物化する人類と依代に憑く幽霊

『エチカ』は小さな世界である。
モナドより、分子より小さい。

唯物論は猥褻である。
欲動が、「物」に固着するのが物神崇拝なら固着の対象は観念でも物質でも世界でも森羅万象を対象にすることができる。

物化することは所有の前段階である。
対象を所有したいなら物化の契機が必要になる。
所有可能な形態に鋳造してから所有可能なるのだ。
森羅万象を物化することで所有が可能になる。

所有は排他的で占有を含むが近代法の版図が世界的な規模に至るまでは所有権ではなく、暴力的所有に留ままっている。
私的所有は格差を生むことからいつの時代にも楽園を妨げる要因として排除するように要請されてきた。
それは共産主義まで連綿と続くユートピアを夢想として退ける躓きの石となっていた。
まるで私的所有が「本能」ではないかと思わされてきた。
しかし私的所有は「本能」よりも強固に人類の宿痾として寄生している。私的所有を人類から引き剥がすと人類は人類ではなくなるような不可分一体としてあり続けているのか。
「本能」ではないのに切り離せないのは暴力の優位性を抑圧してきたことにある。

私的所有が無くならいのは「物化」の領域が人間がひとりでは生きていくことが不可能であることの条件と同値だからである。


ここで『エチカ』を導入すると交換過程でも生産過程でもない異相な概念が浮上する。
「幽霊」である。
「幽霊」は交換の前に贈与があるとか交換の失敗が贈与であるとか、現在から遡行することで見出だせる概念ではない。
まして、観念でも妖怪や心霊の類でもない。
「幽霊」は暴力の回帰のことである。

人知を超えた畏怖の対象となる暴力ではない。
「神的暴力」でもない。

しかし抑圧の回帰としてか現れない模倣としての暴力である。
回帰を如何に着地させるかは「幽霊」の依り代が必須である。
依り代とは何かは今後の展開で論じる予定ではある。