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【伊豆国】 戦国時代幕開けの舞台?(伝・堀越御所跡)

今回は伝・堀越御所跡ということなんですが、今は何もない単なる原っぱとなっており、見るべきものは特にないといった状況です。
でもここも一つの時代の幕開けを告げる象徴的な事件が起こった場所だけに、重要な史跡の一つなんです(これでも国指定史跡!)

今回から航空写真で場所を示します。
伝・堀越御所の場所は黄色の○印のとこです。

堀越御所は守山の北側に位置し、鎌倉北条氏の邸宅跡や鎌倉北条氏ゆかりの寺・願成就院と至近距離の場所にあります。

では、行ってみましょう♪

原っぱ(わーい、なにもないww)

はーい。案内板がなければ絶対史跡だとは思いません。
普通の芝生の広場がある公園といった風情・・・。

案内板によれば、ここの伝・堀越御所跡では庭園の池や導水路、石、それと中国から輸入された高級な焼き物などが発掘され、わずかながら建物の痕跡も発見されたようです。ですが、どのような建物がどのように建っていたのか、ほとんどが不明で、これまで20回に及ぶ発掘調査を行ったものの、どうやら実態がつかめていないようです。

あれ、案内板に誰かのイラストが描かれていますね。
載せられる写真が少なすぎるのでちょっと抜き出してみましたよ♪
(遊ぶな。笑)

左は堀越公方ほりこしくぼう足利政知あしかが-まさともさん、右はその御子息であらせられる茶々丸ちゃちゃまる殿です。

そう、この足利政知さんのお屋敷が堀越御所です。

この足利政知さんという方は、室町政権第6代将軍・足利義教あしかがよしのりの子息にして、第8代将軍・足利義政あしかがよしまさの異母弟にあたるお方で、まぎれもなく足利将軍家一門です。

それで、そんな政知さんがなんでこんな東国の伊豆にいらっしゃったのかというと…チョット説明がややこしくなるんですが…。(説明いきます!)

室町時代という時代は、戦乱の世というわけではなかったんですが、とにかく権力争い、跡目争いに端を発する揉め事が大変多い時代でして、この政知さんが生きた時代も、まず足利将軍家と鎌倉公方家くぼうけの対立というのが根っこにあり、それに加えて鎌倉公方と本来それを補佐するはずの関東管領かんとうかんれいであった上杉氏が対立するという、なんとも大変な状況になっていました。

補足すると、鎌倉公方家というのは初代将軍であった足利尊氏あしかがたかうじの第4子である足利基氏あしかがもとうじから始まる家系で、京都の足利将軍家から関東地方と甲斐、伊豆、それと東北地方の統治を任せられていた、いわば東国の将軍のような存在でした。

で、政知さんは何かというと、京都の将軍である兄・義政(室町政権第8代将軍)の命令で対立する鎌倉公方・足利成氏あしかがしげうじを廃するため、新しい鎌倉公方として東国に派遣されてきたってわけです。

でも、当然これまで鎌倉公方だった足利成氏はそんなの認めません。成氏は政知の鎌倉公方就任を妨害します。

そして、政知は鎌倉へ行けず、やむなく関東管領上杉氏の領国であった伊豆国堀越ほりごえで鎌倉公方としてふるまいました。つまり、この時鎌倉公方は二人存在することになってしまったのです。それで政知の方は在所である堀越から堀越公方ほりこしくぼうと呼ばれるようになりました。(地名の堀越は‟ほりごえ”、公方は‟ほりこし”と読みます。なぜ?)

結局、この顛末は関東管領・上杉氏が成氏寄りになったため、京都の将軍も和解に乗り出し、成氏が鎌倉公方として存続することになりました。で、政知さんは駿河の今川氏の後援を受けながら、伊豆でそのまま過ごすことになります。
(京都に帰れば良かったのにね。また何かあった時のために残ったのかもしれないけど…)


ふーっ。史跡紹介なのに写真が少なくて、説明ばかりになってしまいますね・・・ごめんなさい。

で、今度は茶々丸殿~。

茶々丸殿は足利政知さんの跡継ぎだったんですが、継母の告げ口などもあって、跡継ぎからはずされ、政知さんとその継母との間にできた子(異母弟・潤童子じゅんどうじ)が跡継ぎとなってしまいました。
(ねぇ、どうしてこういう争いの火種を蒔くかなぁ…)

そして、延徳えんとく3年(1491年)4月5日。足利政知さんご逝去。
となると、もうおわかりですよね。歴史ではよくあるパターン、跡目争い勃発です。

でもこの跡目争いは長引きませんでした。

なんと茶々丸殿が継母と潤童子を殺害して、あっさり家督を継いでしまったのです。イラストではあんなかわいらしい顔してやることは怖ろしいです。

でも、こんな跡の継ぎ方では大騒ぎ、当然家中は混乱します。

そこで登場するのがあの小田原北条氏の氏祖とされる伊勢盛時いせもりとき(伊勢宗瑞そうずい、北条早雲)さんです。
伊勢盛時は当時、今川氏の客将きゃくしょう(客分として取り扱われる武将)として、駿河の興国寺城こうこくじじょうにおりましたが、この堀越公方家の混乱に乗じて、伊豆へ侵攻。茶々丸殿を自害に追い込んで滅ぼしてしまいました。

って、いうのがこれまでの定説で、これは美濃の斎藤道三さいとうどうさんとか出雲の尼子経久《あまごつねひさ》などと並んで、戦国時代の幕開けを告げる、まさに下剋上げこくじょうを示す象徴的な事件とされていますよね。

でも、最近ではどうも違う見方もあるようで、伊勢盛時は室町政権政所執事まんどころしつじの家柄のために、茶々丸討伐は京都の将軍の意向を受けて行われたとか、関東の鎌倉公方や関東管領・上杉氏の伊豆への介入を阻止するために、京都が先手を打っただとか色んな見方が出てきているようで、つまり盛時は私利私欲で堀越公方家を亡ぼしたのではないと言われているようですよ。

それと、茶々丸殿も実は生き延びられてて、甲斐の武田氏や関東の上杉氏を頼って、しばらく盛時と争っていたとか…。
どうも今まで言われていた通説とはだいぶ様子が違ってきているようですよ。(調べて自分で考察してみるのも結構面白いかも…)

って、説明長すぎですね。もう終わります。
ろくに写真なかったので史跡紹介なのか、堀越公方の説明なのかわからない記事になってしまいましたけど、最後まで読んでくださってありがとうございました。

お詫びにこちらの写真を。

これは伝・堀越御所跡の近くに咲いていた路傍のコスモスです♪
このようにたくましく咲き誇っている様に心惹かれて撮った一枚です。
薄いピンクから濃いピンクまで様々できれいです。


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