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【菊池氏 vol.3】 藤原蔵規について

前回お話ししました志方正和先生の御高論「菊池氏の起源について」(『熊本史学』第15・16)によって、『小右記しょうゆうき/おうき』・『春記しゅんき』に見える藤原蔵規ふじわらのまさのり則隆のりたか蔵隆まさたからが『菊池系図』にある「政則まさのり」「則隆のりたか」「政隆まさたか」であるとされましたが、今回は菊池氏の氏祖と目された藤原蔵規ふじわらのまさのりについてもう少し詳しくお話ししてみたいと思います。


史料に登場する藤原蔵規

志方説によって従来菊池氏祖であった菊池則隆(藤原則隆)の父として見出された藤原蔵規ふじわらのまさのりは『小右記しょうゆうき/おうき』(※1)だけでなく、『御堂関白記みどうかんぱくき』(※2)、『日本紀略にほんきりゃく』(※3)にも登場する人物です。
ここでは「蔵規」がどんな人物だったのかを少しでも知るために、まず彼が登場する史料を挙げていってみます。

現在史料で「蔵規」が確認できる最初の記事は『御堂関白記』の寛弘かんこう1年(1004年)2月9日条です。

帥中納言そちのちゅうなごん平惟仲たいらのこれなかのところから菅野重忠すがののしげただを使者として書状が届いた。藤原蔵規ふじわらのまさのりを遣わして返り事だけしておいた。書状には様々な物が添えてあった。”

帥中納言の許より、重忠朝臣あそんに付して消息有り。蔵規朝臣に付して返り事するのみ。雑物ぞうもつ有り。

『御堂関白記』寛弘1年2月9日条(部分)より

たったこれだけなので詳しいことはわかりませんが、どうやら蔵規まさのりは菅野重忠とともに大宰帥だざいのそち・平惟仲と藤原道長ふじわらのみちながとの連絡役を務めていたようです。
これは長和ちょうわ3年(1014年)11月に藤原隆家ふじわらのたかいえ大宰権帥だざいのごんのそちに任じられるちょうど10年前の記事となり、この頃すでに蔵規は九州(大宰府)と何らかの関わり合いがあったことがうかがえます。 

そして、次に『小右記』の長和ちょうわ2年(1013年)7月25日条があります。現状この記事が『小右記』で蔵規を確認できる最初の記事(初見記事)です。

“(右近衛府うこんえふの)府生ふしょう(※4)である下毛野公頼しもつけのきみよりが昨日行われた内取うちどりの儀(相撲節会すまいのせちえの前に行う相撲)の番文ばんぶみ(取組表)を進上した。
大宰府の使者として(右近衛府の)府生である若倭部亮範わかやまとべのすけのりさるの刻(15:00~17:00。申の正刻せいこくは16:00)ごろ、相撲人すまいびと4人を随身させて参上してきた。接見して彼らに瓜を与えた。
藤原蔵規ふじわらのまさのりが亮範に託して唐物を献上してきた(雄金おおう2しゅ甘松香かんしょうこう10両、荒欝金香あらうこんこう10両、金青こんじょう(紺青)5両、紫草むらさき3枚)”

府生公頼、昨日の内取の番文をまいらす。大宰の使い、府生若倭部亮範、申剋ばかり相撲人すまいびと四人を随身し参り来たる。前に召して瓜を給ふ。蔵規朝臣、亮範に付して唐物を進らす。〔雄金二銖、甘松香十両、荒欝金香十両、金青五両、紫草三枚〕

『小右記』長和2年(1013年)7月25日条より

そして『小右記』に蔵規の名前が再び見られるのは、長和3年(1014年)6月25日条です。

“夜に入って清賢せいけん師が鎮西(九州)から来て雑談をした。病にかかっている小児(藤原千古ちふる〔実資の娘〕)を治す生虫なまむしの薬を持ってきた。私は大宋国の医僧(恵清けいせいという)の許にある薬を送ってきてもらうよう願い求めていたのだ。
按察納言あぜちなごん(藤原隆家)は清賢師を使いとして、砂金10両を持たせて、かの医師(恵清)のもとへ遣わし、目を治す薬を交易させた。彼には二種類の薬が送られたという。
この清大徳(清賢)は高田牧司の藤原蔵規まさのりに命じて早船で都まで送らせて、宗像大宮司の妙忠みょうちゅうにも命じて蔵規に協力させた。”

夜に入りて清賢師鎮西より来たりて雑事を談ず。病中の小児を治す生虫の薬を持ち来たる。予大宋国の医僧の許〔恵清と号す。〕より遣はし来たるを乞ふ。清賢師は按察納言の使いとして、砂金十両をもたらさしめ、の医師の所へ遣はし、治眼の薬を交易せしむ。二種を送るてへり。件の清大徳、高田牧司蔵規朝臣に仰せて、隼船を以て労送せしむるなり。又宗像大宮司妙忠に仰せて、いささか加労せしむ。

『小右記』長和3年(1014年)6月25日条より

このように蔵規は中国・宋との交易によって度々藤原実資に舶来の品々を献上、または実資が求める品の調達に尽力していたことがわかるのですが、蔵規は実資だけでなく、朝廷にも舶来の品を献上していたことがわかるのが次の『日本紀略』長和4年(1015年)2月11日条です。

“今日、大宰大監の藤原蔵規は鷲二羽、孔雀一羽を朝廷に献上した。”

今日、大宰大監藤原蔵規鷲二翼、孔雀一翼をまいらす。

『日本紀略』長和4年(1015年)2月11日条より

余談ですが、この時献上された孔雀は、時の天皇・三条天皇の天覧を経て、間もなく道長に下賜され、彼の邸宅(土御門第内の小南第)で飼育されることになりました(『日本紀略』長和4年閏6月25日条)。
『御堂関白記』ではこの孔雀が同年4月10日にはじめて卵を生んだという記事以降、度々この卵について記され、藤原実資の日記『小右記』にもこの卵のことが記されていることから当時の人々の関心は高かったようです。

閑話休題それはさておき、現状最後に藤原蔵規を確認できる史料は前回載せてお話ししました『小右記』治安2年(1022年)4月3日条になります。都で帯刀舎人たちはきのとねり左兵衛尉さひょうえのじょうといった京官を務めて武勇の誉れ高く、対馬の事情に詳しい蔵規が対馬守に選任されたという記事です。

ということで、以上が蔵規が活動していた同時代(10C後半~11C前半)の史料に登場する箇所になりますが、これに加えて、前回載せた『朝野群載』所収の大宰府が朝廷へ刀伊賊を撃退したという上申書(解状げじょう解文げぶみ)にある“従五位下ぎょう少弐藤原規”というもの、それと後世の史料にはなりますが、『吉記』治承5年(1181年)4月10日条で、大蔵(原田)種直を大宰権少弐に任ずるにあたって、在地の大宰府府官(ここでは大宰府の三等官・じょう大監だいげん少監しょうげん〕を指します)を二等官の少弐しょうにに任じた前例があるかを問い合わせた際、外記げき(※5)が答申した前例の中に”藤原規 長和四年二月任”とあるのも蔵規という人物を知る手掛かりになります。

高田牧の牧司

前節でご紹介した史料の中で蔵規が高田牧たかだのまきの牧司を務めていたというのがありますが、この高田牧たかだのまきというのは筑前国ちくぜんのくに(今の福岡県)宗像むなかた郡・遠賀おんが郡・糟屋かすや郡に分散していた牧の集合体を指し、玄界灘沖合の島々や壱岐国にも牧の飛び地があったという官牧かんぼく(官営の牧場〔高田牧は大宰府の管轄〕)でした。その規模は牧が多いことで知られる甲斐国全体の牧が産する馬牛を上回るほどの馬牛を産する牧であったと考えられています(※6)。

さらに、この牧が一般的な牧と違うのは海(外海)に面して壱岐国いきのくに対馬国つしまのくに、さらには朝鮮半島(高麗こうらい)や中国大陸(そう北宋ほくそうとも〕)方面へ開けているという立地にあったことでした。

そのため、蔵規が活動していた当時は日宋貿易をはじめとする海外との交易も行われている牧で、大陸から珍しい文物(唐物からもの)や動物がもたらされました。

前節に挙げた史料で蔵規が珍品や医薬品、顔料、香料などを朝廷や藤原実資ふじわらのさねすけに献上できたのは、こうした高田牧の特徴が背景にあります。また、今回挙げた記事にはありませんが、他に『小右記』には米、贄(海産物や鳥などの食べ物)や絹織物などが高田牧から大宰府や実資のもとに納品されていたことがうかがえる記事があるので、庄園としての性格もあったようです(※7)。

例によって字が小さくてゴメンナサイ(拡大してみてね)

ところで、この高田牧は官牧(官営〔大宰府〕の牧場)として説明しましたが、『小右記』には実資の父・藤原斉敏ふじわらのただとしの遺産相続で筑前高田牧のただ1箇所を譲られたと記されていて(※8)、藤原実資の所領だったこともうかがえます。

高田牧がどのような支配体系になっていたのか定かではないのですが、『小右記』の記事から、どうやら大宰帥だざいのそち(あるいは大宰権帥だざいのごんのそち大宰大弐だざいのだいに)からの命令系統と藤原実資からの命令系統と複数あったために、それぞれの命令系統に従う牧司(または牧司代)・牧子(牧の職員)がいたらしいとする見解があります(※9)。

ただ、大宰府と実資とでは高田牧への権限の強さが違ったようで、例えば長元1年(1028年)8月には大宰大弐だざいのだいに・藤原惟範これのりの執拗な督促にやむなく応えために、時の高田牧司・藤原為時ためときは実資へ絹の貢納ができず、宗像妙忠むなかたのみょうちゅう/たえただがとりあえず肩代わりして実資へ納めたなんてことも起きています(※10)。

従って、高田牧全体が実資の所領ではなく、実資の得分とくぶん(経済的な権利・収益)もあるという形態だったと推察できます。

さて、そこで改めて藤原蔵規の高田牧司についてみてみると、彼はすでに大宰大監だざいのだいげん(大宰府の三等官)になっていて、その後高田牧司を兼務したと考えられることから、先ほどの見解に照らせば太宰府側の牧司だったと見ることができますが、蔵規は大宰大監になる前は帯刀たちはき帯刀舎人たちはきのとねり、春宮の護衛)や左兵衛尉さひょうえのじょうといった京官(都の官職)を務めていた中で、藤原実資と主従の関係にあったとの指摘もなされているので(※11)、大宰府、実資双方の利権の両立を図れる牧司だったと考えられます。

宗像妙忠という人

先ほど挙げました『小右記』長和3年(1014年)6月25日条には、藤原実資ふじわらのさねすけ藤原隆家ふじわらのたかいえが求めた薬を宋から持ってきた清賢を都へ早船で送る手配を蔵規がして、宗像大宮司むなかただいぐうじ妙忠みょうちゅう/たえただが蔵規を手伝ったとありますが、この妙忠は『小右記』の別記事には高田牧司となっていて、実資側の牧司だったと思われる人物です(※12)。

つまり、時には対立することもあったと思われる大宰府側の牧司と実資側の牧司ですが、蔵規の時は実資側の牧司と協力して事に当たっているということになります(ただし、蔵規が牧司を務めていた頃、妙忠は“宗像大宮司”と『小右記』に記されているので、牧司としてではなく、実資の意を受けて蔵規に協力する立場だったようです)。

ちなみに、実資側の牧司として宗像氏を挙げましたが、他には香椎かしい氏がいます。そして、宗像氏と香椎氏はそれぞれ宗像大宮司と香椎宮司を務めていましたが、彼らは中国(そう)との取引の窓口的役割も果たしていたようです。

『小右記』の長元ちょうげん2年(1029年)3月2日条によれば、そう台州たいしゅう(中国浙江省台州市)の商人である周文裔しゅうぶんえいが高田牧司妙忠(宗像妙忠)の使者を通じて太政官だいじょうかんと実資それぞれに宛てた書簡を送ってきていて、周文裔は日本との通商を認めてもらうために有力な公卿である実資の助力を得ようとしていたことがうかがえます。

この頃『小右記』の記事を見るだけでも何人もの宋の商人が通商を求めて来日してきているのがわかりますが、周文裔の場合は妙忠を窓口にして実資に渡りをつけてもらい、実資から朝廷に働きかけをしてもらおうと考えていたものと思われます。

藤原蔵規について

これまで前回も含めて、藤原蔵規まさのりについてお話ししてきましたが、現在わかっている範囲でこの人物をまとめてみると以下のようになります。

  • 左兵衛尉さひょうえのじょう帯刀舎人たちはきのとねりといった京官を兼務し、その後大宰大監だざいのだいげんに任じられた。

  • 藤原実資と主従の関係だった可能性がある。

  • 大宰府の官牧で日宋貿易の拠点だった高田牧の牧司も務めた。

  • 大宰府側の高田牧司だったと思われるが、在京していた頃の実資との関係もあって、高田牧における大宰府、実資双方の利権を両立できる牧司だったと考えられる。

  • 高田牧においての貿易で富を得て、朝廷や実資に様々な舶来の品を献上している。

  • 寛仁3年(1019年)の刀伊といの入寇に際しては大宰少弐だざいのしょうに(長和4年〔1015年〕2月任官)として当時大宰権帥だざいのごんのそちだった藤原隆家たかいえの補佐を務めた。

  • 刀伊の入寇では大宰府の幹部として活躍し、現場で戦う者たちの司令にあたった。

  • 左兵衛尉や帯刀舎人を務めて武勇の誉れ高く、大宰府府官(大監や少弐)や高田牧司を務めて対馬の事情に詳しいことから、刀伊の入寇で疲弊した対馬の国守に任じられた。

ということで、藤原蔵規の相関図も作ってみました。

このように蔵規は中央(都)の有力権門と結びつき、なおかつ大宰府高官(大宰少弐だざいのしょうに)や高田牧司として主に北九州、壱岐、対馬などの地域を中心に活動し、日宋貿易で富を得ていたと考えられます。

蔵規と則隆の関係

藤原蔵規まさのりは大宰府周辺の北九州エリアを中心に勢力を持っていたと考えられますが、その子とされる則隆のりたかは“彼の国(肥後国)の人”として史料に現れます(『春記』長暦ちょうりゃく4年〔1040年〕4月13日条)。

蔵規は先ほどお話ししたように、現時点でわかっている範囲では肥後国とはあまり関係がないように見受けられますが、肥後国にも勢力を築いていたのでしょうか。また、蔵規と則隆との間に直接的な血縁関係(血の繋がりのある父子関係)があったのかもはっきりわかっていません。

志方正和先生はそのあたりについて詳しく述べられておらず、蔵規と孫にあたる蔵隆(政隆)の偏諱が共通することから、蔵規と則隆・蔵隆父子との間になんらかの関係があったことを指摘されるに留めておられます。

一方、工藤敬一先生はこのことについて、蔵規と則隆との間には直接的な血の繋がりがなかった可能性を示唆しておられます(※13)。

工藤先生は、当時の大宰府府官(大監・少監・大典・少典)は大宰府管内(九州地方)の郡司ぐんじなどの有力家の子弟(地元出身者)が大宰府に出仕し、いずれ出世して任じられた場合と、中央(都)の下級官人が大宰府に下向して担う場合の2つがあって、大宰府はこの両者の接触・結合の場所であったと指摘され、蔵規と則隆・政隆(蔵隆)父子の関係はその具体例と見なせると述べられています。

その上で、蔵規が中央(都)から下向してきた下級官人で、則隆・政隆(蔵隆)父子が肥後国から大宰府に出仕していた有力豪族(菊池氏)であって、両者は大宰府で密接な関係を持ち、菊池氏側がその権威を大きくするために蔵規(政則)をその系図に取り込んだのではないかとされています。

蔵規と則隆・政隆父子とがどのような密接な関係を築いたのかまでは定かではありませんが、工藤先生のご見解に従えば則隆が蔵規の婿になり、則隆の子が元服するにあたって祖父・蔵規の偏諱をもらって「蔵隆」となったことも想定できます。

ただ、太田亮先生が菊池氏の「紀氏起源説」(→vol.1)で述べられる、政則(蔵規)が肥前国府にほど近い場所(肥前国佐賀郡高木)にいたと推定していることと、肥後国の円通寺縁起の中にある“鹿島大夫将監かしまたいふのしょうげん則隆”という名乗りの「鹿島」が肥前国藤津ふじつ郡藤津庄の鹿島かしまに由来するというのを考慮に入れれば、蔵規も則隆も当初は肥前国に勢力を持っていたということになり、則隆が蔵規の実子である可能性も考えられます。

いずれにしても、菊池氏族諸氏にそれぞれ伝わる「菊池系図」の多くで「政則(蔵規)」の子が「則隆」となっていることからして、両者が全くの無関係だった可能性は考えにくく、何らかの形で親子関係にあったと見てよさそうです。


ということで今回はここまでです。
次回は肥後国で勢力を拡げる菊池氏についてお話ししたいと思います。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。

次記事はこちらから↓


註)
※1・・・小野宮右大臣おのみやうだいじん藤原実資ふじわらのさねすけの著した日記で、別名は『野府記』。現在は天元てんげん5年(982年)~長元ちょうげん5年(1032年)までの期間で断続的な記事を確認できます。
※2・・・藤原道長の日記。他に『法成寺ほうじょうじ摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』とも呼ばれます。平安末期には36巻現存しましたが、現在は道長の自筆原本が14巻、陽明文庫にあります(国宝です)。
※3・・・神代から後一条天皇の長元9年(1036年)までの編年体の歴史書。平安時代後期の成立で巻数、編者は不明です。内容は大きく3つに分けることができ、(1)は『日本書紀』をそのまま書き写した神代の部。(2)は六国史を抜粋した神武天皇から孝光天皇までの部分。(3)は宇多天皇以後の部分で『新国史』や朝廷の記録などを参考にしたと思われるものの簡略化されて事柄の概要だけわかるというものです。(3)(2)(1)の順で成立したと考えられています。
※4・・・近衛府に属する下級職員。
※5・・・太政官の四等官で主典さかんに該当する役職で少納言局(外記局とも)に属しました。中務省なかつかさしょう内記ないきが作った詔書文を直したり、太政官の奏文を起草したり、除目じもく(大臣以外の諸官職を任命する行事)、叙位などの公事の儀式を取り行う官でした。ちなみに、内記は詔勅、宣命、位記(叙位の旨を記した辞令書)、上奏文などの作成や宮中の記録などを司りました。
※6・・・服部英雄 「宗像大宮司と日宋貿易 -筑前国宗像僧坊・小呂島おろのしま・高田牧-」2008年
※7・・・志方正和先生は、高田牧が庄園の性格を持っていることから、筑前国穂波郡にあった高田庄(観世音寺領)が高田牧であろうとされました。
※8・・・『小右記』永祚えいそ1年(989年)11月2日条
※9・・・※4に同じ
※10・・・『小右記』長元1年(1028年)8月26日条
※11・・・野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』歴史文化ライブラリー446 吉川弘文館 2017年 p.48
※12・・・『小右記』に見える高田牧司としては宗像妙忠の他に、宗形(宗像)信遠、香椎武行かしいたけゆきなどといった人物が見られます。彼らもまた妙忠と同じように藤原実資と繋がりのある牧司であったと思われます。
※13・・・工藤敬一「菊池氏」(『地方別日本の名族12』九州編2 大分県・宮崎県・熊本県・鹿児島県・沖縄県 新人物往来社 1989年 所収)p.82・83

(参考)
太田亮『姓氏家系大辞典』第2巻 角川書店 1976年
(初版は昭和9年~昭和11年)
工藤敬一「菊池氏」(『地方別日本の名族12』九州編2 大分県・宮崎県・熊本県・鹿児島県・沖縄県 新人物往来社 1989年 所収)
松本寿三郎・板楠和子・工藤敬一・猪飼隆明『熊本県の歴史』 山川出版社 2012年
志方正和「菊池氏の起源について」(『熊本史学』通号15・16 熊本史学会 1959年 所収)
野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』歴史文化ライブラリー446 吉川弘文館 2017年
服部英雄 「宗像大宮司と日宋貿易 -筑前国宗像僧坊・小呂島おろのしま・高田牧-」2008年


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