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なぜ茶の湯では湯気が美しく見えるのか?

茶道の教室への違和感

私は、これまでの人生の中で幾たびか、茶の湯を習おうとしたことがある。12年前から3年間、北鎌倉に住んだが、家の近くにはいくつか師範の看板が掲げられていて、一つ二つ門を叩いたこともあったのだが、稽古を見学させてもらうにつけ、何とも言いようのない違和感を覚えなじめず、二度と敷居を跨ぐことがなかった。

北鎌倉から京都に移り住んだあとも、茶の湯への興味は引き続いていて、いやさらに強くなっていて、吉田山やら大徳寺やらのある稽古場に顔を出してみたが、やはり北鎌倉で覚えたのと同種の違和感に襲われ、またもや二度と敷居を跨ぐことがなかった。

その「違和感」とはいったいかなる「感」だったのか。稽古場によって微妙に違ってはいたが、共通するところは、あまりに形式主義的な堅苦しさ、洗練されすぎたスノビズム、そして何よりも様式美化された権力関係。その非常に高度に、しかも歴史的に濃密に構造化された美的ディシプリンに、私の心も体もなじむことに抗ったのだった。

だから、以来、京都でも、茶の湯の世界に入ることを諦めかけていた。

ところが、である。

陶々舎

私は、京都市主催のある文化プログラムのために、友人・知人たちと、今京都で一際クリエィティヴな動きをみせている、各界のキーパースンたちにインタビューする機会をえた。その中に、「陶々舎」という3人組の茶の湯ユニットがいた。チリ人でハワイで茶の湯に目覚めたガイセ・キキ、サラリーマンをしながら独自のわび茶を追究する中山福太朗、そして18歳まで外国を転々とし、京都でデンマーク人から茶の湯の手解きをうけた天江大陸。その出自、経歴がいたってハイブリッドな3人が、大徳寺境内の一遇に家を借り、共同生活しながら、現代の世に茶の湯の魅力と創造力を蘇らせる、京都でも最先端の耳目を集める活動を繰り広げていた。

たとえば、京都駅八条口前に構える巨大なイオンモールにある、これまた広大な無印良品の店舗で販売されている、すなわち現代人が日常生活で用いている日常の道具を使いつつ、茶を点てる連続ワークショップ。あるいは、自転車に茶道具一式を搭載し、鴨川べりで野点をし、通りすがりの人たちに茶を供する「鴨茶」など。

私は、いつしか、3人のうちの1人、天江大陸に、夫婦で毎週稽古をしてもらうことになった。そこには、私がそれまで覚えていた「違和感」は微塵もなく、むしろ、私の茶の湯への興味を、実践的にも知識的にも深めるだけでなく、この、21世紀の世で、単なるアートや芸能を超えた、新たな創造行為への予感を、ともにまさぐる、そんな類稀な巡りあいとなった。

「超―偶然」としての「美」

稽古に臨みつつ、毎度、気づき、発見があったが、中でも、「美」に関して、これまでの人生で味わったことのない、些細だが心の冴える経験を度々した。釜の蓋の隙間から立ちのぼる湯気が、その下で爆ぜる炭のパチパチいう音が、畳に差し込む陽射しの戯れが、室をそよぐそよ風の感触が、庭の木々の梢に宿る小鳥たちのさえずりが、すべて日常生活にそのまま存在するにもかかわらず、そして「日常」ではとりたてて「美しい」などと意識することもないにもかかわらず、ここ、茶室においては、なぜか「美しい」と感じてしまうのだ。

なぜなのか。私はちょうどその頃連載していた文章を模索しながら、その「美しさ」の依ってきたるところを考え尽くした。『「いき」の構造』で有名な哲学者九鬼周造の浩瀚かつ晦渋な『偶然性の問題』などを紐解きつつ、考え透した。

(仮の)結論。――茶の湯を含め、日本のあらゆる藝道では、「型」の習熟に何よりも注力する。「型」とは何か。歩く、座る、飲む、食べる、道具を使うといった、日常の動作、すなわち、人間(ないし日本人)が、「人間」(「日本人」)として生き、生活していく上で必須の、必然化された動作を、ある規矩に従い反復習練していくことにより、超−必然化していく、そうした「型」=超−必然化が張り巡らされた時空間の只中に、「自然」――湯気や炭の爆ぜる音や陽射しやそよ風や鳥のさえずりが起こる。「自然」とは、物理現象としては物理法則により「必然」的に起こる現象だが、それを人間の視点から見ると「偶々」そのように起こったように見える、いわば「必偶然」ともいえる営みだ。その「必偶然=自然」が、「超−必然化=型」の真っ只中で生じる時、その「偶然性」が人間にとって際立ち、「超−偶然」として現出することになる…。

茶の湯には、そうした「日常」を「非日常」ないし「超日常」化する、すなわち臨むマインドセットを瞬時に切り替える仕掛けが、あちこちに、しかも五感をなべて仕組まれている。その歳月を重ねて練られた仕掛け=仕組みを体得することこそ、茶の湯の醍醐味の一つでもあろう。

今回は、いささか哲学的に凝った文章となってしまった。ご海容願いたい。

これにて、私の「食」をめぐる徒然なる書きものを、とりあえずは終えることとしたい。

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