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漂白される子どもたち

「漂白される子どもたち」は1988年、バブルの絶頂期に発刊された本のタイトルだ。

著者の野田正彰さんは精神科医。でも、文化人類学的な、あるいは社会学的な手法を駆使して、時代、都市というものを解析されようとしている方…つまり、個人に対しての臨床というだけでなく、視点は「社会のあり方」という、よりパブリックな方向(「コンピュータ新人類の研究」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞されている)。

そんな野田さんが、子どもたちにカメラを渡して自分たちの日常を撮ってもらい、彼らの撮った写真を比較するということから、当時=1980年代末の子どもたちがどんな状況に生きているのかを明らかにしようとした、これは、その研究報告のダイジェスト版みたいな本だ。

例えば「農村」の子どもと「都会」の子どもの比較…

「農村」の子どもたちが撮った写真には、たくさんの「人間」が映っている。じいちゃん、ばあちゃん、近所の人…たくさんの人間が登場する。一方「都会」の子どもの写真には、撮っている人を含めて、全く人間が登場しない。しかも、大半の子どもたちが自分の部屋の中だけか,自分の部屋から観た外の風景を撮っているだけを撮影している。

この本は、小さなコラムの集合体みたいになっているので、とても読みやすく、「カメラを預ける」フィールド・ワークについての報告だけでなく、別の視点からの考察文も。以下の文章は、そんな考察の中に引用されていた「友達 ー消しゴムで消せる”仲良し”」という短文の中からの引用。当時の小学校5年生が「何でも消せる消しゴムがあったら」という課題に従って書いたものだそうだ。

「私の大切な友達を消したい最後の理由。私はたまに一人で自由にしていたい。家でもいっしょだと肩に重い物が乗ってしまっているような、うっとおしい感じになる。でも遊びをことわって 友達のふんいきを壊したくない、自然に はなれていたい」

今から35年も前に出版された本。この「肩に重いものが乗ってしまている」と感じながら、「友達のふんいきをこわしたくない」と気を使っていた小学校5年生の女の子はアラフォーかな。

今日の状況も一日や二日でできたわけではない。30年以上もあったんだから手を打とうと思えば打てたんでしょう…でもね。

開沼博さんの著作「漂白される社会」が世に送り出されたのが2013年の3月。僕らは僕らが思っているより、ずっと深刻に「漂白」され続け、「私」はおろか「意志」そのものを奪われていってるんだろう。

絵に描いたような「家畜化」だ。

漂白される子供たち 
その眼に映った都市へ             
野田正彰 著  情報センター出版局 刊


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