なぜ私は「理」を考えるのか③

「感情」に「理」あり。しかしどんな感情も「理」であるとは限らない

 前回では、自然にうまれた感情は絶対であり、形而下での存在理由、”それ”が”そこ”にあるという「理」が存在すると述べた。しかしながら、一括りに感情と言っても色々なものが存在するだろう。
 例えば目の前にケーキが置かれたとする。大部分の人はそれを見て「美味しそう」とか「食べたいな」と考えるだろう。しかしそのケーキが自分があまり好きではない人の目の前に置かれたらどうだろう。「腐っていればいいのに」「ムカつく」「なんであいつのところに」という考えが浮かんで来るのではないだろうか。
 同じケーキを見ているときでも、場面によって感情や考えに影響がでてしまうのである。無論、このすべての考えや感情が「理」というわけではない。

目の前の事象を分解していく、事象の分解が必要

 出来事から「理」を取り出す際、必ずしなければならないことが存在する。それは「事象の分解」である。これは目の前で起きている出来事を、まるで因数分解をするように余計なバイアスごとに分類して整理して、一つ一つの項を見つけ出す作業である。
 わかりやすくさっきの例を引っ張り出してみる。一つの事象は「自分の前にケーキが置かれた」というもの。もう一つは「嫌な人の前にケーキが置かれた」というもの。そこで自分がケーキを見たときの感情や考えから「理」を取り出すこととする。
 前者と後者の違いは「自分に」と「嫌な人に」という差異があるが、この部分に感情が引っ張られてしまい、先に述べたような感情の差異が生まれてしまうのである。

「自分の前にケーキが置かれた」
 →”自分の”+”前に”+”ケーキが置かれた”
「嫌な人の前にケーキが置かれた」
 →”嫌な人の”+”前に”+”ケーキが置かれた”
 この段階では、「ケーキが置かれた事」に対しての感情を主体とするため、”嫌な人の”や”自分の”という部分への感情は無視するべきである。

事象の分解のあとの、感情の分解

 各事象をいくつかの項に分解できたのであれば、それに対する感情の分解も必要である。ありがたいことに、事象の分解が出来た状態だと感情の分解は少し容易になる。次回ではそこまでを述べられればと思う。

今回はここまで。適宜理論の穴などがあれば指摘いただければ幸いである。

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