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表現の本質

久しぶりにnoteを開いて、流れてくる他人の文章を読んでいて、ハタと気づきました。

「全然読めない」(笑)

面白くなさ過ぎて、5行と読めない感じです。

もちろん全部ではありません。面白い記事もたくさんあります。

しかし同じくらいの多くの記事が、面白くなさ過ぎて全然読み進めることができませんでした。


「あれ、これって自分の記事にもいえること?」


自分の記事も、他人からしたら面白くなさ過ぎて、全然読めないのかもしれない。

その可能性に、今初めて気づきました。(笑)

書いていると夢中で、そんなこと全然考えません。

全然そんなこと考えないからこそ、他人が全然読めない文章になるのでしょうけど。(笑)


しかしここでまた、ハタと気づいたわけです。

「別に読まれなくてもいいじゃないか」と。

他のみなさんがどういう意図で書いているかは知りませんが、実際、読んでもらいたいから書くというよりも、書きたいから書くというウェイトのほうが高いと思います。

別にプロになりたいわけではないし、それで稼ごうというわけでもありません。

ただ書きたいから書いているのです。

そう考えると、なにか全ての文章に、愛おしさのような感覚すら覚えます。

どこかの国の、どこかの場所で、誰に知られるともなく、ひっそりと書いた文章が、どこかの国の、知らない人に、ひっそりと読まれて、なにがしの感情を抱かせる。

この小さなインタラクションに、小さくない感情が動いたのです。


どうでしょう、写真も一緒じゃないですか?

うまいともヘタともつかない、パッとしない写真をみて、「くだらねーな」と瞬殺で切り捨てていたかもしれないその視点を少し切り替えて、自分に置き換えてみましょう。

どこかの国の、どこかの場所で、誰に知られるともなく、ひっそりと撮った写真が、どこかの国の、知らない人に、ひっそりと見られて、なにがしの感情を抱かせる。

この小さなインタラクションに、小さくない感情が動きませんか?


写真のその奥にいる人。

息をし、悩み、考え、感情をもった、同じ人間。

それはつまりあなたです。

あなたがなにがしの思いを込めて撮ったその写真。

その写真の奥にいる人は、あなたです。

写真の奥には、同じ数だけ人間がいます。


上手いヘタのその奥にあるもの。

目に見える現象の、その奥にあるもの。


もはや上手いヘタではありません。

目に見える文章のその奥にいる、それを書いた人。

目に見える写真のその奥にいる、それを撮った人。

その息遣い、思考の軌跡、感情の動き、存在のぬくもり。

それって自分と同じですよね。

もはや、上手いヘタではありません。

全部一緒です。

全部は有機的につながっています。

その証明として、文章があり、写真があり、表現があります。

それはお金の問題でもないし、ビジネスの問題でもありません。

批評でもないし、好き嫌いでもありません。

根底でつながっているその感覚。

「あれ?同じじゃん」というその感覚。


全ての表現は、地球の息遣いです。

生きているというその証に、優も劣もありません。

面白い、面白くない、上手い、ヘタはありますが、それは単なる個性であって、生命の躍動に優も劣もありません。


つまり世界はフラットです。

あなたは私であり、私はあなたです。

表現は生きている証であり、生きていることに優劣はありません。


というわけで、自由に書きましょう。そして自由に撮りましょう。

その写真は、面白くないかもしれません、ヘタかもしれません。

しかし「劣」ということは絶対にありません。もちろん「優」ということも。

個性をはぎ取ったその奥にある生命に、優劣はありません。

もう生きているだけで大成功です。(笑)



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