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二つのヨーロッパ:なぜプロテスタントの国の料理はのけぞるほど不味いのか

『バベットの晩餐会』というデンマーク映画がある。1987年度のアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞した作品なので、観た方もいるだろう。

大まかのストーリはこうだ(だいぶ前に観たので記憶が定かでないため、もしディテールを間違えていたら、お許し願いたい)。時は、19世紀。デンマークの貧しい漁村に二人姉妹が住んでいる。父親が牧師だったこともあり、清貧な信仰に基づく生活を送っている。食事も古パンをビールで煮込んだものなど、質素極まりない。その村に、ある日一人のフランス人女性が船で流れ着く。彼女は身元を明かさぬまま(実は、パリ・コミューンから命からがら逃げてきたのだ)、姉妹の家の家政婦として働く。

ある日、姉妹は、亡くなった父親の生誕100年を祝う晩餐会を開き、村人を招くことを思い立つ。バベットは、二人に、自分に晩餐会の料理を任せてほしいと告げる。バベットは実は「カフェ・アングレ」というパリの名レストランのシェフだったのだ。ウミガメや鶉といった食材が運び込まれ、ふだん質素な食生活を送っている姉妹は衝撃を受け、晩餐会では料理を味わわないように誓い合う。
 
そして、晩餐会当日。招待客たちは、得体の知れない料理を口に入れながら、憮然とした表情を崩さない。憤るものさえいる。が、食事が進むにつれ、一人また一人と、顔の表情が緩みはじめ、やがては今までの人生で味わったことのない「美味しさ」に目を見張る。

おそらく、ヨーロッパ、しかも南北ヨーロッパのいくつかの国の食生活と宗教事情を経験した人でなければ、この映画の本当の面白さ、含意が理解できないだろう。この映画の背景の肝は、プロテスタント(デンマーク)とカトリック(フランス)の、食に対する宗教的構えの大きな違いにある。プロテスタントは、あらゆる肉体的快楽への耽溺は神への信仰に背く罪となるがゆえに、美味しい食事に舌鼓を打ったり、性的欲望に溺れたりすることはご法度となる。ゆえに、上記の姉妹や村人のような清貧な暮らしを送ることが何よりも信仰心の証となる。他方、カトリックにおいても、教義的には同様なのだが、プロテスタントとの違いは、カトリックの場合、たとえこの種の罪を犯したとしても、教会に行き神父に懺悔し許されれば、罪がご破産になる。だから、いくら美味しいものを食べようが、浮気をしようが、その度に教会で懺悔すれば罪がリセットされるので、結果的に快楽への耽溺を繰り返すことになる。

この二つの対照的な宗教的構えを食に対して何百年も繰り返してきたため、プロテスタントの国では、料理が極端に不味くなり、カトリックの国では「美食(グルマンディーズ)」が追求されるようになったのだろう。(もちろん、プロテスタントがマジョリティの国にもカトリックや他の宗教を信仰する者がいるし、カトリックがマジョリティの国も同様だが、ここではあえて事を図式化して語っていることを許されたい。)

私は、デンマークにこそ行ったことがないが、やはりプロテスタントである隣国のオランダには行ったことがある。10数年前、1年間パリに住んでいた折、元教え子がアムステルダムの現代音楽研究所で勤めていたので、彼を訪ねに行った。初めてのオランダだが、彼からも食事には期待しない方がいいと言われていたので、それもそのはずだと思いながらも、植民地時代の名残であるインドネシア料理店が何軒かあるので、興味本位でそのうちガイドブックで一番評判がよかった店に行ってみた。

何を注文したかもはや覚えていないが、「東南アジア」ぽい装いの料理が目の前に運ばれてきて、いざ箸で摘んで口に入れた瞬間、あまりの不味さに思わずのけぞってしまった。恐々と、でもせっかくだからと、さらに1、2口箸で口に運んだが、それが限界だった。それほどまでに、不味さが極まっていたのだ。しかも、驚くべきことに、周りの、おそらくは地元の客たちはそれを平然と苦もなく食べつづけている!

これほどまでに不味いのは、単に調理法の問題だけでなく、食材そのものにも問題があるのかどうか。それを知りたく、ちょうど、元学生が宿を準備してくれたお礼も兼ねて、彼のパートナーや友人たちに、握り寿司を振る舞うことになっていたので、恐る恐るアムステルダムのかなり大規模な朝市に買い出しに行ってみた。パリのそれにも劣らないほど「新鮮そうに」見える肉や野菜、魚介類が並んでいる。だが、味はいかん。
 彼の家に戻り、買ってきたサーモンやホタテなどをキッチンで恐る恐る捌きはじめる。見た目、触った感じも、鮮度には問題ないようだ。問題は味だ。今でもよく覚えているが、その大振りのホタテは、申し分のない旨みを備えていた。他の魚も遜色なかった。こうして、無事、寿司ディナーは終了した。

おそらく、これほどの鮮度と味わいのある魚介類が売られているなら、肉や野菜なども食材としては問題ないのだろう。ということは、それを料理する調理法と、それを味わう舌にこそ、問題があり、それを歴史的に作り出したものこそ、先の宗教的構えだったのではないか、という結論に至った。

こうして21世紀の現在でも、(少なくとも食に関しては)質素で清貧な生活を送っているであろうオランダ人だが、短い滞在中にたまたま「女王の日」という特別な祝日に出くわした。その日だけは、オランダ中がオレンジに染まり、一晩中、それこそ飲めや歌えやの、危険なほどの大騒ぎが繰り広げられるという。特に凄まじいのは、ゴミの量とその有様だ。この日だけは、ふだん質素でエコロジカルな彼らも、街路にゴミの捨て放題。しかも、ビール瓶などを叩きつけ放題で、国中の街路はガラスの破片とゴミだらけ。それを早朝、清掃車がものの見事に片付けてまわるという。私も早朝その様を目撃して、驚愕した。

かつて、精神分析家のフロイトは、生の欲動(エロス)と死の欲動(タナトス)との格闘として人類の歴史を描いたが、ふだん強固に抑圧されているエロスが噴出する瞬間、それはタナトスの強烈な破壊力へと焼尽するのかもしれない。ポトラッチのように。

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