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篠田版の『沈黙-silence-』をみる。

 友人のエッセイシスト三浦暁子さんのペトロ岐部という安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのカトリック司祭についての文章を読んだのがきっかけで、その時代のキリシタンものの名作・遠藤周作『沈黙』の篠田正浩監督版をamazon primeで観た。スコセッシ監督の同名映画が壮絶だったので、こちらはどのようなものなのだろうという興味もあった。

日本は、ほんとうに宗教的、文化的な沼地なのだろうか?

 スコセッシ版のなかで一番気になったセリフ「この国は沼地だ」という言葉だった。篠田版でもそのセリフは生きていた。
「この国は沼地だ。この国は考えていたよりもっと恐ろしい沼地だった。どんな苗でも、この恐ろしい沼地に植えれば根が腐り葉が黄ばみやがて消えていく。あれは、我々の神ではない。彼らが信じたのは我々の神ではなく彼らの神なのだ。お前は、みたことがあるかもしれなない。マリアと称してあの支那の観音を拝む姿を。太陽を信仰する日本人たちは、イエスも大日もけっきょくは同じものなのだ」キリスト教から転んだパードレ・フェデイラの言葉だ。スコセッシ版では、リーアム・ニーソンがこの役を演じ。篠田版では、なんと丹波哲郎がこの外人神父の役を演じていた。最初は、なんで丹波さんなのかと興ざめしたが、観つづけていくうちに妙な迫力に圧倒された。

空疎化の得意な日本人

 たしかにわたしもクリスマスを楽しみ、初詣を欠かさず、お葬式は仏教だ。苦しい時だけ神様にお祈りし、その神様はキリストでもなくお釈迦様でもない。強いていればマリア的な何か、亡くなった父や祖父母、あるいは宇宙に浮かんでいる形而上学的な何かに手を合わせている。ロランバルトの名著『表徴の国』にもあるように、中心が空っぽなところが日本文化の特徴のようだ。それは、につながるなのだろうか?
 お中元やお歳暮に送られて来る〈包み紙〉は、中身がなんであれそれを包んでお贈りするという行為の方が大切なことのようにも見受けられる。それを象徴するように、なんでもないようなお菓子が瓶に詰められ、そのまわりを綺麗な緩衝材でおおい、箱に入れられ、綺麗な紙に包まれて熨斗紙がかけられる。またその外側にお送りするための湿気に強い紙で覆われ送り状が貼られて送られて来る。
 直接お持ちする場合も同様でこの場合は、持ち歩き用の袋に入れられ、お渡し用の袋がもうひとつ添えられてくる。包むというこうとと拝むという行為がここで一つになる。〈包む〉ものの中身も、〈拝む〉ものの対象も、象徴的にはなのかもしれない。

スコセッシ版の荘厳、篠田版の陰湿

 スコセッシ版の『沈黙』は、その苛烈な拷問に耐える村人の様子が崇高に描かれていたのに対し、篠田版の『沈黙』の拷問は、日本人の陰湿さが全面に押し出されたように感じた。ここまで酷い拷問を指示していた井上筑後守とはどんな人物だったのか少しだけ調べてみると、下記の記述に出会った。『井上筑後守政重という男「歴史通」2013年11月号より」というおだぎりしんぺい氏の記事に出会った。以下その中より抜粋する。

「....『沈黙』に現れた井上筑後は、異教徒の私にとって、もっとも近い人間である。(中略)井上は、日本とは何か、神は真に存在するのか、と問い詰めていくのである。(中略)このカソリシズムの立場から見れば悪の化身と擬せられる井上の位置こそ、私の求めるものである。彼が信じ、彼が守らんとした日本という島国の沼こそ、私の住みかであり、この沼に棲む神こそロドリゴを迎え撃つ神であり、造物主がこの地上に許された代理人ではあるまいか。」と篠田氏は井上筑後守政重を分析する。(映画「沈黙」のクランクイン前に、「三田文学」一九七一年一月号に篠田正浩が寄せたもの。とリンクに記されている)
「彼(井上筑後守)は宗教的な問題で政治的な決断をしなくてはならない立場にあった。政治はものすごくリアルに私たちの帰属する伝統的な社会を抱えていますし、また宗教は、異端か、正統か、どちらかを選ばなければならないですから。井上筑後が長崎にオランダ人たちを移したり、また江戸にキリシタン屋敷を作って、マネジメントしたのは、彼の極めてリアリスティックな国際感覚によるものでしょう」(同上のサイトに掲載のおだぎり氏による篠田監督のインタビューより抜粋)

 また、この井上筑後守は、元クリスチャンでもあり、和算をはじめとする江戸時代の科学教育のオルガナイザーを務めた優れた人物でもあったそうだ。ちなみにこの人物、スコセッシ版ではイッセイ尾形が演じ、篠田版では岡田英次さんが演じている。キャラクターがあまりにも違うので、両方を足して二で割りたい気がしているのはわたしだけだろうか?

ラストシーンは十字架か姦淫か

スコセッシ版では、光り輝く禅の庭と、最後に掌に残った十字架が美しかったが、篠田版はそんな美しさや崇高さは描いていない。残虐な葛藤の末とうとう踏み絵を踏んでキリスト教から転んだ若き神父が、岩下志麻扮する元キリシタンの女と姦淫するところで終わる。「え?これで終わりなの?」と目を疑うラストシーンである。日本という沼地に身を投じていくという象徴的表現なのだろうか?
ネット検索してみると、このラストシーンを誹謗する文章がたくさん見受けられる。しかし、上記の篠田正浩監督のインタビューを見てみると、そう簡単に否定する気にもなれない。それにしても後味が悪いのは確かだ。「そうだ、日本文化の嫌なところはこの湿り気だったと、改めて思い出した。篠田版はわかりやすかったが、現代を生きるわたしたちにはスコセッシ版の方が崇高で希望もあり救われるような気がした。

とまれ、いまいちどスコセッシ版を鑑賞し、日本という沼地について考えてみたい。そして、井上筑後守に関してももう少し調べてみたいと思う。


※参照 『井上筑後守政重という男「歴史通」2013年11月号より」というおだぎりしんぺい氏  https://note.com/bungoo_cympex/n/n18689f7b21e3







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