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胸毛の噂

 小学生だった頃、仲がよかった少年がいたんです。ここでは仮に藤本君としておきますけれども、彼は小学生にしては毛深かったんです。もう声変わりしないうちから結構なすね毛で、見た目はお父さんの足になっておりました。

 そのせいだと申しますか、それ以外に理由が思い浮かばないんですけれども、一時期、藤本君に関する妙な噂が流れました。藤本君のお母様には胸毛が生えているというのです。噂の出所が藤本家でなければ「一体誰がどうやって確認したのか」という重大な疑問が湧いてくるわけですが、とにかくそんな噂がありました。

 藤本君の家へ遊びに行ったことのある私は当然ながら、藤本君のお母様がどんな方か見ています。もう普通のお母様と言った感じで、別に桁外れなすね毛が生えているわけではない。ですから、いまいち信じられなかったんです。

 そんなある日も私は近所の子たちと藤本君の家へ遊びに行き、そばの小川でザリガニ採りをしておりました。最初はゴム草履をはいていたんですが、これが水の流れがある場所だと歩きづらいんです。だから、私たちは次々にゴム草履を脱ぎまして、裸足で小川を歩き回っておりました。そんなことをしていたからだと思うんですが、やがて藤本君が「いてえ」と言いながら陸に上がりました。最初はみんな特に気にしていなかったんですが、藤本君がうずくまったまま動かないので、心配して集まってきました。

 藤本君が動かない理由はすぐ分かりました。右足の裏、ちょうど親指の付け根辺りに、シャーペンの芯くらいの太さの針が刺さっていたんです。長さは2センチくらいでしょうか。藤本君は痛みで顔を歪めています。

 あまりの出来事に私も藤本君も他のみんなもどうすればいいのか分からず、じっと足に突き刺さった針を眺めるだけでしたが、ひとりの子が機転を利かせて藤本君のお母様を呼びに行きました。ナイス判断だと思ったんですが、連れてこられたお母様はもう一目で機嫌が悪いと分かる表情でした。思わぬ呼び出しに予定を狂わされて腹が立っていたんでしょうか。眉間にグッと深いしわを寄せ、のっしのっしと歩くお母様の両手は完璧な握り拳です。うっかり正面に立ちはだかったら鉄拳が飛んできそうな迫力でございました。

 お母様は針に苦しむ藤本君を見下ろして言いました。

「これぐらいで何を騒いでんだ!」

 そして、何のためらいもなく刺さった針を掴むと、すぐさまグッと引っ張りました。藤本君が痛みに悲鳴を上げますが、お母様ははそれをかき消す大きさで「痛くない!」と言い放ち、そのままのっしのっしと家へ戻っていきました。その後姿を見送りながら私は思ったんです。「こりゃ胸毛が生えるわけだわ」と。

 その確信があまりにも強かったのか、その日、家に帰ると即座に母へ言いました。「藤本君のお母さんは胸毛が生えてるんだって」。息子のアホ発言に母は失笑しました。「そんなわけない。あそこはお父さんが毛深いんだよ」。どうも藤本君の毛深さはお父様譲りのようです。

 でも、私の母も藤本君のお母様の胸部を確認して言ったわけではありません。ですから、あれから何十年も経った今でも私は、藤本君のお母様にはワンチャン胸毛が生えているんじゃないかと思ってしまうわけです。

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