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東京物語/TOKYO STORY

 二十歳くらいのころ、『映画が好きというより、映画が好きな自分が好き』というような時期があって、今となっては若気の至りというか、多少の恥ずかしさを伴って思い出されるのだけれど、とにかくそういう時期があって、そのときに主に観ていたのが、ジム・ジャームッシュやヴィクトル・エリセ、アキ・カウリスマキ、そしてヴィム・ヴェンダースで、特にヴェンダースは『パリ、テキサス』や『ベルリン、天使の詩』はもちろんのこと、『都会のアリス』や『ゴールキーパーの不安』、『さすらい』や『ニックス・ムービー』などなど、当時辛うじてまだレンタルショップにVHSが残っていた時代だったから、置いてある作品はとにかく観た。正直に言って、こういった作家性の高い映画というのはハリウッド映画のようなサービス精神は良くも悪くもないから、途中で寝てしまって、モノによっては何回かに分けてみることになるのだけれど、それでも寝てしまうことへの罪悪感というのはあまり感じず、むしろ『上映中に眠くならないからといって、良い映画だというわけではない』というような、映画観というか謎の開き直りまで持っていた。持っていた、と過去形にしてはみるものの、正直、今でもそう思っているかもしれない。

 ヴェンダースの作品を追っていくうちに辿り着いたのが、小津安二郎だ。ヴェンダース本人が小津からの影響を公言しているらしいことを当時、ネットで読んだ。この手の情報は比較的すぐにみつかる。ジョージ・ルーカスが黒澤明を敬愛しているように、ヴェンダースは小津安二郎をリスペクトしているのか、という風に自分の中で妙に納得がいって、『映画が好きというより、映画が好きな自分が好き』だった僕は、それならと小津作品に手を出してみた。ちょうどそのころ、小津作品のいくつかがDVD化され始めていて、それも手に取るきっかけになったと思う。いくつかあったDVDの中で一番初めに手に取ったのが『東京物語』で、理由はというと、これもネットで調べたときに、この作品が小津安二郎の代表作ということになっていたからだった、と思う。

 結論から言えば、実に良い映画だ。描かれている時代は古いものの、そういった表面的な部分ではない、人間や家族の本質的な部分を描いているから、作品の持つ魅力が色褪せない。実にありきたりな感想になってしまうけれど、それが事実だ。けれど当時、二十歳そこそこだった僕が、この映画の魅力をきちんと判っていたのかは怪しい。怪しいというか、判っていなかったと思う。ハッキリ言って、最初に観たときはちょっと退屈だった。DVDプレーヤーの時間表示を何度か見ながら、「あと〇分耐えれば終わるか……」みたいなことも思っていたはずだ。映画を観る態度としてはとても褒められたものではないけれど、なにせ『映画が好きというより、映画が好きな自分が好き』な人間だったのだ。これもひとつの訓練みたいなものとして、耐えることを自分に課していたように思う。でも確か、寝はしなかった。曲がりなりにも、ある程度の数の映画を観てきたおかげで、映画を能動的に読み解いていく力みたいなものは、少しはついていたのかもしれない。そんなものがあればの話だけれど。

 観終わってから、すぐさまネットで誰かのレビューを探して読んだ。判らなかったからだ。難解な映画なわけではない。けれど、全体を通してどうやって楽しむべき映画なのかが判らなかった。誰かが書いたレビューを読み、そこに書いてあるあらすじを読んで、少しは判った気になれた。要は子供が背伸びをして、大人向けの映画を観ているのと同じだ。判らないことだらけで、本来の十分の一も楽しめてなかっただろう。でも、それが無駄かといえば、そうではないと僕は思う。ほとんど判らなくたって、その作品の持つ魅力というものに惹かれることは、映画に限らずあるだろう。そういう力を持った作品だ。実際、何年かあとに改めて観たときは、本当に二回目なのだろうかと思うくらい面白かった。月並みな言葉で言えば感動した。だからきっと、最初はよく判らなくても、この映画を観たという体験自体は、無駄にはならないと思う。

 というのも、ここ最近、ちょっとした事情があってコインランドリーを使っているのだけれど、そこで中国人留学生の女の子がスマホでこの映画を観ていて、ふと、意味とか背景とか、そういった部分が、外国人の、しかも若い世代に判るのかな、なんてことを思ってしまった。まぁ、ハッキリ言って余計なお世話だし、すでに書いた通り、判らなかったからといって、無駄にはならない。そういう作品だ。ただ、『映画が好きというより、映画が好きな自分が好き』だった自分を思い出して、少しむず痒くなった。

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