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狭量と孤独と

都市、特に大都市は「孤独」がスタンダードなのかなと思っている。

農村や漁村などと違って、基幹産業がコロコロ変わり、没落する「家」も少なくなく、土着の定住者が育たず、「よそ者」の流入はいつも激しい…

江戸時代の「江戸」は現在のアメリカ合衆国より離婚率も高く、それ以前に未婚率も高かったといわれていて、つまり、所帯を持つ人々の方がむしろマイノリティ。独り身がスタンダード、都市的だったと。

僕らの時代はいっとき都市に「ベッドタウン」という住宅地が発達させる。でも「基幹産業がコロコロ変わり、よそ者の流入は激しい」という都市のスタンダードが変わったわけではなく、あの頃、新興の住宅地だったベッドタウンに、代目を重ねる家が現れる前に、ベッドタウンは、空き家だらけのゴーストタウンにになっていきそう。

そうした状況を踏まえた上で「孤独」の居場所をつくる。この国の近未来を思えば、子育て支援と同じくらいに重要なことだと思っている。

すでに東京の場末では、毎日、おじいちゃんやおばあちゃんたちが集まる喫茶店や駅前スナックみたいなものが散見できるようになっている。そうした場所に集まるおじいちゃんやおばあちゃんたちは、たいていが地元に足場を持たぬ東京初代の地方出身者のみなさん。ヨコハマだって、居住民の大半が初代か長くて二代目。「地元」などあってないようなもの。「昼カラ」なんていう郊外の駅近スナックなんて、そんな感じかな。

(「公」の手が及ばないからセルフサービスが始まってるんでしょうね)

でもね。

中にいれば安心のコミュニティも、外から見れば籠城戦を続ける山城のようなもの。閉塞感に包まれながら、周囲から孤立している…

小さな仲良しグループはそうなりがち。たいていの人が狭量だからね。