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母影。

あれは小学1年生か2年生だったか。小さなワニやライオンがあちこちにプリントされたトレーナーを2日間続けて着て登校してきたわたしに向かって、後ろの席に座っていた数人の女子たちが、「あれ、昨日と同じ服だよね」「私昨日もワニ見たもん」とひそひそ話しているのが聞こえた。

確か当時、ちょうど母が入院していて、子どもの着る服まで周りの大人が気にする余裕もなかったのだと思う。わたしは女子たちのひそひそ声を聞こえなかったふりをして時間が過ぎるのを待った。肩にきゅっと入った力は時間が経ってもなかなか抜けなかったことを覚えている。

尾崎世界観さんの『母影』を読んだら、わたしの頭に浮かんできたのは、前述した教室での一コマだった。家に帰っても母は居ない。代わりに祖母が夕ご飯の支度やアイロンがけをしてくれた。母と手を繋いで並んで歩いた記憶がない。あったのかもしれないが、それよりも別の記憶が邪魔をして、母の手の温もりを思い出そうとすると吐き気がするようになった。

『母影』を買ったのは数ヶ月前だったのだが、どうしてもすぐに読む気になれなくて、本棚の雑誌の上に置いたままにしていた。読みたいけれど読みたくなかった。母と子の、その温かくて鬱陶しくて恥ずかしくて手を伸ばしても届かない距離感やもどかしさが、読む前から苦しかった。読んだらさらに苦しくなると分かっていたから、なかなかページをめくることができなかった。

「昨日と同じ服着てるね」と冷やかされた当時のわたしは、何を考えていたのだろうか。恥ずかしかった、それが1番かもしれない。恥ずかしかったのは可愛らしい動物がプリントされたトレーナーのことではなく、2日間同じ服を着て登校したことでもなく、それを阻止できなかった自分と、周りの大人たちへの恥ずかしさだった。わたしは病気の母を、恥ずかしいと思っていたのかもしれない。そう思ったら、自分のことが1番恥ずかしくなった。

読んでいる途中も落ち着かなくて、申し訳ないな、ごめんなさいと思いながら、なるべく駆け足でページをめくった。もっとゆっくり、少女の心の動きや母の姿を想像して感じればよかったのかもしれない。いつかまた手に取った時、わたし自責が溶けたとき、ゆっくり味わってみようと思う。

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。