見出し画像

オリジナル天国

今日、母から祖母の家で飼っていた犬が亡くなったとの連絡があり、私は仕事帰り彼女に会いに行った。
人で言うところの105歳だそうで、大変長く生きた犬だった。

彼女は私が7つか8つの頃祖母の家にやってきた。
おばあちゃん子だった私はよく祖母の家にお泊まりをしていた為、彼女にもたくさん世話になった。
かけっこをしたり、ボール遊びをしたり、パラパラだって一緒に踊った。
感覚的に言えば私たちは従姉妹のような関係だったと思う。
それこそ出会った頃はお転婆な妹が一匹増えた様だったけれど、次第に彼女は私を追い越してお姉ちゃんになり、母を追い越しておばちゃんになり、そして祖母をも追い越したおばあちゃんになった。
ここ1、2年の彼女はもう目も見えず、耳も聞こえず、どうやら物忘れもする様だったし、膀胱も緩くなっていた様で、「老老介護で大変だ」などと祖父も祖母も笑っていたが、きっと彼女はそんな二人の事を思って危なげな夜を何度も超えてくれたのだろう。

思い出を語り出せばキリが無いけれど、そういった類いのものは私の中に今はしまっておきたいので、今回は個人的な死生観についてのお話にしようと思う。

半年程前に祖母を亡くし、今までそれほどまでに近い人を失ったことの無かった私は、そこから漠然と「怖い」「悲しい」でしか無かった”死”について考えるようになった。
初めは「おばあちゃんは今どこにいるのだろう」とか、「どんな状況で、私たちはそんなおばあちゃんに対してどんな風に声を掛けるのが良いだろう」といったところからだったと思う。
インターネットで検索をかけてみたりもしたけれど、この世界には本当のことを知っている人などきっといなくて、どの説も、教えも、この世を生きる誰かを救う為のものでしか無い様な気がして、それならば私には私の天国があっても良いようにも思えた。

私の世界にはこの世とあの世があって、生き物はこの二つをある程度決められた時間の中で行き来をする。
こちらでの死はあちらでの生を意味するのかも知れない。
私がこちらで生まれるまでは、もしかしたらあちらで生きていたのかも知れない。
祖母も犬もそろそろあちらで産声をあげるのかも知れない。
そして祖母がおばあちゃんになる頃、犬はもう一周をしている頃に、私はまたあちらで生まれたりするのかも知れない。
そんなふうに考えると、束の間の別れのように捉えられるし、記憶にはなくとも今までも経験してきたことなのだと思えば、また会える日まで頑張ってみようとも思える。

こういうのでいいなと思った。

きっと私の天国は誰かの天国とは大きく形が異なっていることもあるだろう。誰かの信仰に背いていることもあるかも知れない。
しかしそれで良い様に思う。
世の中の天国が一つに統一されてしまったらきっと誰かは救われないだろう。
この世を生きる私たちのために作られた天国なら、この世の誰もを救うために、人や犬や花の思い描く数だけ天国があったら良い。

貴方にも貴方にとって都合の良い天国があったら私は嬉しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?