【論考紹介】“市街戦プロジェクト 事例研究4: スエズ市の戦い” (Urban Warfare Project Case Study #4: Battle of Suez City, by John Spencer & Jayson Geroux, MWI, 13.01.2022)
現代戦争研究所(MWI)の市街戦研究シリーズ。ヨム・キプール戦争最終盤のイスラエル軍によるスエズ市攻略戦分析。なぜイスラエル軍は都市攻略に失敗したのか。
この論考では、「[市街戦の]ほとんどのケースで、攻撃側が適切な作戦的・戦術的手順を踏んでいれば、最終的に勝つのは攻撃側になるだろう」と指摘されている。そして、攻撃側のイスラエルは“適切な手順”を踏めずに、市街戦に敗北した。
全体状況
1973年10月6日、エジプトとシリアの奇襲攻撃を受けたイスラエルは緒戦を耐え忍んだのちに両方面で反攻を開始。シナイ半島方面においてイスラエル軍は10月15日カゼル作戦を発動し、スエズ運河を渡河。運河西岸を南進し、23日にはスエズ市に迫っていた。
戦略面での過失
スエズ市の奪取はイスラエルにとって、2つの価値があった。まず、同市を占領することで、運河東岸に展開するエジプト第3軍を完全包囲できる。また、同市の支配は、スエズ運河の交通に大きな影響を与える。この2つの要素は、戦後交渉においてイスラエルに優位性を与える。
しかし、国連安保理の停戦決議に従うことを決めたイスラエルにとって、スエズ市攻略に長い時間をかけることはできなかった。さらに23日時点でスエズ市周辺まで迫っていたアダン師団は、スエズ市攻略作戦の準備がまったく整っていなかった。その一方でスエズ市を守るエジプト軍は、開戦前から都市防衛の準備を進めていた。
作戦上の過失
拙速な戦略決定が作戦上の過失を招いた。準備時間のないアダン師団は、敵情把握ができないまま都市攻撃を実施した。
「市街地という複雑な地形において、情報よりもスピードに頼って作戦を遂行しようとするのは、危険などというものではない。それは単なるギャンブルだ。それは勇敢ではない。軽率なだけだ」。そして、情報面に限らず全般的に準備不足の状態で、アダン師団はスエズ市を攻撃し、敗退した。
戦術的過失
イスラエル軍は戦車隊が先に進み、そのあとに距離を置いて歩兵が続くという形で市内に突入した。その結果、市街地で待ち伏せていたエジプト軍によって、各個に攻撃された。市街戦において、戦車は有効な兵器であるが、それは歩兵やその他の兵器・兵科と相互支援関係にある場合に有効である。
また、スエズ市攻略戦で窮地に陥った第500“カレン”旅団に配属された歩兵は、これまで共に戦ってきた師団所属の歩兵ではなく、師団に増援として送られてきた空挺2個大隊(実質戦力は2個中隊弱)だった。そして、カレン旅団の戦車隊と空挺部隊の間で戦術的統合を進める時間はなかった。
所属が異なる部隊で即席の諸兵科連合チームを短期間で編成して実戦投入することは、どのような戦場においても大きな戦術的リスクとなる。市街戦というとりわけ複雑な戦闘環境下では、なおさらのことである。
結論
市街戦において、その損害の規模はともかくとして最終的に勝者になるのは、多くの場合、攻撃側だ。しかし、攻撃側の戦略・作戦・戦術における過失とよく整った防衛側の準備が、スエズ市の戦いにおいて、防御側のエジプト軍に都市防衛の成功という結果をもたらした。
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