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日常に潜む小さな意味ー長嶋有『夕子ちゃんの近道』を読んで【読書】



不思議なユートピア

男性が書いた作品か、女性が書いた作品か分からない作品がある。

ブックオフで、タイトル買いをしていると、作者のプロフィールも知らなければ、どんな文学賞を受賞しているかも分からずに、まっさらな状態で、物語に入ってゆくことになる。

『夕子ちゃんの近道』は、特に変わったタイトルでもない。表紙も、特徴的な部分が皆無で、「別に無理して読まなくても……」という声が聞こえそうな出会いだった。

いつだって読んだことのない作家さん、初めて読む作品との出会いはわくわくするものだ。

結果から言うと。

「わくわく」と「どきどき」は完璧に裏切られてしまった。なのに、「読み終わったいま」でも「確かに心のどこかに物語がひっかかっている」。

理由は、見たことのない(斬新な)物語だったから。


どこかのだれかの物語


衝撃的な事実がある。

本作は、最後まで読んでも主人公の名前が分からい。

きみとか、ねぇ、とか。誰も主人公の名前を呼ばないのだ、主人公自身は「僕」で終始通している。

だからかわからないけれど、不思議と、文章に馴染みやすい。

現実に、親しい間柄で、しょっちゅう名前を呼び合ったりはしないなぁと、妙に納得させられるのである。

だから、これは現実にいる、どこかのだれかの物語だと思う。

やりすごしながら生きている

フラココ屋の二階にきて一週間になる。
瑞枝さんはここを「若くて貧乏なものの止まり木」ともいった。瑞枝さんをふくめた四代目までの住人はそうだったのかもしれない。
だが僕は若者というほど若くもないし、実は貧乏でもない。貯金もまだ十分ある。働くのが嫌になってしまっただけだ。たとえば広くて暮らしやすい新居を探すことや、部屋を温めるものを買いに行くことすら。
布団に地雷のように埋め込んだアンかに囲まれて、底冷えをやりすごしながら生きている。

30過ぎの「僕」は、休職して、西洋アンティークを取り扱う、古道具屋の「フラココ屋」に住み込んで働いています。

水道が壊れていて、商品に囲まれて、寝るだけのスペースが残された、フラココ屋の二階で、のんびりと暮らしている。

人生のくぼみみたいな場所で、モラトリウムを過ごしている。

さして、現実に不満があるわけでもなく、あくせくと生きているのではなく、のんびりのんびり過ごしている青年、「僕」。

主人公はどこにでもいそう?な青年なので、なんだか、ほっとした気持ちで読み進めることができます。

まるで、だれかの日常を覗き込んでいるような感覚です。

ここでの人間関係は、利害関係が一ミリもなく、よって、主人公が持つ、ゆったりとした気質の人間が「僕」の周りを行ったり来たりします。

「瑞枝さんの原付」~「もう」から「まだ」~

自分は二十になっても三十になっても「もう」という感慨を抱いたことがない。「もう」と思わないのは何かの感覚が未発達か、とにかく人生において誰もが知覚できるなにかを自分だけ感じることができない、置いてけぼりにされたようながするのだ。             P、34

「もう子供じゃないんだから」「もう若くないから」。世の中には(日本人特有なのかもしれないが)「もう」がはびこっている。

続く言葉は「年甲斐もなく」などなど。

でも、本当は「もう」って基準がよくわからない人ってたくさんいるんじゃないかと思います。それに伴って、置いてけぼりにされていると感じる人も。

「僕」の前に現れる、瑞枝さんは35歳のイラストレーターで、夫とは長い別居中。原付の免許を取るために、勉強しているけど、試験なんて、学生時代を最後に受けていない。子供が欲しいけど、そうは言ってられない状況。けど、時間もあまりない。

二つの「もう」の板挟みになっているような状況。

瑞枝さんはまだ三十五歳だった。(中略)「最近はなんか面倒で、もう四十って思うことにしてんの」

鮮やかなシュートが決まったような一文。

もう「面倒」だ。そんなことに構ってなんかいられない。

瑞枝さんは、そんな吹っ切れた人間の群像として書かれているような気がして、一つの解決策を提示されたようにも感じました。


カチのギャクテン

古道具屋にいるということは、そんなふうに物の価値が転倒している様を間近でみつづけるということで、だんだん生き方もそうなのでないか、と考えるようになった。どんな生き方をしていても突然やってきた客が法外な値段を払うような逆転が起こり、急に莫大な価値が与えられる可能性もあるのではないか、                  本文P、51

確かになぁ……

と思わされます。

noteで執筆をしていて、コメントを頂くことがあります。

自分では、「もっと他の言葉があったのではないか」「これではだめだなぁ」と言った文章にも、暖かいコメントをくださる人もいます。

自分では気付かなかった価値を誰かが拾い上げてくれる。

「逆転」は自分にとってもかなり身近な出来事なので、共感を覚えました。

「価値がない」と思っているのは、自分だけなのかもしれない。逆も然り、「価値がある」と思っているのも、自分だけかもしれない。

「フラココ屋」では、古道具を処分したりしないので、どんな道具でも、誰かの目に入る可能性がある。誰かが価値づけをしてくれる可能性がある。そんなメッセージ性を感じます。

夕子ちゃん

「そんなことしてどうするのって問いかけてくる世界から、はみ出したいんだよ」

 「夕子ちゃん」とは、「フラココ屋」の大家の孫娘で、定時制高校に通う学生で、コスプレが趣味で、学校の先生と付き合っている。

 引用部分は、「僕」にコスプレ趣味を打ち明けて、他の人には黙っておいてくれと、頼む場面で、その理由にあたります。

夕子ちゃん、かっこいいんです。

姉の朝子ちゃんは、美大生で、木の箱を卒業制作で何個も何個も作っています。夕子ちゃんは、コスプレの衣装作りに没頭しますが、自分だけの世界観をしっかりと保っている。

そこが、「僕」と対照的なところで、「僕」はフラココ屋を取り巻く自分の世界観を持っている人物たちから、絶えず刺激を受けながら生活している……。

「なにを考えているのかわからない」というのは、ある意味「はみ出してる」のかもしれません。ちょっとしたニュースが人の目を引くのも、人のどこかに眠っている「はみ出たい」欲をかきたてるからかもしれなくて、、


ひとりということ

自分がどれだけ死に近づいたのか、それすらも分からないような危機になったとき。そして自分の声や意識や、態度や意向を誰にも伝えられなくなるかもしれないのだと感じたとき。ー本当には僕は、多分どこにも電話しなくてもいいのだ

電話って不思議だと思う。

呼び出したい相手を数秒で呼び出せる。声が聞きたいとき、すぐに電話をかけられる。

だから、怖いなとも思う。

相手が心底電話したいと思ってかけて来てくれても、自分が電話をしたくないときは、どうしたって心の距離を感じてしまう。逆も然りだ。

最後に一本だけ電話をかけていいよ

そう言われたら、一体、自分は誰にかけるんだろうか。

そうこう迷っているうちに、時間切れになって死んでしまいそうだ。

本当には僕は、多分どこにも電話しなくてもいいのだ

この文には、一人きりでいる自分に対しての、ささやかな諦めみたいなものがある。「一人もまぁ悪くないか」って言われいている気がする。

朝子さんの箱〜創作の秘密〜

箱にはぎりぎり最低限の有用性があるから、意味の希薄さゆえにたまたま選ばれた物体に過ぎないのである。むしろそれを作り続けるということ。行為を反復する、作業が連続する、その結果似ていないがらほんの少しずつ違うものができあがり、積み上がっていくということ、その全体が創作なのだ

朝子さんは夕子ちゃんの姉で、美大の卒業制作に、大小様々な箱を作っている。

何のために?

「僕」には「箱を作る意味」など、分からない。そも、創作の意味は、それを見た人が、感じたままに受け取ればいいのかもしれない。

作品は、完成したら、作者の手を離れて行ってしまうものだから。

このごろは考えたことのなかったことを考えさせられることが多い

他人と暮らしてると、それまで気づかなかった部分に目がいく。

気付いたとしても、理解できないことがほとんどだ。

でも、「僕」は「分からないこと」に対して、無理にこじつけたり、「分かった気」にならない。

無理に形にしない

それが長嶋有さんの筆跡に現れる。

表現できないことの表現の仕方

それが新しかった。


最初から出来ている

もしかして、夕子ちゃんはこの世のいろんなことがもどかしいなぁとおもっているのかもしれないけど、本当は最初から出来ているんだよ。君は、この僕が畏れ敬う数少ない人なんだから、どんなときも泣いたりしないでよ。

「僕」は「夕子ちゃん」が好きだったのですね。

もしくは、尊敬を、自覚したのかもしれない。

夕子ちゃんの妊娠が発覚してから、「僕」は初めて、感情が激しく揺れます。

読み進めていくと、終始ゆったりとした「僕」の心が揺れるのは、ここが最初で最後でした。

僕の顔〜まとめ〜

めいめいが勝手に、めいめいを生きている
自分がたしかに生きてそこにいるという証にみえた。証って、なんだかつまらないものだ。
皆、目的はばらばらだ。いつもなにかが我々をゆるく束ねている。

夕子ちゃんの妊娠を知った「僕」は、フラココ屋での半年間にピリオドを打ち、部屋を出ます。後にフランスでフラココ屋の面々の再会して物語は終わる。

最後の最後まで、主人公の「僕」が劇的な変化を遂げるわけではなく、、

小さな変化を重ねながら、色んなことに想いを馳せながら生きている。

だから、物語の人物という感じがしないんです。

本当にどこかにいそうな、、

だから、この本は、どこかのだれかの物語だと思う。

だから、読者は、そっと背中を押されるような、少しだけ自分の人生に自信を持てるような作品、なのではないかと思います。

書評(選考)の大江健三郎さんは

こまかな思考をつらねて、作者は人間について「小さな意味」をみがきだし続けます

と言っている。

その「小さな意味」は、ある意味で、誰もが持っている「何か」を表現していると感じました。

どこにでもいそうな登場人物たちの、唯一無二の物語が『夕子ちゃんの近道』だ。そう確信しています。

またとない作品との出会いに、感謝の念を込めて‥‥





date 2020年7月16日

title『日常に潜む小さな意味〜「夕子ちゃんの近道」を読んで』

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