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「わたしがガマンをすれば」誰かを幸せにする方法が変わった時代を生きる

今は、戦争中ではないから、
自分の幸せのために、他人の幸せのために、
誰も、他人の犠牲が不要になりました。


もちろん、社会の中を生きる上で、
守るべきマナーはあるけれど、

「犠牲」が「幸せ」を生むことはなくて、
 
「犠牲」は「犠牲」で
「幸せ」は「幸せ」だから

「わたしのガマンが足りない」と
ガマンを足しても、

「幸せ」は生まれないし、

「ガマン」を足して、

「波風」はおさまるかもしれないけれど
「笑顔」が増えているかどうかは、
わからない。

「犠牲」や「我慢」で
「幸せ」は生まれていた時代が終わったこと、

「幸せ」のために
「犠牲」や「我慢」が要らなくなったことを

しっかりと腑に落として、
人生を切り替えていきたいと思いませんか?


わたしの父親は、

実家の家族のために生きて、
妻や子供たちのために生きて、

59歳で亡くなりました。

真面目に会社員として働き、

田舎の本家の長男、
地元の名士の名に恥じぬよう
子どもの頃から期待に応えて生きて、

「もっと休めばよかった」
「これで俺の人生よかったのか、、」と葛藤し

「思いっきり生きることができた」
「60年、長くもなく短くもなくちょうどよかった」と

突然の余命宣告にも動じることなく、
すべてを引き受けて、
弱音を一切吐かず、亡くなりました。

生き方としても、死に様にしても
「立派」で、「格好よく」て
「いい」とされている姿勢だと思いますが、

わたしは、父の「骨」をみて、
父のような生き方は間違っているんだと思ったのです。

まだまだ身体を支えて
どこまででも走っていけそうな
躍動感あるきれいな骨で

「こんなにまだまだ生きている骨を残して
死ぬような生き方は、間違っている」と

父を追いかけていたわたしは、
方向転換を決めました。

自分が犠牲になったり、
人に合わせて自分を抑えることが

なにより大事だと思っていましたが、
ちがっていました。


わたしが犠牲になることを、
大切な誰かが喜んでいると
思っていたけれど、

ちがっていたんです。

自己犠牲は美談になりがちだし、
人に認められることも
とても多いけれど、

今は、幸せになるために、犠牲は不要。

自分がまず笑顔になること。
自分がまず幸せになること。

自分を幸せにする責任を果たすことが
必要な時代に変わったのだということを

自分が、自分に伝えて、
自分から変わっていくことでしか
子どもたちのしあわせに寄与できないことを感じます。

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