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米子(よなご)をゆく

逃げた米子で花咲かす

去年の秋、私は鳥取県米子市を訪れた。

米子は、山陰地方のまんなか、島根と鳥取との県境に位置する地方都市である。そもそも鳥取と島根との違いさえも理解していなかった私にとって、米子はまったくの未知の場所、縁のない場所であった。私の鳥取県に関する知識の大半は「月曜から夜ふかし」にとどまっていた。

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しかし、いつだったか大学時代の友人に教えてもらったある山陰地方の民話には強く興味が引かれた。ある山村で恋仲になった地主の娘と小作人の息子が駆け落ちで村を出た。松江も、出雲も、身元の知れない二人を受け入れてはくれない。こうして二人が最終的に流れ着いたのが米子町。ここで、男は蝋座(ろうざ)職人として身を立てて、のちに立派な店をもつほどに大成したという。この昔ばなしからは次のようにうたわれるようになった。

逃げょや逃げょやと米子に逃げて、逃げた米子で花咲かす

「山陰の大阪」の異名をもつここは商業の町であった。米子がよそ者を排除せずに、取り込むことで発展したことを示す一つの話として、この民話は現在も米子市民の間で知られているという。まさに、「都市の空気は人を自由にする」といった具合であろう。

私の住んだイスタンブルも多くの移民や難民を受け入れてきた歴史をもつ。最も有名なのが、15世紀のスペインで勃興したキリスト教系王朝によって追放の憂き目にあった大量のユダヤ教徒を受け入れたのがオスマン帝国首都のイスタンブルであった。逃れたイスタンブルでは金融やとして大成功するという話がある。君府に逃げて、逃げた君府で花咲かす、といった具合か。

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もちろん米子とイスタンブルとを比較する意図は毛頭ないが、こういう都市と移民との関係がふと頭に浮かんだだけである。それえで、なんとなく興味をもったのだ。そもそも日本海沿いの町にも行ってみたい。ということで、おもいきって、私もすこし米子に逃れてみようと思った。飛行機も鉄道もあるが、私は最も経済的かつ楽な東京浜松町初のバスを利用した。闇夜をつらぬく夜行バス、イスタンブル=東京間よりも2時間早い10時間。寝て起きたらすぐ。

残る「古き良き」を楽しむ

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私は米子の市街を半日中歩きまわった。ここには温泉も城跡もあるが、観光地としては物足りない。簡単な観光をのぞむのであれば、出雲や砂丘に行くのがよい。ぼくの旅の目的はなによりも町歩き。

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目的地は設定しない。町をブラブラするのが好き。気ままに導かれるところに行く。路地をのぞいたり、どぶ川を見たり、かわった家を見たり、するのが楽しい。なによりも町に残る「古き良き」を楽しむのが好きなのだ。ここでの「古き良き」とは、保存されたものではなく、人々の生活に根付いているものを指す。町それぞれの文脈のなかで生きる生活遺産のなかに、私は自分が人生で体験した懐かしさを感じて、または誰かの体験に思いを巡らせることが好きなのだ。

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この古い自動販売機に10代前半のころの色々を思い出させる。youtubeで90年代のCM詰め合わせ動画を見ているときの懐かしい感覚。(アクエリアスのデザインは空手教室で先生に買ってもらった。ジョージアのそれは、土曜9時日本テレビ系「明日があるさ」とコラボしてたなあ(その後は夜にヒッパレ、NHKのオンエアバトル、というチャンネルを繰っていたなあ)。なによりウーロン茶の煌(ファン)は、母親に家の前にある自販機によく買いに行かされていたなあ。煌は店頭ではなく、自販機で買うものであったな)

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米子中心部からバスで北に15分くらいか、皆生(かいけ)温泉がある。文字通りの温泉街。地元の人たちもよく利用するという。

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日本海を一望することができる美しい素敵な温泉地である。私はここで人生初めての日本海を目の当たりにしたのだ。

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この小さな温泉地で私は「大人のおもちゃ」と書かれた看板の店を見かけた。実に怪しいが、射的屋のようである。ちなみに、この付近には妖しいお風呂のお店(ソープランド)が密集している一区画があり、店の前ではお兄さんがにらみを利かせている(恐くて写真撮っていない><)。よく耳にする温泉地の「緩さ」。ここではまだ残っている。

こうした古いものが辛うじて残されているのが地方都市のいいところなのだ。商店街もおもしろかった。

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ほぼシャッター商店街である。寂しい雰囲気かと思いきや、アーケードでガンガン大音量で女子アイドル・グループ?の曲が流れている。しかも、一度も聞いたこともない、そして今後聞くことのないであろう地下アイドル風の歌である。寂しさと明るさとのコントラストがなんとも経験したことのない空間を作り出していた。そうか、これがシュールというものなのか。

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上のはすごくお気に入りの写真。レトロですごくかわいい看板。お姉ちゃんの服装からは60年代感がでている。「まきの清」とは店主の名前か。それにしても清潔の「潔」がいい味をだしている。

地方都市に見られるような「哀愁」がここにもある。


継承される商都の香り

江戸時代には米子藩がおかれ、明治時代には商人の力が強い町であったようだ。

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写真は、米子市立郷土史資料館で見た米子藩時代の中心地の地図である。中海沿いに建てられた米子城を中心に武家屋敷の街区、町人・商人の街区、そして農民の住む街区が同心円の形で広がる。

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米子城址は今ものこっており、この頂からは米子市街に加えて、大山と日本海、中海を一望することができる。美しい自然に囲まれた土地なのだ。

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上の写真は、日本海へ出る鴨川である。丁度、武士の街区と商人の街区とを分けていた川に該当する。この川沿いをさらに歩いていくとには「後藤家住宅」という歴史遺産がみえる(下の写真)。

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後藤家は江戸初期に島根方面からの移民に起源をもち、米子で海運業などの事業で財を成し、現在も一定の影響力をもつという。その象徴にこの付近に「後藤」という名の駅もある。後藤家と並ぶ名家として、坂口家である。明治に興こり、のちに坂口財閥として地元経済だけではなく、全国の財界に影響力をもったとされる。これら米子の名家は現在も米子中心部の地主でもあり、地元に一定の力を保持しているようだ。

米子史は商人が主役であったのであろう。現在でも、米子市は「松江経済圏」と並ぶ「米子経済圏」の中心で、山陰経済の屋台骨の一つとっているようである。米子の経済都市としての性格は継承されている。

さらに、米子はなによりも交通の要衝である。北は境港、西は松江、東には鳥取、南には岡山県へ連絡する。大阪方面には毎日一時間に一本程度のバスが出ており、片道4時間程度の距離である。隣町の境港からは、なんと船でロシアのウラジオストクへ行けるのである。米子空港には韓国の仁川とつながっている。

大都会でもないが、田舎でもない、その中間の地方都市である。ちょうど良いのだ。さらにこの町は決して隔絶された町ではなく、あらゆる方面に開かれている。この町の開放された雰囲気は、こうした歴史的な土壌によっているのだと感じた。

文化の豊かさ

米子は文化の面でも注目するべき点がある。第一、いま鳥を落とす勢いの髭男dismを生んだのはこの町で、米子東高校出身なようだ。また、隣町の境港は水木しげるの生まれ故郷である。さらに、この地はサブカルチャー方面でも結構強いのではないか。たとえば、エヴァンゲリオンなどで有名なガイナックスの生まれ故郷である。さらに、毎年「米子映画事変」という地方映画祭が催されている。

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「今井書店」という地元で有名な書店がある。実際に訪れたが規模も大きいうえに、扱っている本の教養度も高いことを言っておかなければならない。歴史系の専門書もかなりマニアックなものも扱っている。書店の経営は極めて難しい。さらにカフェと雑貨屋も併設されているが、扱っているものはきわめてかわいらしく、ダサさや背伸びを感じられない。私にとっては、実にちょうどよいのだ。

私は米子を訪れてから、鳥取マガジンという鳥取県の最新情報を届けるサイトを見るようになった。

鳥取県内のご当地情報として、県内の様々なお店を紹介しているサイトである。米子の情報はとくに多い。おしゃれな古民家カフェや雑貨屋、お菓子屋など鳥取県内のホットスポットが、運営者による共感をひきやすい写真と筆で説明される。とくに古民家カフェなどに見られるリノベーションは大変共感ができるし、結構おしゃれでセンスがいいのだ。都会の「在りもの」をそのままもってくるのではなく、地元民のセンスで新しい店などが作られていく様子もある。そもそも、この鳥取マガジンの試み自体がおもしろい。レイアウトも洗練されており、なによりも鳥取愛が伝わる。運営は比較的若い人であったと思う。米子または鳥取県に住む若者たちが元気なのかもしれない。

ヨネギーズに見る米子のよさ

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この町のイメージキャラクターはヨネギーズという。米子特産の白ねぎが由来。第一に、安易かつダサかわいいネーミングセンスは、マニアを引き付ける。ねぎ三人の核家族。赤ちゃんはネギの花。三人お揃いの肩掛けのカバンがどんぐりというポイントも完璧である。個人的にはお花の有無で男女を区別する粗さがたまらない。その一方で意外と設定もしっかりなされている。性格はもちろん、結婚記念日や出産、などライフイベントの設定が細かいのも笑える。

ある時期からゆるキャラは商業目的と結びつき、広告会社も参入し、互いに競わせるなどした結果、ゆるくない「ゆるキャラ」が生産されるようになった。この家族はこうした競争とは無縁だったかどうかは、わたしには知る由がない。しかし、すくなくとも、このようなゆるくかつ幸せを感じさせる。「ゆるキャラ」の原点もここに生きている。

ちょうどよい町

米子を訪れたとき、わたしは息苦しくない町という印象を受けた。安易かもしれないが、よそ者の私もすぐに住めてしまいそうな感じがした。その背景には米子のもつ「逃げた米子で花咲かす」のメンタリティがあるのと、私は勝手に決めつけている。

日本中、どの地方都市はかつてはもっと元気があったはずだ。近年の国内人口の減少や都市集中化によって、地方都市は人も物も大都市へと奪われていった。統計をみると、全体人口は変動していないものの、ここもじょじょに少子高齢化がすすみつつあるのが現実のようだ。

町中にのこるかつてを思わせる面影をみながら私は想像する。商店街ももっとにぎわっていたのだろう、この川沿いでは子どもたちが遊んでいて、夕方前にはいつも喧しかったのであろう。栄枯盛衰であるという。が、それは結果論で、ニヒルになる必要はない。町は生き延びなければならない。「かつてのように」なる必要はないが、生きながらえなければいけない。そこに人が住んでいて、人が作った文化や習慣、メンタリティを根こそぎ壊してはいけない。

米子には、古き良きが残るとともに、かつ若者が地元を盛り上げていこうとする元気があるところに、安心を感じられる。隣の芝生は青い、とのそしりを受けるかもしれないが、私はこうした町の住民に少しうらやましく思う。今度はもう少し米子の郷土史を勉強してくるとおもしろいかもしれない。次来たときは、もう少し散策範囲を広げよう。

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