なぜ私は「理」を考えるのか⑥

「理」を得るには感情をより理解することが必要

 感情には「理」が存在するが、近くした感情がそのまま「理」につながるとは限らない。修飾要素を除いてこそ、「理」足り得るのである。

 ”前に”+”ケーキが置かれた”という事象は「ケーキは美味しいから食べたい」という感情と対応する。”ケーキが食べたいという欲求からくる感情”が”心”にある。だが、この「ケーキは美味しいから食べたい」に修飾要素はないだろうか。

 お気づきだと思うが、修飾要素だらけだ。

「ケーキは美味しいから食べたい」は感情の最小単位ではない

 ケーキは食べ物である。私達がケーキを美味しいと思うのは過去の経験があったからであり、「ケーキを口に入れると甘い」→「甘いは美味しい」=「ケーキは美味しい」につながる。またここには「食べ物が口にはいって嬉しい」という感情もあるだろうし、「ケーキの材料の砂糖にほのかな甘みが美味しい」という解釈もあるだろう。
 そもそもどんなケーキかもわからない。「ケーキが美味しいから食べたい」という感情以前に、事象としても不完全である。
 つまり省略要素が多い。そして省略要素に対する感情も多岐に渡る。

 そう、つまり感情の分解、ひいては事象の分解に関しては止めどがないのが現状である。
 では、私たちは感情と事象の分解をどこまで深く観察しなければならないのか。これを私は「観察深度」と名付けることとする。

「観察深度」とは何に起因するのか

 私たちは「正しさ」の最小単位としての「理」を求めている。正しさを判断する根幹となるもので、「正しさ」の素粒子とも呼べるものだ。
 
 ここで物質の素粒子のことを考えたい。
 およそ90年前には、陽子や中性子が素粒子と呼ばれていたのに、いまやその更に下の界のクォークなどが素粒子ということになっている。これは物質の「観察深度」がさらに深くなったためであり、「科学の進歩(という概念)」に起因する。
 つまり「物質」の「観察深度」は「科学の進歩(という概念)」に起因する。

 では「正しさ」の「観察深度」は”何”に起因するのか。

 これを一口に言うのは困難だが、あえて言うのであれば「人生経験(という概念)」であると私は考える。


今回はここまで。適宜理論の穴などがあれば指摘いただければ幸いである。

 
 

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