【ユンゲ・フライハイト紙】5月8日をめぐる論争: 破滅からの解放

2020年2月9日
アウシュヴィッツの記念祭に加えて、5月8日を連邦全体の法定の祝日にしようという声が、大きな反響を広げている。赤-赤-緑によって統治されているベルリンでは、2020年にまずは一度それが行われる。きっかけとなったのは、アウシュヴィッツの生き残りであるEsther Bejaranoからの連邦大統領、首相、そして「アウシュヴィッツを二度と繰り返さないと望んでいるすべての人々」に対する手紙である。そうした祝日は、「1945年5月8日が、ナチス体制が打倒された解放の日であったことを理解する」ための助けとなる、そこではこう語られている。「70年にわたって」、そのための時期が逸せられてきたというのである。

その文体と内容から、この95歳になるドイツ連邦のアウシュヴィッツ委員会の長がこの手紙を自分で執筆したかどうかが疑われる。恐喝的な訴えかけ、「アデナウアーの国家機構や政府のうちに」隠れていた「ナチの犯罪人」への戒告、「反ファシスト的な行為に対する(太字)」刑の免除の要求、「差別のない、よりよい別の社会」や「博愛」の要求などは、それが左翼党や緑の党の青年、反ファシスト的活動、難民評議会、AGフェミニズムや教会からインスピレーションを受けていることを容易に想起させるものである。

新たな創設神話としてのアウシュヴィッツ
この手紙は、現在進行中の国家の変質をさらに促進していくことを押しつけて、そのためにナチスの犠牲者の道徳的な権威やいわばアウシュヴィッツの神話的オーラを必要としている。疑いようもなく公的な「解放の日」は、長きにわたる歴史的記憶を究極的に切断して、アウシュヴィッツを新たな創設神話へと制定するための媒体となるのである。このような始まりの物語によって、この国はナチスによって汚染された罪のコンプレックスとしてのみ存在するようになり、そこからまた結果的に、国家的利益の棄却、ついには自己放棄までが生まれてくることになるのである。

70年以上前に、連邦大統領のテオドール・ホイスは、降伏の日に際して、非常に的確な表現をしていた。「根本的にいって、私たちのすべてにとって、1945年5月8日は最も悲劇的で、最も疑わしい矛盾であり続ける。一体なぜか。それは私たちが救済されると同時に、また破滅させられたからである。戦争の終結、強制収容所の解放、犯罪的政治体制の除去という点では、その日は救済ではある。しかし戦勝国の恣意に対する法的保護の喪失、占領地の分割や追放、ラインヴィーゼンにおけるドイツ兵戦争捕虜の悲惨さ、国家の分裂とドイツ民主共和国という新たな独裁制の樹立という点では、それは破滅的でもあるのだ」。

東ドイツではすでに1950年に、ナチスの支配に対する反ファシスト的な応答としてドイツ社会主義統一党の支配を、そして偉大なる「解放者」であるソヴィエト連邦を正当化するために、「解放の日」が導入されていた。西ドイツにおいては、リヒァルト・フォン・ヴァイツゼッカーが、1985年5月8日にナチスによる支配の終焉をはっきりと前面に打ち出して、同じように「解放の日」について語っている。ただ彼は、それが「ドイツ人にとってお祝いの日ではない」ことを留保している。

30年戦争が1945年に終わった
それによってヴァイツゼッカーは、かの矛盾を解決したのではなく、改めて強調しただけである。やがてやってくる再統一に関して諸外国が好意的に賛成してほしいという願望が、その際の重要な動機づけであった。だからこそ彼は、この機会において、5月8日がすべてのドイツ人を拘束する、私たちの歴史の最後の日であり続けることはない、という確信を表明したのである。

1945年に終結したのは、1914年に大国同士のあいだの軍事衝突として始まって、1917年からは、ロシアにおける10月革命をきっかけとしたイデオロギーを根拠とするヨーロッパ内部における内乱と結びついていった、30年戦争なのである。ドイツはその嵐の真っ只中にいて、自らの政治的実存が吹き飛ばされる危険にうちにあった。ヒトラーと彼の政治運動は、保護や庇護として登場してきたのであった——そして明らかに恐るべき宿命となっていった。

歴史家のLudwig Dehioは、ナチ支配下のドイツを、致命傷を負った人間にたとえている。それは、いわばその末期の段階にあって「純粋なる生存のための闘争に役立つような、自ら存在の基礎的な力を恐るべきほどに前面へと押しだしたのである」。彼によれば、「その苦悶の表現のうちにその人格の真なる本質を探求しようとしたり、あるいはそれに先立つ人生をその前段階として解釈しようとするのは」、間違っているのである。

新たなドイツ人全体にとっての基準点
けれども、そのような間違いが起こったのである。第三帝国が過去になればなるほど、より病的にそれはドイツの歴史の全体を占めるようになった。歴史の複雑さを単純化することは、あらゆる認識上の不協和を省きたい平板化された社会の要求に合致しているのである。再教育の圧力の下で道徳的な優越者としても承認されている1945年の勝利者たちの誠実さが、ちょっとでも疑われるようなことになれば、このような不協和は避けがたいものとなるのだ。このような西ドイツにおける反ファシズムの変種は、ドイツ民主共和国における旧来のものと、いともたやすく両立するものである。だからこそ「解放の日」が、ドイツ全体の祝日や新たな基準点として、歓迎されることになるのである。

別の選択肢となりうるのは、テオドール・ホイスが慎ましくも賢明に心に銘記したことへと戻ってみることであるが、だがほとんどすべての公的な反応は、それとは反対のことを語っている。二つの世界大戦における敗北、荒廃や喪失や道徳的な負い目、対立する二つの権力ブロックに括りつけられ新たな前線国家となった二つの国への分裂などは、一つの民族にとって我慢できる以上のものだったのである。だからこそ、そういった内面的な窮乏から、いわば連邦共和国は、ドイツ自身から自らを解放してしまったのである。

https://jungefreiheit.de/debatte/kommentar/2020/erloest-von-der-vernichtung/

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