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【第2回読書会】『サイスの弟子たち』ノヴァーリス著

おかげさまで第1回目の読書会は大好評!
ここ最近でかなりのアクセス数を頂きました。

一冊をじっくりと深堀していくスタイル。興味を持たれた方は今から読んでも十分間に合いますのでぜひ!!コメント欄に感想や質問など書き込んで頂けば、次回本文に取りあげたり読書会の幅が広がるように思います。メンバーであるなしに関わらず奮ってコメント欄にてご参加下さい。

メンバーの御紹介です

🍋リモーネさん、🌸sakuragaさん、私✞MAGUDARAの3人です。
(今後のやり取りはこのような絵文字を使わせていただきます)


―それではさっそく続きを始めましょう―

★今回は第②番目の質問★

「実際に小説を読んだ感想について一言」です。


✞まずはsakuragaさんからお願いします。

🌸大好きなキーワードに導かれいざページを捲れば、しょっぱなから全く言葉が頭に入って来ませんでした。「聞くと見るとでは大違い」とは正にこの事。特に前半部が全く頭に入って来ません。おとぎ話になり少し頭がほぐれた後半。私はもうこの話を理解するのはやめにしようと思いました。おそらくこの話は「自然」がいかに太古の昔から、最初から、存在していたかが言いたいに違いない。
そこで私は「自然」=「神」と置き換えて読むことにしました。神と思えば辻褄が合うというか。そこから見えて来た事は「自然」は切り刻んで調べれば調べるほど本質から遠ざかるもの(※太字は✞による)子供のような無垢な心で接すればその全てを享受できるもの。そう無意識に自然に救われていたんですね。「信じるものは救われる」これは正に「神」だ、というのが感想(思ったこと)といえるでしょうか。

✞リモーネさんはいかがでしょうか。

🍋自分自身と対話しているようでした。そして読めば読むほど味わいがあり、スルメのような本でした。最初著者は何が伝えたいのかさっぱりわからず目を通してそのままいつものように頭の隅で発酵させていました。
テーマは、自然といえども、日本語の自然ではないサムシング・グレート的なものを著者は言っている気がします。
自然を探求するということ。一つは、神にならんとする人間の野望 (←P79の6行目)によって、一般に言われる自然をどんどん分析していって、対象物を切り刻み命をなくして本当のところがわからなくなっていること(※太字は✞による)

もう一つの探求者は詩人である。こちらの方が自然の心情を知ることができる(P54の2行目)詩人の集まりほうが自然の本質をつかんでいるということ。
神話や伝説は時を超越している、死すべきものではない、だからそのようなものを見る力があるということはすなわち自然の神秘をしる資格があるということ。
最後の○○○○について。すべて読んだ後でこの答え【〇〇〇〇】を知った時、あっと全てが繋がり○○○○にしてくださったこと、この小説を理解する上で全てにかかってくるキーワードだと納得できました。


お2人の感想を聞き、この<自然>と言う偉大なものを探求することがいかに一筋縄でいかないものかが伝わってきます。🌸さんがこれを「神」と置き換え🍋さんはこれをサムシング・グレート的なものと捉えていますが、図らずもお2人共に探究することの難しさについて同じ箇所を挙げられているのは大変興味深くまた重要なことだと思いました(太字部分参照)

細かく切り刻んで分析をすればするほど、そのものの本質からかえって遠ざかっていくわけですね。それで🌸さんは<子供のような無垢な心>で接すればその全てを享受できると、🍋さんはそれを具体的に<詩人>という言葉でおっしゃっていますが……。


さてちょうどこの点について、この本を読んで下さった有志の方々から興味深く貴重なコメントを頂きましたので、そちらもぜひ公開させて下さい。

(まずはuたた寝さんの感想からです)

うたた寝さん

この作中に自然も生き物のひとつであるということが述べられていたと思います(記憶違いでしたらすみません)
自然と共生しながらも、自然から遠ざかってゆくのは人間である私たちの身勝手な性ではないかと思いました。例えばごく身近なことで申し上げると、夏になると私の家の木は蝉の止まり木になります。当の私にとってはこれ程迷惑なことはありませんが、互いに自然の一部である木と蝉とが共鳴し、その場所に留まっていると思えば、つまり自分自身が自然の摂理に身を置いてみれば、少し寛容になれるのではないかと。
この様に的外れで拙い雑感ではありますが、もう一度読み直せば更に見えてくるものがあるのではないかと思える良い読書体験でありました。あとはわからないことだらけで、何が分からないかも分からない悲惨な状況でした。
でも、いつの日かもう一度読み直すことと思います。この作品が、読み直しを示唆しているように思えています。
「もう一度、詩人の心持ちで自然に心を開けよと」(※傍線は✞による)


✞自然との向き合い方への一つのヒントともなるお話を、身近な思い出話の中から聞かせて頂きました。<木と蝉>との関係から人間も自然の一部であるということが改めて思い出されること、これはきっと詩人の道への第一歩なのでしょう。


(こちらは私✞からuたた寝さんへの返信コメントの抜粋です)

Uたた寝さんが語ってくれた蝉と木との関係はとてもわかりやすいです。どの立場から物を見るかで捉え方や感じ方が全く変わってくるし、全てに応用できるのではないでしょうか。おっしゃるように私たち人間も自然の一部でありながら、共生どころか自然を奴隷のように扱いその支配者足らんとする態度はエスカレートするばかりで、今はそのしっぺ返しが天災という形で降りかかっているようにも思えてなりません。

(Kanda Shionさんからはこんな感想もいただきました)

Shionさん

師の弟子たちが唱える様々な「自然との向き合い方」について、頷いたり考え込んだりしながら読んでいました。
「Ⅱ 自然」の途中(P59)に出てきた「自分のしていることを知らずにいる子供や、子供のような人びとだけは、たまさか自然を理解する」という一節が気になっています(※傍線は✞による)
読み解こうなどと考えず、あるがままに自然と触れ合うことが、結果的に真理へ辿り着くきっかけになるのでしょうか。観察や注意深さも大切と書いていますから、そう簡単にはいかないのでしょうけれど。
もっと難解かと思っていた例の○○○○、読んでみると案外わかりやすく、スッと納得(?)できました。
『ヒヤシンスと花薔薇のメルヒェン』の結末とは違いますが、言いたいことは同じなのかどうなのか、ちょっと考え中(笑)。

(✞これはこれは頼もしい感想を併せて頂きました)

もしかするとShionさんは「自分のしていることを知らずにいる子供や、子供のような人びと」なのかも(笑)。
この傍線を引かせて頂いた部分については以下のように返信コメントをさせていただいたのですが……。


(こちらは私✞からShionさんへの返信コメントの抜粋です)

気になっているという「(P59)に出てきた「自分のしていることを知らずにいる子供や、子供のような人びとだけは、たまさか自然を理解する」という一節について。
これはuたた寝さんもコメントされているように、大人になるにつれてだんだんと子供のような見たまま思うままの純粋なものの受け取り方が出来なくなるということに通じていて、詩人であるノヴァーリスはP87で「自然の塊も、詩人にだけはいまだよそよそしい素振りは見せません」と弟子の言葉として語らせています。その後に続く言葉たちと併せ、自然はそのような詩人のような人間にだけ心を開くというか本性を見せるのではないでしょうか。個人的にはこの<詩人>とは例えばゴッホのような人も指すのではないかとも。ゴッがパリから南仏に移って惹かれた糸杉の風景。

(✞またさんからはこんな率直な感想も頂いています)

猫さん


本を購入して、ぱらぱらとページをめくってみましたが、どこから攻略していいものやらと、途方に暮れております。
こういう本の読み方の勉強になると思いますので、末席ながらお仲間に入れてくださいませm(__)m


猫さんへは、『ヒヤシンスと花薔薇のメルヒェン』の世界に浸ってみることをお薦めしますと返信コメントを差し上げたのですが、その後いかがですか?もしまだでしたら、ぜひ昔の10代の少年少女の頃まで振り返って見られることを再度おススメします。

―第2回読書会を終えて―


それぞれ個別に感想を寄せて頂いたにも関わらず、皆さんが注目されるというか気になる箇所やワードというのが大体同じであることがとても興味深いことだと改めて感じました。自然への向き合い方や探究のしかたについて、子供のような無垢な心を持った人々(これは詩人と言い換えてもいいように思うのですが)だけが自然の本質を理解できるということなどですね。

ただワードとしての「自然」とは何かということについては、「神」と置き換えた🌸さんやサムシング・グレート的なものと捉えた🍋さん、そして〈うた寝さん〉は自然も生き物のひとつと、「木と蝉」という自然の具体例を挙げて下さいました。
ところで「詩人」とは具体的にどのような人びとを指すのかという点については、皆さんのおっしゃる「子供のような無垢な心を持った人びと=詩人」と解釈できるでしょうが、これは何も実際の「詩人」という人だけを指すものではないかもしれません。
(45ページの最初の部分→)師の元へ様々な人々がやってくる中、まだ来たばかりのほんの子供に師は講義を任そうとしますが、この子供はおそらくShionさんのおっしゃるような「自分のしていることを知らずにいる子供」であり、詩人と言えるでしょう。
ところで、細かく鋭利なメスで切り刻んで分析すればするほど本質から遠ざかってしまうのは、<自然研究者>であり、「詩人」とは対立する立場にあります(53ページ)。

自然研究者と詩人は、ひとつの言語を用いることによって、つねにひとつの族(ちから)であるかのようにふるまってきた。

しかし、実際には両者の求めたものは

似て非なるものだったというわけです。


ここで私が一つ付け加えたいことがあります。
〈Shionさん〉への返信コメントにも書いたのですが、「子供のような無垢な心を持った人びと=詩人」の1人としてぜひ『ゴッホ』に一票入れさせて頂けないでしょうか(笑)それは今回この部分を新たに読み、やはりと思わずにはいられなかったからです。

だが自然の織りなす業に対する甘やかな情熱や、われわれ自然物のめくるめく秘宝を見る眼は、いまだにかけている。いったい人間は、感じ取ることをいつかは学ぶのだろうか。(中略)感情の元素とは内的な光なのだが、その内的な光は屈折して、より美しく、より強烈となる。そうなれば、人間の心のうちに星が輝き出で、今自分の眼が見ている境界や地平を越えて、もっとありありと、もっと多彩に、まったき世界を感じることができるだろう。

サイスの弟子たち(79~80頁)
Vincent van Gogh「星月夜」

皆様はどう思われるでしょうか。ご意見をお聞かせ下さい。



最後に、確かに<自然>は大きなテーマの一つではありますが、この小説のテーマはもちろんそれだけではありません。

タイトルの『サイスの弟子たち』の<師>についてはいかがでしょうか。あるいは『ヒヤシンスと花薔薇のメルヒェン』についてでも構いませんので、子供のような無垢な心を持って(笑)ご意見や感想を頂けますと、さらにこの読書会も盛り上がるかもしれません

―以上MAGUDARA記―


🍀

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(次回その③の質問へと続く)



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