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押谷仁氏と8割おじさんの2週間前のコメントが重要な件

▼正確には報道されたのが2週間前で、コメントしたのはそれ以前。

2020年5月10日のNHKスペシャル「新型コロナウイルス 出口戦略は」から。

▼まず、押谷仁氏のコメントから。

「これから経済的な活動を戻していくにあたってもですね、たとえば飲食店にこれだけ守っていればいいっていうようなガイドラインは存在しません。

基本的な考え方は示す必要がありますけれども、それぞれの飲食店でどうしたら最大限感染が防げるのかということを一つ一つの店で、一人一人が考えていかなきゃいけない。」(何かのオンライン会議でのコメント)

▼これさえしておけばいい、また、これさえしなければいい、という思考停止が最大の敵だ、ということだろう。

お店は千差万別だから、対応も千差万別になる。これから、客とのトラブルのなかには、明らかに客の側が無理筋(むりすじ)な要求を通そうとするものが増えるだろうが、飲食店の人たちは負けずにめげずにしのいでほしい。

「社会経済の影響を最小限にしながら、ウイルスの拡散を最大限制御していくための解除の方法っていうのは、流行が拡散していくのを抑え込むよりもはるかに難しい判断を迫られる。」(屋外でのNHKの取材に対して)

▼このコメントがとても大事だと思う。流行の拡散を抑え込むのが、とても難しいということは、誰もが痛感している。しかし、その何倍も、これからの生活が難しい、ということだ。これを明言する人は、結構少ない。

押谷氏は、これまで感染症との戦いの修羅場を複数経験して、「流行を抑えた後の難しさ」を、日本語を話す人のなかで、おそらく誰よりも知っているだろう。多くの痛みとともに。

「部分解除しても、ある程度(感染は)起こります。ゼロリスクはないウイルスなので、じゃあそれをどうやって判断するのか、誰が判断するのか。」(同じくNHKの取材に対して)

▼これも、とても大切なコメントだ。押谷氏が、新型コロナは「ゼロリスクはないウイルス」であると明言しているのだ。

これは、何度も繰り返す必要がある。

ゼロリスクは、ありえないのだ。

▼この数カ月で、物事を「ゼロか、1か」「ゼロか、100か」「白か黒か」で決めつける人が急増している。「自粛警察」という、いかにも日本的な醜(みにく)い新語が生まれたが、これも、もとをただせば、「ゼロリスク以外、絶対に認めない」という、浮世離(うきよばな)れした、奇怪な思考が関係しているだろう。

この「ゼロリスクしか認めない」思考は、ずっと日本にはびこっている。ときに「優生思想」と絡(から)みつき、ときに「自己責任論」と絡みつき、エトセトラ、人間を不幸にするものの考え方だ。

▼誰よりもお気の毒なのは、ゼロリスク以外、絶対に認めない人、認められない人たち本人だ。対話も不可能になるし、意思の疎通すら難しくなる。見た目は何の違和感もなくても、中身がそうなってしまっている人も多い。最近は、さらに無責任な「自己責任論」を振りかざしたり、振りかざした本人が「自己責任論」に振り回されたりして、収拾のつかないことになる。

▼しかも、一度「ゼロリスク至上主義」でアタマとココロが固まってしまったら、残念ながら、他人がほぐすのにはとても骨が折れる。最近は、フィルターバブルがますます強くなっているから、なかには、これから死ぬまでゼロリスク至上主義に凝り固まったまま生きていく人も、不幸だが、一定程度いるだろう。

▼2020年の冬に起こる可能性のある「悪いパターン」は、毎年のインフルエンザとともに、変異した新型コロナが同時流行して、大都市のみならず、複数の地方都市が医療崩壊する、というものだろう。

そこにもし大地震が重なれば、パンデミックと、インフォデミックが、誰も経験したことのない規模で起こり、体のウイルス(新型コロナや他の感染症)、心のウイルス(不安、恐怖、差別)、インターネットのウイルス(『いいね!戦争』を参照)という3種類のウイルスに攻撃され、「新しい生活様式」とか「ニュー・ノーマル」とか、吹き飛んでしまう。

新型コロナのウイルスでさえ、まだまだできあがらないのに。

こうした「冬のリスク」は、言うまでもないことだが、ゼロではない。それこそ、絶対にゼロにはならない。

この、わずかでもリスクがある、リスクはゼロではないという現実ーー生活って、本来そういうものだろう、と思うのだがーーを絶対に受け入れられない人が、どうすればそのアタマとココロをほぐすことができるのか、筆者も考え中である。

▼もう一人、8割おじさんこと、西浦博氏のコメントも、急ぎ足で紹介しておく。

「一人一人、工夫を積み重ねて提案をしてデザインされていく状況が、この一年間ですね、しばらくこの感染症とつきあわないといけないので、そういう工夫の積み重ねっていうのをみなさんとやっていければなとは思ってはいます。」

▼ウイルスとつきあう、という観点が重要だ。絶滅させることはできない。共生する対象なのだ。この考えも、ゼロリスク絶対主義者は拒否するだろう。

▼工夫の積み重ねを、みなさんとやっていく。この協力にも、「リスクはゼロでないと許さない」人たちは、参加できない。場合によっては、その人の存在が、社会にとってリスクになってしまう。「リスクはゼロでなければ絶対に許さない」人が、しばしば差別の温床になり、いじめの温床になるからだ。現に今、局所的に、そういう状況になっている。悩ましい問題だ。

▼学校教育について

「教育がない状態が続いてしまうっていうものと、低いながらも感染して、一定のレベルで重症化してしまう子もちゃんといるというところのリスクっていうのを天秤にかけたうえで、再開っていうのを判断してもらわないといけないんですけど、まずは私たち疫学のデータを扱っている者にできることは、そういう点のベースになるエビデンスをためるっていうところまでだとは思っています。」

▼二人のコメントはどれもおっしゃるとおりで、筆者は、上記のコメントのすべてに、コロナの患者の差別は許さない、医療従事者の差別は許さない、これ以上社会の分断を広げてはいけない、という思いがにじんでいるように感じた。

緊急事態宣言が解除された「後」のほうが、これまでよりも、はるかに難しい局面に入る、ということを、緊急事態宣言が解除される前夜に、メモしておく次第。

(2020年5月24日)

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