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なぜ私はTwitterが恐ろしいのか

 第94回アカデミー賞の授賞式で妻を侮辱されたと感じたウィル・スミスが壇上のコメディアンを平手打ちした、というニュースは世間を駆け巡り、「ドライブ・マイ・カー」が国際長編賞を受賞したのがかき消されてしまった。ウィル・スミスはその後謝罪して自身の行いをわびたらしいが。

 SNSでも連日この話題で賑わっていて、妻の尊厳を守るために立ち上がった男として称賛されたり、自身の憤りを暴力として発散した男として糾弾されたりなど、様々な意見が飛び交っている。さらにはウィル・スミスの行いを正当化するならば、ロシアのウクライナ侵攻を正当化することになる、という意見もある。

 私はこの問題の是非を問うことはしない。何が肯定されるべきで、何が否定されるべきなのか、それは各々が感じ取ればいい。だからこの問題の正当性については口をつぐむ。それよりも私が恐ろしいのは、Twitterなどでの個人意見を含んだ上での問題提起である。

 Twitterでウィル・スミスが殴ったというニュースを見れば、とんでもないことをしたやつだとみんな思うだろう。しかし、実は彼は妻を侮辱されたことに対して抗議をしたのだ! というツイートを見ると、何人かは納得すると思う。……通常の人ならここで終わりだ。聡明な人なら、「いや待てよ。それでも殴っていい理由になるのだろうか。もう少し詳しく調べてみて自分で判断をしよう」と考えるだろう。だが、誰もそんな労力は割かないのである。

 そしてあとから「米国ではこういう報道が主流です」というニュースを観て、それに同調するのだ。これが成人など精神が成熟した人なら良いが、思春期といったまだアイデンティティが確立していない時期にも触れてしまう可能性があるのだ。善悪の判断や自身の存在意義さえアンビバレントな悩みを抱える彼らが、それを考える力を失ってしまうのだ。

 Twitterには自称評論家の意見がどんどん流れてくる。おそらくその中には、「正しい」ものも「正しくないもの」もあるだろう。もちろんTwitterだけではない。SNSというメディアが、多人数の深い意見も浅い意見も流し続けている。これは10年前と比較しても圧倒的に多い。

 その情報の洪水に、今の思春期の子どもたちは飲まれようとしているのである。何が「正しくて」何が「正しくないのか」。これを判断するには到底さばききれない事象が渦巻いている。


 今一度言いたいのだが、社会的情報をつぶやくときには細心の注意を払っうことをおすすめする。面白いことを書くなら、注意を払う必要はない。

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