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職種を追ったことはない

僕の場合
何になりたいと思ったことはなくて還暦を過ぎた。
会社などに勤めたこともない。
ずっとフリーランスできた。

高校生の頃から、いきつけの喫茶店に屯している兄貴分たちから「お前。これできるか」に乗って、できそうで、面白そうなら仕事にした。

(あくまでも「できそう」であって「できる」ではない)

そうやってきたら、ここまできちゃったのである。

キャバレーのバンドの穴を埋める仕事。ピアノ・バーの弾き語り。ピザ屋でのバンジョーの弾き手とのコンビの演奏。写真撮影のアシスタント(美大より実践的には勉強になった)。エロ雑誌に女子高生になりきって「日記」を書くという仕事もした。ヨコハマのガイドブックをつくったこともあるし、土産物をつくったこともある。FMラジオの番組を構成していたこともあるしイベントもコンサート、芝居の興行をプロデュースしたこともある。

「書を捨てよ、街に出よう」とはいうが、僕の場合、まちに出て喫茶店に入るったら、そこから人生がはじまっちゃった…というわけだ。

「個人じゃ発注しにくいから、お前、会社つくっちゃえよ」と言われて有限会社(今は改組して合同会社)をつくったのが、30歳を手前にした頃だった。でも会社とはいえ、実質ひとり(合同会社は奥さんと二人)。

今は「まち」が、ひとつのテーマになっているが、それも後付けかもしれないな。仕事をくれる兄気分たちは、確かに「まちづくり」系な人たちだったけれど、僕は、ことさらに「まちづくり」志向だったかどうかは記憶にない。

(会社をつくった頃には、明らかにフィールドは「まち」だったけれども)

会社をつくってから再開発事業の検討調査などを請けるようになったし、ヨコハマで開業して、だんだん「クライアント=横浜市役所および関連団体」になっていたから、それからかもしれない。ヨコハマを「まち」として考えるようになっていたから。

それから、好きだったヨコハマが破壊さるようになった。目に余るようになっていった。大好きだった人たちが、次から次へとヨコハマをあとにするようになり、いったいなにが「みなとみらい」なんだと。

はっきりと「まち」が問題関心になったのは、それからかもしれない。ヨコハマって看板は同じだけど、中身はカオナシで、無印良品やABCマートの街になっちゃったからね。

最後は都心にいるのが居た堪れなくなってきた。

しかも、精一杯抵抗してはいたけれど、再開発ビル1棟を中止に追い込んでも、露天の市をぶち込んでみても再開発は微動だにしない。その上で、市井からみれば、僕は加害者側に立っていた。

だから、はっきりと「まちづくり」を自覚して、自分の意思を持ってからの方が辛かったかな。

今はね。

市役所の下請け業者の立場(鬼平でいえば密偵みたいなもんだったな)を離れて、一般社団を立ち上げて「私立のまちづくり」を遊んでやろうと思っている。

(合同会社の方は奥さんに代表になってもらって、郊外で農と暮らしながら、自分たちの「近隣」をつくっていく会社に仕立て直して、実験を開始してる)

たぶんね「みなとみらい地区24街区生活利便施設配置検討調査」なんていうより、中華街の飲食店で、お店のご主人や従業員さんと話し合いながらCIをデザインしたり、無名な人の偉人ぶりを発掘するムック本をつくっていたときの方が、よっぽど「まちづくり」だったんだ。

僕はバカだから、そういうことに気がつくまで時間がかかりすぎた。

横浜市から受注した調査で、デザイン批評の柏木博さんとは7年ほど、建築批評の松葉一清さんには10年以上(いずれも故人)、家庭教師のようにご指導いただいた。そのことは僕の人生にとって特筆に値する。

この元手は「公費」、税金だ。

だから、この分だけでも社会に還元していかなければならないと思っている。

還暦すぎて「起業」みたいだし、世間に逆らうんだから、ちょっと苦しいんだけね。

何になろうと思わなかったのに、何かになりつつあるんだろう。

富士山九合五尺とも言えるかな。
そう思っている。