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労働安全衛生ギャグ

 衛生管理者という資格があります。労働環境を清潔に保ち、病気の予防をするように管理する人が持つとされる国家資格で、大きな事業所ではこの資格を持った人が必ずいなければならない決まりがあります。第一種衛生管理者の合格率はおおよそ40~50%くらいで推移していて、国家資格の中では高いほうだそうです。

 上司にもその資格を持ってる人がいるんですが、その人がなぜか資格をおもちゃにしたくなる性格なんです。せっかく取った衛生管理者の知識を駆使して、衛生管理ギャグを私に披露してくるんです。

 例えば、労働安全衛生の基準を定めた「労働安全衛生規則」というものがありまして、安全や衛生に関する決まりごとがいろいろ載ってるんですが、便房の数まできちんと決まっていると何度も何度も嬉しそうに言ってくるんです。便房とは壁で仕切られた個室トイレですね。現代の日常生活ではまず使われない単語のはずなんですが、私、上司から200回は聞いています。

 そりゃあ、トイレは衛生と切っても切れないテーマではありますから、当然ながら規定を作っておくべきでしょう。従業員数に対してトイレが少ない事業所はいろいろとダメな影響が出てくる。だからと言って、取引先に行くたびに小声で「ここの事業者は〇〇人だ。よし、ちゃんと守ってるか便房の数をチェックしてみるか」などと特殊な変質者みたいな提案をして、私を担当者の前で笑わせようとしてくるんです。何ならマジでトイレを借りて「便房の数をチェックしてきたぞ」とか誰にも求められていない報告をしてくるんです。

 もちろん、上司は私以外にもそんな調子のようですし、昔から全然変わっていないようです。大きな規模の事業所では衛生管理者などが衛生委員会を設置し、衛生に関することを会議で話し合わなければいけないという決まりがあります。若かりし日の上司、ちょうど異動したばかりでしたが、衛生管理者であることを理由に早くも衛生委員会の会議に参加したそうです。そこで若き日の上司は開口一番、こう言ったそうです。

「この事業所には痰壺がないですね」

 どうも前出の労働安全衛生規則で痰壺を設置しなければならないという条文があったにも関わらず、新たな職場には痰壺がなかった。こりゃ使えると思った上司は、新しい職場で出合い頭に一発かましたそうです。会議の参加者はみんな最初こそポカンとしていたものの、そのあと笑ってくれたそうです。結局、痰壺は置かれなかったそうです。「そんなもん置いたらむしろ不潔になるだろ」との結論に達したからです。ただ、その時の経験がよほど嬉しかったのか、上司は痰壺の話も私に何度もしてきました。

 あまりに便房痰壺便房痰壺うるさいので、本当にそんな条文があるのか労働安全衛生規則を調べたことがあります。すると、第628条に便房の規定が書かれていたのですが、痰壺の規定は発見できませんでした。

更に詳しく調べますと、平成9年に公布された改正で第621条の痰壺規定が削除されたという記述を見つけました。

 労働安全衛生規則は法令番号から見るに昭和47年に公布されたもののようですので、作られた当初は現在とは異なる衛生観念だったでしょう。痰壺がないとみんなそこらでペッペと吐きまくって不潔でしょうがない、みたいな時代だったのかもしれません。それが平成にもなると事業所内でマーキングのように痰を吐く人がいなくなった。痰壺はお役御免となり、条文が削除されたということでしょう。

 上司が痰壺で会議を盛り上げた時期がいつだったかは定かではありませんが、少なくとも上司が衛生管理者の資格を取った時は痰壺条文こと第621条は残っていたようです。「俺は最後の痰壺世代だったのかもしれないな」などとよく分からないことを口走りながら上司は遠い目をしておりました。

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