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「べき」という呪いと思考の大切さ

「◯◯であるべきだ」「◯◯をするべきだ」
世の中や自分のTLに流れる、一見正しい事のような「べき論」で疲弊していませんか。

本来、現状と理想が対比として言及されるのは、そのギャップを明確にするためにあるのですが、ここ数年とても生きづらくなっているなあと感じるのは、その現状と理想とのギャップを他人に押し付けたり、まるで他人の問題を自分の問題としてすり替えているからなのではと感じています。

本来、僕たちの問題や課題の本質的な所は自分にしか分からないはずですがマジョリティによってそれがないがしろにされ、画一的な見方にフォーマット化される事で、さも自分がマイノリティである、それ故に間違っているんじゃないかという気持ちになってしまう人がいるのではないかと思うのです。

突き詰めると人間の悩みには一定の共通点があり、これまでの歴史の中で全く現れた事のない悩みなんてないんじゃないかと僕は思っているのですが、それがよくない形で、他人からの「◯◯するべき」という形となって強要されているのが今の状態なのかなと感じます。

ともすれば一見正しいように聞こえるのですが、その人の持つ課題と、自分が持つ課題にも個人レベルで差分が存在し、解決方法に至ってはゴールによっていろんなアプローチがあるはずなのです。
「一般的には」「世の中では」「普通は」なんて言葉には大した意味はなくいかに自分で思考するかが大事なのですが、やはり思考した量や質、またはその人の経験値によっては数の暴力に屈してしまう瞬間があると思います。

自分で考える、という事が何故大事なのかと言えば、それは判断軸を自分で持つという事に他ならないのです。誰にも屈せずに自分の意思を貫くという事は他人に流されない自分の生き方が出来るという事です。

取捨選択は知識を蓄える事で行えるようになります。しかし決断するという事はどれだけ自分が思考しているかにかかってきます。

世の中には「◯◯するべき」という言葉が蔓延しています。しかし簡単に流されないようにするためには知識を蓄え自分で考える癖をつけて思考力を鍛えるしか回避する方法はないのだろうなと思います。つまるところ、自分の居場所も自分の生き方も自分で決めるしかないのです。

デザインやサービス改善、転職ノウハウを実体験を元に書いています。サポート頂けたら嬉しいです。