その兎が来たのを最後に、空に鐘の音が鳴ったことはないようだ。鐘の音や乗車券のことについては、ザミルは何も知らないようだった。
　アサは町の人たちが身に着けていた毛皮について聞く。柔らかく繊細な毛の質感は兎の毛に見える。
「この町ではねェ、亡くなった兎の毛皮を子や孫が身に着けるんだよォ。そうやって守ってもらうんだねェ」
　兎が亡くなると、その毛皮の一部を切り取って、しばらく保管する。亡くなった兎が天国にたどり着いたのち、その毛皮を子孫が身に着けることで、天国に行った先祖に守ってもらうという意味合いがあるようだ。子どもがいないなどの理由で引き取り手のいない毛皮は、丘の上にある小さな城に保管されたままになっている。
「その毛皮ってもらうことってできるの？」
「できるよォ。城の倉庫から必要な分を使ってよきや」
　食事の後、アサとネズミは毛皮を見に城へ向かうことにした。家を出ると、一人の兎がゆっくりと坂道を登ってくる。薄い茶色の毛で耳の前に白い毛皮を乗せた兎だ。顔周りの毛が長く、両側で三つ編みにしている。女性だろうか？ 体調が悪そうだ。
アサは病院の戸を開けて兎を待ち、中に声をかける。タンがすぐに出てくる。
「マラさんじゃないですか。診察室にどうぞ」
マラという兎が診察室に入っていくのを見届けてから、アサとネズミは病院を出て城へ向かった。
　病院の横の坂道をさらに上がっていくと、屋根から花を吊るして干している家があった。乾燥しているが、花の紫色がはっきり残っている。雑草の生えた石段を抜け、両手を広げるよりも広い砂利道を折り返しながら登ると、石の城の入り口に着いた。入り口と言っても扉はない。
中に入ると部屋の隅に、石を積んでできた階段があるのが見えた。部屋の中にはほかに何もない。階段を登って二階に上がると、高い天井近くの窓から差し込む光が、積み上げられた毛皮を明るく光らせていた。
長く置いたままになっている割には、部屋にも埃が積もっていないし、毛皮もきれいだ。誰かが手入れをしているのだろう。
「上にも部屋があるみたいですね」
「上がってみようか」
三階には乾燥した草花が積み上げられていた。鼻を近づけるといい匂いがする。さらに階段を登ると、屋上に出る。緑の森と赤い屋根の町。町の全部がここから見えるようだ。
「ここからでも列車は見えないみたいだね」
木々に阻まれて、砂丘の上にあるはずの列車の姿は見えない。最初に列車に乗ってから、長い時間が経ったような気がする。
「楽しかったなぁ、楽しかったです」
「なぁに、それ」
「こうして、いろんな世界を見られたのが、すごく楽しかった。大変だったこともあるけど、どの町も、今思えばすごく美しかった。見たことがないものばかりでした。こんな旅ができてよかった」
「まだこれからも、いっぱい見られるんじゃない」
「前の町に戻れるかは分からないですから。そう思うと、今いるこの世界って、・・・奇跡みたいだ」
「戻ることだってできるよ、戻りたければきっと」
　アサは城壁に飛び乗り、へこみの上に座る。
「戻る方法も、先へ行く方法も、この世界から出る方法だって、全部必ずある。まだ見つけられてないだけ」
　アサは病院で聞いた内臓のない兎のことを思い出していた。その兎は、一緒にいた案内者と争い合ったのか。鐘が鳴ったということは、その後、一人で列車に乗って町を去ったのか。
アサがネズミを振り返ると、ネズミは風で飛びそうになる帽子を片手で押さえながら、遠くを見ていた。アサの視線に気づいて、そろそろ行きますか？と声をかけてくる。
「少し毛皮を持って帰りたいんだけど、いいかな」
「はい。何かに使うんですか」
「うん、ちょっと考えてることがあってね」
　アサは二階に戻り、白い毛皮のなるべく綺麗なものを丹念に選んで、丸めてバックパックにしまう。それから二人は来た道を戻って病院に帰った。　
　病院に戻ると、出る時にすれ違った兎、マラが入院していた。子宮に膿がたまっており、緊急手術が必要なようだ。点滴されたマラは、手術台の上に横になっている。
「ラミさんちのおばーちゃんがまた腰をやっちゃったみたいでねェ、ちょっと診に行ってすぐ戻るから、支度をしておいてくれ」
　ザミルは見習いのタンに声をかけ、黒いカバンを持って家を出ていく。アサとネズミも手術の準備を手伝うことにした。タンが手術器具を用意している間、アサは剃刀で兎の腹部の毛を剃る。
　あとは麻酔をかけて消毒するだけとなったところで、玄関の戸が開く音がした。ザミルがタンを大声で呼ぶ声がする。タンが急いで玄関まで出て行くと、頭と左腕が血まみれになったザミルの姿があった。
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小説投稿サイト「エブリスタ」で連載中の「夜の案内者」の転載投稿です。
物語のつづきはエブリスタで先に見られます。

▼夜の案内者（エブリスタ）
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