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「コットンフラワー」を買った2つのわけ

 こんにちは、レース編みをしている owarimao です。
 近所のお花屋さんで「コットンフラワー(綿花)」を買ってしまいました。ちょっと前から目をつけていたのですが、1回目は思いとどまり、2回目でようやく買いました。
 いけばなの素材として売られているようです。写真のような白い綿のほか、明るい茶色の綿がついた種類もありました。
 「枯れた木の枝に500円も払う」という異例の行動に出てしまった理由は2つほどあります。
 1つは、自分の作品を撮影するとき飾りに使おうと思ったから。海外の人気デザイナーが、ドイリーの写真の小道具として綿花を使っている例があるんです。すてきなので真似したくなりました。
 そもそもドライフラワーってレースと相性がいいみたいで、スタイリングに使われているのをときどき見かけます。
 もう1つの理由は、自分が note で書いた記事です。「戦争中は木綿がひどく不足し、靴下さえ手に入らなくなった。ましてレース編みなどする雰囲気ではなかった」ということを書いていたら、急に綿花というものを触ってみたくなったんです。なにしろ自分が作っているものの「原材料」ですし。

 白いコットンフラワーは本当に白くてフワフワで、加工してない自然の物だということが信じられないくらいです。

 木綿が我々の生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前のいわゆるメリンスなどよりも、はるかに偉大なものであったことはよく想像することができる。

柳田國男『木綿以前の事』大正13年

 木綿は歴史の初めから日本にあったわけではなく、栽培が広まったのは江戸時代になってからだそうです。それ以前は、庶民はおもに麻を着ていました。養蚕は弥生時代からやっていたけど、絹を着られる人はもちろん限られています。日本には羊もいませんでした。ウールもコットンもない生活なんて考えられない……。冬はとても寒かったでしょうね。

 作業はかえって麻よりもはるかに簡単で、わずかの変更をもってこれを家々の手機(てばた)で織り出すことができた。そのために政府が欲すると否とに頓着なく、伊勢でも大和・河内でも、瀬戸内海の沿岸でも、広々とした平地が棉田になり、棉の実の桃が吹く頃には、急に月夜が美しくなったような気がした。

柳田國男『木綿以前の事』

 昔は日本のあちこちに綿畑があったのだと思います。でも時代が下ると、安い外国産の綿を輸入して日本で加工し輸出するという構造になったので、日本の綿花栽培は衰退しました。それで戦争中は大弱りする羽目になったわけです。
 綿はわりと育てやすい植物らしく、ネットを見ていたら、自分で栽培している人がかなりいるので驚きました。プランターでもできるそうです。自分で綿を育てて、紡いで、服をつくっている人までいるんです。
 すごい! すごい!
 綿100%のレース糸を当然のように編んできたけど、それがどこでどう作られているかなんて、あまり意識しませんでした。
 コットンフラワーよありがとう。
 


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