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窓際から今日も #02 | 10年遅れの課題提出 | 阿部朋未

高校時代、数学の最終成績は5段階評価のうち、「2」だった。

何を突然生き恥をさらすような告白を、と思うかもしれない。「勉強できない自慢」でも「皮肉たっぷりの卑下」をしたい訳でもない。そもそも揺るぎようのない淡々とした事実なのだから仕方ない。

もともと理数系が苦手だった上に、高校生活のど真ん中にあの震災が直撃した。学校が再開してもなお頻発する余震に心身が耐えられる訳もなく、集中してじっと机に向かうことすらもできなくなってしまった。

それでもなんとか無事に3年で高校を卒業できたのは、ある先生のおかげとも言える。

単位制ということもあって、3年に進級すると進路を考慮しつつも自由に授業を選択できる。言わずもがな文系まっしぐらだった私は、理数系の授業をそれとなく避けながら文字通り自分の都合の良い教科だけを迷わず取り揃えた。その中にあったのが『国語表現』という授業だった。

思い返せば、主に文芸の創作における行為に注力した授業だった記憶がある。毎時間、なにかしらを書いて、先生に添削してもらい、みんなの前で発表していたような。

同じくその授業を取っていたある同級生は大学で小説を執筆し、もう一人は歌人として現在も活躍している。平たく言えば、のちに文系の学部や文芸サークルに進む人が多い授業だった。

先生は今振り返ると、定年を過ぎても在籍しそして再び定年を迎えるようないわゆる「おじいちゃん先生」で、確かな理論ゆえの厳しさがあるものの、その中には物腰の柔らかさが共存していた。

後期だったと思う。授業を取っていた生徒全員に対して先生はある課題を課した。

「震災体験をまとめた文芸集を作るので、それにまつわる作品を書いてもらいます」

要は文芸ジャンルとしての震災の記録集を作ることになったのである。100年を超える長い学校の歴史の中で起こった震災は未曾有の事態であり、後にも先にもそれを体験した学年のひとつが私たちであった。鮮明な記憶が残っている高校生のリアルな視点で記録集を作ることで、より後世に伝わるのではないかと先生は見込んだのだろう。内外に向けての意味は大いにある。反対する生徒も見受けられなかったし、結果的にはほとんどの生徒がその課題を提出したはずだ。おそらく私を除いては。

昔から書くことは得意というよりも好きだった。

多感な時期、ゆえに頭の中にあふれる空想の行き先が文章を書くことであり、それは自由を感じられる時間でもあり、幸せでもあった。だからこそ、この授業を選択したのだが、まさかそのエネルギーをいまだ負の要素が強い“そこ”へ向けなければならなくなるとは。

それと同時に、震災の記憶はまだまだ鮮明で、平時でさえフラッシュバックの中にいるような状況下が続いているのに、それを無理に思い起こして表現に落とし込む行為は、ある種の拷問のようでもあった。当時在室していた校内のカウンセリング室へから徐々に抜け出しつつあるところだったのが、ヘタをすれば学校に行けなくなるほどに逆戻りしてしまう可能性だってあった。長期的な目で見ればリターンはあるかもしれないが、体力も気力もリターンを待てるような余力は残っていない。なんて、こうやって理論を並べるよりもなによりも先生へ反射的に返した回答は NO だった。

そんなの心が耐えきれない。無理。

全員が全員快諾するわけではないことを先生はわかっていたのだろう。代わりとなる課題を先生は用意してくれた。もはや自由な形式で書いていいと出された課題に対して、私が提出したのは短編小説作品。当時『エピソード』がリリースされた頃の星野源、ならびに星野源が所属しているインストバンド・SAKEROCK の楽曲群を架空のオリジナルサウンドトラックアルバムに仕立て、それを元に進行する物語である。言ってしまえば楽曲から派生する妄想の具現化、ひいてはある種の二次創作にも近いのかもしれない。それを授業という少なからず整えられた場において自由に書けることが楽しかったし、今思えばそうやって目の前に広がる景色や記憶から逃げ込むように夢中になったのだろう。もちろんそこは断片的な妄想から派生した物語、執筆そのものは大変であり拙いことばかりだったが、無理矢理『筋(スジ)』を通して物語を書き上げた。一見いびつな形をしていて、小説と呼ぶにはあまりふさわしくないかもしれない。それでも先生は一番大きな賞を私に与えた。副賞は30cmほどの透明なクマのケースにみっちりと入ったカラフルなキャンディーの数々。うれしかったけれど、本来の課題を提出できなかった後ろめたさみたいなものがかすかに残っていて、ぬぐいきる方法もわからないまま卒業し、そのまま月日だけが流れた。

4年前のある日、放置していた Facebook に突然メッセージが届いた。差出人はあの時の先生で、私が参加した芸術祭に関する取材をテレビで見たという。その時、就いていた仕事との兼ね合いで副業に触れるかもしれないという懸念のため、本名とは別にアーティスト名を名乗っていた。誰も気づかないと思っていたのが、テレビに出ていたその人間が私であることを見破り、しかも名乗っていたアーティスト名の由来までも完全に当てていた。先生には敵わないなぁ、と苦笑しながら返信を打つ。

職を退いてもなお先生であることがなんだかうれしかった。

そして月日はさらに流れて、今、私は東京にいる。

生まれてはじめて個展を開くことになった。一応音楽の学校は出たけれど、写真どころか芸術系の大学も専門学校も出ていない人間がこうやって個展を開けるなんて、今でもどこか信じられない。しかし振り返ってみれば自分がやっていることは12年前も今も変わっておらず、無我夢中で続けてきたからこそここに辿り着けたのかもしれない。そして作品を作りながら、ふと先生のことを考えていた。

「先生、課題を提出するまでに10年掛かってしまいました。
その上、掛かった時間ゆえに規模が大きくなってしまいました。
高校の記録集には間に合わなくて載せられなかったけれど、今ならようやくフラットにあの頃の日々を振り返れそうな気がします。
先生、私はまだ間に合うでしょうか。」

図録代わりの本が完成したら、手紙とともに先生へ送ろうと思う。東京へ来てもらうのは難しいかもしれないけれど、本になれば、軽々と先生の元へ届けられる。私の代わりにどうか届いてほしいと、ささやかに願いながらレターセットの封を開けた。

阿部朋未

この連載では、写真家の阿部朋未による小さな日々と思い出の記録を綴っていきます。2023年3月1日(水)から始まる個展『ゆるやかな走馬灯』に寄せて。この日記から漂う、阿部朋未のひととなりを感じながら個展の開催に向けて、お楽しみください。

阿部朋未(アベトモミ)
1994年宮城県石巻市生まれ。尚美ミュージックカレッジ専門学校在学中にカメラを持ち始め、主にロックバンドやシンガーソングライターのライブ撮影を行う。同時期に写真店のワークショップで手にした"写ルンです"がきっかけで始めた、35mm・120mm フィルムを用いた日常のスナップ撮影をライフワークとしている。2019年には地元で開催された『Reborn Art Festival 2019』に「Ammy」名義として作品『1/143,701』を、2018年と2022年に宮城県塩竈市で開催された『塩竃フォトフェスティバル』に SGMA 写真部の一員として写真作品を発表している。
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