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「空也もなか」

「一番好きな食べ物は?」という世界一の難問には、「そのとき食べているもの」と答えることにしている。

そのくらい、日本中の食べ物は甲乙つけ難いくらいなんでも美味しい。
苦手な食べ物はわかっているから口にしないし、花粉を食べない限りアレルギーもない。


そんな私の今日の好物は、空也もなかである。


家族の仕事の関係で、うちはお菓子をよくいただく。
ネット上で買えないものの方が珍しい昨今。そんな中で、店舗でしか買えないお菓子をいただくと、それだけで幸せになる。
どなたかがわざわざお店に出向いて買ってくださったことを感じれば、よく味わっていただきたくなるのは必定だろう。

家にあるだけで、心が少し明るくなる。
お菓子にはそんな不思議な力がある。

今回いただいたのは、空也もなかだった。

銀座のど真ん中にあるらしい店舗でしか販売されておらず、予約なしではほぼ買えないと聞いたことがある。
シンプルな紙箱を開けると、ぴっちりと5つ敷き詰められた最中が、2段重なっている。

ひしめく最中

慎ましやかな大きさで箱にぴったりと収まった感じが非常にかわいらしい。通気性抜群にして、保存性も何もなさそうな紙箱に直に入っているにもかかわらず、日持ちは7日するそうな。この包装の防御力からすれば破格の長さではなかろうか。おそるべし最中。

とはいえ、最中は出来たてが一番美味しい。パリパリな皮が湿気を遺憾無く吸い込むであろうことは目に見えているからである。私が重度のパリパリ中毒者であることを差し引いても、この状態の最中を放置することは得策とはいえないだろう。

ころんとしたフォルムを箱からそっと摘み出す。最中を食べる上で、まず徹底すべきことは水分を遮断することだ。お皿にも手にも、少しでも水がついていようなら一巻の終わり。最中はぺたぺたと貼り付き、皮が剥がれるのである。

乾いた指先で最中を摘んで、一口齧る。さくりとした音は、出来たての最中でしか耳にすることのできない至高の音色である。そして、まず広がる皮の香りを感じつつ、餡を味わうのだ。

……争いを助長する気はないのだが、私はれっきとしたつぶあん派である。
「つぶあんかこしあんかで言ったらつぶあんかな」レベルでは決してない。とにかく、餡といったらつぶあん一択。つぶあん原理主義者といっても過言ではない。

こしあんにももちろん恨みがあるわけではない。ないが、私に言わせれば二つは全く別の食べ物なのである。そして、この二つは決して両立しない。
如何せん、つぶあんとこしあんを一度に味わうことはできないのだ。つぶかこしか、人間は常に選択を迫られる。つまり、こしあんを食べる時、それはすなわち一度つぶあんを食べる機会を逸していることになるわけだ。
その意味において、こしあんとは私がつぶあんを食べる機会を奪う、邪魔者となってしまうのである。

私は最中が大好きだが、一つ問題点があった。
私の肌感にすぎないが、良いところの最中はこしあんが多いのである。

一般につぶあんよりこしあんの方が手間がかかる分、上品で高級に思われるからそうなのだろう。わかっている、頭では。しかし。

つぶあん原理主義者にとって、つぶかこしか選ぶ機会を与えられないことは拷問に等しい。しかも良いところの最中。つぶあんを作ってくれれば絶対に美味しいに違いないのである。それを選べない苦痛に、私は耐えることができない。こしあんだっておいしいと思えたはずが、こしあんならいらないとすら、いっそ嫌いになってしまうのはこういうときである。

こうも長々と書いてきたのはなぜか。
そう、即ち、

空也もなかはつぶあんなのである。

なんとつぶあんしか作っていないらしい。有名な良いお店の最中なのに!
つまり、空也もなかをいただいたことがわかった段階で、それがつぶあんであることは確約されるのである。選んでくださった方のチョイスはそこに介在しない。包装紙を開けて「こしあん」というシールに対面することはないし、ドキドキしながら齧ってみてこしあんだと知ることもないのである。これがなんと素晴らしく、安心感のあることか。こうも無駄なこだわりのない方には伝わらなかろう。

噛むほどに広がるつぶあんの味。餡を食べている、というリッチな満足感で胸が満たされる。小豆を潰した餡の味は、小豆の皮があってはじめて完成すると思う。最中の香ばしい皮ともベストマッチの甘さだ。緑茶を淹れるのを怠ったのが悔やまれるが、それでも喉が焼けるほどの甘さではない。
5センチほどの瓢箪型の最中に、一日分の元気をもらった。

ああ、今日誰にも好きな食べ物を訊かれなかったのが残念だ。
訊かれたら、すぐに答えたのに。

「空也もなか」

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