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フランス留学するまでの道のりpart5【クライマックス】

みなさん、こんにちは。
このシリーズもようやっと最終章!
これまで長々と書いてきましたが、この回が一番他の留学準備の記事で書かれているようなことを書いていると思います。

ではなぜ、part1〜4が存在するのか。
それは、ぱれすぅ〜自身の唯一無二の経験で、「フランス留学の目的は留学そのものではなく、自分の経験を通してやりたいことをやってきた道の先にあった」ということを伝えたかったから!

挫折もあり、ちょっとした冒険もあり、挑戦もあり…私自身この道のりを考えると一見順風満帆に見える生き方でも辛いことやうまくいかないこともたくさんあって、人生はうまくプラマイゼロでできているなぁと思います。
そして、このフランス留学の道のりを通して、例えうまくいかないことが続いてもその後自分なりに行動し続けることが大切だと気付かされました。

私の個人的な精神論はここまでにして、本題に戻りますが、
前回は東京外大に編入してたくさんの新たな出会いがあり、自分の視野が広がる経験をしました。編入生あるあるで、入学早々は授業選択の肌感などがわからず苦労することもありましたが、楽しい大学3年生を過ごしていました。
しかし!そうした日常に暗雲をもたらしたのは、covid19でした。
大学3年が終わる頃、未知のウイルスが世界を変えてしまった…。

前回の記事はこちら↓



コロナで幕開けした大学4年生

コロナが流行り出した頃、私は東京で一人暮らし、大学の講義や部活動に忙殺されながらも飲食店でバイトをしていました。バイト先は潰れそうな予感がしたので、塾講師と中学生や高校生向けの教材専門の出版社の編集助手の面接を受け、言わば「プチ・転職」をしました。
しかし、コロナの脅威もあり、バイト先は閉鎖。
大学も閉鎖状態で、東京のワンルームに一人缶詰生活が始まりました。
友人とも会えず、人と直接喋ることも許されず。私が直接人と会い口を動かしたのは、スーパーやコンビニでの「袋いりません」だけでした。

唯一の救いはzoomでのバレエ部の活動やレンタルスタジオを借りての自主練、あとNETFLIXでの動画鑑賞。
編入生で人よりも授業単位数を多く取得しなければならない立場であったはずが、大学3年で50単位を取ってしまい、残り20単位くらいとれば卒業みたいな状況でした。
つまり、大学の方は3年生の時に詰め込んで終わらせて、4年生ではバイトをたくさん入れてフランス留学費を稼ぐ気満々だったぱれすぅ〜は出鼻を挫かれた状況に。
時間はあったものの、zoomでの授業にも身が入らず必要最低限の必修科目しか取らず。いわゆるぱれすぅ〜(フランス語で「ナマケモノ」)でした😅

マイペースで、基本一人時間が好きなぱれすぅ〜でも、どうしても人肌恋しさが残り、恋愛アプリを使って無理矢理、仮初彼氏を作ったこともありました(でも長くは続きませんでした)。

そんな状況下で始まったのが、卒業論文の執筆!!!
編入試験を受けた理由の一つに、ぱれすぅ〜は研究者の道への興味がありました。そのため、芸術系のゼミを選び、舞踊について研究したいと大学2年の秋(編入試験を受ける前)には決めていたのですが、、、人より卒業論文への思い入れが強かった分、具体的にどの時代、国の舞踊を研究テーマにするか悩んでいました。

分岐点7. 一冊の本との出会い

大学4年生になる前の春休み。ゼミの先生から卒業論文の序論を書く課題を出されました。
ぱれすぅ〜のいたゼミは大学3年から始まり、9月ごろには卒業論文の執筆に向けての準備として、論文の書き方についての書籍を読んだり、実際に興味のある分野に対する先行文献の収集が始まっていました。
ぱれすぅ〜はというと、元々バレエをやっていたことから西洋舞踊にしようと思っていたのですが、コロナの影響で大学や外の図書館が使えるかわからない状況になったこともあり、amazonで買える専門書はないかを検索していました。
元々バレエ関係の専門書を集めることが趣味だったこともあり、バレエ関係の歴史の本は何冊か持っていましたが、どれも一般向けで卒業論文の参考文献としては物足りないように感じていて、またフランス語専攻である強みを生かしきれていないような気がしていました。なので、論文のテーマとしては決め手に欠けているように感じていました。

そんな時にamazon で発見した本、これが私の進路選択の可能性を広げるきっかけとなりました。

その本はズバリ
シルヴィアーヌ・パジェス著『欲望と誤解の舞踏 フランスが熱狂した日本のアヴァンギャルド』
です。


著者の名前から御察しの通り、フランスのパリ第八大学で教鞭を取られている舞踊学専門の先生が修士や博士課程で書いた論文をもとに2015年書籍化した本で、2017年慶應義塾大学出版会から日本語に翻訳されていました。

amazonでこの本を見つけた瞬間、「これは運命だ」と思いました。
当時のぱれすぅ〜は「舞踏」についてはほとんど知らず、大学三年時に潜り込んだ舞踊学会でアメリカ人舞踊学者の方が日本語で熱弁していた内容だなぁと思っていたくらいでした。

しかし、この本のamazonの説明欄を読んだ際、
戦後日本で生まれた「暗黒舞踏」という演劇性と舞踊性を兼ね備えた一芸術ジャンルが「Butoh」として世界に波及し、
フランスでは一異文化ジャンルとして研究されている

という事実に興味をそそられました。

つまり、日仏異文化論としての側面や、フランスでの舞踊の研究を垣間見れる書籍であること、そして日本人でありながら自国発祥のものを知らなかった衝撃、それら全てが私の好奇心と探究心を鷲掴みにしていたんです😅

その「自分の心を持っていかれるぞ」といった勘は的中。
実際に本を手に取り読み始めると、今までに見聞きしたことのないアプローチで舞踏を語っていて、さらに引き込まれました

この本の研究アプローチは多岐に渡るため全てを語ることはできませんが、フランスでの初めて舞踏を見た観客の衝撃やジャーナリズムの発展の仕方、それを巡る日本文化に対するステレオタイプから生まれた誤解や再解釈の話が、すごい厚み感を持ってぐわっとやってくる感覚でした。

私が特に好きだった部分は、田中泯さんやHIROSHIMAの話。
田中泯さんといえば、私にとっては渋い俳優さんというイメージしかなかったのですが、実は舞踏の衝撃をフランスに与えたきっかけの展示会で舞った一人が彼だったそう。その時の写真も出てきたのですが、一目で舞踏の異質さが伝わってきました。泯さんは現在、自分自身の経歴を「舞踏家」とする考えは間違いであると語っており、実際にそれ以降の活動では舞踏から離れていることも考えると、より自由な枠組みでご自身の生業を捉えている印象です。
でも、その当時のフランス人にとっては裸体に近い格好で繰り出されるミクロダイナミズムを「Butô」という枠組みに押し込めなければ納得できなかったのは当然だと思いました。それほど未知で印象深い瞬間だったから新聞で批評が展開されていったということが伺えます。
また、HIROSHIMAの話は、「舞踏」というジャンルがあまりにも奇怪でおどろおどろしかったことから、フランス人ジャーナリストが「広島原爆の記憶」として形容の材料に使って、間違った解釈がフランスで広まったというもの。この書籍では「コード化」という言葉がよく出てきますが、西洋で普及した舞踊のほとんどが「規則」がありコード化されていたことから、規則の読み取れない舞踏に対しては「こんな理解不能な舞踏は異文化相違からきているに違いない。踊り自体の動きの規則を見出す分析は難しいから、社会文化コンテクストからこの事象を納得して見せよう」とした結果であったと考えられます。この部分を読んだ時、フランスでのジャポニズムにも触れられていましたが、フランスという国がそれだけ日本に対して興味を持っていて理解しようとしていたという事実に心打たれました。

こうした分析を歴史や文化、社会を通してより専門的に研究していることの他、「フランス人ならではの論調」や「フランス人学者でありながら、日本での現状を忘れることなく、丁寧に分析していたこと」、その全てがぱれすぅ〜にとっては感動でした。
しかし、同時に何度読んでも理解できない部分もありました。
その「わからないモヤモヤ」こそが、ぱれすぅ〜の卒業論文、いや舞踊研究そのものへの期待につながっていきます。

分岐点8. 苦戦した卒業論文

フランスでの舞踏研究の一冊を読み、ぱれすぅ〜は卒業論文のテーマを「舞踏」に即決しました。
しかし、その書籍でわからないことが多かったことから、ぱれすぅ〜は舞踏を一から知りたいと思うように。そのため、卒業論文ではその第一歩として、「舞踏」が生まれた時代を深掘りしようと決めました。

もともと日本発祥のもののため、日本人研究者の先行研究を漁り出します。
しかしそこでぶつかった壁、それは「舞踊学」という学問の広さと曖昧さでした。
というのも、日本の大学で舞踏にかかわらず舞踊について論文を書いている人のほとんどは舞踊が専門ではありません。なので、研究者の専門分野を見ると哲学や美学、民俗学、社会学、文学、動作解析学など多岐に及ぶのです。
特に舞踏の先行研究においてぱれすぅ〜を悩ませたのは、「先駆者信仰」が主流の論調。先駆者は、踊りだけではなく執筆活動や芸術活動をする人だったこともあり、その残された数々の作品の読み取りのためにいろんな分野の研究者がそれぞれの専門分野の論調を「先駆者の凄さ」に結びつけて語る人がほとんどでした。
なので、論文執筆に初挑戦のウブな学生・ぱれすぅ〜は、各々の専門分野からくる論調の多様性と「先駆者信仰」に洗脳されるような感覚に飲み込まれ、卒業論文を書くための軸を見失いました

そこで思い返したのが、あの本の著者の文章。
彼女の文章は、舞踏そのものに対する愛を感じるもののすこぶる第三者でした。そして、歴史的事象に対して、さまざまな難しい概念を使っていながらも一貫性があり、全てがわからなくとも説得されている感覚がありました。
ぱれすぅ〜はそういった文章が書きたかった。憧れていました。
なのに、卒業論文に取り組んだ時は、いろんな先行研究に手を出すほど、自分の軸を失っていくように感じたのです。

研究者は確かにいろんなものを受け入れる柔軟性も必要だと思います。しかし、それ以前に自分のベースとなる骨組みを持たないと、自分の論調ができないということに気付かされたのです。

結果的に、ぱれすぅ〜の卒業論文はたくさんの先行研究を盛り込み、自分なりの考察をそれぞれの章で展開したものの、結論がまとまらない状態で終わってしまいました。

この経験から強く願ったもの。
それは
舞踊学を専門とする場に行って、常に舞踊と紐付けながら研究するアプローチを学びたい。自分自身の舞踊研究の引き出しを増やし、その上で吟味できるようになりたい。

この渇望から導き出された答え。それが、フランス留学でした。

分岐点9. 将来への不安から足掻いた半年間

このように卒業論文執筆をする上でフランス留学の必要性を感じていたぱれすぅ〜。
なぜなら、日本の公立大学院には舞踊を専門とする先生がいないことがほとんどだから

唯一お茶の水大学には舞踊のコースがありますが、厳密にいうとそのコースの専門性は舞踊教育。舞踊研究とは若干違うように感じていました。
前にサラッと書きましたが、舞踊学会でいろんな学者や学生の発表を聞いていたぱれすぅ〜は、舞踊専門の先生はほぼ個人プレーヤーで、私立の大学で別の分野で教鞭を取られていることがほとんどだということに気づいていました。

一人の先生にみっちり指導してもらう経験もいいですが、当時のぱれすぅ〜が求めていたものは、「研究対象との一定の距離感、すなわち一個人から生み出されたとは思えないような客観性や多様性」でした。
その点、フランスの大学には舞踊研究コースが存在し、一つのカリキュラムの中に他分野の先生の授業が盛り込まれ、同じ分野の学生とたくさん意見を交換し合いながら論文を構成できる環境、言い換えると視点を最初から絞らずにより俯瞰してみる環境が揃っていると思いました(そうでなければ、パジェスさんのような分厚い論文はできあがらないと思います)。

この考えのもと、11月から5月にかけてcampus Franceから志望校を絞り受験。
コロナですぐにフランスに行けない可能性もあったことから、1,2月は日本の大学院も受験しました。

日本の大学院に関しては、入ったとしてもフランスに個人留学したいという気持ちが勝っていたことから、私立の大学院の学費を払う余裕がないと判断し、公立の有名大学しか受けませんでした。結果は一次は通っても二次の面接でその気持ちを見透かされていたり、院試に向けての勉強のやる気がなかったことからも全滅(フランス美学専門の先生の院試は全く意味がわからなかったので、舞踏研究の見解を使って書いたところ、「僕が求めていたものとは違いすぎる」と言われました😇)。自分を先生方の枠組みにはめる努力ができない性だと実感しました…。

フランスの大学・大学院選択については、
地方都市であること(生活費が安い、フランス語の上達が見込める)
大学以外の選択も可能な都市であること(バレエ教師国家資格の勉強もするかもしれないと思っていたため)
といった条件のもとまず絞っていました。

とはいえど、最初からリール大学を狙っていました
なぜなら、
・ネットで修士課程の学生の論文を読めた唯一の大学で、なんとなくパジェスさんと同じ空気感があったから
・リールにはバレエ教師国家資格の公立センターがあるから
・リールは行ったことがあり、住んでみたいと思っていたから(part3参照)
・パリで知り合った友人がリール大学院に入っていて、生の声を聞けたから
・東京外大の同じゼミにリールに留学した人がいて、近い分野の授業がどんなものだったかを聞けたから
といったを感じていたからです。

※リールについての記事はこちら↓

しかし、ここでぱれすぅ〜はいきなり修士ではなく学士課程を選択しました。
それは、舞踊学のベースを身につけるには学士の方がカリキュラムが充実しているから。

卒業論文で「舞踏」を扱ったものの、もっと視野を広げる時間が欲しかったぱれすぅ〜は、学士2、3年生(日本と違って4年生はない)をメインに選択し、リールの他、トゥールーズとリヨンを選択しました。

しかし、11月から始まったフランス大学受験は、何段階も踏まなければならず、ひたすら提出物や面接をしながら待たされます。
そういった中、外大の卒業を迎えることになり、ぱれすぅ〜は悩みます。

「このまま卒業したら、ニートじゃん。もし万が一フランスの大学に受からなかったり、コロナの影響で渡仏できず、留学見送りになったら、私は一年を空白の状態で生活するのか。何か履歴書に書けるような芸術・文化系の仕事経験を積みたい(フランス大学受験では、大学卒業から一年以上経つ場合、職歴に関する履歴書を提出する必要がある)。」

そう焦ったぱれすぅ〜は、日本の大学院入試を終えて結果も届いていない状況下で、アルバイト枠での仕事探しを始めます。
すると、たまたまとある芸術団体が事務を募集していました。
日程も近かったことから慌てて志願書を提出。面接に向かいました。

すると、面接官たちは私の年齢をみるや否やざわめき出します。追い詰められていたぱれすぅ〜は、「本来ならば就職するべきであると自覚していますが、、、」と言いながらもフランス留学を目指しているけどコロナ禍だからどうなるかわからずに奮闘した結果であると伝えました。

すると(again😅)、その芸術団体が他の提携する芸術団体に推薦してくださり、4月から日本文化を支援するための団体の渉外・広報の部門での契約社員として働かせてもらえることに。私が志願した部門は年齢層高めの事務歴重視の募集でしたが、私の年齢的にsnsに慣れていること、大学で言語文化学部に所属していたこと、そして私自身が芸術従事者であったことから、紹介してもらえたよう。
その入った団体の中でも私は最年少でしたが、正社員のキャリアマン、キャリアウーマンの方々は優しく仕事を教えてくださり、バリバリデスクワークでちょっとした事務仕事の他、会議や翻訳、そして広報の仕事を経験できたことはとてもためになり、その後のフランス留学でもとても活きています。

こうして、学生の身分を無くした不安を拭うように芸術団体や塾講師の仕事に身を委ねる日々の中、フランス留学の結果が来る季節に。本当は5月だったのですが、そこはフランスらしく6月まで遅れて結果が来ました。
無事合格。

まとめ

やっとフランス留学前の道のり(ほぼ私の備忘録みたいなものw)が終わりました。
おそらく留学するまでの道のりを書く人のほとんどが、手続きの話だったりをしていると思います。私もその方向で書こうかと最初は思っていました。しかし、実践的なものの情報は毎年の事情によって変わります。
私は留学する道のりにおいて最も重要なことは、「自分が何をしたくて、そのためにどういう道のりを踏んできたか」だと思いました。
だから、この話は役立つ部類のものではなく、こういう人もいるんだなぁと思われる部類のもので、若干自己満足なのかなぁと思います。
でもとりあえず書きます!私の心を!
それが、このpart5まででしたかったことだから!

この後のフランス留学の話もまだたくさんありますが、とりあえずここで一区切り。楽しんで読んでもらえていたら幸い♡

では〜!


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