に過ぎません。その言葉の真意や発言者の経験は見えないものです。だからその言葉は必ずしもあなたを攻撃するものとは限らないのです。

もちろん残念ながら言葉で人の心を傷付ける人も多くいます。特にインターネットという匿名のツールではたくさん見かけます。良くないことではありますが、ある意味それも多様性として受け入れてしまった方が楽なのです。嫌なことを言う人はそういう個性です。一定数そういう人がいるから、優しさや思いやりに溢れた方が有り難く思えるのです。また人生で関わりを持つべき人であるかどうかの取捨選択に役立ちます。

色々な人がいる世の中です。そんな当たり前なことを日本では長らく否定してきました。出る杭は打たれ、人と違うものを拒絶し、全員が同じ方向を向くよう教育されてきました。だけど、そろそろその考え方を捨てなければなりません。無理矢理同じ方向を向かされてきた方達の悲しみの連鎖を断ち切る時代が来たのだと思います。

どんな宗教も、どんな性別も、どんな趣味嗜好も、自由で平等な権利を持てたなら、それはどんなに素晴らしいことでしょうか。食べ物の好き嫌いを語るように誰かのマイノリティを普通のことだと受け入れる未来がいつか来ることを、私は期待しています。



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