なぜ私は「理」を考えるのか⑦

感情の分解の程度を決める「観察深度」

 感情をどこまで分解するかの程度を「観察深度」と定義した。では「観察深度」は何に起因するのか。それは所謂「人生経験(という概念)」であるという話を前回した。

 今回はそれについて述べる。やっと私が述べたい部分までこれたのではないかと思っている。

「人生経験(という概念)」とは

 簡単に言ってしまえば、その人が生まれてきてから、今に至るまでのすべての事象が該当する。どんな両親のもとに生まれたのか、どんな幼少期を過ごし、思春期を過ごし、成人したのかである。生育歴とも呼ばれるものに近い。

 あなたは生まれてからどんな経験をしたのだろうか。覚えている範囲でも、覚えていない範囲でも構わない。おそらく数え切れないほどの事象を経験しただろう。そして、それに対応する様々な感情を経験したはずだ。それは複合的な感情だったり、単純な感情だったりするだろう。あなたが思う「最小の感情」はなんだったのか、一度考えてみるといい。

人は知っていることしか知っていない。知らないことは知らない。

 単純な話だ。無い袖は振れない。あなたが知っている最小単位しかあなたは知りうることができない。そして感情は、他人から教えてもらうことはできない。故に自分の経験が100%である。自分産の感情しか存在しない。

 結局感情の「観察深度」は人によって違うのだ。

 ただし、各々の「観察深度」によって分解が最小までできたときの感情には「理」が存在する。

感情の分解の仕方

 さて。ここまで来て、感情から「理」を取り出す方法がだいぶ明らかになってきた。
 「ケーキは美味しい」という感情を考えたときに、「甘いは美味しい」という感情が最小と考えるのであれば、それはもう立派な「理」である。「食べ物が口にはいって嬉しい」が最小と考えれば「理」だ。もちろん「ケーキは美味しい」が最小と考えれば、それも「理」である。

 人によって直感的な「理」の大小や深さは違うだろう。
 
 しかし、忘れないでほしいのは「理」の大小ではない。存在しているかどうかだ。
 次回でそこを詰めて行ければと思う。もうすぐ、大前提としての「理」とはなにか、という論理が終わる。


今回はここまで。適宜理論の穴などがあれば指摘いただければ幸いである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?