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物々交換のお話(1)

お金がないので、お金について考えていた。

そこで、インターネットで「お金」を調べていると、

三菱UFJ銀行の貨幣・浮世絵ミュージアムのサイトにたどり着いた。

興味がわいたので「貨幣史年表」を読んでいた。

が・・・冒頭から、とても違和感を感じる・・・

物々交換で経済が成り立っていた古代の日本では、米や塩、布などをお金の代わりとして使用していました。
貨幣史年表 ~日本の貨幣 そのあゆみ~ | 三菱UFJ銀行 (mufg.jp)

三菱UFJ銀行の「貨幣・浮世絵ミュージアム」のホームページより

この記述は、間違ってはいないが、かなり誤った印象を与えると思う。

これでは、米や塩や布を、お金のように自由に商品を変えたようなイメージを与えてしまいそうだ。

良く考えてみてほしい。

持ち運びも大変な米を持って、どこに買い物に行くのだろうか?
いや、そもそも、お店はなかった。

お店もないのに、お金のように物々交換はできるはずがない。

当時は、口分田は支給されており、ある程度、自給自足が行われていた。

では、「米や塩、布などをお金の代わりとして使用していました」という記述はウソなのかといえば、ウソとも言い切れない。

では、この解説のような物々交換は、誰がしていたのか?

それは、たとえば下級官人。

彼らのように俸給のみの生活者は、その俸給で、生活必需品を購入する必要があった。つまり、自給自足をしない、あるいはできない人が、物々交換をしていた。

彼ら官人が生活必需品を購入できるように、作られたのが市である。

市は、毎日正午に開き、日没前に3度の鼓を打って閉じる。価格も、市の司が時価に応じて決められていた。

初めて、東西の市が誕生したのは、藤原京である。

さらに政府は、市場に行かないで、物主を呼んで、必需品を購入することもあった(関市令20条による)。

この時に、何で決算したかといえば、もちろん民から徴収した税である。

調や庸(布)などの税は、貨幣の代わりに、必需品を購入するために払い下げられた。

このようなトレードは、役人や地方の市で行われた限定的なことであり、これを「日本では・・・」と、ひとくくりにして説明すると、間違った印象を与える。

では、他の物々交換は、どのような取引が行われいたのか考えてみよう。

そもそも、口分田を与えられた民は、自給自足ができるなら、物々交換はする必要がない。

しかし、その中でも、自給自足が難しいものがある。

たとえば、内陸に住む民は、塩。
反対に、沿岸に住む民は、山の幸である。

これら、内陸と沿岸では互いに、山の幸と海の幸を交換することは必要であった。

では、この山の幸と海の幸の交換は、いわゆる物々交換であったのだろうか。

それを考えるために、僕の父のお話を例に挙げたい。

父は、まだ物々交換を体験している世代であった。

父は、新潟県の農家出身である。

幼い頃、漁師さんが、勝手に家に上がり、魚をさばいてくれていたと話していた。

父はその魚を食べるのだが、もちろん、漁師は、ただでやっていない。

米が収穫された時に、それを分けてもらえるからである。

ここで、米と魚は物々交換されている。

しかし、これをお金のような取引をしているかと言えば、当人たちも、そのようには思っていなかった。

要するに、物々交換をしているという認識はなく、むしろ「相互扶助」や「助け合い」という意味の方が、ピッタリくるだろう。

こうした「相互扶助」や「助け合い」を、物々交換として、まとめてしまうと、古代の経済をうまくとらえることはできないのだと僕は思う。

つづく

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