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ひきこもり支援に本当に必要なもの~手作りおやつ工房とさか~

(ずっとモヤモヤしてきた気持ち。適切な表現がまだ見つかりません。不快な思いをしてしまう方がいたらすみません。私自身のことも含めて、今のあり方で本当にいいのかなと思って書いていきます)

ひきこもりは問題行動でも悪でもない

「ひきこもりは問題行動ではない」

ひきこもり家族会でも、ひきこもり支援者の講演などでも最近よく耳にします。

私自身そう思います。そもそも、

ひきこもる人を115万人(内閣府の調査より)も生み出す社会がおかしい、だから、ひきこもり支援は、外に出そうとか就労させようとひきこもっている人を変えようとすることではなく、安心して参加したくなる社会を創ることだ

と私は発信しています。

経済合理性、生産性が求められる競争主義、また同調圧力の下で、傷つけられ排除されてきたのが、今ひきこもっている人たちなんじゃないかと専門家の方からも聞くと、ほっとします。決して自己責任ではないんだと。

それと同時に、自分の行動が、又は行動しないことが誰かを虐げたり、排除していないか?と胸がざわつくことがあります。

ひきこもりは問題行動ではないと言いながら、ひきこもりに関する講演会や書籍は溢れかえっている。

「ひきこもりの理解」とか、「ひきこもりへの対応」とか、「ひきこもりと発達障害」とか。

確かに、知った方がいいこともたくさんあると思うし、啓発活動も大事。私もしている。でも最近そういう場に行くと、時に苦しくなることがあります。

「ひきこもり」って誰のこと?

座ってお話聞いて、「ひきこもり」に理解ある大人同士が顔を合わせて話して、いったい誰のことが分かるんだろう?

ひきこもりに関心が集まれば集まるほど、そこにいない人のことを思って苦しくなっていく。「ひきこもり」と一括りにしていいのか?

ひきこもりのイベントでしか出会わない、ひきこもりに理解ある人たち

その時間とお金を、ひきこもっている人が安心して社会参加できるように使ったらいいのになと思います。(いやいや、そのためにひきこもりについて学んでいるんだよ、という声があるかもしれない)

問題は社会の側にあるのに、「ひきこもり」に焦点が当てられている。

私もゲストスピーカーとして呼ばれたり、ひきこもり経験者として現在の活動を話させてもらうことがあります。

それを機に、「是非工房に行ってみたい」「お菓子を食べてみたい」とお声掛け頂き、市外県外からわざわざ工房に来て下さり、その後も気軽に連絡を取り合ったりお友達を紹介し合ったり、一緒に活動する関係になる方もいます。

一方で多くの方からは、「素晴らしいお話でした」「そんなお店には是非行ってみたいですね!」と言葉を頂きます。そしてまた、別の講演会やひきこもりのイベントなどに参加すると、「がんばってるわね!」「またお話聞きたいわ」と満面の笑みで近づいてくる支援者、理解者の方と再会して違和感を覚えることがあります。

私のことを知っている人たちだけど、ひきこもりの講演会やイベントでしか出会わない「ひきこもりに理解ある」人たち。

その人達の前で私は、自分のひきこもり経験や現在のひきこもり支援などについてしか語る機会はない。

満面の笑みのその人の前で私は凍りついてしまう。親しげに近づいてくるこの人は私の何を知っているんだと、虚しくなることがあります。(普通に挨拶してくれるだけでいいのに…と思う)

私にはひきこもり経験もあるけれど、それ以外にも、

お菓子作りが好きとか、3匹の保護猫と夫との暮らしで笑えたこととか、最近読んでよかった本とか、悲しくなった出来事とか、生きてると色々ある。

そんなことをおしゃべりしたり、「へぇ、〇〇さんも大変なんだ~」って知れたり、地域の方達と一緒に何かして、信頼できる人たちが身近にちょっとずつ増えたらいいなぁ。遠方の方なら、旅行を兼ねて会いに行きたいと思える関係とかになれたらいいなと思う。(大変だし疲れちゃうので、全員とそんな関係になることは望まないけれど)

何よりも、私は今を生きている。

それなのに、ひきこもりに理解ある人たちの前では、私はいつまでも「ひきこもり(経験)を語るひきこもり当事者」でいなければならない。他の、ひきこもり当事者も同じようなのかな?と思うとなんかしんどい。

自戒を込めて、頭でっかちな社会だなと思う。

頭で学んでも出会えない。共にいる、一緒に何かすることで、互いを知り、共に生きることができるんだと思う。

物理的に一緒にいなきゃ出会ってない、何かを一緒にできないってことはない。

「ありがとう」のリレーをしていけば、ひきこもったままでもできることはあるし、人とのつながりを感じることはできる。

本当は、社会はみんな「ありがとう」でつながっているはずなのに、行き過ぎた資本主義の中で、一部の人がひきこもらされてきたんだと思う。だから、その人達が安心できる居場所で役割を担ってもらって、もう一度「ありがとう」でつながる。

支援する人、される人ではなく、一人の人として。「ひきこもり」ではなく、名前のある「〇〇さん」として出会えるように。

そもそも、「一般社会」と「ひきこもりの人の居場所」と分けることはインクルーシブなのか?

支援者ではない、地域のおっちゃんおばちゃんの存在

ひきこもり支援とか、ひきこもりの居場所とかより、趣味のサークルとかボランティア、オンラインゲームやSNSのコミュニティとかの方が、「ひきこもり」ではない「私」でいられることも多いんじゃないかなと思う。今あるそういうコミュニティに、ひきこもりに理解ある人たちがいてくれたら、わざわざ「ひきこもりの人のための居場所」なんて考えなくても、安心できる居場所は自然と増えていくんじゃないかなぁ。

支援者とか、ひきこもり支援をうたう団体とかではない、ふつうのおっちゃんおばちゃんが、ゆるいコミュニティやバイト先で、

「へぇ、そうなんや~」って話きいてくれて、「ゆっくりでいいから、できることからやってみてね」とか「何かあったら、何でも言ってね」とか声かけてくれて、失敗しても「よかよか」って言ってくれる居場所が増えたらいいなぁと思う。

「ひきこもり」にはやさしいかもしれないけれど、ひきこもりじゃない人には無関心な社会。そんな社会をひきこもって見ているひきこもり当事者は、安心して出て行けるだろうかと思う。

手作りおやつ工房とさか
横浜市港南区日野8-31-15
oyatsukobo.tosaka@gmail.com




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