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窓を締めたのは私なのに、いつの間にか開け方を忘れてしまった。

窓の外には、いろんな世界が広がっている。
憧れるような世界。でもその世界で自分は生きられない、意味がないと窓の外を眺めるのをやめて、鍵を閉じてしまった。
そうして、長い長い一本の廊下をずっと歩き続けている。
疲れて立ち止まると、横目に窓の外には世界が広がっているのに、自分で締めた窓の開け方をいつの間にか忘れてしまった。


現実にはこんなことがありふれている。
常識とか、社会の目とか、みんなが言っている幸せとか。
それが自分にとって必要だったのかわからなくなる。
自分だけの世界があったはずなのに、その世界を閉じて社会に合わせていく。そうしていると、その可能性は自分の中で完全になくなってしまって、「自分にはできない」「そんなものに価値はない」と思ってしまう。
みんながいいと言っているから、自分には不要かもしれない偽物を本物と思い込まされているのかもしれない。
そんな中で自分の生き方を大切にすることの重要性を教えてくれる映画に出会った。

この映画は、東京のトイレ清掃員の物語を描いた作品。一見すると取るに足らないと思われるようなトイレ清掃の仕事。

毎朝、近隣住民の箒をはく音で目覚め、植物に水をやり、身だしなみを整え、決まった缶コーヒーを飲む。車に乗ってお気に入りのカセットテープで音楽をかけながら仕事に向かう。
誰も気にしないようなところまで徹底的にトイレを磨き上げ、満足げに少し微笑む。
昼休みになると神社で一人でサンドイッチを食べながら、神社の木の成長をフィルムカメラで写真に収める。
仕事が終わると近くの銭湯にいって一番風呂を楽しむ。常連しかいない銭湯で、顔見知りに少し会釈するだけ。会話はしない。その後は地下鉄の駅街の居酒屋でツマミとお酒を楽しむ。その後は一人で眠りにつくまで本を読む。

こんな生活を毎日続けるだけの清掃員の映画。
劇的なストーリー展開も大どんでん返しもないし、スッキリするようなオチもない。
ただ見る人によって、状況によって、タイミングによって、受け取り方が全く異なる映画。決まった正解のあるストーリーではなく、見た人がこの世界をどう捉えているのかによって、見え方が変わる。

まったくつまらない苦行のような人生と捉える人がいる一方で、自分の好きやこだわりだけがつまった幸せな人生と捉える人もいる。

今あるものが、簡単に見えなくなってしまう

自分がこの主人公になったら、こんなふうに満ち足りた人生だと思えているだろうか。自分の生き方に自信が持てるのだろうか。
大した事のない仕事をしていると思われることの恐怖、落ちぶれてしまった奴という哀れな目線。そうした周囲からの目線を完全には無視できないと思う。

自分より誰かの目線が気になるし、みんなが持っているものが欲しくなってしまう。家族や子ども、マイホーム、車、贅沢な外食や休日に行く旅行。
手のひらの中にあるスマホ越しに伝わる誰かの幸せな日常が、自分にとっての幸せだと思ってしまう。それがないと、どこか不幸せな気がしてしまう。
だから、人は本当は必要じゃないのに物を買いすぎてしまったり、過剰に働いてしまうのかもしれない。自分に必要な幸せの形や適量は人によって違うのに。

そうして、誰かの幸せが自分の幸せだと思ってしまうと、目の前にある幸せに気がつけなくなる。

ものごとは心でしか見ることができない。
大切なことは目には見えない。

サン= テグジュペリ「星の王子さま」

誰かにとっての幸せは自分にとってフィクションでしかない。立ち止まって自分にとっての幸せや好きなことに気がつくことの大切さをこの映画は教えてくれる。


その人生は選んだのか、選ばされたのか

映画では、主人公とは別に若者のトイレ清掃員が描かれている。その若者は不平不満を漏らしながら、仕事に取り組んでいる。

主人公に対して、
「なんでそんなに真剣にやるんですか?どうせすぐに汚れるのに。」

お金がなくて狙っていた女性へのアプローチができないことに対して
「お金がなきゃ恋愛もできないのかよ。」

と、不平不満を漏らしている。

同じ生活をおくる主人公が満ち足りた生活をおくる一方で、若者は不幸を感じている。
同じ状況なのに捉え方が違うのは、その人生を選んだのか、選ばされたのか。その違いなのかもしれない。


今度は今度、今は今

主人公のもとに、家出をした姪がやってくる。姪と二人で自転車に乗っていると、大きな橋の上で立ち止まって、このまま海にいきたいとわがままをいう。主人公が「また今度」と断ると、姪は「今度っていつ?」と問いかけてくる。
主人公はそんな姪に対して
「今度は今度、今は今」と投げかける。

姪も納得したのか、「今度は今度、今は今」と何度も楽しそうに笑いながらその言葉を主人公と一緒に繰り返し口に出していた。

一見すると子どもの発言を煙に巻くような発言のようでいて、いまこの瞬間を大切に考えることの重要性を教えてくれる言葉なように思える。

将来が不安だからお金を貯める。将来良い就職先に就くために勉強をする。
将来の目標を達成するために今我慢する。

未来のことばかりが話題にあがるけど、今この瞬間を大切に生きているのだろうか。僕たちは今この瞬間がいつも当たり前のようにあると思ってしまうし、未来が自然と今の延長線上にあると思ってしまう。だから今を軽視して将来を考えすぎてしまうのかもしれない。そうして将来に囚われてしまうと、今はあくまで将来が来るまでの無駄な時間のように思えてしまう。

いつだって人は、今この瞬間を楽しむこと、今目の前にあるものに幸せを見出すことができることを感じさせてくれる。

変えられないと思っているのは自分

「お金がなきゃ恋愛もできないのかよ。」
「なんでずっと今のままでいられないんだろうね。」
「家に帰りたくない。」
「影って重ねると濃くなるんですかね。やっぱり何も変わらないか。」

この作品では、多くの登場人物が変えられないことの虚しさや悲しさを感じている。そんな人々と対比するように主人公は満ち足りた生活をおくっている。その差はなんなのだろうか。

劇中で主人公が口にした言葉がある。

「この世界は、 ほんとはたくさんの世界がある。
つながっているようにみえても、 つながっていない世界がある。」

映画「𝗣𝗘𝗥𝗙𝗘𝗖𝗧 𝗗𝗔𝗬𝗦」

この世界に住んでいる人の価値観は多様なのに、社会のルールは資本主義という一つのルールで動いている。本当はお金を稼ぐこと、多くの物を買えることが幸せという世界以外にもたくさんの世界がある。でも、それはつながっているようでつながっていない。

お金を稼ぐことの世界で生きていると、お金を稼がない主人公はみすぼらしい人間に思えてしまう。でも主人公は幸せな生活をおくっている。

誰かに押し付けたられたものではなくて、自分が必要なもの、自分が好きなもの。それに気付けるかどうかが大切な気がする。

今の世界の中で、自分がズレを感じたり不幸だと感じてしまうなら、それは自分が間違っているわけじゃなく、みんなと同じ世界に生きなければならないという考え方が間違っているのかもしれない。
いつだって自分なりの別の世界にいけるのに、思い込みや周囲の目線が自分を何も変えられない存在だと縛ってくる。

みんなが一つの世界に住まなくてもいい。自分なりの別の世界や、自分にとっての幸せはすぐそこにあって、それに気付けるかどうか、それに自信を持てるかどうかが、人生には必要なのかもしれない。

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