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組織と無私、そして外野の声

 ひょんなことで「無私」とはなんぞやということを調べていて、西田幾多郎に行きついた。

 そこで「行為的直観」、目の前の矛盾に対して「私」を置き去りにして行為に臨む、という状態のことを理解した。直面する状況によって、自分の動きがいざなわれる。中動態的なイメージを持った。無私とは、言葉通り、「私」がいない。意志はあるが、行動の源は自らにはない。もののあはれの感覚。

 「無私」には当然ながら、ポジネガ両面を思い浮かべる。この二面性にはどう向き合うのか、は私にはまだ分からない。

 ところで、現代の組織にもこの「無私」をどこか源流とするな状況があると感じている。組織の状態として「矛盾」に直面した際に、どう振る舞うことができるか。

 例えば、長期的には組織の方向性を新たに定義して、価値ある事業の提供を根本的に模索していかなければならない。ところが短期的にはこれまで通りの判断、評価基準が生きているため、目先のことに多くの時間をあてなければならない。
 この狭間で、組織の中にいる人たちはどのようにあれば良いのか。どこか疑問は持ちながらも、結果的には「昨日」とは違う「今日」の動きは取れない。その瞬間において「私」は存在しない。でなければ、矛盾を乗り越えられない。

 というと、ネガに聞こえると思う。ただ、一方で、とも思うのだ。その「無私」な状態を、外野からとやかく言うことは果たして行うべきことなんだろうか、と。

「こうすれば良いじゃない。なんでそうしないの」
「だから、ダメなんだ」
「いつまで、疲弊しているの?」

 どう見えているかを外から投げつけることは簡単に出来る。というか、外から見て分かる程度のことは、薄々あるいはしっかりと分かっているのだ。分かっている上で、この矛盾をどう乗り越えるかに苦闘している。あまり人を甘くみてはいけない。いつか、「なぜかいつでも誰よりも物事が分かっている評論家」でしかなくなってしまう。

 相手がその手のフィードバック(例えば、状況に流されないようにするために)を望んでいるならば、一定の役割は見いだせるかもしれない。だが、外野からの「評価」は余計なお世話でしかない。「苦闘していること自体が無駄」といった声が、誰かの何かを前に進めることはない。その手の声からは意識的に距離を置いたほうが良い。

 われわれは太平洋戦争の真っ只中にいるわけではない。最終的には自分で、道を選ぶことができる。この苦闘が本当にどうしようもない、と見切るなら、いつでも辞めることができる。その時間を後で後悔することもある。それでも、時間は経験したことについては嘘をつかない。きっちりと、その人に経験が刻み込まれる。それは必ずその後の支えになる。

 時々、私は組織に入って活動した方が良いなと思うことがある。外からは、この「無私」が理解できないところが残り続ける。同じように背負わなければ、「無私」にたどりつくことができない。「無私」をともにすることしか突破できないのは相当なものだが、現代組織の状況を物語っていると思う。

 最後に。たしかに、仕事であれば自分で選べる時代になった。だからとしって、自分で道を選べないような状況に直面し、絶望的な「無私」を選択する他ない、という状況が今後起こり得ないわけではない。そんなときに、私達はどうあると良いのか。私達が今後も抱えていく宿題なのだろう。

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