【ユンゲ・フライハイト紙】シュタインマイアーと緑の党: 偏った大統領

2020年1月16日
もしかしたら来年の終わりにはロベルト・ハベックが首相になっているかもしれない。AKK(アンネグレート・クランプ=カレンバウアー)を副首相にして。誰にとってもそれは驚きではないだろう。党の40周年に際しての、緑の党の「誕生パーティ」において、連邦大統領は、ふかぶかと頭を下げた。緑の党によって、ドイツは「より開かれて多様になった」と、フランク=ヴァルター・シュタインマイアーは、喜びを表現した。

さらに彼は、スピーチのうちにおいて、いくつかのいたずらのひやかしをのぞいては、まったく批判的な言葉を述べなかった。要するに「緑の党がこの国を変えた——そして、この国が緑の党を変えたのである」。シュタインマイアーは、緑の党の若者における今日至るまでの曖昧な境界、暴力も辞さない極左的な組織については言及しなかった。彼はまた緑の党のドイツ統一に対する敵意についても黙っていた——ひょっとしたらではあるが、というのもSPDは、1989年以前には、この目的を「錯覚」として断念するつもりだったからである。

「ドイツの統一へのはかりしれないほどの寄与」
その代わりに、緑の党は、„Bündnis 90“の支持者を受け入れることによって、「ドイツの統一にはかりしれないほどの寄与をした」、とシュタインマイアーは主張している。だが彼はここでもまた、多くの支持者たちが、緑の党のシュタージやPDSとの関わりに失望して、緑の党を再び去っていたことについては語らないのである。

緑の党によって「1989年の遺産、つまりは平和的革命の勇気は、ドイツの政党の世界に確固たる足場を得たのである」という彼のテーゼにおいて、連邦大統領の歴史を歪曲する賛辞は頂点に達する——1989/1990年に自由と統一のために闘った大多数の人に取っては、これは屈辱的な一撃であろう。

「民主主義という救済の岸辺」
緑の党が社会を変貌させてわがものにしたのか、あるいはその逆なのだろうか。後者こそが事実である——連邦大統領の無批判なスピーチもまた、このことを示している。公民権の空洞化、多文化的社会への要求、一貫した退去政策の阻害、あらゆる共同体への国民の関わりの破壊——清算済みの国家ではなくドイツを代表しようと望む大統領からは、もし「親愛なる緑の党」について語るのであれば、ここではっきりとした言葉が発せられるべきだったのかもしれない。だがむしろ、シュタインマイアーははじめに、こうやって記念日を祝われる人々を安心させたのである。「心配はいりません、起立して国歌を斉唱する」ことが命令されることはありません。

フランクフルター・アルゲマイネ紙でJaspers von Altenbockumは、その「党派性」の点において、大統領を礼賛した——同じく一言も批判することなく。彼は当然のように、「議会や政党や政治家を軽蔑する」ドイツのための選択肢に対して、緑の党という模範をさしだすのである。

彼によれば、ドイツのための選択肢は——もしそれが「民主主義という救済の岸辺に到達をしたいのであれば」、また言い換えれば民主主義的な政党として考慮されたいのであれば——以下のシュタインマイアーの命題を肝に銘じなければならないのである。すなわち、そのような岸辺への到達は、「他者の自由と尊厳を疑うことなく、ヘイトと暴力を政治的な手段にしない誰しもにとってのみ、可能となるのである」。しかしながら、このようなスキャンダラスな偏向においては、満足のいく議論とは正反対のものに行きつくだろう。

https://jungefreiheit.de/debatte/streiflicht/2020/praesident-der-einen-seite/

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